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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第14主日 (2022/7/3 ルカ10章1-12, 17-20節)  


教会暦と聖書の流れ


 ルカ福音書では、ガリラヤからエルサレムへ向かうイエスの旅は、9章51節に始まり、19章44節まで続く大きな部分になっています。この部分でルカは、マルコ福音書にはないさまざまな出来事やイエスの言葉を伝えています。きょうの箇所は先週の箇所(ルカ9章51-62節)の続きで、72人の弟子が派遣される場面です。


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  (1) ルカ9章1-6節には12人の弟子が派遣される話があります。この72人の派遣にあたっての言葉は、エルサレムへの旅との関連は薄いようですし、12人ではなく72人であることの特徴もあまり感じられません。弟子たちを派遣するにあたってイエスが語った言葉は、いろいろな形で伝えられていたようです。福音書には、弟子たちを派遣するにあたってイエスの言葉が、合計4箇所に伝えられています。マタイ10章5-42節、マルコ6章7-12節とルカのこの2箇所です。それらを比較すると、共通する部分と多少異なる部分があります。マタイは複数の伝承を一つの長い派遣説教としてまとめていますが、ルカはそれを2回の派遣に分けたと考えたら良さそうです。
 この派遣にあたっての指示は、ルカにとっては過去の弟子たちの派遣というよりも、復活のイエスによって派遣されている自分たちの問題だと言えるでしょう。「御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とありますから、人々がイエスに出会うための準備としてわたしたちは遣わされていると言うこともできるのでしょう。

  (2) 「七十二人」というところが70人になっている写本もあります。レビ記11章には、モーセの時代に70人の長老が選ばれた話がありますからその影響でしょうか。70人だとすると「民の指導者」というニュアンスがあるかもしれません。一方72という数は、12の6倍で、12人の弟子を拡大した「より多くの弟子たち」ということなのでしょう。
 なお、1節で「二人ずつ」派遣されることの意味はいくつか考えられます。(a)旧約時代から、「一人の証言は不確かだが、二人の証言ならば確かである」という考えがあったから(申命記17章6節、19章15節参照)。(b)単純に二人が支えあいながら活動していけば心強いということ。(c)二人が「愛し合う」姿をとおして、イエスの弟子であることが皆に分かるようになるから(ヨハネ13章35節参照)。

  (3) 「収穫は多いが、働き手は少ない」(2節)と言うイエスは、多くの人が神の国の呼びかけに応えるということを期待し、信じています。そして、その呼びかけに応える人々を「収穫」にたとえています。派遣される人自身ももちろん「収穫のための働き手」ですから、彼らが祈るのは「自分たち以外の誰かが働き手になりますように」ではなく、「自分たちだけでは足りないから、一緒に働いてくれる人を与えてください」ということです。召命を求める祈りはいつもそういう祈りであるはずです。「狼の中に羊を送り込む」(3節)は、もちろんこの派遣に伴う危険を指摘しています。いつも人々に受け入れられるとは限りません。弟子たちは拒否され、攻撃される可能性もあるのです。

  (4) 4節の「履物も持っていくな」は少し極端かもしれません。マルコ6章9節では、はっきりと履物は履くように命じられています。袋はもらった喜捨(きしゃ)を入れるための袋でしょう。要は「何も持たず、空(から)の手で」行くということです。なぜなら、後にあるように、必要なものは出かけた先で与えられるからです。「その家に泊まって、そこで出されるものを食べ、また飲みなさい。働く者がその報酬を受けるのは当然である」(7節)。「自分の面倒は自分で見て、できるだけ人の世話になりたくない」というのが、現代のわたしたちの普通の感覚かもしれません。イエスの弟子の道はそうではないのです。自分の力ではなく神と人々の好意に頼って生きていく道。それはわたしたちにとっても、本当は大切な生き方を指し示しているのではないでしょうか
 派遣される弟子が第一にすることは「この家に平和があるように」と言うことです。これは4節で禁じられたような儀礼的な長々としたあいさつではありませんが、やはり、ほとんどあいさつの言葉だと言っても良さそうです。「平和」(ヘブライ語で「シャローム」)は日常的なあいさつの言葉だからです。弟子たちは、戦いや論争や挑発のために出かけるのではなく、出会う人々との間に平和を作ることが求められています。
 ただし、いつでも良い関係が作れるとは限りません(わたしたちも同じでしょう)。それはこちらが平和を願っていても、相手のほうが拒否するということがあるからです。そんなとき、相手を責める気持ちにもなりがちです。でもここでは、そんなことに振り回されない、という生き方が求められているようです。「平和があなたがたに戻ってくる」(6節)というのは、「その人を恨んで、仕返ししようとするな、相手がどうであれ、あなたが相手のために平和を願うことはあなたにとってよいことなのだ」ということではないでしょうか。なお、11節の「足の埃を払い落とす」は確かに絶縁を意味する動作ですが、そこにも「恨まない、復讐心を抱かない」という意味があるでしょう。
 「家から家へと渡り歩くな」(7節)も面白い指示です。渡り歩くのは、歓待されるのを期待してのことでしょうか。あるいは、もっと良い待遇を期待するからでしょうか。

  (5) 弟子たちの使命の中心は、病人をいやし、「神の国はあなたがたに近づいた」と宣言すること(9節)です。それは、これまでイエスご自身がしてきたことと同じことをしていくということです。今のわたしたちにとっては、どういうことでしょうか
 17節以下の「悪霊」「蛇やさそり」「敵」は神に敵対し、人を害するものです。「サタン」はその力の根源にあるものでしょう。イエスは悪の支配が終わり、決定的に神のバシレイア(basileia=支配、国、王であること)が始まっているのを見ています(ルカ11章20節、17章20-21節参照)。「あなたがたの名が天に書き記されている」は、あなたがたはこの神のバシレイアにあずかる者となった、という意味なのです!




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Posted on 2022/06/24 Fri. 08:30 [edit]

category: 2022年(主日C年)

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年間第13主日 (2022/6/26 ルカ9章51-62節)  

教会暦と聖書の流れ


 きょうの箇所は、ルカ福音書でイエスがエルサレムに向かう旅を始める箇所です。マルコ福音書ではイエスが旅に出ようとされたところ(マルコ10章17節)から、エルサレムに入る(11章11節)までの箇所はそれほど長くありませんが、ルカ福音書はきょうの箇所から19章44節までがこの旅の間の出来事とされています。ルカはこの大きな「旅の段落」に、マルコ福音書にはない数多くのエピソードやイエスの言葉を伝えています。
 ルカ福音書によれば、エルサレムへと向かうイエスの旅は、十字架に向かう旅であると同時に、「天」に向かう旅でもあります(51節)。その中でイエスに従う人々には、他者への寛大さと、自分自身への厳しさ(覚悟)が求められます。


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  (1) イエスの時代、サマリア人とユダヤ人は対立していました。もともとは同じ民族でしたが、紀元前10世紀、ソロモン王の死後にイスラエルの王国は南北に分裂しました。北王国はサマリアに独自の聖所を置くようになり、エルサレムの神殿を中心とする南王国から宗教的にも分離してしまいました。さらに紀元前8世紀に北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、サマリアの人々はアッシリア人との混血になってしまったと言われています。この宗教間・民族間の対立という問題は、現代のわたしたちにも通じるものがあります。
 54節の弟子たちの言葉、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」は、かつて預言者エリヤが自分を捕らえに来た兵士たちを焼き滅ぼした故事に基づいています(列王記下1章)。弟子たちにはもちろんそんな力はありません。自分たちの恨みをイエスの力で晴らしてもらおうと考え、「主よ、そうしてください」と言っているようなものです。イエスはこれをはっきり拒否しています。エルサレムへの旅の最初に置かれたこのエピソードは、イエスの旅が軍事的な戦いの旅ではなく、神の愛を告げ、神の愛を生きる旅であることを表しています。

  (2) 57-58節は、このイエスの旅に同行するとはどういうことかを示しています。「人の子には枕するところもない」の「人の子」は、ここでは「わたしのような人間」の意味です。わたしたちの今の現実の中で、「巣穴のない、枕するところのない」というような状況があるでしょうか。
 59節「父を葬る」は、当時の考えでは人間として何よりも大切な義務でしたが、イエスはそれさえも許しません。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」。ここで「自分たちの死者」は実際の死人のことですが、「死んでいる者」は「霊的な意味で死んでいる人」のことでしょう。イエスが指し示している「アッバ(お父さん)」である神とのつながりの中にあるいのちを生きていない人の意味です。

  (3) 列王記上19章20節で預言者エリヤが自分の弟子としてエリシャを召し出した物語(きょうの第一朗読)では、家族と別れのあいさつをすることが許されていますが、きょうの福音の62節のイエスの言葉は、家族へのいとまごいも許しません。「鋤(すき)」は畑をたがやすための農具です。イラストのように、牛やロバに引かせて土をたがやしていくものですが、通常、右手にムチを持ち、左手だけで操作するので、まっすぐ進むためには注意が必要です。「後ろを顧みる」ならば、たちまち曲がった畝(うね)ができてしまいます。
 父の埋葬や家族へのいとまごいは、一般的に言えば悪いはずのないことです。しかし、イエスの言葉は「何をおいても今すぐ従う」ことを要求しています。ルカ福音書の文脈の中でこの緊急性は、イエスがエルサレムに向かう最後の、命懸けの旅を始めることと関連していると言えるでしょう。葬儀の義務や家族へのあいさつが本当の問題なのでしょうか。むしろ、わたしたちに問われていることは、イエスの告げる「神の国」(60、62節)への招きをどこまで本気で受け取るか、ということではないでしょうか。

  (4) 「神の国」の「国」はギリシア語で「バシレイアbasileia」と言いますが、この言葉の元には「バシレウスbasileus=王」という言葉があります。「バシレイア」は本来、「王であること、王となること」を意味する言葉です。英語のkingに対する kingdomと同じだと考えたらよいでしょう。「王としての統治・支配」を意味することもあり、「王が王として支配している国=王国」の意味にもなります。「神が王であること、神が王となること」これがイエスの告げ知らせた福音(=良い知らせ)の中心でした。
 わたしたち現代人は、王がいなくても国は成り立つと考えますので、「神が王となる」と言われてもピンとこないかもしれません。しかし、人間の王の不正な支配によって苦しめられていたイエスの時代のパレスチナの人々にとって、「神が王となる」という神の国のメッセージはすべての不当な圧迫から自由になる「解放のメッセージ」だったのです。
 わたしたちは何によって支配され、圧迫され、不当に抑圧されているでしょうか。お金、市場経済、競争原理、欲望、暴力、エゴイズム・・・さらに専制政治や軍事力? わたしたちがほんとうの豊かないのちを生きることを妨げているすべてのものからの解放、それこそが「神の国」の表しているものなのです。

  (5) 「神の国」とは別の言葉で言えば、「神の愛がすべてにおいてすべてとなること」だと言ったらよいかもしれません。この「神の国」には、まだ来ていない(=いつか完成する)という面と、すでに来ている(=もう始まっている)という面があります。ルカ福音書にはイエスの次のような言葉が伝えられています。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11章20節)。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17章20-21節)。
 すでに始まっている神の国とは、わたしたちの間にある神の国とは、どのようなことでしょうか。




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Posted on 2022/06/17 Fri. 09:08 [edit]

category: 2022年(主日C年)

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キリストの聖体 (2022/6/19 ルカ9章11b-17節)  


教会暦と聖書の流れ


 灰の水曜日から聖霊降臨の主日まで3ヶ月以上にわたって過ごしてきた四旬節・復活節の余韻として、「三位一体の主日」「キリストの聖体」「イエスのみ心」という3つの大きな祝日があります。キリストの聖体の祭日は本来、聖霊降臨後第2木曜日ですが、日本では日曜日に移されています。なお、「イエスのみ心」のほうは本来のまま、聖霊降臨後第3金曜日に祝われます。キリストの聖体をこの時期に特に祝うのは、聖週間中の「聖木曜日・主の晩さんの夕べのミサ」だけでは祝い足りなかったからだとも言えますが、むしろ聖体が、四旬節から復活節にかけて祝ってきたキリストの死と復活の神秘を記念し、そのキリストの愛といのちにわたしたちが結ばれることを表す最高のしるしだからです。


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  (1) ルカ福音書は、マルコ福音書を基にしていて、12人の弟子の派遣の後、彼らが帰ってくるところからこの物語を始めています。「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。群衆はそのことを知ってイエスの後を追った」(ルカ9章10-11節前半)。そして、「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」(11節後半)ときょうの箇所が始まります。神の国について語り、人々をいやすというのは、イエスのこれまでの活動の要約のような言葉だと言えます。イエスの活動全体とこの5つのパンの出来事は密接につながっているのです。
 なお、ルカ福音書では、12使徒の派遣ときょうの箇所の間に、ガリラヤの領主ヘロデがイエスについて「いったい、何者だろう」と言う箇所があります(9章9節)。そして、この出来事の後、ルカ福音書はすぐにペトロの信仰告白の場面を続けています。「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『神からのメシアです』」(9章20節)。ルカ福音書の中でイエスとは何者かという問いに挟まれたこの出来事は、イエスとはどういう方かをはっきりと表す出来事だとも言えるようです。

  (2) 5つのパンと2匹の魚で5,000人以上の人が満腹したというような奇跡の物語を読むとき、福音書に書かれているとおりの出来事が実際に起こったと信じられるでしょうか。素直に信じられるという人も、ちょっと信じがたいという人もいるでしょう。もちろん、この出来事が実際にどのように起こったかということは、今となっては確かめようがありません。最初にこの出来事を記録したマルコ福音書でも実際の出来事が起きてから、40年ほどたってから書かれました。それまでイエスのなさったことはおもに口伝えで伝えられていきました。この物語は決して誰かが作り出したフィクションではありません。少なくとも、「わずかな食物をイエスが人々とともに分け合い、大勢の人が満たされた」というような弟子たちの体験が基にあったと考えるのが自然でしょう。そして、彼らがその体験をとおして感じ取ったのは、イエスのもとにこそ、本当の豊かさがあり、本物のいのちがある、ということだったのです。

  (3) 16節「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」。
 最後の晩さんのときの動作とよく似ています。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』」(ルカ22章19節)
 「賛美の祈りを唱え」はギリシア語では「エウロゲオーeulogeo」です。「エウロゲオー」には「賛美する」と「祝福する」の意味がありますが、ここでは食事を前にして神の祝福を求めて祈ることを意味しているようです。祈りの内容としては「感謝の祈りを唱え(エウカリステオーeucharisteo)」と同じだと考えられます。また、「弟子たちに渡して」と「使徒たちに与えて」というところには、原文では同じ動詞が使われています。
 ルカ福音書で、イエスの死後、エマオに向かった弟子たちが、一緒に歩いていた旅人を復活したイエスだと気づくのも、その人がこの動作をしたときでした。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった…」(ルカ24章30-31節)。

  (4) この食事の前の行為にはイエスの食事の特徴が非常によく表れています。「パンを取り、天を仰いで、感謝(賛美)の祈りを唱え」はほとんど1つの動作です。パンを取り、天を仰ぐのは、感謝(賛美)の祈りを唱えるためなのです。「このパンがたまたまここにあるからラッキー!」というのではなく、「このパンは神から与えられたものだ」ということを深く受け止める行為だと言えるでしょう。「裂いて、弟子たちに与える」もほとんど1つの動作です。裂くのはパンを1人で食べずに皆と分かち合うためだからです。イエスにとって「共に食事する」ことは、神とのつながりを深く味わい、人と人とのつながりを深く味わうことでした。わたしたちは日々の食事の中でそのことを感じているでしょうか?
 最後の晩さんという、イエスが弟子たちと共にした最後の食事は、地上でイエスが行なっていたイエスの食事の頂点でした。そこでイエスは、この神とのつながり、人と人とのつながり、そしてご自分と弟子たちのつながりを永続するものにしようとされたのです。きょうわたしたちは、特別に聖体をとおして神・イエスとのつながり、人と人とのつながりを味わうように招かれていると言えるのではないでしょうか。
 なお、17節で「パンの屑(くず)」と訳されているギリシア語は「クラスマklasma」で、その意味は「裂かれたもの」です。これはもちろんイエスが裂いたパンの断片を指しますから、むしろ「パン切れ」と訳したほうが良さそうです。残ったパン切れが12カゴにもなった、ということにも、イエスのもとにある豊かさが表わされています。12という数が使徒の数と同じであることに意味があるのでしょうか。もし意味があるとすれば、使徒たちが1つずつカゴを持って、この場にいない人々にもパンを届けに行く使命をいただいている、ということを暗示しているのかもしれません。




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Posted on 2022/06/10 Fri. 08:30 [edit]

category: 2022年(主日C年)

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三位一体の主日 (2022/6/12 ヨハネ16章12-15節)  


教会暦と聖書の流れ


 毎年、聖霊降臨の主日の次の日曜日に「三位一体」の主日が祝われます。「三位一体」というと難しい神学概念のようですが、この主日はむしろ、イエスの生涯、受難、死、復活、昇天、聖霊降臨をとおして示された神の大きな救いのわざを振り返り、その神とわたしたちのつながりを深く味わう日だと考えたほうが良いでしょう。福音の箇所は、復活節に何度か読まれてきたヨハネ福音書の最後の晩さんの席でのイエスの説教から採られています。なお、この箇所はB年の聖霊降臨の主日にも読まれています。


福音のヒント


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  (1) ヨハネ13章から始まった最後の晩さんの席でのイエスの説教の主な内容は、イエスが世を去り、目に見える形ではいなくなるが、違う形で居続ける、という大きな約束です。その中で聖霊を送る約束が4箇所あります(14章16-17節、14章26節、15章26節、16章7-15節)。きょうの箇所はその最後の部分から採られています。この約束はイエスの復活後に実現します。「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。・・・』」(ヨハネ20章22節)。
 「真理の霊」の「真理」はギリシア語では「アレーテイアaletheia」と言います。元の意味は「隠されていないこと」です。ギリシア人にとって、真理とは、ふつうは見えないが覆いを取られて現れてくるそのものの本当の姿だと言えるでしょう。一方、真理と訳されるヘブライ語は「エメト」です。この言葉は「アーメン(確かに)」という言葉と同じ語根で「確かなもの、頼りになるもの」を表します。ヨハネ福音書の「真理」には「隠れていた神の本質が現されること」というギリシア語的なニュアンスと「本当に確かで、頼りになるもの」というヘブライ語的なニュアンスの両面があると考えられます。
 「ヨハネ福音書における真理とはイエスご自身のことである」と言った人がいます。イエスこそ、神の本当の姿を明らかにした方であり、わたしたちの救いのために本当に確かで頼りになる方なのです。「真理の霊」と言われる聖霊の働きは、何よりも真理であるイエスにわたしたちを結びつけることだと言えるでしょう。人間の力を超える何かしら大きな力を感じたとしても、それを聖霊の働きだと言うことはできません。大切なのは、その力がわたしたちをイエスとその生き方(=愛)に結びつけるかどうかなのです。

  (2) 16章13節で「その方」と訳されている言葉はギリシア語では男性形の指示代名詞ですが、もちろん聖霊のことを指しています。「霊(プネウマpneuma)」はギリシア語では中性名詞なので、中性形の指示代名詞(訳せば「それ」)が使われてもおかしくないのですが、ヨハネはあえて男性形で書いています。これはヨハネ14章16節などで聖霊が男性名詞の「弁護者(パラクレートスparakletos)」と呼ばれているからでしょうか。聖霊とは、素朴に言えば「神の(あるいは復活したイエスの)目に見えない働き」と言うことができます。しかし、ヨハネ福音書は、単なる「働き」ではなく、弟子たちのうちにとどまり、いつも弟子たちとともにいてくださる「方」という面を強調して、聖霊のことを人格を持つもののように語っているのだとも考えられます。
 ここでの聖霊の働きは「真理をことごとく悟らせる」ことです。「真理をことごとく」と訳された部分は「真理全体を」とも訳せるような言葉が使われています。「悟らせる」には「道案内する、導く」という意味の言葉が使われています。イエスはこれまで、いろいろな言葉を語ってきました。しかし、これからは聖霊が弟子たちを導くのです。聖霊の導きは、イエスがこれまで語ってきたことと別のことではなく、イエスが語られたことを、わたしたちにもっと深く理解させ、わたしたちがわたしたちの現実の中でイエスの言葉をどう生きるべきかをはっきりと示すことだと言えるでしょう。

  (3) 「唯一の神が父と子と聖霊である」という三位一体の教えは、学者が頭の中で考え出した教えではありません。イエスの弟子たちの救いの体験をもとにして、古代のキリスト教の発展の中で最終的にまとめられた表現なのです。
 イエスは、2000年前に一回限りの地上の生涯を生き、その言葉と生き方をもって、決定的な形で神を現してくださいました。イエスの派遣は人間に対する神からの決定的な救いの働きかけでした。弟子たちはイエスの生涯と死と復活を見て、そのことを確信するに至りました。この確信を弟子たちは「イエスこそが神の子キリストである」という言葉で表現し、人々に伝えていきますが、その福音告知の活動の中で、自分たちがいつも神によって支えられ、大きな力で導かれていることを体験しました。その体験を彼らは「聖霊がわたしたちのうちに働いている」と表現したり、「復活して今も生きておられるイエスがともにいる」(マタイ28章20節参照)と表現したのです。この働きは、そのときから2000年後の今に至るまで、キリスト信者が経験してきていることだとも言えるでしょう。

  (4) つまり、神は二通りの仕方で、人間に対する決定的な働きかけをしてくださったということになります。
 1つは「イエス」=歴史の中で一回限り。明確な言葉と生き方をもって語りかける
 もう1つは「聖霊」=いつの時代のどこの人にも。心の中に直接働きかける
 大切なのは、「三位一体」という言葉よりも、この二通りの神の働きかけをわたしたちがしっかりと受け取ることではないでしょうか。きょうの「福音のヒント」の図が示そうとしているのは、三位一体そのものというよりも、父と子と聖霊とわたしたちの関係です。上から下に向けての線は、上で述べた神の二通りの働きかけを表しています。これに対して、下から上に向かう線は、わたしたちが神に向かうときの姿勢を表しています。わたしたちは、イエスの言葉と生き方を見つめ、わたしたちの内面に直接働きかける神の力(聖霊)に支えられて、御父に向かって歩みます。祈りの体験もそうでしょう。聖霊という内面的に働きかける神の力があるからわたしたちは祈ることができます。そしてわたしたちの祈りは、いつもイエスをとおして(イエスの祈りに結ばれて)、御父にささげられます。
 わたしたちは、このダイナミックな神との関わりを生きるように招かれているのです。




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Posted on 2022/06/03 Fri. 08:30 [edit]

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聖霊降臨の主日(2022/6/5ヨハネ14章15-16, 23b-26節)  


教会暦と聖書の流れ


 復活祭から50日目に聖霊降臨を祝うことは、使徒言行録2章にある五旬祭の日の出来事(今日のミサの第一朗読)に基づいています。日本語では「聖霊降臨」ですが、「50番目(の日)」を意味するギリシア語の「ペンテコステ」という言葉がそのまま使われることもあります。イエスは復活して神のいのちに上げられ、目に見える形ではいなくなりますが、弟子たちに聖霊が注がれます。弟子たちはこの聖霊に駆り立てられて、福音を告げ知らせ始めました。その意味で聖霊降臨は過越(すぎこし)の神秘の完成であり、同時に教会の活動の出発点なのです。なお、聖霊降臨の主日のミサの福音として、毎年同じヨハネ20章19-23節を読むことができますが、ここではC年のための任意の箇所を取り上げます。


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  (1) 聖霊とは何でしょうか。「聖霊」の「聖」は「神の」という意味です。「霊」はギリシア語で「プネウマpneuma」、ヘブライ語で「ルーアッハ」と言い、どちらも「風」や「息」を意味する言葉です。古代の人々は、目に見えない大きな力(生命力)を感じたときに、それを「霊」と呼んだのでしょうし、それが神からの力であれば「聖霊」と呼んだのです。聖霊の働きは非常に広いものです。すべての命が生きているのは、聖霊という神の働きによることです(創世記2章7節、詩編104編29-30節参照)。この広さは大切です。一方、聖書の中で聖霊の働きが特に意識されることがあります。それは主に2種類の体験の中でのことです。1つは、人が神から与えられたミッション(派遣・使命)を果たそうとするときの体験であり、もう1つは神と人・人と人とが結ばれるという体験です。

  (2) 弱い人間が神から与えられるミッションを生きようとするとき、神が不思議な力で支えてくださる、ということを体験します。旧約聖書では、王や預言者がその使命を受けるとき、聖霊が降(くだ)ったと表現されています(Ⅰサムエル16章13節、イザヤ61章1節参照)。新約聖書の中では、イエスがヨルダン川で洗礼を受けたときがそうでしたし、きょうの使徒言行録の箇所でペンテコステの日に使徒たちが福音を告げ始めたときもそうです。これらのことはわたしたちの洗礼や堅信の秘跡(さらに叙階・結婚・病者の塗油・ゆるしの秘跡)につながっています。もちろん、秘跡を受けるときだけでなく、人が神からのミッションを生きようとするときに繰り返し体験することだ、とも言えるでしょう。
 また、人と人の間にある無理解や対立が乗り越えられて、相互の理解と愛が生まれるとき、それも神の働きとしか言いようがないことでしょう。神の霊が人間の心に働きかけて信頼や愛の心が呼び覚まされるのです。このような神の働きも聖書の中で「聖霊」と表現されています。使徒言行録2章のように、互いに理解し合えないと思われていた言葉の違う人々の間に相互理解が生まれたとき、そこに聖霊という神の力が働いていると強く感じられたのです。パウロはⅠコリント12章で、聖霊の賜物(カリスマ)がいろいろあることを認めながら「わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(31節)と述べて、続く13章で「愛」について語ります。まさに「霊の結ぶ実は愛」(ガラテヤ5章22-23節)なのです。

  (3) きょうの福音の箇所は、最後の晩さんの席でイエスが語られた約束です。16節と25節の「弁護者」はギリシア語で「パラクレートスparakletos」です。「パラpara」は「そばに」、「クレートス」は「カレオーkaleo(呼ぶ)」という動詞から来ていて「そばに呼ばれた者」の意味です。裁判のときにそばにいて弁護してくれる人を「パラクレートス」と言ったので新共同訳聖書は「弁護者」と訳しますが、もっと一般的に「そばにいて助けてくださる方」と受け取って「助け主」や「慰め主」と訳されることもあります。
 ヨハネの第一の手紙2章1節には「御父のもとに弁護者(=パラクレートス)、正しい方、イエス・キリストがおられます」という言葉があります。これは復活して神のもとに上げられたイエスのことですが、イエスこそが第一の「パレクレートス」であるということができます。そこで、ヨハネ福音書14章16節では、聖霊について「別のパラクレートス」という言葉が使われているのでしょう。

  (4) 15節の「わたしの掟」、23節の「わたしの言葉」はどちらも「互いに愛し合いなさい」(13章34節、15章12節)という掟を指しています。15節「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と23節「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」はほとんど同じ内容です。そして、15節に続く16節では「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と言われ、23節では続けて「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」と約束されています。実はこの2つのこと、つまり、聖霊が弟子たちに与えられるということと、父とイエスが弟子たちと共に住む、ということはほとんど同じことだと言うことができます。
 26節では「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と約束されています。聖霊が教えるのですが、その教えはイエスがこれまで教えてきたことと違うのではありません。「イエスの言葉を思い出させる」というのは、ただ単に忘れていた言葉を思い出すという意味ではないでしょう。わたしたちが人生の中でさまざまな体験をしたときに、「そうだ、確かにイエスのおっしゃったあの言葉は真実なのだ」と悟ることを指しているのではないでしょうか。
 ヨハネ福音書14~16章でイエスが約束される聖霊の働きは、一言で言えば、わたしたちを神とイエスに結びつける働きと言うことができます。
 「聖霊」を人間の頭の中で抽象的に理解しようとしてもうまくいきません。目に見えない神の働き、復活して目に見えないが今もわたしたちとともにいてくださるイエスの働きが、聖霊の働きなのです。「聖霊」という言葉よりも大切なのは、わたしたちの日々の生活の中に、わたしたちの集いの中に、今も神が、キリストが共にいて、働いてくださっているということです。わたしたちはどのようなときにそう感じることができるでしょうか。 




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Posted on 2022/05/27 Fri. 08:30 [edit]

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