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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第7主日 (2020/2/23 マタイ5章38‐48節)  


教会暦と聖書の流れ


 山上の説教(マタイ5~7章)の朗読が続いていますが、きょうの箇所も、「幸いである」と祝福され、「地の塩、世の光」とされた人々の新しい生き方を指し示す箇所です。ここでもまた旧約の律法と対比された、キリスト者の新しい生き方が示されています。それは5章17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われる「律法を完成させる道」であり、20節で「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われる「義の道」なのです。


福音のヒント


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  (1) 「目には目を、歯には歯を」という言葉は、旧約聖書の中に何回か述べられています。これは「同害復讐法」と言われ、復讐を認めたというよりも、むしろ同じ害を与える以上の過剰な復讐を禁じているのだと言われています。イエスはこれを否定し、「悪人に手向かってはならない」と言い、さらに「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われます。40節の「下着」と「上着」は、現代の上着・下着とは違います。ここでいう「下着」は普通の日常生活で身に着ける一枚の布でできた服のことで、「上着」は旅をしたり、野宿をしたりするときに使う外套のようなものです。ルカの並行箇所では順序が入れ替わっていて、「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」(ルカ6章29節)となっています。ルカは追いはぎに襲われたような場面を考えていますが、マタイのほうは訴訟の場面が考えられているのでしょう。上着は下着よりも高価なものです。「ミリオン」はラテン語で「1,000」を意味する言葉です。ローマの距離の単位で、2歩(右足と左足1歩ずつ)を1単位として、その1,000倍、すなわち2,000歩の距離です。「1ミリオン」は約1,500メートルにあたります。「頬を打たれるのを耐えなさい。下着を奪われても我慢しなさい。強いられるままに1ミリオン行きなさい」という以上の積極的な何かがここにはあります。

  (2) 強いられて2,000歩歩くという状況は想像しにくいですが、自分の意思ではどうすることもできない2,000歩なのですから、そこにはまったく自由がありません。しかし、2,001歩目からは自分がまったく自由に歩んでいく歩みです。それは相手への愛のために進んで歩くということになるではないでしょうか。
 先週の福音のヒントで、イエスが山上の説教の中で示した律法を完成する道は「愛によって律法を完成する道」であり、同時に「神によって完成する道」でもある、と述べました。左の頬をも向け、上着をも取らせ、2ミリオン一緒に歩いていく、という姿勢には、この「愛によって律法を完成する道」が示されていると言えるでしょう。「掟だから仕方なくそれを守る」とか、「掟を守りさえすればよい」というのではなく、まったく自由に愛によって生きることが父である神の求める人の生き方なのです。この生き方はイエスの十字架に向かう歩みと重なっています。
 
  (3) 43節の「隣人を愛せ」という律法は、レビ記19章18節にありますが、「敵を憎め」という言葉は旧約聖書には見当たりません。ただし、「隣人」という言葉の本来の意味は「隣の人」であって、すべての人を指してはいません。きょうのミサの第一朗読にはこうあります。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章17,18節)。これを文字通り受け取って、「兄弟、同胞、民の人々、隣人」だけを愛すれば律法の要求を満たしたことになるのであり、それ以外の人は憎んでもかまわない、という理解があったのでしょう。イエスの受け取り方はまったく違いました。それはルカ福音書10章の「善いサマリア人のたとえ話」にはっきりと示されています。相手が誰であれ、苦しむ人に手を差し伸べること、これが隣人愛の掟の意味であり、神の望みなのです。なお、聖書の言う「愛」はギリシア語で「アガペーagape」で、単なる好き嫌いの感情を表す言葉ではありません。ラテン語では「カリタスcaritas」と訳され、さらにキリシタン時代の辞書には「ゴタイセツ」と訳されています。「愛」とはそのものをそのものとして大切にすることなのです。

  (4) 人間は多くの場合、神とは正しいことをすれば良い報いを与え、悪いことをすれば罰を与える方だと考えます。聖書の中にもこのような神の姿は多くの箇所で語られています。正しく生きることを教えるためには、こういう神の姿も必要なのです。しかし、イエスが語る神の姿の根本は違いました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(45節)。この言葉ほど明確に父である神の特徴を語る言葉は、福音書の中に他にありません。この無条件の神の愛が人間を根本において支えるものなのです。
 なお、ここに「徴税人」「異邦人」という言葉が出てきます。差別発言のように聞こえるかもしれませんが、ここでイエスは、「あなたがたが軽蔑している徴税人、異邦人でさえ」というような言い方で、ユダヤ人である聴衆の心を揺さぶろうとしているのでしょう。

  (5) 人間が自分の力で敵を愛することができるというのではありません。神の無限の愛がわたしたちに注がれ、わたしたちがそれを受け取ったときに、わたしたちは神と同じように愛するものに変えられていくのです。ここに「神による律法の完成の道」が示されています。「完全な者になりなさい」という言葉にも戸惑うかもしれませんが、平行箇所のルカ6章36節では「あなたがたの父が憐(あわ)れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とあります。レビ記19章2節には、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者(だから)である」という言葉もあります。神がこういう方だから、その神に出会ったら、わたしたちも神に似たものに変えられる。これもまた「神による完成」と言ったらよいのではないでしょうか。




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Posted on 2020/02/14 Fri. 08:30 [edit]

category: 2020年(主日A年)

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年間第6主日 (2020/2/16 マタイ5章17‐37節)  


教会暦と聖書の流れ


 山上の説教(マタイ5~7章)は、2つの祝福の言葉(「八つの幸い」、「地の塩、世の光」)から始まりますが、その後は、その祝福を受けた人々に求められる生き方についての教えが続きます。これはイエスがあるときに話した長い説教というよりも、さまざまな場面で語られた教えを集めたもののようです。ある聖書学者は、初代教会の中で新しくキリスト者になった人々に対して、キリスト者としての新しい生き方を指し示すという意図の下で集められたのではないかと述べています。


福音のヒント


 
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  (1) 「律法」は、神がモーセを通して、エジプトの奴隷状態から救われたイスラエルの民に与えた掟です。律法の前提には神のこの救いのわざがあり、律法の中に示されるのは、神によって救われた民が神に対して、また人に対してどのように生きるべきか、ということです。「預言者」はその時代、その社会の中で神からのメッセージを告げるために選ばれた人々でした。「律法や預言者」は旧約聖書全体を指す言葉でもあります。そこに神の意思・望み・み旨が示されているとイエスの時代のユダヤ人は信じていました。特にファリサイ派やその派の律法学者は熱心に律法を学び、守ることこそ、神に従う道であると確信していました。イエスも律法や預言者を否定しません。しかし、イエスの律法に対する態度は、律法学者やファリサイ派の態度とは明らかに違っていました。イエスが律法を完成させるために来た(17節)とはどういうことでしょうか? 律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義(20節)とは何でしょうか? イエスは1つ1つの掟を忠実に守るというよりも、そこに示されている神のみ旨を本当に行う道を示しているのです。イエスによる律法の完成には、2つの面があります。山上の説教全体を見れば、それは神が望まれる人間の生き方を愛という一点に集中させる「愛による完成の道」であり、また、人間の力ではなく、神への信頼のうちに神のみ旨を果たす「神による完成の道」だと言えるでしょう。

 (2) 21節「殺すな」は律法の核心とも言うべき「十戒」の中にある言葉で、出エジプト記20章13節や申命記5章17節に見られる言葉です。「人を殺したものは裁きを受ける」に似た言葉としては、出エジプト記21章12節やレビ記24章17節の「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」が挙げられます。ところで、イエスはただ殺すだけでなく、人に向かって腹を立てたり、悪口を言うことも同じ罪だと言っています。「最高法院」や「火の地獄」は誇張された表現ですが、イエスはここで「『殺すな』が掟だから、殺しさえしなければ神の掟を果たしていることになる」というような考えに真っ向から反対しています。23節では「兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したら」と言います。自分が人に反感を抱いているのはよくないというだけでなく、人が自分に反感を抱いているのなら、自分のほうから和解のために相手のところへ行きなさい、というのです。なお「1クァドランス」はローマの少額貨幣で、今で言えば100円ぐらいの価値になります。
 ここでは、人間の間の悪口や不和のすべてが神の意思に反するものだ、と明確に述べられています。ここには上記の「愛による完成の道」という面が示されています。

  (3) 「姦淫するな」も十戒の言葉で、出典箇所は、出エジプト記20章14節、申命記5章18節です。「姦淫」と訳された言葉は、男性にとっては他人の妻と性的関係を結ぶことを意味していました。女性にとっては自分の夫以外の男性と性的関係を結ぶことでした。イエスは実際の行為を行わなくとも「みだらな思い」で女性を見るならば同じことだと言います。実はこの箇所の「他人の妻」と訳された言葉はギリシア語では「ギュネーgyne」で、本来は女性一般を指す言葉です。ここでわざわざ「他人の妻」と訳すのは、姦通の相手であるから「他人の妻」であるはずだ、という解釈に基づいています。しかし、イエスが教えているのは、他人の妻をどう見るかというのではなく、すべての女性(未婚の女性であれ、自分の妻であれ)に対してどのような見方をするかということではないでしょうか。イエスは「みだらな思い」を越えて、男性が女性を本当に人として尊重する目で見るように求め、男女の新しい関係を指し示しているのではないでしょうか。ここでもイエスは、「愛による完成の道」を示していると言えるでしょう。

  (4) 「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」は申命記24章1節の引用です。申命記では「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」となっています。この規定は、夫が正当に妻を追い出すためには、妻の側の明らかな落ち度(=何か恥ずべきこと)がなければならず、また、追い出された女性に再婚の可能性を保障しなければならない(=離縁状を渡す)というものです。これは圧倒的に男性優位だった当時(紀元前7世紀頃)のイスラエル社会では、女性の立場を少しでも守ろうとする規定だったと言えます。32節の「不法な結婚」と訳された言葉はギリシア語の「ポルネイアporneia」で、本来は、男性が娼婦(ポルネーporne)と関係することを意味しましたが、不道徳な性関係全般を指すようになった言葉です。しかしここでは近親婚などに限定されるという教会の伝統的解釈に基づいて、「不法な結婚」という訳になっています(レビ記18章6-18節参照)。
 なお、離縁を禁じる同様のイエスの言葉は、この箇所以外に、マタイ19章7節やマルコ10章4節にもあります。イエスは、妻というものを「自分の都合でどのようにでもできるもの」と考えていた当時の男性の常識に反して、妻を「神が結び合わせてくださったもの」(マルコ10章9節)=神から与えられたかけがえのないパートナーとして見ることを求めています。これも律法を「愛によって完成させる」教えだと言えるでしょう。
 「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という律法は、レビ記19章12節、民数記30章3節、申命記23章22-24節などに見られます。なぜ「一切誓いを立ててはならない」のか、分かりにくいのですが、ここには、まったく単純に神に向かうことが求められているのでしょう。だとすればこれは「神による完成の道」を指し示していると考えたら良いかもしれません。




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Posted on 2020/02/07 Fri. 09:55 [edit]

category: 2020年(主日A年)

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年間第5主日 (2020/2/9 マタイ5章13-16節)  


教会暦と聖書の流れ


 マタイ福音書5~7章のいわゆる「山上の説教」の中で、冒頭の「八つの幸い」に続く言葉です。イエスはガリラヤの丘の上で、群集と弟子たちに向けてこれらの言葉を語られました。もちろん特定の弟子だけでなく、「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(マタイ4章24節)であった群集もこの言葉を聞いていたのです(7章28節参照)。



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  (1) イエスは決して「地の塩になれ」「世の光になれ」とは言っていません。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」とイエスは断言しているのです。塩でない者に向かって無理して塩味を出せとか、光でない者に向かって無理して輝けというのではありません。むしろ、塩なのだから塩味を出すのは当然であり、光なのだから周囲を照らすのは当然だということでしょう。
 2000年前にガリラヤの丘の上でイエスの話を聞いていた人々にとって、この言葉は信じられないような言葉だったにちがいありません。イエスの弟子と言ってもみな漁師で、「無学な普通の人」(使徒言行録4章13節)でした。周りにいた群衆は「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(マタイ4章23節)だったのです。社会的に見ればたいして立派ではなく、多くは何の役に立たない、律法の基準からすれば罪びとに近いような人々、いてもいなくてもいいと思われていたような人々。その人々にイエスは「あなたがたは地の塩、世の光である」と言うのです。イエスは何の根拠も示しません。あなたは何ができるからとか、他の人よりもどこが優れているから、ではないのです。父である神から見れば、無条件に、あなたがたの一人一人がかけがえのない大切な塩であり、すばらしい光なのだ。これが「福音=Good News」です!

  (2) は食べ物に味付けをするだけでなく、腐敗を防ぐ役割も持つ大切なものだと受け取ればよいでしょう。「塩に塩気がなくなる」とはどういうことでしょうか。当時の塩は精製が不十分で、腐敗してダメになってしまうことがあった、とも言われます。しかしやはり本来、塩が塩でなくなることはありえない、と考えたらよいのでしょう。13節のイエスの言葉は「塩が塩味を失うことはないはずだ」ということを強調しているようです。
 「山の上にある町」(14節)は、天のエルサレム、終末的な神の都のイメージかもしれません(黙示録21章1節~22章5節参照)。「エルサレム」と言っても、現実のある地名のことではなく、救いの完成の状態を表す象徴的な表現です。それは、神と人とが一つに結ばれ、人と人とが愛によって結ばれる状態です。それはわたしたちの社会の現実とはあまりにも程遠いと感じられるでしょうか。確かに、現実にはどこにもそんな町は見えません。今は信仰の目をとおしてしか見えないと言ってもよいでしょう。しかし、「山の上にある町は隠れることができない」いつか必ず現れる、それが聖書の希望です。旧約では、イザヤ2章1-5節でこのような希望が語られています。

  (3) 16節の「立派な」は元のギリシア語では「カロスkalos」で、普通は「良い」と訳される言葉です。これは「美しい」とか「役に立つ」という意味での実際的な「良さ」を表す言葉です。ちなみにヨハネ福音書10章11,14節の「わたしは良い羊飼いである」の「良い」も同じ言葉です。「あなたがたは光だ」というメッセージを本気で受け取ったときから、わたしたちの人生は輝き始めます。わたしたちの言葉と行動が、何かしら違ったものになります。これが「良い行い」です。神がわたしたちを光としてくださったからこそ、それが可能になります。だから、「良い行い」で「あがめられる」(直訳では「栄光を与えられる」)のは、その行いをした人間ではなく「天の父」なのです。こんなふうに、自分にではなく神に栄光が帰される喜びを感じる体験がわたしたちにもあるでしょうか。

  (4) 山上の説教にはたくさんの命令があります。イエスは神のみ心にかなうことがなんであるかをはっきりと示しています。その中には非常に厳しく、人間には実行困難と感じられるようなものも少なくありません。敵を愛しなさい、情欲をもって女を見てはいけない、一切誓ってはならない、などなど。しかし、だからこそ、そのすべてに先立って「福音」があることは大切です。この福音は「八つの幸い」の中では「天の国(バシレイアbasileia)はあなたがたのものである」ということ、すなわち「神は決してあなたがたを見捨ててはいない。神は王(バシレウスbasileus)としてあなたがたを救ってくださる」ということでした。きょうの箇所もまさに「福音」として受け取るべき箇所です。
 山上の説教を読むとき、あらゆる掟や命令の前に、次の言葉を補って読んでみるとよいでしょう。「神はあなたを愛してくださっている。だから~」「神はあなたを地の塩、世の光と見ていてくださる。だから~」「あなたはもうゆるされて、神の子とされているのだ。だから~

  (5) わたしたちは「あなたがたは地の塩である」「世の光である」というイエスの福音を本気で受け取ることができるでしょうか。
 おまえはダメだ」「おまえなんかいてもいなくてもいい」「おまえがどうなろうが知らない」そういうメッセージが、わたしたちの社会の中で、職場や学校で、もしかしたら夫婦や親子の間でさえ飛び交っている現実があります。そんな現実の中、わたしたちの周りの、どれほど多くの人が「あなたがたは地の塩、世の光である」というメッセージを必要としているでしょうか。
 イエスは2000年前の人々にどうやってこのメッセージを伝えたのでしょうか。一人一人の人間に共感の目を注いで近寄り、その貧しさや苦しみを共に荷ない、その人の中に素晴らしい輝きと立ち上がる力があることを信じ、あなたは本当に神の子であり、わたしの兄弟姉妹だと語りかけていったイエスの姿を、わたしたちは福音書をとおして知っています。では、わたしたちはどうやってイエスの福音を誰かに伝えることができるでしょうか。




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Posted on 2020/01/31 Fri. 09:39 [edit]

category: 2020年(主日A年)

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主の奉献 (2020/2/2 ルカ2章22-40節)  


教会暦と聖書の流れ


 「主の奉献」の祝日は毎年、主の降誕から40日目にあたる2月2日に祝われます。今年はたまたま主日と重なっていますが、「聖人の祝日」とは異なり、「主の祝日」(主イエスご自身の出来事を祝う祝日)は年間主日に優先して祝われることになっています。教会暦には、主の降誕から起算した祝日がこれ以外にもあります。1月1日「神の母聖マリア」(降誕から8日目)、3月25日「神のお告げ」(9ヶ月前)、6月24日「洗礼者聖ヨハネの誕生」(半年前)がそれです。このうち、四旬節中の「神のお告げ」以外は主日に祝われる可能性があります。
 なお、きょうの福音朗読の箇所は、聖家族の祝日(B年)と同じ箇所です。


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  (1) この箇所の直前、ルカ2章21節には、「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」とあります。割礼は、男子の包皮を切り取る儀式ですが、ユダヤ人にとっては、これによって神の民の一員となることを表す儀式でした。旧約聖書には次の規定がありました。
 「妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚(けが)れの日数と同じ七日間汚れている。八日目にはその子の包皮に割礼を施す。産婦は出血の汚れが清まるのに必要な三十三日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない」(レビ記12章2-4節)。
 ですから、22節の「モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき」とは誕生から40日後ということになります。ところで、この「彼らの清め」の「彼ら」とは誰か、という問題があります。普通に考えれば産婦であるマリアのことですが、なぜ複数形なのでしょうか。ここには、「マリアの清め」と「イエスの奉献」という二つのことが同時に考えられているからでしょうか。
 
  (2) 23節「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」は、出エジプト記13章2節などからの引用です。この「聖別される」は、直訳では「聖なる者と呼ばれる」です。「山鳩一つがいか、家鳩の雛(ひな)二羽をいけにえとして献げる」は、レビ記12章6-8節に基づいています。このいけにえは本来は「一歳の雄羊一匹」と「家鳩または山鳩一羽」ですが、「産婦が貧しくて小羊に手が届かない場合」として鳩だけのいけにえが認めていました(12章8節)。ということは、マリアとヨセフも貧しかったということになるでしょうか。
 とにかく、ヨセフとマリアは律法の規定どおりにすべてを行なったということが何度も繰り返され、強調されています。

  (3) シメオンは正しい人で、信仰があつく、聖霊に満たされています。「慰められること」はギリシア語で「パラクレーシスparaklesis」と言い、元の意味は「そばに(助けを)呼ぶこと」です。ここではもちろん、メシア(救い主)の到来を意味します。
 シメオンは幼子を見て、「主が遣わすメシア」だと確信しました。そして、28-31節で神を賛美し、33-35節でイエスの家族を祝福します。実はこの「賛美する」と「祝福する」は、ギリシア語では同じ「エウロゲオーeulogeo」です。もともとは「よい言葉を言う」の意味で、それが神に向かえば「賛美」となり、人に向かえば「祝福」となるのです。
 救いの光を強調する賛美の言葉に続き、マリアに向けて語られた言葉は、この幼子の将来についての厳しい面を告げています。「倒したり立ち上がらせたり」というのは石のイメージでしょうか。ほんとうに頼りになる「貴い隅(すみ)の石」(イザヤ28章16節)でも、ある人にとっては同じ石が「つまずきの石」(イザヤ8章14節)になってしまうのです。そしてつまずいた人々によって「反対を受ける」ことになります。このイエスの受難に母マリアがあずかり、苦しみを共にすることになる、というのが「あなた自身も剣(つるぎ)で心を刺し貫かれます」という言葉の意味でしょう(ヨハネ福音書はイエスの十字架のかたわらに立つマリアの姿を伝えています。ヨハネ19章25-27節)。

  (4) アンナは女預言者と呼ばれています。彼女の役割は「エルサレムの救いを待ち望んでいた人々皆に幼子のことを話した」ことです。ここで「救い」と訳されている言葉はギリシア語の「リュトローシスlytrosis」で、「あがない、解放」の意味を持つ言葉です。
 身寄りのない「やもめ」は初代教会の中でも、祈りに専念する役割を与えられ、保護されていました。「身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けます」「やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません」(Ⅰテモテ5章5, 9-10節)。アンナはこのようなやもめたちの原型であり、理想像でもあると言えるでしょう。

  (5) シメオンやアンナが高齢者として描かれていることは、救いを待ち続けた旧約の長い時代を感じさせ、その完成の時を印象づけます。また、きょうの箇所で「主の律法で定められたことをみな」忠実に行っていると何度も繰り返されていることも、神の救いの計画を感じさせる表現でしょう。ルカ福音書はこの物語を伝えながら、イエスによる待望の成就、神の計画の実現、救いの時代の到来を表現しようとしているのです。
 同時に、このシメオンやアンナの姿にわたしたち自身を重ね合わせてみることもできるでしょう。29-31節のシメオンの言葉は、「シメオンの歌」(ラテン語で“Nunc dimittis”)と言われて、教会の祈りの「寝る前の祈り」で唱えられています。シメオンの祈りは、イエスとの出会いの中で「安らかに(平和のうちに)」憩うことを願うわたしたち自身の祈りでもあるのです。わたしたちの人生の歩みの中にも、聖霊の導きがあります。その導きによって、シメオンやアンナのようにイエスに出会う喜びを味わうことができるのです。




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Posted on 2020/01/24 Fri. 12:00 [edit]

category: 2020年(主日A年)

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年間第3主日 (2020/1/26 マタイ4章12-23節)  


教会暦と聖書の流れ


 きょうの箇所はマタイ福音書の中の、いわゆる「宣教開始」の場面です。ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で悪魔の誘惑を退けたイエスが、いよいよご自分の活動を始めていきます。今年(A年)の年間主日のミサの中では、四旬節・復活節の長い中断(約3ヶ月)をはさんで11月まで、マタイ福音書をとおして、イエスの活動の歩みを思い起こしていくことになります。
 きょうの福音でマタイが引用しているイザヤ8章23節~9章1節は、実は「主の降誕・夜半のミサ」で読まれた箇所です。降誕節のテーマであった「闇に輝く光、神の栄光の現れ(エピファニア)」というテーマは、イエスの活動全体を貫くテーマでもあります。


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  (1) 「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」(12節)。ヨハネが洗礼活動をしていたのはヨルダン川の下流、ユダヤに近い地方だと考えられています。洗礼者ヨハネが捕らえられて、イエスご自身も身の危険を感じたのでしょうか、ヨハネの活動の限界を感じたのでしょうか、イエスはご自分の故郷とも言えるガリラヤに戻ってきます。そして、これを契機にイエス独自の活動が始まることになりました。
 「ガリラヤ」について。紀元前10世紀にイスラエルの王国は、エルサレムを中心とする南のユダ王国とサマリアを中心とする北のイスラエル王国に分裂しました。イザヤは紀元前8世紀、北王国がアッシリアに滅ぼされていった時代の、ユダ王国の預言者です。ガリラヤ地方はサマリアのさらに北にあります。イザヤの時代のユダヤ人から見れば、まさに「異邦人のガリラヤ」と呼ぶべき暗闇の地でした(なお、「ゼブルンとナフタリ」は、エジプトを脱出したイスラエルの民が約束の地に入ったとき、ガリラヤ地方を割り当てられた部族の名です)。イエスの時代のガリラヤ地方は、南のユダヤ人が入植して町を作っていたので、民族的にも宗教的にも南のユダヤ人と結びついていましたが、ユダヤの人々からは軽んじられていました(「ガリラヤから預言者は出ない」ヨハネ7章52節)。マタイはイエスがこのガリラヤで活動を始めたことを神の計画と見ています。復活したイエスが弟子たちに姿をあらわす場所もガリラヤの山です(マタイ28章16節)。見捨てられ、暗闇に覆われた場所、しかし、その中でこそ神の救いの計画が実現し、イエスと出会うことができる場所。わたしたちにとっても「ガリラヤ」と言える場所があるでしょうか。

  (2) 17節の「天の国」はマタイ福音書によく出てくる表現で「神の国」の言い換えです。マタイ福音書は洗礼者ヨハネとイエスのメッセージを「悔い改めよ、天の国は近づいた」(3章2節参照)というまったく同じ言葉で紹介し、2人が唯一の神の同じ1つの計画の中にいることを示しているようです。この「近づいた」(完了形)には「近づいているけれどまだ来ていない」というニュアンスだけでなく、「近づいてもうここに来ている」というニュアンスがあります。2人の違いは、ヨハネが「天の国(=神の国)」の準備の時代の人であったのに対して、イエスが神の国の実現の時代の人だという点です(マタイ11章11節「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」参照)。わたしたちは「み国が来ますように」と祈りますが、イエスによって神の国は何らかの意味でもう始まっているのです。わたしたちにとって、すでに始まっている神の国とはどのようなものでしょうか。

  (3) イエスが最初になさったことは弟子を作るということでした。これもマタイ福音書の結びと対応しているようです。復活したイエスの弟子たちへの命令の中心は「すべての民をわたしの弟子にしなさい・・・」(28章19節)というものでした。イエスの弟子を作るという活動がまさにイエスの活動の中心であったからこそ、同じことがイエスの復活後の弟子たちの活動の中心になるのだと言ったらよいでしょう。
 「わたしについて来なさい」は「わたしの後に」という意味の言葉が使われています。一方「従う」と訳された「アコリュテオーakolytheo」というギリシア語は、ただ「後を歩む」だけでなく「同行する、仲間になる」という意味もあります。もちろん、それは司祭や修道者だけの問題ではありません。キリスト信者は皆、イエスに弟子として呼ばれた者なのです。わたしたち一人一人が弟子として呼ばれていることを感じられますか。イエスの弟子として歩むということはわたしたちにとってどういうことでしょうか。

  (4) きょうの箇所は、イエスが突然誰かに声をかけ、呼ばれた人たちがすぐにすべてを捨ててついていく物語ですが、常識的に考えると少し不自然ではないでしょうか。イエスの弟子とは、イエスの言葉と行動に触れて、イエスに従うことを自分で決断した人たちだと考えるほうが自然でしょう。マタイ福音書がマルコ福音書から受け取った、この最初の弟子の物語はいささか理想化(あるいはパターン化)されていると言わざるをえません(ルカやヨハネは別の形でこの弟子たちとイエスとの出会いを伝えています。ルカ5章1-11節、ヨハネ1章35-42節参照)。普通の師弟関係なら、弟子のほうが「これぞ」と思う先生を見つけて弟子入りを願うものです。しかし福音書の中では、先生であるイエスのほうが弟子を選ぶということが目立っています。「イエスが弟子を選ぶ」ということは、神の選びの根拠は人間の側にない、という聖書特有の考え方に基づいています。人間が神を選ぶのなら、人間の側の選択能力が優れているということにもなりますが、神が人間を選ぶというのは、選ばれた人間が優れているからではないのです。神の選びとは、もっとも弱く、貧しい人を選ぶことによって、すべての人を救おうとするものです。つまり選ばれた側は何も誇ることができないのです(Ⅰコリント1章26‐31節参照)。ペトロやヨハネも後々まで「無学な普通の人」(使徒言行録4章13節)と言われていました。
 ここでは「すぐに」ということと「何もかも捨てて」ということが弟子の理想の姿として描かれています。自分自身のことを考えると戸惑いを感じるかもしれませんが、わたしたちの中にもそんな経験がまったくないとは言えないのではないでしょうか。




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Posted on 2020/01/17 Fri. 09:52 [edit]

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