福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
四旬節第5主日 (2023/3/26 ヨハネ11章1-45節) 
教会暦と聖書の流れ
四旬節第3~第5主日(A年)に読まれる、伝統的な洗礼志願者のための朗読箇所(ヨハネ4章、9章、11章)の3番目の箇所です。これらの箇所は、洗礼志願者がイエスとの出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれています。きょうの箇所は、病人であったベタニアのラザロが「死からいのちへ」と移されていく話です(今回もまた『聖書と典礼』の短い形ではなく、伝統的な長い形に基づいて話を進めます)。
福音のヒント
(1) ラザロの「よみがえり」は、イエスの復活とは違います。ラザロは地上のいのちに戻されますが、それはいつかまた死ぬことになるいのちです。これに対して、イエス・キリストの復活のいのちは、神の永遠のいのちであり、決して滅びることなく、今もいつも生きているいのちです。このような違いはありますが、それでもこの物語の中に「死からいのちへ」という「過越(すぎこし)」のイメージがはっきりと示され、この中でイエスが「復活であり、いのちである」(25節)ことが宣言されます。
なお、この出来事は、ヨハネ福音書の物語の展開の中で、イエスの受難と密接に結びついています。死者を生き返らせたことでイエスの評判が広まることに危機感を抱いた人々は、イエスをこのまま放っておけない、と考えてイエスを抹殺しようとするのです(ヨハネ11章45-53節、12章9-11,17-19節参照)。
(2) ベタニアという町は、エルサレムの近くにあります(18節「15スタディオン」は3km弱)。ルカ福音書10章38-42節にも「マルタとマリア」という姉妹が登場しますが、彼女たちの村はガリラヤの近くのようです。それでも、ヨハネ11章の「マルタとマリア」とルカ10章に登場する姉妹の性格には、ある共通点があります。ルカでもヨハネでも、イエスを迎えるのはマルタですし、マルタのほうがマリアより行動的だという印象があります。
2節では「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」と紹介されています。ヨハネ福音書ではその話は後の12章にありますから、少しおかしな紹介の仕方でしょう。ヨハネ福音書は、誰もが知っているあまりにも有名な話だからこう言うのでしょうか。あるいはルカ7章36-50節でイエスの足に香油を塗り、その髪でぬぐった女性の話を周知のこととして前提にしているのでしょうか。
(3) 3節の「愛する」はギリシア語では「フィレオーphileo」という動詞で、人間的な親愛の情(友としての愛)を表す言葉です。36節の「愛する」も「フィレオー」です。一方、5節の「愛する」は「アガパオーagapao」で「神の愛」というときに使われる言葉です。そのものを無条件に大切にする愛を表します。ヨハネ福音書はイエスの愛が、単なる人間的な愛着とは違うと言いたいのでしょうか。「栄光のため」「栄光を受ける」(4節)は先週の福音の「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9章3節)と似ています。「ため」は目的を表すというよりも、これから神がこの人に救いの働きをなさり、そのことを通して神とイエスの真の姿(素晴らしさ)が輝き出る、という確信を表している言葉でしょう。
(4) 6節の「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」から16節の「すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『私たちも行って、一緒に死のうではないか』と言った」までの展開は少し不自然に感じられるかもしれません。7~10節と16節だけを取り出してみれば、ラザロの物語とは関係ない別の物語と考えることもできます(イエスは危険に満ちたユダヤに赴くが、トマスはそのイエスに従う決意を表す、という話)。ラザロの物語の中の空白の数日間を埋めるために、別の言い伝えが挿入されたのでしょうか。とにかくイエスが到着する前に、ラザロは死んでしまいました。
(5) マルタの言葉「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」はイエスに向かって不平を言っているように聞こえます。しかし、おそらくだれでもそんなふうに言いたくなった経験があるのではないでしょうか。「主よ、もしあなたがいてくださったら、こんなにひどいことは起こらなかったでしょうに!」。ルカ10章40節のマルタの言葉「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」これも不平の言葉ですが、わたしたちも同じように「主よ、こんなにひどい現実があるのに、それを何ともお思いにならないのですか!」と叫びたくなることがあるかもしれません。マルタはただ不満を抱くのではなく、それをイエスにぶつけます。それはマルタなりの「祈り」だと言ってもいいかもしれません。そして、イエスとの対話の中で、マルタは本当に大切なイエスからの答えをいただくのです(ルカ10章でもそうでした)。自分の思いを率直にイエスにぶつけていくマルタの姿勢、ここにはわたしたちの祈りのためのヒントがあるかもしれません。
(6) この物語の中で特に印象的なのは「イエスは涙を流された」(35節)という言葉です。福音書の中でイエスが泣いたと記されているのは、ルカ19章41節とこの箇所だけです。33節と38節で「心に憤りを覚え」と訳されている言葉も、大きな感情の動きを表す言葉です(新共同訳聖書がこれを「憤り」と訳すのは、「死と滅びの力に対する憤り」の意味でしょう)。さらに、死んで、聞く耳を持たないはずのラザロに向かって「ラザロ、出てきなさい」と叫ぶ姿にも、イエスの激しい思いが感じられないでしょうか。
ヨハネ福音書が伝える「神的な力を持ったイエス」と「人間的な弱さや感情を持ったイエス」(4章でもそうでした)、この2つの面は切り離せません。ラザロのよみがえりは、単なる超能力による奇跡ではなく、イエスの深いコンパッション(compassion 共感・共苦)から起こる出来事なのです。いや、むしろこのコンパッションの中にこそ、「死を超えるいのち」が輝くと言えるのかもしれません。・・・わたしたちも人の苦しみにどれくらい敏感であるかが問われています。
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四旬節第4主日 (2023/3/19 ヨハネ9章1-41節) 
教会暦と聖書の流れ
3年周期の主日のミサの朗読配分でA年にあたる今年の四旬節第3~第5主日には、洗礼志願者のための伝統的な朗読箇所として、ヨハネ福音書の4章、9章、11章が読まれます。これらの箇所は、洗礼志願者がイエスとの出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれた箇所です。きょうの箇所はその2番目で、生まれながら目の見えなかった人がイエスとの出会いによって「闇から光へ」と移される物語です(なお、今回も『聖書と典礼』の短い形ではなく、伝統的な長い形に基づいて話を進めます)。
福音のヒント
(1) イエスが地上で活動していた時からヨハネ福音書が書かれるまでには長い年月がかかっています。ヨハネ福音書の物語を、実際に起こった出来事をそのまま伝える記録と読むには難しい面があります。たとえば、「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」(22節)というのはイエスの地上での活動中のことではなく、福音書が書かれた1世紀末の状況を反映した記述だと考えられています。ただし、この物語の核には、イエスと出会った人の真実の体験があると思って読むと良いでしょう。
(2) 当時の社会には「病気や障害は罪の結果である」という考えがありました。それは普通、本人の罪の結果と考えられましたが、この人は「生まれつき目が見えない」ので「それでは両親の罪の結果なのだろうか」と弟子たちは考えたわけです。しかし、イエスは個々の人の罪とその人の病気や障害の関係をはっきり否定しています。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」(3節)。そして「神の業がこの人に現れるためである」と言われます。「ため」と言いますが、イエスは原因や目的を述べて目の前の現象を説明しようとするのではなく、これから起こる出来事のほうに人々の目を向けさせます。イエスの関心は「今、神はこの人に何をなさろうとしておられるか、自分はこの人に何をすることができるか、どう関わるべきか」というところにあるのです。
目の前の人が苦しんでいるとき、その苦しみについて自分が納得できる説明を見つけて傍観者のままでいるのか、それとも、この目の前の人にかかわり、その苦しみを共に担おうとするのか、わたしたちもイエスから問われているのではないでしょうか。
「シロアム」は「遣わされた者」の意味だと、ヨハネ福音書は解説しています。イエスが神から「遣わされた者」としていやしを行うことを暗示しているのでしょうか(4節)。あるいは、いやされた人が「遣わされた者」になっていくことを暗示しているのでしょうか(この人は物語の展開の中で、次第に力強くイエスを証言する人になっていきます)。
(3) ファリサイ派は熱心に神に仕えようとしていました。そのために律法を解釈し、事細かに守ろうと努力していました。イエスは安息日に泥をこねてこの視覚障害者をいやしましたが、ファリサイ派の考えでは、これが律法違反の労働にあたりました。そして、彼らの考えでは安息日の律法を守らないような人間は、間違いなく罪びとでした。しかし、罪びとがこのような「しるし」(奇跡)を行うことはできないとも考えられていました(16節)。頭で理解し、納得しようとしてもうまくいきません(それは生まれつき目が見えないのは本人のせいか、両親のせいか、と頭で考えて納得しようとした弟子たちの戸惑いとも似たところがあります)。自分たちが納得するために彼らがとった方法は、イエスによるいやしの事実を否定する、ということでした。この事実が否定されれば、イエスは罪びとだということが確定すると考えたわけです。
宗教に熱心な人の落とし穴がここにあります。教えられたこと、信じていることに忠実であろうとするあまり、目の前の人間の生きている現実が見えなくなるのです。
イエスはファリサイ派の罪を指摘します。39節の「見える」「見えない」には、肉体的な視力のことと、イエスを理解するか否かということの両方の意味が掛け合わされています。「自分たちは何もかも理解している、見えている、分かっている」そう思いこんでいることが彼らの罪だというのです。「罪」とは根本的に神から離れることです。彼らは自分たちの確信を守るために、目の前で起こっている神のわざを否定して、生きた神とのつながりを見失ってしまったのです。
(4) 一方、いやされた人にとって、自分の身に起こった出来事だけは決して否定できないことでした。たとえ彼の両親がそのことを知らないと言っても、彼には否定できません。なぜならそれは彼自身の体験だったからです。彼は、自分の意見を述べているのではなく、自分が体験し、それによって自分が救われた、その事実を証言するのです。
いやされた人はイエスに泥を塗られ、シロアムの池に行って見えるようになったのですから、実はイエスの姿を見ていませんでした。物語の最後に、この人はイエスに出会い、はっきりとイエスを見て、信じるようになります(38節)が、それまで、この人にはイエスについての「知識」がほとんどありませんでした。イエスがどこにいるかと問われて「知りません」(12節)と答えます。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません」(25節)とも言います。「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」これだけが彼の知っていることでした。「イエスを知る」とは、イエスについての知識の問題ではなく、自分が変えられた体験をとおして知ることなのです。
「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」(34節)と言われれば、わたしたちも「そのとおりです」と言うしかないでしょう。しかしイエスに出会って自分が変えられたのならば、そのことを証言せずにはいられないのです。イエスに出会ってわたしはどう変えられたのか。少しでも人を愛せるようになった? 解決できない問題を神にゆだねることができるようになった? 絶望的な状況の中でも、今自分にできる最善のことは何かと考えられるようになった? そういうことを分かち合えたらどんなに素晴らしいことでしょう。
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四旬節第3主日 (2023/3/12 ヨハネ4章5-42節) 
教会暦と聖書の流れ
古代から伝わる洗礼志願者のための福音朗読の箇所は3つあります。ヨハネ福音書4章(サマリアの女)、9章(生まれつきの盲人のいやし)、11章(ラザロのよみがえり)です。これらの箇所は、洗礼志願者がイエスとの出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれた箇所です。現在のミサの朗読配分では、この3箇所がA年(今年)の四旬節第3、第4、第5主日に読まれていきます(なお、ここでは、『聖書と典礼』の短い朗読ではなく、伝統的な長い朗読に基づいて話を進めます)。
福音のヒント
(1) ヨハネ福音書を読むときに、物語は単なる出来事の報告ではないということに注意すべきでしょう。ヨハネは一つ一つの出来事をとおしてイエスとはどういう方であるかが現れる、という見方をしています。この箇所では、この出来事をとおして「イエスこそがいのちの水の与え主である」ことが現されるのです。
そしてまた、この物語は2000年前のどこかの誰かの物語ではなく、「復活して今も生きているイエス・キリスト」とわたしたちとの出会いに気づかせるための物語でもあります。
福音の舞台はサマリアの町です。サマリアは、紀元前10世紀にイスラエルの王国が分裂したとき、北王国の中心になった地方です。北の人々は、エルサレムを中心とする南のユダ王国と対立し、ゲリジム山に独自の聖所を持ち、後(のち)にサマリア人として民族的にもユダヤ人と分かれてしまいました。この物語の背景には、こういう民族と民族の間の「壁」があります。エルサレムの神殿か、ゲリジム山か、という礼拝の場所の対立は、ユダヤ人とサマリア人を隔てる大きな壁でした。
(2) もう1つの壁は、男女の間の「壁」です。当時の社会では、男性と女性は対等な人間同士として関わることはできないと考えられていました。女性は男性の性的欲望の対象であり、だからこそ距離を設けて守られるべき存在だと見られていました。道端で男性が見知らぬ女性に声をかけ、立ち話をするということは考えられなかったのです。だから、この女性も弟子たちもイエスが彼女に声をかけ、彼女と話していることに驚いたわけです(9節、27節参照)。
さらに、この女性と町の普通の人々との間の「壁」もあるようです。「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」(18節)。彼女はイエスにこう言いあてられます。罪びとというよりも、男運に恵まれず、つらい思いを繰り返し、心が深く傷ついている女性と見るべきではないでしょうか。しかし、この町での彼女の評判は決して良くなかったのでしょう。当時、水汲みは女性の仕事でした。女たちは朝や夕方に水汲みに集まり、そこでさまざまな情報交換(文字どおり、井戸端会議)をしました。「正午ごろ」(6節)に水を汲みに来たこの女性は、他の女性たちと顔を合わせたくなかったのではないかとも考えられます。
イエスはどのようにこれらの「壁」を乗り越えていったのでしょうか。イエスは自らも疲れ、渇く者としてこの女性に出会いました。「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」(6節)と言われますが、きょうの箇所の直前に、イエスの活動が誤解され、ユダヤに留まることができなくなったという記事があります(1-4節)。イエスの疲労の原因の一つには、人々の無理解に直面したこともあったのかもしれません。だとすれば、このイエスの姿は、町の人とのつながりを失っていたこの女性の苦しみと通じ合うものがあるとも言えるでしょう。
(3) 水はいのちのシンボルです。「生きた水」(10,11節)は、ヨハネ7章37-39節では「聖霊」を意味していますが、ここでは「人を真に生かすもの」と考えればよいでしょう。イエスは一方的に、彼女に対して「わたしがいのちの水を与えよう」と言うのではありません。まず、イエスのほうが「水を飲ませてください」(7節)と言って彼女と関わり始めます。イエスの彼女との関わり方には、「あなたも渇くし、わたしも渇く」という連帯性が感じられるのではないでしょうか。この連帯性の中で、男性と女性の間の壁、ユダヤ人とサマリア人の間の壁、評判のよい人と評判の悪い人の間の壁が乗り越えられると言えるのではないでしょうか。
「霊と真理による礼拝」(23,24節)。霊は「神からの力」であり、真理は「イエスにおいて現されたこと」だと言えるでしょうか。ただし、ここでは、あまり難しく考えず、単純に「真心をもって」と受け取ってもよいのかもしれません。ここにも人と人とを隔てる壁を乗り越える道を見いだすことができるでしょう。
(4) イエスとの出会いによってこの女性は変えられました。それまで彼女は町の人々を避けてきたのかもしれませんが、イエスに出会った彼女は「水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません』」(28-29節)。この女性はイエスのことを告げ知らせる者になっていったのです。そして、その彼女の言葉を町のサマリア人たちは受け入れ、イエスを信じるようになっていきました。
27節から、帰ってきた弟子たちとの間で、イエスご自身のミッション(派遣・使命)の話になります。弟子たちは自分たちで食物を手に入れてきましたが、イエスは別なところに弟子たちの目を向けさせます。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(34節)。食べ物も人を生かすもののシンボルです。イエスを真に生かすものは、神からのミッションを生きることなのです。そして「刈り入れ」について語り始めます。ヨハネ4章の中での「刈り入れ」とは、心に傷を負った女性とサマリアの町の人々とイエスとの間で心が通じ合ったということだと言ったらよいでしょう。目の前でもうすでに神の救いの働きが実現しているのだ・・・わたしたちもそれに気づくことができるでしょうか。
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四旬節第2主日 (2023/3/5 マタイ17章1−9節) 
教会暦と聖書の流れ
古代からの伝統に従い、四旬節第2主日の福音では毎年「イエスの変容」の場面が読まれます。今年はマタイ福音書からです。山の上でイエスの姿が光り輝いた、この変容の出来事は、ただ単に「偶然ある時、イエスの栄光の姿が表された」のではなく、「イエスが受難と死をとおって受けることになる栄光の姿が前もって示された」という出来事です。ここには、「イエスの受難・死・復活にあずかる」という四旬節全体の根本的なテーマが示されているのです。
四旬節には、「洗礼志願者の準備」、「回心」とその具体的な表れとしての「祈り・節制・愛の行い」など、さまざまなテーマがありますが、そのすべてはきょうの福音のテーマ「イエスの受難・死・復活にあずかること」とつながっています。
福音のヒント
(1) きょうの箇所のはじめ、マタイ17章1節には「六日の後」という言葉があります。朗読聖書では省かれていますが、この言葉は、直前の出来事との関連を感じさせる言葉です。この箇所の直前にあるのは、ペトロの信仰告白と最初の受難予告です。マタイ16章21節「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」。変容の出来事は、この受難予告と密接につながっているのです。きょうの箇所の結びの「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた」(マタイ17章9節)という言葉もそのことを暗示しています。上の16章21節が「言葉による受難予告」だとしたら、17章は「出来事による受難予告」と言ってもよいほどです。この出来事は、イエスが受難と死をとおって受ける栄光の姿を弟子たちに垣間(かいま)見させ、そのイエスに従うように弟子たちを励ますための出来事だったと言ったらよいでしょう。
モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の主要な部分を表し、イエスの受難と復活が聖書に記された神の計画の中にあることを示しています。なお、ルカ福音書はイエスとモーセ、エリヤが話し合っていた内容が「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9章31節)であったことを伝え、この出来事とイエスの受難・死の結びつきをいっそう明確にしています。
(2) ペトロが仮小屋を建てようと言っているのは、このあまりに素晴らしい光景が消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからでしょうか。しかし、この光景は永続するものではなく、一瞬にして消え去りました。今はまだほんとうの栄光の時ではなく、受難に向かう時だからです。
雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。雲は太陽や星を覆い隠すものですが、古代の人々は雲を見たときに、雲の向こうに何かがある、と感じたのでしょう(宮崎アニメの『天空の城ラピュタ』のように)。聖書の中では、「雲」は目に見えない神がそこにいてくださるというしるしになりました。たとえば、イスラエルの民の荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト記40章34-38節参照)。
(3) 雲の中からの声は、もちろん神の声です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」この言葉は、イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マタイ3章17節)。この言葉の背景にはイザヤ42章1節の「主の僕(しもべ)」についての言葉があると考えられます。洗礼のときから「神の子、主の僕」としての歩みを始めたイエスはここから受難の道を歩み始めますが、そのときに再び同じ声が聞こえます。この受難の道もまた、神の子、主の僕としての道であることが示されるのです。
そしてここでは弟子たちに「これに聞け」と呼びかけられます。「聞く」はただ声を耳で聞くという意味だけでなく、聞き従うことを意味します(申命記18章15節など参照)。これは、受難予告の中で「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16章24節)と言われていたことと対応していると言ったらよいでしょう。
受難の道を行くイエスに従っていくこと、これがきょうの福音の呼びかけです。しかし、実際には、この弟子たちはこれほど輝かしいイエスの栄光を見たのに、最後まで従っていくことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、皆逃げてしまったのです。わたしたちはどうでしょうか。イエスについていけるという自信は誰にもないかもしれません。
(4) 「イエスが苦しみと死をとおって復活のいのちに移られたこと」を「主の過越(すぎこし)」と言います。ギリシア語やラテン語の「パスカpascha」という言葉は、ヘブライ語・アラム語から来た言葉ですが、今でもそのままよく使われています。もともとイスラエルの民のエジプト脱出の祝いが「過越祭(パスカ)」でしたが、イエスが十字架にかかって死に三日目に復活したのはこの過越祭のころ(春分の日の後の満月のころ)であり、イエスの死と復活を祝う新しい「過越祭(パスカ)」をキリスト者も祝うようになりました。
きょうの変容の出来事を「未来の栄光があるのだから今の苦しみに耐える」というだけではなく、「苦しみと死から喜びといのちに変えられていく歩み」という過越のイメージで捉えてみてはどうでしょうか。
隷属から自由へ。悲しみから喜びへ。絶望から希望へ。闇から光へ。死からいのちへ。
あるいはまた、孤立から連帯へ。疑いから信頼へ。憎しみから愛へ。
わたしたちの中にも、このような「過越」の体験があるのではないでしょうか。もしもわたしたちが、自分の人生の物語を「過越の物語」として受け取ることができたとするならば、そこに、イエスを死からいのちへと移してくださった神の力強い働きを感じることができるでしょう。そのときにわたしたちは、イエスのあとを歩み、イエスとともに歩んでいることになるのではないでしょうか。
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四旬節第1主日 (2023/2/26 マタイ4章1-11節) 
教会暦と聖書の流れ
洗礼は、キリストの死と復活にあずかり、新たないのちに生き始めることを表す秘跡なので、古代の教会では復活祭に行われていました。また、復活祭に洗礼を受ける人の最終的な準備のための期間が徐々に形作られていきました。これが四旬節の起こりです。その後、次第に、四旬節はただ単に洗礼志願者のための季節というだけでなく、キリスト者全体がキリストの死と復活にふさわしくあずかるための期間になりました。
「四旬節」という言葉は40日間を意味します。これはもともと断食の日数でした(伝統的に日曜日を除いて復活祭前の40日を数えるので、灰の水曜日からが四旬節となります)。四旬節には、断食に象徴される回心(主に立ち返ること)、もっと具体的に言えば「祈り、節制、愛の行い」が強く勧められています。
この日の福音では、四旬節の原型である、イエスの荒れ野での40日の場面が読まれます。今年はマタイですが、先週までの年間主日の流れから離れて、もう一度、イエスの活動の出発点に立ち戻ります。ヨルダン川で洗礼を受け、聖霊に満たされ、「神の子」として示されたイエスは、同じ聖霊によって荒れ野に導かれ、悪魔と対決しますが、その中で「イエスの神の子としての道」が明らかにされていくのです。
福音のヒント
(1) 「40」という数は聖書の中では、苦しみや試練を表す象徴的な数字です。何よりもまず、紀元前13世紀、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放され、約束の地に入るまでの「40年間の荒れ野の旅」が思い出されます。きょうの福音の箇所全体は、この40年の荒れ野の旅の体験をもとにしています。
荒れ野は水や食べ物が欠乏している場所で、一般的に言えば生きるのに厳しい場所です。しかし、イスラエルの民の荒れ野の旅の中で、神は岩から水を湧き出させ、天から「マナ」と呼ばれる不思議な食べ物を降らせて、民を養い導き続けました。荒れ野は、ぎりぎりの生活の中で、神から与えられたわずかなものを、皆で分かち合って生きる場でした。約束の地に入り、定住して農耕生活を始めると、人は倉を建てて作物を貯えるようになります。すると、自分の貯えに頼り、神を忘れる危険が生じます。また、豊かな者はますます豊かになり、貧しい者はさらに貧しくなる、ということも起こります。そこから振り返ったときに、あの荒れ野の中にこそ、神との生き生きとした交わりがあり、人と人とが分かち合い、助け合う生活があったことに気づくのです。
(2) 「悪魔がイエスを誘惑する」というのは分かりにくいかもしれません。聖書の中で「悪」とは神から離れることであり、人間を神から引き離そうとする力の根源にあるものが、人格化されて「悪魔」と呼ばれるようになったのだと考えればよいでしょう。
「石をパンにしてみろ」は物質的なものによって満たされようとする誘惑だと言えるでしょうか。「神殿の屋根から飛び降りよ」は自分の身の安全を確保しようとする誘惑だと言ってもよいでしょう。この言葉は、イエスが生涯の最後に十字架の上で受けた誘惑、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ27章40節)によく似ています。「国と繁栄を与える」は、この世の富と権力を手に入れようとする誘惑でしょう。「サタン、引き下がれ」は受難を予告したイエスをとがめたペトロに向かって言われた言葉(マタイ16章23節)と同じです。ここでもイエスの受難の道との関連が暗示されています。これらの誘惑を退けることを通して、イエスの道とはどのような道であるかが示されるのです。
ただし、モノや安全を手に入れようとすることのすべてが悪の誘惑とは言えないかもしれません。イエスは5つのパンでおおぜいの群集を満たし、多くの病人をいやしたと伝えられています。わたしたちにもパンが必要ですし、健康や安全が必要です。富や力もある程度は必要でしょう。そういう意味では、これらを悪と決め付けることはできません。問題は、神との関係を見失ってそれらを求めること、それらを求めるあまり、神との交わり、隣人との親しい交わりを失ってしまうことだと言ったらよいでしょうか。
(3) 悪魔の誘惑に対するイエスの答えは、すべて申命記の引用です。申命記の中心部分は、荒れ野の旅の終わりに、約束の地を目前にして、モーセが民に遺言のように語る「告別説教」という形を取っています(モーセ自身は約束の地に入ることなく、そこで世を去りました。申命記34章)。
イエスの答え「人はパンだけでなく・・・」は申命記8章3節の引用です。荒れ野の旅の途中、イスラエルの民に与えられた「マナ」という不思議な食べ物について語る言葉です。マナが与えられたのは、人がマナによって生きることを教えるためでなく、神によって生きるものであることを教えるためであった、と言うのです。
7節の「あなたの神である主を試してはならない」は申命記6章16節の引用です。ここでは出エジプト記17章のマサ(メリバ)での出来事が思い起こされます。イスラエルの民が、荒れ野でのどが渇き、神とモーセに不平を言った場面です。
10節の「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」は申命記6章13節の引用です。これは、民が約束の地で定住生活を始め、家を建て、豊かな食物で満腹となり、周辺民族の他の神々に惹かれるようなことがあってはならない、という警告の中で語られる言葉です。
(4) 四旬節の時を過ごす心構えは、ある意味で、自分を「荒れ野」に置いてみることだ、と言えるのではないでしょうか。そこからもう一度、神とのつながり、人とのつながりを見つめなおしてみるのです。生きるのに苦しい、ぎりぎりのところだからこそ、この自分を生かしてくださる神を思い、同時に苦しい状況の中で生きている兄弟姉妹との連帯を思うことができる。四旬節に勧められている「祈り、節制、愛の行い」という回心の行為が目指していることは、すべてそういうことだとも言えます。このように考えると、「荒れ野」は遠くにではなく、実はわたしたちの身近なところにあるとも言えるのではないでしょうか。
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