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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第7主日 (2019/2/24 ルカ6章27-38節)  


教会暦と聖書の流れ


 「貧しい人々は、幸いである」という言葉に始まったいわゆる「平地の説教」(ルカ6章20-49節)の中の言葉で、先週の箇所の続きです。マタイの「山上の説教」(マタイ5~7章)にも似た言葉が伝えられています。マタイ5章39-40, 44-48節、7章1-2, 12節参照。さまざまな場面で語られたイエスの言葉を集めたもののようですが、どのような意図で集められたのでしょうか。新しくキリスト信者になった人々に、これからの生き方の指針を示すためだったのではないかという見方があります。


福音のヒント


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  (1) 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」。イエスは徹底的な愛を要求します。それは無条件の愛、見返りを求めない愛です。マタイ5章40節では「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」となっていますが、ルカで上着と下着が逆転しています。マタイのほうは裁判の場面が考えられているのに対して、ルカのほうは強盗に襲われた場面を考えているようです。31節の「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」は黄金律と呼ばれる言葉で、マタイ7章12節にもあります。32-34節「罪人(びと)でも」の罪人は、ここでは「神から離れている人」の意味でしょう。マタイ5章46, 47節では「徴税人」「異邦人」となっています。「異邦人」は「神を知らない人」とも言えるでしょう。ここでも「ギヴ・アンド・テイク」のような愛を超えた愛が求められています。

  (2) イエスは確かに厳しい要求をしますが、それは単なる要求ではありません。この要求の根拠となる言葉があります。「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(35-36節)。
 「いと高き方」はもちろん神のことです。「たくさんの報い」と言いますが、神からの報いを期待しなさい、という意味でしょうか。しかし、ここでは「人間の行為に応じて、神が報いを与える」(=応報)という以前にもっと大切なことがあるのです。それは「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」ということです。これは応報の考え方を否定するような言葉です。あなたがたはこの神の愛を知ったはずだ、だから神の子として、その愛をもって人に対していきなさい、ということになるでしょう。これは、「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである」という福音の宣言とも無縁ではありません。この神を知ったことが弟子の生き方の原点になるのです。
 イエスは「新しい律法」を与えているのではなく、神の愛を受けた神の子としての新しい生き方はこうなのだと指し示しているのではないでしょうか。根本に神の国の福音がある、ということは今日のイエスの言葉を受け取るために忘れてはならないことです。

  (3) さらにこれらの言葉が、単なる言葉ではなく、イエスご自身の生き方と結びついていることも大切でしょう。この点でルカ福音書が伝えるエピソードは印象的です。エルサレムに向かうイエスを歓迎しなかったサマリア人の村を見て、焼き滅ぼしてしまおうと考えた弟子たちをイエスは戒めました(ルカ9章51-56節)。イエスを逮捕しに来た大祭司の手下の耳をイエスの弟子が切り落としたとき、イエスはその耳をいやされました(ルカ22章50-51節)。さらに、イエスを十字架につけた人々のための祈りが伝えられています。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)。きょうのイエスの言葉は、単なる弟子たちに対する要求なのではなく、イエスご自身が十字架に向かう中で最後まで貫かれた生き方を表す言葉なのです。

  (4) しかし、今日のイエスの言葉をわたしたちの現実に当てはめようとしたとき、大きな困難も感じられるでしょう。わたしたちは国家間や民族間の戦争、テロ、拉致というような問題に直面しています。あるいはもっと身近なところで起きている犯罪、暴力、虐待、いじめという現実もあります。被害者がただ単に無抵抗で、それでも加害者を愛せばよい、というだけでは解決にならないでしょう。被害者は暴力や虐待から守られなければならないはずです。「暴力をふるう夫を、それでも妻はゆるし、耐えろ」とイエスは教えているのでしょうか。そんなはずはありません。そういう意味で、今日のイエスの言葉をどんな場面にも通用する法律や規則として、文字通り受け取ることはできないはずです。
 しかし逆に、「暴力を受けたら報復するのは当然」という考えで突き進んでいったときにも悲惨なことが起きます。暴力の問題、人と人との間にある憎しみや敵意の問題には、決して安易な解決はないと言わざるをえないでしょう。

  (5) 暴力とは人が人を支配する力です。その支配に屈することでもなく、憎しみや復讐心を抱くという形で暴力に振り回され続けるのでもなく、どうしたらその支配から解放されるのか。暴力の連鎖をいかに断ち切ることができるのか。イエスの言葉、そして十字架の死に至る生き方は、そのことをわたしたちに問いかけています。
 イエスが確信していたことは、「恩を知らない者にも悪人にも、情け深い」神の愛でした。神は一人一人の人間の苦しみに深く共感され、すべての人が生きることを望まれるので、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5章45節)方なのです。そしてその愛を本当に知ったとき、憎しみや復讐心から解放された生き方が始まる。この福音の世界への大きな招きを本気で受け取りたいものです。




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年間第6主日 (2019/2/17 ルカ6・17, 20-26)  


教会暦と聖書の流れ


 イエスの活動が始まってしばらくしてから、イエスは山の上で12人の弟子を使徒として選びました。その後、今日の箇所になります。省略された18-19節には次のような言葉があります。「(彼らは)イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚(けが)れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである」。イエスはこの人々を前にして「あなたがたは幸い…」と語り始めるのです。


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  (1) 20-49節の長い説教は、マタイ福音書5~7章の説教と共通する部分が多くあります。マタイのほうが「山上の説教」と呼ばれるのと対比して、ルカ福音書のこの部分は17節の「平らな所」という言葉から「平地の説教」とも呼ばれることがあります。
 マタイの山上の説教もルカの平地の説教も、イエスがある時に語った長い説教が記録されていたと考えるよりも、さまざまな場面でイエスの語られた言葉がつなぎ合わされて今の形になったと考えたほうが良さそうです。マタイとルカの共通の源となった伝承の存在が考えられます。何のために初代教会の人々は、これらのイエスの言葉を集めたのでしょうか。内容から考えて、これらの言葉は、新しくキリスト信者になった人々に、キリスト信者としての新しい生き方を指し示す言葉として集められている、と考える学者がいます。だとしたら、まず最初に「幸い」と言われているのも納得できるでしょう。

  (2) 今日の箇所は、マタイの山上の説教の冒頭にある「八つの幸い」とよく似ています。ルカの最初の3つの幸いとマタイの八つの幸いの前半4つを比べてみましょう。
ルカ6・20 貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。
   21a 今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。
   21b 今泣いている人々は幸いである、あなたがたは笑うようになる。
マタイ5・3 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである
   5・4 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる
   5・5 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
   5・6 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる
 ルカ6・20とマタイ5・3、ルカ6・21aとマタイ5・6は多くの言葉が共通しています。ルカ6・21bとマタイ5・4も内容的にはよく似ています。もともと一つのイエスの言葉が伝えられていくうちに二つの形になった、と考えるのが良さそうです。そしてさらに言えることは、単純なルカの形のほうが元の形に近いだろうということです(くわしくは、A年年間第4主日の「福音のヒント」参照)。

  (3) 「貧しい人は幸いである…」というと一つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳せば、「幸い、貧しい人々。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」となります。これは目の前の人に向かって語りかける祝福の言葉なのです。
 「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」がなぜ幸いなのでしょうか。それは「神の国(バシレイアbasileia)はあなたがたのもの」だからです。神は決してあなたがたを見捨ててはいない、神は王(バシレウスbasileus)としてあなたがたを救いに来てくださる、だから幸いなのです。「あなたがたは満たされる」「笑うようになる」も神がそのようにしてくださるということを意味しています。これこそがイエスの「福音(=よい知らせ)」です。
 「貧しい人」は単に経済的な貧しさだけを表す言葉ではありません。今年の年間第3主日の福音にも、「貧しい人に福音を告げ知らせる」(ルカ4・18)という言葉がありましたが、この「貧しい人」は「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」など、さまざまな理由で小さくなっている人すべてを含む言葉です。福音書に登場する病人や障害者、悪霊に取りつかれた人、女性や子どもなども、ある意味で皆、「貧しい人」です。ルカ19章に登場するザアカイのような徴税人も、たとえ金持ちであったとしても社会的に排除されていたという意味では「貧しい人」だと言えるのです。

  (4) ルカは4番目に迫害される人の幸いを語ります(22-23節)。これは本来、その前にある3つの幸いとは別な場面で語られた言葉だったようです。ところで、ルカはこの4つの幸いの後、正反対の4つの不幸について語ります(24-26節)。これはマタイの「八つの幸い」にはない言葉です。ルカ福音書では、このように「幸いの道」と「不幸の道」が示され、今日の箇所全体が幸いの道を選ぶようにという「勧告」になっています。
 もちろん、わたしたちが経済に繁栄した消費社会にどっぷりと浸りきり、社会的な地位や評価も得て、さらに、この世界の中で苦しんでいる多くの人々のことを忘れてしまい、神様抜きですべてに満ち足りてしまっているとしたら、神に期待するものは何もないでしょう。そういう意味で、きょうの箇所の後半をわたしたちに反省を促す厳しい言葉として受け取ることは大切です。
 しかし、本来のイエスの言葉(特に20-21節)は「勧告」というよりも、純粋な「福音」だったということも大切です。病気や経済的困難、さまざまな苦しみの中で日々救いに飢え渇いていると感じる人もいるでしょう。逆にザアカイのようにどんなに満ち足りているように見えても、人とのつながりに渇き、愛に飢えていると感じる人もいるでしょう。わたしたちは自分自身がほんとうに「貧しい人」であると感じたとき、その貧しさの中でこそ、イエスの言葉を「福音」として聞くことができるのではないでしょうか。




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Posted on 2019/02/08 Fri. 08:30 [edit]

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年間第5主日 (2019/2/10 ルカ5章1-11節)  


教会暦と聖書の流れ


 マタイ福音書やマルコ福音書では、イエスと最初の弟子になった人々の出会いの物語はイエスの活動の始めに置かれています(マタイ4章18-22節、マルコ1章16-20節)。ルカ福音書では、イエスがナザレやカファルナウムなどガリラヤ地方で活動を始めた後、しばらくしてから、この出来事が起こったことになっています。またルカの物語では、マタイやマルコの物語に「不思議な大漁」の物語が組み合わされているところに特徴があります。 


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  (1) 「ゲネサレト湖」はガリラヤ湖の別名です。マタイやマルコで、ガリラヤ湖の漁師たちとの出会いが最初に置かれていることには意味があります。「神の国」の到来を告げ知らせるイエスの活動の、目に見える一つの実現の形が、イエスの呼びかけに応えてイエスに従った人々の姿だと言うことができるでしょう。また、この弟子たちがイエスのなさるすべてのことの証人になるわけですから、最初から一緒にいなくてはならないのです。ただし、ガリラヤ湖畔でいきなりイエスに声をかけられて、すぐについていったというのは少し不自然に感じられるかもしれません。マタイやマルコはこの最初の弟子たちの姿を理想化して描いているのでしょうか。一方ルカでは、ペトロたちは、イエスが「神の言葉」(1節)を語られるのを聞き、イエスの不思議な力に触れてから、イエスに従うようになりました。このほうが自然だと言えるかもしれません。

  (2) ガリラヤ湖の漁師は夜中に漁をしたと言われています。日中、魚は湖の深いところにいて、夜になると水面近くに上がってくるからです。シモンはイエスから頼まれて、イエスを自分の舟に乗せています。夜通し苦労して何も獲れなかったという疲労感や失望感の中でもイエスの頼みに応えようとしています。そこでシモンはイエスが語る「神の言葉」を聞くことになりました。そして、イエスから「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。プロの漁師としては、夜通し働いて獲れなかった魚が、日中になって獲れるはずがないと考えるのが普通でしょう。しかし、シモンは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と言います。それはイエスが「神の言葉」を語るのを聞いていたからだと言えるのではないでしょうか。
 わたしたちの体験の中に、このようなことがあるでしょうか。頑張っても物事がうまくいかず、疲れ、失望しかけたときに、それでもイエスの言葉に励まされてもう一度やってみたら、思わぬ良い結果が生じた、というような体験です。わたしたちにとっての「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とは、どんな時のどんな言葉でしょうか?
 
  (3) 不思議な大漁を見たシモン・ペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と叫びます。「主」(ギリシア語の「キュリオスkyrios」)は新約聖書の中で旧約を引用するとき、神について使う言葉です。「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(使徒言行録2章36節)。これはペンテコステ(五旬祭、聖霊降臨の日)のペトロの説教の結びの言葉です。ペトロはイエスの死と復活をとおして、イエスが神の子であり、神と等しい方であることを確信することになります。しかし、この最初の出会いの時から、そのことは予感されているのです。
 ペトロはイエスの神的な力を感じて、「わたしから離れてください」と言います。神は聖なる方であり、その神に近づくと、罪深い者である人間はその聖性に耐え切れずに滅びてしまう、と考えられていました。この日のミサの第一朗読で読まれるイザヤの言葉も同様です。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚(けが)れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ6章5節)。

  (4) そんなペトロに向かって、イエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)と言われます。イエスは罪深い人間を滅ぼすためにではなく、その罪をゆるすために来られました。「罪」とは「神から離れること」です。イエスは神の子として、人が神に立ち返り、神との親しさを取り戻すこと(これが「罪のゆるし」です)のためにこそ世に来られたのです。
ペトロには使命が与えられます。「人間をとる漁師」は直訳では「人間を生け捕りにする者」です。ここには人を「まことの命へと導き入れる」というニュアンスがあるのでしょうか。そして、この「不思議な大漁」の出来事は、これからの弟子たちの活動の実りの豊かさを暗示しているとも言えるのでしょう。なお、この10節の言葉はペトロ一人に向かって語られていますが、11節の「彼ら」にはもちろんヤコブとヨハネも含まれています。「すべてを捨てて」はイエスに従う者の典型的、理想的な姿と考えられます。

  (5) 不思議な大漁の話は、ヨハネ21章にもあります。これは復活したイエスと弟子たちとの出会いの物語です。時期や細部はずいぶん異なりますが、夜中にガリラヤ湖で漁をしても何も獲れなかったペトロたちが、イエスの言葉に従って網を下ろすとたくさんの魚が獲れたという点では共通しています。2回同じような出来事があったのでしょうか。1つの共通の伝承(言い伝え)があって、2つの福音書それぞれが別の仕方で伝えているのでしょうか。いずれにせよ、この2つの箇所から、福音の物語が2000年前の物語であると同時に、今のわたしたちと復活したイエスとの出会いの物語でもあると感じることができるのではないでしょうか。そのような物語としてきょうの福音を味わいたいものです。




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Posted on 2019/02/01 Fri. 09:30 [edit]

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年間第4主日 (2019/2/3 ルカ4章21-30節)  


教会暦と聖書の流れ


 ルカ福音書ではイエスの活動はまだ始まったばかりです。先週の福音(ルカ1章1-4節、4章14-21節)は、イエスがナザレの会堂でイザヤ書の巻物を読み、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言したところで結ばれていました。その結びの部分から始まるのがきょうの箇所です。なお、今回の写真は告知教会から見た現代のナザレの町です。


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  (1) 多くの人はこの話を読んで、話の展開に少し無理があるように感じるのではないでしょうか。22節の「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて」という箇所と、28-29節の「会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」の間には、確かに大きなギャップがあります。ナザレでのただ一回の出来事と見るには無理があると考えて、ナザレでのイエスの活動を伝えるいくつかの伝承が組み合わされているという見方もあります(確かにイエスはガリラヤでの活動中、何度かナザレに行ったことがあったでしょう)。とにかくルカはここで、ナザレでのある一日の出来事というよりも、イエスのこれからの活動の全体像を表そうとしているようです。

  (2) 22節の「この人はヨセフの子ではないか」という言葉は、人々のイエスに対する好意的な反応を表すものでしょうか。「ヨセフの子でありながら、こんなに素晴らしいことを語っている!」というような・・・。だとすると、この後、イエスのほうからケンカを吹っかけるような言葉が続くのは、不自然に感じられるかもしれません。
 むしろ、これは非難めいた言葉でしょうか。つまり、「ヨセフの子にすぎないのに、こんな大胆なことを語るのはおかしい」という意味です。マルコ6章2-3節では、故郷での話の中にこういう言葉があります。「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた」。故郷の人々は、人間的なレベルでしかイエスを見ようとしないので、イエスを受け入れられなかった、ということになるでしょう。ルカ福音書の「ヨセフの子」も同様に考えてよいのではないでしょうか。
 なお、22節で「ほめ」と訳された言葉は「弾劾し」というまったく正反対の意味にもとれる言葉です。こうとったほうが、後の展開には合うかもしれませんが、ここまでの展開からすれば「皆がイエスをほめ」と受け取るほうが自然でしょう。

  (3) エリヤとエリシャはともに紀元前9世紀、北イスラエル王国で活動した預言者です。それぞれの物語は、列王記上17章、列王記下5章に伝えられている有名な話です。「シドン」「サレプタ」はイスラエルの北方、地中海に面した位置にあります。「シリア」はイスラエルの北にある国ですが、その国のアラム人の王の軍司令官がナアマンでした。ともに異邦人に神の救いがもたらされた話です。
 預言者の活動は、狭い民族的な利害に基づくものではなく、神の大きな救いの意思に基づくものでした。イエスもまたそのような預言者として活動しているのです。

  (4) 問題はナザレの人々の狭さでした。彼らは同郷のイエスに期待しますが、それは地縁血縁による内輪の世界に利益をもたらしてくれることへの期待だったようです。そんな彼らにとっては同じガリラヤ地方のカファルナウムでさえ「外の世界」になるのです。この姿勢には、後になってイエスを十字架に追いやっていくユダヤ人指導者たちと共通するものがあります。ルカ20章でぶどう園の農夫のたとえ話が語られています。主人からぶどう園を借りていた農夫たちが、収穫を受け取りに来る主人の「愛する息子」を殺害してしまうというたとえ話です。これに対する人々の反応をルカはこう伝えています。「そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた」(20章19節)。つまり、ユダヤ人指導層は自分たちの特権的な立場を脅かす存在としてイエスを抹殺することになるわけです。このような狭い意識がわたしたちの心にもないとは言えないでしょう。

  (5) 「会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」というのは極端すぎる反応でしょうか。もちろん大きな期待があったからこそ、その期待を裏切られたときにそれが憎しみに変わるということはあるかもしれません。しかし、それだけでなく、将来起こるイエスの受難と十字架の死を予告するような出来事として、ルカはこのことを伝えているようです。この話は「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」(30節)と結ばれています。これはもちろん、まだ十字架の「時」(4章13節参照)ではないからですが、同時にイエスが最終的に「天に立ち去られた」ということを暗示しているようでもあります。
 先週と今週のナザレでの出来事の中に、「貧しい人に福音を告げ知らせる」(ルカ4章18節)イエスの姿と、それを受け入れることのできなかった人々の姿がはっきりと表れています。それは福音書の物語全体の縮図とも言えるでしょう。今のわたしたちも、このイエスの福音に心を開けるかどうかが問われているのです。




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Posted on 2019/01/25 Fri. 08:30 [edit]

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年間第3主日(2019/1/27 ルカ1章1-4節,4章14-21節)  


教会暦と聖書の流れ


 福音の箇所は、ルカ福音書の序文とイエスの活動開始の場面が組み合わされています。その間の箇所では、1~2章でイエスと洗礼者ヨハネの誕生・成長の物語、その後、イエスがヨルダン川で洗礼を受け、荒れ野で誘惑を受けた様子が伝えられています。今年の年間主日のミサでは、これからずっとルカ福音書を通してイエスの活動の様子を見つめていくことになります(なお、荒れ野の誘惑の話は四旬節第1主日に読まれます)。


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  (1) 1章1-4節はルカ福音書の序文と言えます。「わたしたちの間で実現した事柄」はもちろんイエスの生涯・死・復活のことです。「最初から目撃して御(み)言葉のために働いた人々」は使徒たちを指します。「多くの人々が既に手を着けています」とありますが、少なくともマルコ福音書はすでに書かれていて、ルカはその内容を知っていたようです。「テオフィロTheophilos」という名の人物は知られていません。ルカ福音書は特定の人に献呈する形をとっていますが、この名前の意味は「神を愛する人」あるいは「神に愛された人」ですので、わたしたちすべてに向けて書かれている、と受け取ることもできます。

  (2) 「“霊”」はギリシア語で「プネウマpneuma」です。「プネウマ」は必ずしも神の霊=聖霊だけに使われる言葉ではないので、かつての口語訳聖書では「プネウマ」が明らかに「聖霊」を意味すると考えられる箇所は「御霊(みたま)」と訳されていました。その部分を新共同訳聖書は「“霊”」と表記しているのです。聖霊はこの箇所の少し前から現れています。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降(くだ)って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(3章21-22節)。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(4章1-2節)。ヨルダン川での洗礼の時から、イエスの活動のすべては、聖霊に導かれているのです。きょうの箇所で引用されるイザヤ書の中にも「主のがわたしの上におられる」という言葉があります。

  (3) イエスの活動の場はガリラヤの諸会堂です。イエスの時代、ユダヤ人は安息日ごとに会堂に集まり、礼拝を行なっていました。その中心は聖書(旧約聖書)の朗読でした。巻物は今の本と違って、好きな箇所をさっと開くことはできません。イエスはたまたま開いた箇所をお読みになったことになりますが、この箇所が読まれたのは単なる偶然というよりも、むしろ、聖霊の働きによることと考えるべきでしょう。
 イエスが朗読したのはイザヤ書56~66章までの「第三イザヤ」と呼ばれる部分にあたりますが、この箇所は本来、第三イザヤと呼ばれる預言者自身の召命を語る箇所だったと考えられます。「油を注ぐ」ことはその人に、神からの特別な使命とその使命を果たすための神からの力(=聖霊)が与えられることを目に見える形で表すものでした。ここでは預言者としての使命が与えられることが表されていたのでしょう。しかし一方、「油を注がれる」は「メシア=キリスト」を意味する言葉でもあるので、イエスの時代にはこの箇所が「来(きた)るべきメシア」についての預言と受け取られていたようです。イスラエルの人々は、いつかメシアが来ることを待ち望んでいました。しかし、イエスはこの預言が「今日、実現した」と宣言します。これこそがイエスの福音の決定的な新しさです。

  (4) 「貧しい人」は経済的に、またその他の理由で圧迫されている人のことで、後に出てくる「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」すべてを含む言葉です。「福音」は「よい知らせ」ですが、一言で言えば、「神によるこの圧迫からの解放」だと言ったらよいでしょう。ここには「解放」「自由にし」という言葉が出てきますが、どちらも「アフェシスaphesis」というギリシア語です。「アフェシス」は、「ゆるし」という意味でも使われる言葉です(ルカ24章47節参照)。人間を縛っているあらゆるものからの解放、その根っこにある罪からの解放、これこそがイエスの使命であり、福音だと言えるでしょう。なお、新共同訳の旧約ではこの箇所は次のようになっています。
 「主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して…」(イザヤ61章1-2節)
 ルカの引用は、途中にイザヤ58章6節の言葉を挿入するなど、旧約聖書本来の言葉を少し変えています。「主が恵みをお与えになる年」は元来、50年ごとに「全住民に解放の宣言」(レビ記25章10節)がなされるヨベルの年のことですが、「われわれの神が報復される日」という言葉は省かれています。これはイエスの使命に合わせるためにあえて省かれているようです。

  (5) 21節の「今日」は、ルカ福音書の中で特別に「救いが今、実現している」ということを強調する言葉のようです。ザアカイの家での言葉「今日、救いがこの家を訪れた」(ルカ19章9節)、一緒に十字架にかけられた犯罪人への言葉「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23章43節)のような箇所にも見られます。
 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスは宣言されました。それは今、この言葉を耳にするわたしたちにとっても「今日」のことであるはずです。わたしたちはそのような言葉として聖書の言葉を聞いているでしょうか。




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Posted on 2019/01/18 Fri. 09:00 [edit]

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