福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第8主日 (2017/2/26 マタイ6章24-34節)  


教会暦と聖書の流れ



 主日のミサの聖書朗読配分は3年周期になっていて、今年はA・B・C年のうちA年にあたります。A年年間第4~第9主日のミサの福音で、マタイ5~7章の「山上の説教」が読まれることになっていますが、実は年間主日の流れは、四旬節・復活節で中断され、さらに三位一体の主日やキリストの聖体の祭日と重なるため、このあたりの年間主日は祝われることのない年も多いのです。復活祭の日付は年によって異なります。今年は比較的、復活祭が遅いので、年間第8主日まで祝うことができます。



福音のヒント



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  (1)  先週の箇所はマタイ5章48節まででしたので、その後、きょうの箇所まで少し飛んでいます。6章1-6,16-18節は「施し、祈り、断食」についての教えで、毎年灰の水曜日のミサで読まれる箇所です。9-13節には祈りの代表として「主の祈り」が伝えられています。この「施し、祈り、断食」についての教えは、6章1節「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」という言葉から始まっています。それらの善行を熱心に行うようにと勧めるのではなく、むしろ、それらの行いをするときに心がどこを向いているかを問いかけるのです。そしてその結論のように、「地上に富を積んではならない。・・・富は、天に積みなさい」(6章19-20節)という教えが続きます。自分を誇るためではなく、神に対して、人に対して、まごころをもって行う行為が天に富を積むことになるということでしょう。
 ここにも山上の説教の教えの特徴、すなわち「神が人間に求めていることを愛という一点に集中させる」、「神への信頼のうちに神のみ旨を果たす」という特徴が見られます。

  (2) 24節「だれも、二人の主人に仕えることはできない・・・」は、ルカ16章13節にほとんど同じ言葉があります。ルカの文脈では、「富」に対する態度についてのさまざまな教えの中にこの言葉が置かれています。マタイでは「富は、天に積みなさい」(6章20節)という教えの後にこの言葉があり、その結論のようになっています。つまり、地上に富を積むことと天に富を積むことが両立しないように、神に仕えることと、富に仕えることは両立しないのです。なお、「富」と訳された言葉は「マモン」ですが、これはアラム語で「富」を表す言葉です。ギリシア語で書かれた新約聖書の中で、この言葉がアラム語のまま記されているのは、「マモン=富」を神に対立する存在として、擬人的に考えているからです。なお、ここでは「神と富とに仕えてはならない」ではなく、「仕えることはできない」と言われています。それは禁止命令ではなく、事実としてそうなのだということです。

  (3) 25-33節「空の鳥、野の花」の話は、ルカ12章22-31節に平行箇所があります。内容はよく似ています。しかしここでも文脈が違います。ルカでは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」(12章21節)に対する警告に続いていて、結論としては「ただ、神の国を求めなさい」「富を天に積みなさい」「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(ルカ12章31、33、34節)となっていきます。つまり、ルカでは、地上の富(金銭)のことを心配するよりも、もっと大切な神の国や天のことに心を向けなさい、という教えになっています。「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(32節)の「神の国」は、終末的な救いの意味合いが強いと言えるでしょう。
 一方マタイでは、最後に「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(34節)という結論のような言葉が続いています。今日わたしたちに必要なものすべてを与え、わたしたちを生かしてくださる神への信頼を求める教えだと言えるでしょう。ですから「神の国と神の義を求めなさい」という言葉も、終末的な意味というよりも、「今、神のみ心にかなう生き方をするように」という勧告の意味だと考えられます。

  (4) いろいろ解説してきましたが、きょうの箇所はそれほど説明が必要な箇所でもないでしょう。素直にイエスの言葉を受け取ればよいのです。しかし、このように言われても、わたしたちがなかなか「思い悩み」から解放されないのも事実ではないでしょうか。この「思い悩み」はイエスの時代よりも、現代のほうが大きな問題かもしれません。
 現代は人間の力が非常に大きくなった時代であり、現代人はすべてを自分の力で行うことができるかのように錯覚しがちです。そして成功するのは自分の努力の結果で、うまくいかないのは自分の怠慢の結果(「自己責任」!)だというような考えが強くあります。そんな中では、神がすべてを与え、養っていてくださるとはなかなか感じにくいでしょう。
 また、最近は特に、多くの人々の間に将来に対する不安が広がっているようです。少子高齢化や経済的な行き詰まりという日本の現実は、将来を悲観的に思い浮かべざるをえないところに、人を追い込んでいます。「明日のことは分からないから、明日を思い悩んでもしかたない」というのが福音の教えであっても、「明日のことが分からないから、不安でならない」というのが現実の多くの人々の叫びなのです。
 
  (5) イエスは、「空の鳥をよく見なさい」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」と語りかけます。どうしたら思い悩みから解放されるのか、と考え、自分の中で堂々巡りして、さらに思い悩み続けるという悪循環に陥りそうになったなら、思い切ってこのイエスの言葉に従い、自然の中でいのちの営みに目を向け、この福音のイメージの中に自分を置いてみてはどうでしょうか。そうすると、人間を超えた大きな力が自分を包んでいることを少しずつ感じ始めることができるのではないでしょうか。わたしたちは、自分の力で思い悩みから解放されるのではありません。わたしたちを思い悩みから解放してくださるのは神なのです。きょうを神に生かされた者として精一杯生きる。ここに信仰に生きることの本当の醍醐味があります。





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Posted on 2017/02/17 Fri. 16:19 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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年間第7主日 (2017/2/19 マタイ5章38‐48節)  


教会暦と聖書の流れ


 山上の説教(マタイ5~7章)の朗読が続いていますが、きょうの箇所も、「幸いである」と祝福され、「地の塩、世の光」とされた人々の新しい生き方を指し示す箇所です。ここでもまた旧約の律法と対比された、キリスト者の新しい生き方が示されています。それは5章17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われる「律法を完成させる道」であり、20節で「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われる「義の道」なのです。


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  (1) 「目には目を、歯には歯を」という言葉は、旧約聖書の中に何回か述べられています。これは「同害復讐法」と言われ、復讐を認めたというよりも、むしろ同じ害を与える以上の過剰な復讐を禁じているのだと言われています。イエスはこれを否定し、「悪人に手向かってはならない」と言い、さらに「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われます。40節の「下着」と「上着」は、現代の上着・下着とは違います。ここでいう「下着」は普通の日常生活で身に着ける一枚の布でできた服のことで、「上着」は旅をしたり、野宿をしたりするときに使う外套のようなものです。ルカの並行箇所では順序が入れ替わっていて、「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」(ルカ6章29節)となっています。ルカは追いはぎに襲われたような場面を考えていますが、マタイのほうは訴訟の場面が考えられているのでしょう。上着は下着よりも高価なものです。「ミリオン」はラテン語で「1,000」を意味する言葉です。ローマの距離の単位で、2歩(右足と左足1歩ずつ)を1単位として、その1,000倍、すなわち2,000歩の距離です。「1ミリオン」は約1,500メートルにあたります。「頬を打たれるのを耐えなさい。下着を奪われても我慢しなさい。強いられるままに1ミリオン行きなさい」という以上の積極的な何かがここにはあります。

  (2) 強いられて2,000歩歩くという状況は想像しにくいですが、自分の意思ではどうすることもできない2,000歩なのですから、そこにはまったく自由がありません。しかし、2,001歩目からは自分がまったく自由に歩んでいく歩みです。それは相手への愛のために進んで歩くということになるではないでしょうか。
 先週の福音のヒントで、イエスが山上の説教の中で示した律法を完成する道は「愛によって律法を完成する道」であり、同時に「神によって完成する道」でもある、と述べました。左の頬をも向け、上着をも取らせ、2ミリオン一緒に歩いていく、という姿勢には、この「愛によって律法を完成する道」が示されていると言えるしょう。「掟だから仕方なくそれを守る」とか、「掟を守りさえすればよい」というのではなく、まったく自由に愛によって生きることが父である神の求める人の生き方なのです。この生き方はイエスの十字架に向かう歩みと重なっています。
 
  (3) 43節の「隣人を愛せ」という律法は、レビ記19章18節にありますが、「敵を憎め」という言葉は旧約聖書には見当たりません。ただし、「隣人」という言葉の本来の意味は「隣の人」であって、すべての人を指してはいません。きょうのミサの第一朗読にはこうあります。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章17,18節)。これを文字通り受け取って、「兄弟、同胞、民の人々、隣人」だけを愛すれば律法の要求を満たしたことになるのであり、それ以外の人は憎んでもかまわない、という理解があったのでしょう。イエスの受け取り方はまったく違いました。それはルカ福音書10章の「善いサマリア人のたとえ話」にはっきりと示されています。相手が誰であれ、苦しむ人に手を差し伸べること、これが隣人愛の掟の意味であり、神の望みなのです。なお、聖書の言う「愛」はギリシア語で「アガペーagape」で、単なる好き嫌いの感情を表す言葉ではありません。ラテン語では「カリタスcaritas」と訳され、さらにキリシタン時代の辞書には「ゴタイセツ」と訳されています。「愛」とはそのものをそのものとして大切にすることなのです。

  (4) 人間は多くの場合、神とは正しいことをすれば良い報いを与え、悪いことをすれば罰を与える方だと考えます。聖書の中にもこのような神の姿は多くの箇所で語られています。正しく生きることを教えるためには、こういう神の姿も必要なのです。しかし、イエスが語る神の姿の根本は違いました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(45節)。この言葉ほど明確に父である神の特徴を語る言葉は、福音書の中に他にありません。この無条件の神の愛が人間を根本において支えるものなのです。
 なお、ここに「徴税人」「異邦人」という言葉が出てきます。差別発言のように聞こえるかもしれませんが、ここでイエスは、「あなたがたが軽蔑している徴税人、異邦人でさえ」というような言い方で、ユダヤ人である聴衆の心を揺さぶろうとしているのでしょう。

  (5) 人間が自分の力で敵を愛することができるというのではありません。神の無限の愛がわたしたちに注がれ、わたしたちがそれを受け取ったときに、わたしたちは神と同じように愛するものに変えられていくのです。ここに「神による律法の完成の道」が示されています。「完全な者になりなさい」という言葉にも戸惑うかもしれませんが、平行箇所のルカ6章36節では「あなたがたの父が憐(あわ)れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とあります。レビ記19章2節には、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者(だから)である」という言葉もあります。神がこういう方だから、その神に出会ったら、わたしたちも神に似たものに変えられる。これもまた「神による完成」と言ったらよいのではないでしょうか。




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Posted on 2017/02/09 Thu. 13:00 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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年間第6主日 (2017/2/12 マタイ5章17‐37節)  


教会暦と聖書の流れ


 山上の説教(マタイ5~7章)は、2つの祝福の言葉(「八つの幸い」、「地の塩、世の光」)から始まりますが、その後は、その祝福を受けた人々に求められる生き方についての教えが続きます。これはイエスがあるときに話した長い説教というよりも、さまざまな場面で語られた教えを集めたもののようです。ある聖書学者は、初代教会の中で新しくキリスト者になった人々に対して、キリスト者としての新しい生き方を指し示すという意図の下で集められたのではないかと述べています。


福音のヒント


 
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  (1) 「律法」は、神がモーセを通して、エジプトの奴隷状態から救われたイスラエルの民に与えた掟です。律法の前提には神のこの救いのわざがあり、律法の中に示されるのは、神によって救われた民が神に対して、また人に対してどのように生きるべきか、ということです。「預言者」はその時代、その社会の中で神からのメッセージを告げるために選ばれた人々でした。「律法や預言者」は旧約聖書全体を指す言葉でもあります。そこに神の意思・望み・み旨が示されているとイエスの時代のユダヤ人は信じていました。特にファリサイ派やその派の律法学者は熱心に律法を学び、守ることこそ、神に従う道であると確信していました。イエスも律法や預言者を否定しません。しかし、イエスの律法に対する態度は、律法学者やファリサイ派の態度とは明らかに違っていました。イエスが律法を完成させるために来た(17節)とはどういうことでしょうか? 律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義(20節)とは何でしょうか? イエスは1つ1つの掟を忠実に守るというよりも、そこに示されている神のみ旨を本当に行う道を示しているのです。イエスによる律法の完成には、2つの面があります。山上の説教全体を見れば、それは神が望まれる人間の生き方を愛という一点に集中させる「愛による完成の道」であり、また、人間の力ではなく、神への信頼のうちに神のみ旨を果たす「神による完成の道」だと言えるでしょう。

 (2) 21節「殺すな」は律法の核心とも言うべき「十戒」の中にある言葉で、出エジプト記20章13節や申命記5章17節に見られる言葉です。「人を殺したものは裁きを受ける」に似た言葉としては、出エジプト記21章12節やレビ記24章17節の「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」が挙げられます。ところで、イエスはただ殺すだけでなく、人に向かって腹を立てたり、悪口を言うことも同じ罪だと言っています。「最高法院」や「火の地獄」は誇張された表現ですが、イエスはここで「『殺すな』が掟だから、殺しさえしなければ神の掟を果たしていることになる」というような考えに真っ向から反対しています。23節では「兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したら」と言います。自分が人に反感を抱いているのはよくないというだけでなく、人が自分に反感を抱いているのなら、自分のほうから和解のために相手のところへ行きなさい、というのです。なお「1クァドランス」はローマの少額貨幣で、今で言えば100円ぐらいの価値になります。
 ここでは、人間の間の悪口や不和のすべてが神の意思に反するものだ、と明確に述べられています。ここには上記の「愛による完成の道」という面が示されています。

  (3) 「姦淫するな」も十戒の言葉で、出典箇所は、出エジプト記20章14節、申命記5章18節です。「姦淫」と訳された言葉は、男性にとっては他人の妻と性的関係を結ぶことを意味していました。女性にとっては自分の夫以外の男性と性的関係を結ぶことでした。イエスは実際の行為を行わなくとも「みだらな思い」で女性を見るならば同じことだと言います。実はこの箇所の「他人の妻」と訳された言葉はギリシア語では「ギュネーgyne」で、本来は女性一般を指す言葉です。ここでわざわざ「他人の妻」と訳すのは、姦通の相手であるから「他人の妻」であるはずだ、という解釈に基づいています。しかし、イエスが教えているのは、他人の妻をどう見るかというのではなく、すべての女性(未婚の女性であれ、自分の妻であれ)に対してどのような見方をするかということではないでしょうか。イエスは「みだらな思い」を越えて、男性が女性を本当に人として尊重する目で見るように求め、男女の新しい関係を指し示しているのではないでしょうか。ここでもイエスは、「愛による完成の道」を示していると言えるでしょう。

  (4) 「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」は申命記24章1節の引用です。申命記では「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」となっています。この規定は、夫が正当に妻を追い出すためには、妻の側の明らかな落ち度(=何か恥ずべきこと)がなければならず、また、追い出された女性に再婚の可能性を保障しなければならない(=離縁状を渡す)というものです。これは圧倒的に男性優位だった当時(紀元前7世紀頃)のイスラエル社会では、女性の立場を少しでも守ろうとする規定だったと言えます。32節の「不法な結婚」と訳された言葉はギリシア語の「ポルネイアporneia」で、本来は、男性が娼婦(ポルネーporne)と関係することを意味しましたが、不道徳な性関係全般を指すようになった言葉です。しかしここでは近親婚などに限定されるという教会の伝統的解釈に基づいて、「不法な結婚」という訳になっています(レビ記18章6-18節参照)。
 なお、離縁を禁じる同様のイエスの言葉は、この箇所以外に、マタイ19章7節やマルコ10章4節にもあります。イエスは、妻というものを「自分の都合でどのようにでもできるもの」と考えていた当時の男性の常識に反して、妻を「神が結び合わせてくださったもの」(マルコ10章9節)=神から与えられたかけがえのないパートナーとして見ることを求めています。これも律法を「愛によって完成させる」教えだと言えるでしょう。
 「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という律法は、レビ記19章12節、民数記30章3節、申命記23章22-24節などに見られます。なぜ「一切誓いを立ててはならない」のか、分かりにくいのですが、ここには、まったく単純に神に向かうことが求められているのでしょう。だとすればこれは「神による完成の道」を指し示していると考えたら良いかもしれません。




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Posted on 2017/02/03 Fri. 21:00 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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年間第5主日 (2017/2/5 マタイ5章13-16節)  


教会暦と聖書の流れ


 マタイ福音書5~7章のいわゆる「山上の説教」の中で、冒頭の「八つの幸い」に続く言葉です。イエスはガリラヤの丘の上で、群集と弟子たちに向けてこれらの言葉を語られました。もちろん特定の弟子だけでなく、「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(マタイ4章24節)であった群集もこの言葉を聞いていたのです(7章28節参照)。



福音のヒント


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  (1) イエスは決して「地の塩になれ」「世の光になれ」とは言っていません。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」とイエスは断言しているのです。塩でない者に向かって無理して塩味を出せとか、光でない者に向かって無理して輝けというのではありません。むしろ、塩なのだから塩味を出すのは当然であり、光なのだから周囲を照らすのは当然だということでしょう。
 2000年前にガリラヤの丘の上でイエスの話を聞いていた人々にとって、この言葉は信じられないような言葉だったにちがいありません。イエスの弟子と言ってもみな漁師で、「無学な普通の人」(使徒言行録4章13節)でした。周りにいた群衆は「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(マタイ4章23節)だったのです。社会的に見ればたいして立派ではなく、多くは何の役に立たない、律法の基準からすれば罪びとに近いような人々、いてもいなくてもいいと思われていたような人々。その人々にイエスは「あなたがたは地の塩、世の光である」と言うのです。イエスは何の根拠も示しません。あなたは何ができるからとか、他の人よりもどこが優れているから、ではないのです。父である神から見れば、無条件に、あなたがたの一人一人がかけがえのない大切な塩であり、すばらしい光なのだ。これが「福音=Good News」です!

  (2) は食べ物に味付けをするだけでなく、腐敗を防ぐ役割も持つ大切なものだと受け取ればよいでしょう。「塩に塩気がなくなる」とはどういうことでしょうか。当時の塩は精製が不十分で、腐敗してダメになってしまうことがあった、とも言われます。しかしやはり本来、塩が塩でなくなることはありえない、と考えたらよいのでしょう。13節のイエスの言葉は「塩が塩味を失うことはないはずだ」ということを強調しているようです。
 「山の上にある町」(14節)は、天のエルサレム、終末的な神の都のイメージかもしれません(黙示録21章1節~22章5節参照)。「エルサレム」と言っても、現実のある地名のことではなく、救いの完成の状態を表す象徴的な表現です。それは、神と人とが一つに結ばれ、人と人とが愛によって結ばれる状態です。それはわたしたちの社会の現実とはあまりにも程遠いと感じられるでしょうか。確かに、現実にはどこにもそんな町は見えません。今は信仰の目をとおしてしか見えないと言ってもよいでしょう。しかし、「山の上にある町は隠れることができない」いつか必ず現れる、それが聖書の希望です。旧約では、イザヤ2章1-5節でこのような希望が語られています。

  (3) 16節の「立派な」は元のギリシア語では「カロスkalos」で、普通は「良い」と訳される言葉です。これは「美しい」とか「役に立つ」という意味での実際的な「良さ」を表す言葉です。ちなみにヨハネ10章11,14節の「わたしは良い羊飼いである」の「良い」も同じ言葉です。「あなたがたは光だ」というメッセージを本気で受け取ったときから、わたしたちの人生は輝き始めます。わたしたちの言葉と行動が、何かしら違ったものになります。これが「良い行い」です。神がわたしたちを光としてくださったからこそ、それが可能になります。だから、「良い行い」で「あがめられる」(直訳では「栄光を与えられる」)のは、その行いをした人間ではなく、「天の父」なのです。こんなふうに、自分にではなく神に栄光が帰される喜びを感じる体験がわたしたちにもあるでしょうか。

  (4) 山上の説教にはたくさんの命令があります。イエスは神のみ心にかなうことがなんであるかをはっきりと示しています。その中には非常に厳しく、人間には実行困難と感じられるようなものも少なくありません。敵を愛しなさい、情欲をもって女を見てはいけない、一切誓ってはならない、などなど。しかし、だからこそ、そのすべてに先立って「福音」があることは大切です。この福音は「八つの幸い」の中では「天の国(バシレイアbasileia)はあなたがたのものである」ということ、すなわち「神は決してあなたがたを見捨ててはいない。神は王(バシレウスbasileus)としてあなたがたを救ってくださる」ということでした。きょうの箇所もまさに「福音」として受け取るべき箇所です。
 山上の説教を読むとき、あらゆる掟や命令の前に、次の言葉を補って読んでみるとよいでしょう。「神はあなたを愛してくださっている。だから~」「神はあなたを地の塩、世の光と見ていてくださる。だから~」「あなたはもうゆるされて、神の子とされているのだ。だから~

  (5) わたしたちは「あなたがたは地の塩である」「世の光である」というイエスの福音を本気で受け取ることができるでしょうか。
 「おまえはダメだ」「おまえなんかいてもいなくてもいい」「おまえがどうなろうが知らない」そういうメッセージが、わたしたちの社会の中で、職場や学校で、もしかしたら夫婦や親子の間でさえ飛び交っている現実があります。そんな現実の中、わたしたちの周りの、どれほど多くの人が「あなたがたは地の塩、世の光である」というメッセージを必要としているでしょうか。
 イエスは2000年前の人々にどうやってこのメッセージを伝えたのでしょうか。一人一人の人間に共感の目を注いで近寄り、その貧しさや苦しみを共に荷ない、その人の中に素晴らしい輝きと立ち上がる力があることを信じ、あなたは本当に神の子であり、わたしの兄弟姉妹だと語りかけていったイエスの姿を、わたしたちは福音書をとおして知っています。では、わたしたちはどうやってイエスの福音を誰かに伝えることができるでしょうか。




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Posted on 2017/01/27 Fri. 13:19 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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年間第4主日 (2017/1/29 マタイ5章1-12a節)  


教会暦と聖書の流れ


 この箇所の直前、マタイ4章24節に次の言葉があります。「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風(ちゅうぶ)の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々をいやされた。」きょうの箇所はこの「群集」を見て、イエスが語った長い説教のはじめの部分です。特定の「弟子」だけでなく、群集も聞いていたことは、この説教の結びの箇所(7章28節)からも分かります。


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  (1) マタイ福音書5~7章の長い説教は、以前はよく「山上の垂訓」と言われていましたが、今では「山上の説教」と呼ばれることが多いようです。イエスがある時、実際に語った長い説教が記録されていたと考えるよりも、さまざまな場面でイエスの語られた言葉がつなぎ合わされて今の形になったと考えたほうが良さそうです。何のために初代教会の人々は、これらのイエスの言葉を集めたのでしょうか。
 内容から考えて、これらの言葉は、新しくキリスト信者になった人々に、キリスト信者としての新しい生き方を指し示す言葉として集められている、と考える学者がいます。だとしたら、まず第一に「幸い」と言われているのも納得できるでしょう。

  (2) きょうの箇所は「八つの幸い(真福八端)」と呼ばれています。この「八つの幸い」の前半とよく似ているルカ福音書の「3つの幸い」を比べてみましょう。
マタイ5章3節 心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。
     4節 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。
     5節 柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。
     6節 義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。
ルカ6章20節   貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。
    21節前半 今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。
    21節後半 今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる。
 マタイの3節とルカの20節、マタイ6節とルカ21節前半は多くの言葉が共通しています。マタイ4節とルカ21節後半も内容的にはよく似ています。もともと1つのイエスの言葉が伝えられていくうちに2つの形になった、と考えることができるでしょう。そしてさらに言えることは、単純なルカの形のほうが元の形に近いだろうということです。
 マタイの5節「柔和な人々は」の句はルカにはありませんが、この言葉は、詩編37編11節の引用と言ってもよい言葉です。新共同訳聖書でこの箇所は「貧しい人は地を継ぎ」と訳されていますが、「貧しい」と「柔和な」はどちらもヘブライ語では同じ「アナウ」という言葉(もともと、身をかがめて小さくなっている様子を表す言葉)です。古代の写本の中には、4節と5節を入れ替え、「心の貧しい人々は」の句の次に「柔和な人々は」の句を置いている写本があります。「柔和な」の句はおそらくイエスの言葉が伝えられていく途中の段階で、「心の貧しい人々は」の句を説明するために挿入されたものでしょう。

  (3) 「貧しい人は幸いである」というと1つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳せば、「幸い、貧しい人々。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」(ルカ)となります。これは目の前の人に向かって語りかける祝福の言葉なのです(マタイは三人称になっていますが、同じように受け取ることができます)。イエスは、病人やその家族という、他に頼るところもなくイエスのもとに集まって来たボロボロの群集に向かって、「幸い」と語りかけたのです。
 「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」がなぜ幸いなのか。それは「神の国はあなたがたのもの」だからです。「国」はギリシア語で「バシレイアbasileia」で、「王(バシレウスbasileus)であること、王となること」を意味します。神は決してあなたがたを見捨ててはいない、神が王となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのです。「満たされる」「慰められる」という受動形は、「神が満たしてくださる」「神が慰めてくださる」の言い換えです。これも同じことで、これこそがイエスの福音=よい知らせなのです。
 この言葉をわたしたち自身に向けられた「福音=よい知らせ」として聞くこと、これが「幸い」の言葉を受け取るためのもっとも大切なヒントです。

  (4) 「心の貧しい」は明治以降の伝統的な日本語訳ですが、ほとんど誤訳と言わざるをえません。「心が貧しい」という日本語は「精神的貧困」を意味しますが、ここではそういう意味ではないからです。直訳は「霊に貧しい」で、「神の前に貧しい」という意味に受け取るのがよいと考えられます。マタイは決して物質的な貧しさを無視しているのではなく、物質的な面だけでなく、神の前にどうしようもなく欠乏し、飢え渇いている人間の姿を示そうとしているのです。なお、フランシスコ会訳聖書は「自分の貧しさを知る人」と訳し、新共同訳ができる前の共同訳聖書は「ただ神により頼む人」と訳しています。どちらもかなり大胆な意訳ですが、参考になります。
 なお、ルカがただ「飢えている人」というところを、マタイは「義に飢え渇く人」と言います。ここでもマタイは神との関係を強調していると言えるでしょう。

  (5) マタイの後半の4つの幸いは、貧しいだけでなく、その中でもっと前向きに生きようとする人々の姿を表しています。それは「憐れみ深い」「心の清い」「平和を実現する」「義のために迫害される」という生き方です。「八つの幸い」というマタイの形はもはや単なる祝福ではなく、その祝福の中を生きるとは具体的にどういうことかということをも示しているのです。そういう観点から「八つの幸い」全体が整えられていったと考えることができるでしょうし、「八つの幸い」全体を受け取ることは、わたしたちにとっても大切なことです。なお、ルカ福音書では別の発展がみられますが、今回は触れることができません(C年年間第6主日の「福音のヒント」参照)。




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Posted on 2017/01/19 Thu. 20:43 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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