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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

待降節第3主日 (2018/12/16 ルカ3章10-18節)  


教会暦と聖書の流れ


 待降節第2、第3主日の福音では毎年、イエスの先駆者である洗礼者ヨハネに関する箇所が読まれます。今年はルカ福音書からです。先週の箇所(3章1-6節)から少し飛んで、洗礼者ヨハネの説教が伝えられている箇所です。伝統的に待降節第3主日は「喜びの主日」と言われてきました。洗礼者ヨハネがその到来を予告した救い主がすぐ近くに来ておられる、という喜びの雰囲気の中でこの主日は祝われます。


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  (1) この箇所の直前には、洗礼を受けに来た人々に対する洗礼者ヨハネの次のような言葉があります。「蝮(まむし)の子らよ、差し迫った神の怒りをまぬかれると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧(おの)は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3章7-9節)。非常に厳しい裁きのメッセージです。アブラハムの子孫であるユダヤ人だから祝福を受けられるだろうというような甘い期待は打ち砕かれます。すべての人は今、回心する(=悔い改める)かどうかを問われているのです。そして10-14節で、その「悔い改めにふさわしい実」とは何かが具体的に語られていきます。

  (2) 群集に向かって要求されるのは、断食や苦行を行なうことではなく、持っているものを、それを必要としている人と分かち合うことでした。それは周りの人を大切にすることと言い換えてもよいでしょう。あらゆる人に回心を呼びかけたヨハネのもとにはさまざまな人が訪れました。ここでは「徴税人」と「兵士」が登場しています。「徴税人」はユダヤ人でありながらローマ帝国のために同胞から税を取り立て、そのことによって自分の利益を得ていた人です。彼らの中には不正な取立てをする者も多く、その職業だというだけで罪びとのレッテルを貼られていました。「兵士」はローマ軍の兵士でしょうか。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスも兵士を持っていました。彼らに対してヨハネが語ったのも、ただ、人に対して悪を行なわないようにということでした。ヨハネは徴税人や兵士に向かって、その仕事を辞めることを要求しません。「悔い改めにふさわしい実」として必要なことは、自分の置かれた場で神の心にかなう生き方をすることでした。

  (3) 15節の「メシア」はヘブライ語ですが、原文はギリシア語の「クリストスchristos=キリスト」です。どちらも「油を注がれた者」、つまり神から特別な使命を与えられた人を意味します。メシアを待望していた人々に対して、ヨハネは「わたしよりも優れた方」の到来を予告しました。「履物のひもを解く」(16節)はしもべの仕事であり、「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」というのは、来られる方がいかに偉大であるかを強調する表現です。
「水による洗礼」と「聖霊と火による洗礼」の対比は分かりにくいかもしれません。まず「洗礼を授ける」と訳される言葉ですが、これはギリシア語で「バプティゾーbaptizo」という一つの動詞で「(水に)沈める、浸す」ことを表します。洗礼者ヨハネの行なっていた洗礼は、ヨルダン川の中に人の全身を沈めることでした。いったん水の中に沈み、そこから立ち上がることは、古い、罪の奴隷である自分に死んで、新しく神のしもべである人に生まれ変わる「回心」を表すものでした。これが「水による洗礼」です。

  (4) では「聖霊と火による洗礼」とは何でしょうか。「霊」はギリシア語で「プネウマpneuma」で「風、息」を表す言葉です。この「風と火」のイメージは本来、裁きのイメージだったと考えられます。17節には「手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻(から)を消えることのない火で焼き払われる」という言葉があります。「箕」は麦の殻と実をより分けるための農具です。まず麦を叩いて実から殻を外しますが、そのままでは実と殻が混ざった状態です。箕は、その混ざった状態のものを空中に放り上げるときに使う道具です。殻は軽いので「風」に飛ばされ、重い実だけが残ります。「風と火の中に沈めること」それは本来は神の裁きのイメージだったのです。つまり、洗礼者ヨハネが予告した「来られる方」は、神の裁きをもたらす人だったと言えるでしょう。ヨハネはその裁きの到来の前に、人々に回心することを呼びかけたのです。
 もちろん、実際に来られた方イエスは、裁きをもたらしに来たのではありませんでした。イエスも終末の裁きを語られることがありましたが、地上で活動したイエスは、むしろ神のゆるしをもたらす方でした。キリスト教は洗礼者ヨハネの言葉を実際に来られたイエスに当てはめ、イエスの姿からこの言葉を再解釈していきました。福音書の中では、「聖霊による洗礼」は「聖霊の中に人を沈めること=人に聖霊を与えること」と理解され、それがイエスによって実現することだと語るのです。なお、ここでは「火」は非常に激しい力を持つものとして聖霊のシンボルだと理解されています(使徒言行録2章3節参照)。

  (5) わたしたちは洗礼者ヨハネの言葉を信じて、ヨハネの弟子になろうとしているのではありません。本当に見つめるべき相手は、ヨハネではなくイエスです。イエスがもたらしたものは何か、ということのほうがはるかに大切です。
 ところで、ルカ福音書はきょうの箇所(18節)で、ヨハネは「民に福音を告げ知らせた」と言っています。ヨハネの告げた「福音(よい知らせ)」とは何でしょうか? 第一には「決定的な方が来られるということ」でしょう。と同時に「今、回心することによって救いにあずかることができるということ」も福音だと言えるのではないでしょうか。
 わたしたちは毎年この季節に、特別に「主が来られる」ということに心を向けます。それは「今が回心のチャンスだ!」という福音を受け取る時でもあります。さらに、このチャンスとは、来られるイエスに目を向けると同時に、隣人に目を向け、隣人に対して不正を行なわず、愛を行なうチャンスなのだと言ってもよいでしょう。




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Posted on 2018/12/07 Fri. 09:30 [edit]

category: 2019年(主日C年)

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待降節第2主日 (2018/12/9 ルカ3章1-6節)  


教会暦と聖書の流れ


 待降節第2、第3主日のミサの福音では、毎年洗礼者ヨハネについての箇所が読まれます。今年はルカ福音書から採られた箇所です。ルカ福音書の1~2章で、洗礼者ヨハネとイエスの誕生・成長の話が伝えられていますが、そこでヨハネはイエスの先駆者として描かれていました。きょうの箇所でもヨハネはイエスの到来を準備する人として描かれています。ただし、もちろん、わたしたちが本当に見つめるべきなのは、洗礼者ヨハネの姿ではなく、やがて来られるイエスのほうです。


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  (1) 「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」(1節)。ティベリウスは第2代ローマ皇帝で、紀元14年に即位していますから、これは紀元28年ごろのことだということになります。「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降(くだ)った」(2節)は、旧約聖書に見られる典型的な預言者の紹介の仕方です。たとえば、「ダレイオスの第二年八月に、イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤに主の言葉が臨んだ」(ゼカリヤ1章1節)。
 「預言者」はギリシア語では「プロフェーテースprophetes」で、もともと「プロ(予め)」と「フェーミ(言う)」という語の合成語ですから、ギリシア語の訳としては「予言者」のほうが正確でしょう。しかし、この背景にあるヘブライ語の「ナービー」という言葉は単に「予言する人」ではなく「神の言葉を告げる人」という意味が強いので「預言者」という漢字を当てたほうが内容的には適切だと言えそうです。ちなみに、中国語では「豫」(「予」の正字体)と「預」の間に意味の差はないそうです。

  (2) イスラエルの歴史の中では、王国時代から捕囚後まで数多くの預言者が活動しましたが、洗礼者ヨハネやイエスの時代は、最後の預言者が去ってからかなりの時がたっていました。神はもはや預言者の口をとおして民に語りかけることはない、と感じられていた時代だったのです。その時代に「預言者」として登場したのが洗礼者ヨハネでした。神はこの世界に対して、今まさに決定的なことをなさろうとしている、その神の言葉を伝えるのが預言者としての洗礼者ヨハネの使命でした。
 「罪の赦(ゆる)しを得させるために悔い改めの洗礼を」(3節)とありますが、「洗礼」はギリシア語で「バプティスマbaptisma」です。この言葉は元々「水に沈めること、浸すこと」を意味しています。ヨハネが行なっていたバプティスマとは、ヨルダン川に人の全身を沈めるものでした。一度水の中に沈み、そこから立ち上がることは、古い自分に死んで新たないのちに生きることを表します。「悔い改め」と訳された語は「メタノイアmetanoia」で、元の意味は「心を変えること」です。旧約聖書では「主に立ち返る」と言われていることです。「心を神に向け、神に立ち返る」という意味で「回心」という漢字が当てられるようになりました。古い自分に死んで、新たに神とともに生きる、と言ったらよいでしょうか。この目的は「罪のゆるし」です。罪とは神と断絶することですから、回心とそのしるしであるバプティスマは、「罪のゆるし=神との和解」をもたらすものなのです。
もちろん、このことは本当の意味ではイエスによって実現することになります。

(3) 4-6節はイザヤ書40章の引用です。この箇所の少し前から見てみましょう。
「1慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。2エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役(くえき)の時は今や満ち、彼女の咎(とが)は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手(みて)から受けた、と。
 3呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。4谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。5主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る
 イザヤ40~55章は「第二イザヤ」と呼ばれています。1~39章とは別の、バビロン捕囚時代(紀元前6世紀)の無名の預言者の言葉と考えられています。この捕囚の苦しみは自分たちの罪の結果だから仕方ない、と考えていた当時のイスラエルの民に向かって、神によるゆるしと解放を告げるのが第二イザヤのメッセージでした。
 上のイザヤ書本文では、「荒れ野に道を備え…と呼びかける声」となっています。荒れ野の道とは捕囚の地バビロンからイスラエルの民が神とともに帰国する道でした。「道を備えよ」と「呼びかける声」は本来、天から預言者に向かって呼びかける声のことでした。福音書は、七十人訳聖書(古代のギリシア語訳旧約聖書)に基づいてこの箇所を「荒れ野で叫ぶ者の声」と読んで、これを洗礼者ヨハネに当てはめています。また、イザヤ書本文では「主」は「わたしたちの神」のことですが、福音書の引用では「わたしたちの神のために」が省かれ、「主」をイエスのことと受け取っています。

  (4) ルカはマタイやマルコよりも長い引用をしています。それは「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」という言葉を伝えたかったからでしょう。翻訳を比べてみるとイザヤ40章5節とルカ3章6節は少し違っています。「人は皆」は直訳では「すべての肉」です。「主の栄光がこうして現れる」を「神の救い」としたのは七十人訳の影響です。いずれにせよ、ルカはイエスによってもたらされる救いがすべての人に及ぶことを強調するためにこの言葉を引用しています。新約聖書は洗礼者ヨハネを、イエスの先駆者、イエスの到来を準備した人として描きます。わたしたちが見つめるべきなのは、洗礼者ヨハネではなく、すべての人の救い主として来られる「主」イエスのほうなのです。
 待降節はただ単にクリスマスを準備する季節ではありません。12月24日までイエスの誕生を待って、25日には誕生を祝うというだけではなく、待降節から降誕節までの期間全体をとおして、「イエスが来られる」ことの意味を味わうと考えたらよいでしょう。
 イエスの到来には3重の意味があります。「2千年前に来られたイエス」「世の終わりに再び来られるイエス」「今わたしたちの生活の中に来てくださるイエス」。わたしたちにとって特にこの3番目の意味は大切でしょう。だとすれば、「主の道」とはただ主が来られる道ではなく、わたしたちが主とともに歩んでいく道でもあるはずです。




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Posted on 2018/11/30 Fri. 09:30 [edit]

category: 2019年(主日C年)

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待降節第1主日(2018/12/2 ルカ21章25-28,34-36節)  


教会暦と聖書の流れ


 ルカ福音書21章8-36節の、終末についての長い説教から採られた箇所です。場面は少し違いますが、内容としては、先々週のB年年間第33主日に読まれたマルコ13章の箇所とよく似ています。年間の終わりの「終末」というテーマは待降節の初めに引き継がれていきます。「待降節」はラテン語では「アドヴェントゥスAdventus」(英語では「Advent」)で、「到来」を意味しますが、この到来には2重の意味があります。
 「待降節は二重の特質をもつ。それは、まず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる。」(『典礼暦年に関する一般原則』39)


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  (1)「太陽と月と星に徴(しるし)が現れる」というような天体の異変は、イザヤ13章10節、エゼキエル32章7節、ヨエル2章10節などにも見られます。これは、人間の罪に対する神の裁きの到来を表す表現です。世の終わりは確かに一面では破滅のメッセージなのです。現代のわたしたちが思い描く世界の終わりも、世界全面核戦争であったり、地球環境の悪化による人類の滅亡であったりして、やはり破滅そのものであり、そこには何の救いも感じられないかもしれません。しかし、聖書の終わりについてのメッセージは同時に救いの完成のメッセージでもあります。なぜなら、その時が神との出会いの時でもあるからです。
 「終末=世界の終わり」と言われてもピンとこないとしたら、「個人の終わり=死」について考えてみると良いでしょう。いつか「その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」(34節)という面では同じなのです。それは時間と空間の中にある肉体的生命の終わりの時ですが、同時に時間の流れを越えた「永遠」との出会いの時でもあります。そして、そこに向かって、今をどう生きるかがわたしたちに問われるのです。
 この永遠との出会いの中で「神の愛がすべてにおいてすべてとなる」ということがわたしたちキリスト者の希望です。そこには「神の愛に反する一切のものが滅びる」という面があることも否定できません。しかし、聖書の「終わり」についてのメッセージは、人々の恐怖心をあおり立てるためにあるのではありません。むしろ「神の愛に信頼し、その愛を生きるように」と人々を励ますためのメッセージなのです。きょうの箇所もそのように受け取ったらよいでしょう。

  (2) 28節の「解放」と訳された言葉は、ギリシア語の「アポリュトローシスapolytrosis」です。これは本来、「身代金を払って奴隷を解放すること」を意味する言葉です。「あがない」と訳すこともできますが、ここでは、完全な救いの実現を表す言葉として受け取ればよいでしょう。わたしたちにとって、いったい何からの「解放」でしょうか。逆に言えば、わたしたちは今、何に縛られているのでしょうか?
 25-26節から考えれば、それは「この世界の混乱に対する不安」だと言ったらよいかもしれません。戦争やテロ・犯罪や暴力というこの世界の現実、あるいは甚大な被害をもたらす自然災害や事故など。それらを見れば見るほど悲観的になり、どこにも救いがないと感じられるかもしれません。しかし、このような現実の中でも神はわたしたちを救いと解放に導いてくださっているとイエスは約束されるのです。
 あるいは、わたしたちを縛っているものは、「放縦(ほうじゅう)や深酒(ふかざけ)や生活の煩(わずら)い」(34節)だとも言えるでしょうか。財産や快適な生活に固執して、本当に大切な生き方を見失っているのもわたしたちの現実の一面でしょう。そこからの「解放」と考えても良いのかもしれません。

  (3)「いつも目を覚まして祈りなさい」の「目を覚ましている」とはどういうことでしょうか。マルコ、マタイ、ルカの各福音書ではそれぞれにニュアンスが違うようです。
 マルコ13章では、目に見えるものではなく、目に見えない確かなもの、すなわち決して滅びることのないイエスの言葉に信頼を置くように、という勧告だと言えそうです(B年年間第33主日の「福音のヒント」参照)。
 マタイ24-25章で、「目をさましていなさい」という命令は、最終的に、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)というイエスの宣言につながっていきます。「目を覚ましている」とは、現実の生活の中で目の前の苦しんでいる人を大切にして生きることなのです(A年待降節第1主日の「福音のヒント」参照)。

  (4) ルカ福音書は、目を覚ましていることを祈ることと結びつけます。「目を覚ましていることとは祈ることだ」と言っても良さそうです。この「祈り」は「心が鈍くならないように」(34節)するためであり、「起ころうとしているこれらすべてのことから逃れ」るためであり、さらに「人の子の前に立つことができるように」(36節)なるためのものです。
 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くなる」というのはおそらく誰もが経験することでしょう。目先の快楽や自分の生活の安定、損得勘定にはとても敏感なのがわたしたちの日常だと言えるかもしれません。しかし、「祈り」によって、わたしたちは、それよりももっと大切なことに心を向けようとするのです。
 「祈り」は、「起ころうとしているこれらすべてのこと」、すなわち、現実の悲惨さや絶望的な状況、迫り来る「終わり」を突き抜けて、神に心を向けることでもあります。
 27,36節の「人の子」は栄光のうちに再び来られるキリストのことですが、キリストが愛によってすべてを完成してくださるその時に向けてふさわしく生きるようにさせてくれるのも「祈り」の力です。パウロは「そのときには、顔と顔を合わせて見る」(Ⅰコリント13章12節)と言います。「祈り」とは、このキリストとの決定的な出会いを待ち望み、「来られるキリスト」に心の目を向けていくことなのです。




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Posted on 2018/11/23 Fri. 08:30 [edit]

category: 2019年(主日C年)

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王であるキリスト(2018/11/25 ヨハネ18章33b-37節)  


教会暦と聖書の流れ


 教会の暦では、来週の待降節第1主日から新しい1年が始まりますので、きょうの「王であるキリストの祭日」が年間最後の主日ということになります。「王」という言葉は現代のわたしたちにとって馴染みにくい言葉ですが、この祭日のテーマは、神の国の終末的な完成を祝うことです。この日のミサの朗読箇所は3年周期の各年でずいぶん異なっています。今年(B年)は、イエスが逮捕され、ローマ総督ピラトから尋問される場面です。


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  (1) イエスは最終的にはローマ総督ピラトによって十字架刑に処せられることに決まりましたが、その罪状は「ユダヤ人の王」というものでした。この罪状は「ローマ帝国に対する反逆者」を意味しています。イエスが誕生したとき、すでにパレスチナはローマ帝国の支配下にありましたが、いちおうはヘロデ大王と呼ばれる王がいて、ローマ帝国を後ろ盾としてパレスチナを支配していました。イエスが成人して活動した時代には、ガリラヤ地方にはヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスという領主がいましたが、ユダヤ地方はローマ帝国の直轄領になっていました。つまり「ユダヤ人の王」はいてはならないわけであり、もし誰かが自分を「ユダヤ人の王」だと主張すれば、ローマの支配に対する反逆者ということになるのです。

  (2) 「王」という言葉はギリシア語で「バシレウスbasileus」と言います。この言葉から「国=バシレイアbasileia」という言葉が生まれました。これは英語で言えば「King」と「Kingdom」の関係ですので、「バシレイア」は「王国」と訳したほうが正確だとも言えます。またバシレイアには、「王としての支配、王であること、王になること」という意味もあります。現代では「共和国」という王様のいない国がありますが、古代では王なしに国は考えられませんでした。ピラトはイエスが「わたしの国(=バシレイア)」(36節)と言ったのを聞いたので、「それでは、やはり王(=バシレウス)なのか」(37節)と問い詰めるのです。
 
  (3) 「この世には属していない」(36節に2回)と訳されている箇所は、直訳では「わたしの国はこの世の中からのものではない」です。「~の中から」というところには「エックek」という前置詞が使われています。新共同訳のように「この世に属していない」ととることもできますが、むしろ「この世に根拠をおいていない」という意味にとったほうがよいでしょう。イエスのバシレイア(王国)は、この世のバシレイアと違います。それは宗教的領域と世俗的領域というような領域の違いというよりも、因(よ)って立つ根本原理の違いです。イエスの身を守るために弟子たちが戦うというのは、この世の原理でしょう。これは力の原理です。一方イエスは「真理について証しする」のであり、イエスのバシレイアは、人間の力ではないものに根拠を置いているのです。

  (4) 「真理」と訳された言葉はギリシア語の「アレーテイアaletheia」ですが、この言葉にはもともと「隠されていないこと」という意味があります。ギリシア人にとって真理とは、「そのものの外見の覆いを取り去った本質」というようなニュアンスがあります。一方、「真理」と訳されるヘブライ語は「エメト」です。これは「アーメン」という言葉と同じ語根で「確かなもの、頼りになるもの」を表します。
 ヨハネ福音書には「真理」という言葉がよく使われていますが、この両方のニュアンスがあるようです。ヨハネ福音書の「真理」は、決して抽象的・哲学的な真理ではなく、「何よりも確かで、頼りになる神ご自身をイエスが言葉と生き方をとおして現す」ということを示している言葉なのです。きょうの箇所の続きで、ギリシア・ローマ文化の中に生きるピラトは「真理とは何か」(38節)と問いかけますが、イエスは何も答えません。この対話はここで終わっています。イエスの語る「真理」は抽象的な哲学論議の問題ではないのです。この真理とは、イエスの生涯、特に十字架と復活の中に現されるものなのです。

  (5) 「真理」という言葉は人間によって悪用されてきた面もあります。ある人々が、自分たちは「真理」を持っていると主張し、その「真理」を振りかざすところから、生きている人間の喜びや苦しみを無視した残虐な行為に走ることができるとしたら、真理とは非常に危険なものではないでしょうか(たとえば「○○○真理教」!)。
イエスの真理は違います。イエスがあかしする「真理」とはなんでしょうか。それはヨハネ福音書の内容に即して言えば、「神が愛であること」だと言ってもよいでしょう。
 1章17-18節「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 13章1節「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
 15章9-10節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

  (6) 「神が愛であること」、この真理はイエスの生涯全体をとおして示されました。そして、最終的に、いつかそのことが誰の目にも明らかになる、と信じるのが終末についてのキリスト者の信仰です。きょうの「王であるキリスト」の祭日に祝う「イエスが王となる」ということは、「神の愛・イエスの愛がすべてにおいてすべてとなる」ことだと言うことができます。そしてこの終末における愛の完成を信じるからこそ、今のわたしたちが何を大切にして生きるのか、ということが問われてくるのです。




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Posted on 2018/11/16 Fri. 09:00 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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年間第 33 主日 (2018/11/18 マルコ 13 章 24-32 節)  


教会暦と聖書の流れ


 教会暦で年間最後の3つの主日(第32、33主日と王であるキリストの祭日)は「終末主日」と呼ばれます。聖書朗読は、世の終わりの救いの完成に目を向ける内容になっています。今年・B年では、きょうの第33主日にもっともはっきりと「終末主日」の性格が表れています。ちなみに、来週の「王であるキリスト」の福音はヨハネ福音書が読まれますので、今年主に読まれてきたマルコ福音書の朗読は、きょうが最後ということになります。


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  (1) きょうの箇所は、マルコ13章5節に始まり37節(13章の終わり)まで続く長い説教の一部です。13章のはじめにこの説教が語られた状況が記されています。「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』イエスは言われた。『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。』イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。『おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴(しるし)があるのですか。』イエスは話し始められた・・・」(13章1-5節)。
 ガリラヤから出てきた弟子たちはエルサレムの都の壮麗な神殿の建物を見て圧倒されます。彼らはこれこそ確かなものだと思ったのでしょう。それに対して、イエスは「これは滅びていくものだ」ということを語り、神殿を見ながら弟子たちに向けてこの遺言のような説教を語りました。イエスはこの中で、偽(にせ)キリストの出現、戦争や天災、弟子たちへの迫害、神殿の崩壊などという、これから起こることを語ります。そしてその後、最後に起こることを語るのがきょうの箇所です。

  (2) 24-27節には、旧約聖書から採られたさまざまな表現が用いられています。「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(24-25節)は、イザヤ13章10節などに見られる表現で、決定的な神の裁きの日の到来を表すしるしです。
人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」(26節)という表現は、ダニエル書に基づいています。「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」(ダニエル7章13-14節)。本来、「人の子」という言葉は人間一般を指す言葉でしたが、ダニエル書のこの箇所から特別な意味を持つようになりました。それは「神が最終的に遣わす審判者」という意味です。この箇所でマルコは、栄光のうちに再び来られるキリスト(=再臨のキリスト)を「人の子」と呼んでいるのです。

  (3) そもそも聖書の中で「世の終わり」についてのメッセージが語られる背景には「迫害」という状況がありました。紀元前2世紀に書かれたダニエル書はその典型です。この時代はギリシアから起こったヘレニズム王朝がパレスチナを支配していました。特にセレウコス朝シリアのアンティオコス4世エピファネス王の時代に、ユダヤ人に対する厳しい宗教迫害が起こりました。神殿にはギリシアの神々の像が持ち込まれ、ユダヤ人は先祖伝来の律法に従って生活することを禁じられました。熱心なユダヤ人の中には殉教する人もいました。それは神に忠実であればあるほどこの世で苦しみを受けるという時代でした。その中で「この悪の世は過ぎ去る。神の支配が到来し、正しい者は救われる」と語り、迫害の中にいる信仰者を励まそうとしたのがダニエル書です。迫害の最中ですから、直接的な表現は許されません。そこで時代を紀元前6世紀という過去に設定し、捕囚の地バビロンでダニエルという人が見た幻として、今起こっていることと将来起こることを描くのです。

  (4) ですから基本的に終末のメッセージは希望のメッセージなのです。たとえ現実がどんなに不条理で悲惨であっても、この時代は過ぎ去り、最終的に神のみ心が実現する!
 23節までの説教でイエスが予告した「偽キリストの出現、戦争や天災、弟子たちへの迫害、神殿の崩壊」などという出来事は、マルコ福音書が書かれた時代(紀元後70年ぐらい)には、すでに実際に起こっていることでした。その中で、実は救いの日は近づいているのだ、と語るのです。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(マルコ13章28-29節)。
 一方、32節には、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」という言葉があり、続く33節には「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」とあります。ここでは終末がいつであるかは分からないという面が強調されていて、むしろ警告のメッセージになっています。世の終わりはまだ先のことだと思い、生き方がなまぬるくなり、自分の利益や目先の快楽に振り回されているとき、「そうではない。神の決定的な裁きは突然やってくる」と語ることによって、神の心にかなう生き方をするように、と警告するのです。
 わたしたちの現実はどうでしょうか? わたしたちの中には両面があると言えるかもしれません。苦しみの中で必死に生きている現実と目に見えるものに振り回されている現実。そんなわたしたちにとってきょうの福音はどのように響いてくるでしょうか。

  (5) イエスはこの中で「わたしの言葉は決して滅びない」(31節)と語ります。13章のはじめで弟子たちは、目に見える神殿こそが確かなものだと思い、そこに信頼を置こうとしました。しかしイエスは、それはいつか滅び去るもので頼りにならないと説きます。そして、だからこそ決して滅びないものに弟子たちの目を向けさせているのです。「愛は決して滅びない」(Ⅰコリント13章8節)というパウロの言葉も思い出されます。わたしたちにとって、「決して滅びないもの」とは、本当に頼りにすべきものとは何でしょうか?




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Posted on 2018/11/09 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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