福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

福音のヒント 年間第23主日 (2016/9/4 ルカ14章25-33節)  

教会暦と聖書の流れ



 この箇所は先週の福音の箇所(ルカ14章15-24節)の続きです。イエスはエルサレムに向かう旅を続けています。それは十字架に向かう旅であり、十字架を経て天に向かう旅でもありました。その中でイエスに従うことが、きょうの福音のテーマになっています。なお、きょうの箇所にある2つのたとえ話は、ルカ福音書だけが伝えるたとえ話です。



福音のヒント



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  (1) 「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら・・・」(14章26節)というのはそのまま読めば、かなりショッキングな言葉です。一般的には「積極的に憎むという意味ではなく、より少なく愛するという意味」だと説明されています(マタイ10章37節参照)。自分の家族や自分の命を大切にすることは、普通の状況ならば何よりも優先すべきことでしょう。しかしここでは、それ以上にイエスに従うことを優先させよ、と言われています。それはやはり特別な状況の中での言葉だからでしょうか。この福音の場面では、イエスはエルサレムへ向かう生涯最後の旅、つまり十字架に向かう旅をしているわけですから、実際問題、そのイエスに従って歩んでいくことはそれくらい大きな覚悟を必要としたはずです。わたしたちの中に、そのようなギリギリのところでの二者択一を迫られるような体験があるでしょうか?
 また、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ」(ルカ14章27節)という言葉も、そのような特別な状況の中でこそ切実な意味を持つ言葉かもしれません。

  (2) しかし、もっと一般的な状況の中でもイエスに従うことは、ある意味では「十字架を背負う」ことだと言えるかもしれません。ルカ9章23節には「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」という言葉がありました。そこでは「自分を捨て」と「日々、自分の十字架を背負って」が並行して語られています。十字架刑はローマ帝国の処刑方法の1つで、死刑にされる人を最大限に苦しめ、人々に対してみせしめとして殺す残虐な処刑方法でした(それゆえローマの市民権を持つ人には適用されず、主に植民地の、ローマ帝国に対する反逆者に適用されたと言われています)。死刑囚は、自分の十字架を処刑場まで担いで行き、そこで木の上にさらし者にされるのです。そこから考えると、「十字架を背負う」というのは、「苦しみと死」というだけでなく、「自分の利益、名誉、安全を手放し、人からの侮辱さえも受け入れて生きること」を意味していると言えるのかもしれません。これは「日々」の生き方の問題なのです。

  (3) 28節からの「塔のたとえ話」と「王のたとえ話」は分かりにくいかもしれません。たとえ話自体はむずかしくないのですが、33節の「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」という結論に結びつけるのはやや唐突だと感じられるのではないでしょうか。2つのたとえ話に共通するのは「まず腰を据えて」(28節と31節)という言葉です。そこに注目するならば、ポイントは「本当にイエスに従う覚悟があるかどうか、そのために一切を捨てる覚悟があるかどうか、前もってじっくり考える」ということになるでしょう。

  (4) ただし、あまりにじっくり考えると、「やっぱりわたしには無理だ」とあきらめてしまう恐れもあります。無理だと感じたらどうすればよいか。これに関して、「もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう」(32節)という言葉が1つのヒントになるかもしれません。「敵」とはだれでしょうか、「和を求める」とはどういうことでしょうか。全体を「神と和解する」という意味にとれば「敵=神」となってしまいますし、「人と和解する」ととれば「敵=人」となり、どちらも違和感があります。しかし、何よりも大切なこととして「神との和解、人との和解」ということが考えられている、と受け取ることも1つの可能性としてはあるかもしれません。なぜなら、「神との和解、人と人との和解」は聖書全体のテーマだと言ってもよいくらい大切なことだからです。ただし、このたとえ話の中で、そこまで考えるべきかどうかはやはり疑問です。ここでは、あきらめて他のことを考えるよりも、やはり「一切を捨てて、イエスの弟子になる」ことが求められていると考えるのが自然でしょう。

  (5) 福音書を読んでいて、特別に厳しいイエスの言葉に出会ったとき、それをどのように受け取ったらよいでしょうか。
 何よりも大切なことは、福音の言葉を祈りの心で受け取ることです。
できるだけ率直に、キリストがこのわたしに語りかけている言葉として受け取ろうとするのです。それは、自分の考えや自分の都合で福音の言葉をゆがめたり、薄めてしまったりしないために大切なことです。そのために、厳しい言葉をあまり割り引かずに、厳しさを厳しさのまま受け取るという姿勢が必要なのです。
 しかし同時に、キリストのすべての言葉は、素晴らしい、本物の喜びへの招きであると受け取ることも大切です。「神が、イエスが命じているから仕方ない」というような受け取り方では、心から応えることはできません。「神は必ずわたしにとって一番良いことをしてくださる」という信頼をもって聖書の言葉を受け取るのです。イエスの招きは、ルカ福音書の文脈で言えば、神の国の宴会への招き(先週のルカ14章15-24節のテーマでした)だと言ってもいいでしょう。そこに招かれている「幸い」を感じたときにこそ、わたしたちはイエスに従うことを自分の生き方として選ぶことができます。もちろん、厳しさも苦しみもあります。人から誤解されたり、拒絶されたりすることもあるでしょう。しかし、自分の選んだ生き方ならば、わたしたちは、どんな人にも、どんなことにも振り回されることがないはずです。
 きょうの福音で本当に問われていることは、わたしたちがイエスに従うことを本気で自分自身の生き方として選んでいるかどうか、なのではないでしょうか。





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Posted on 2016/08/26 Fri. 14:34 [edit]

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年間第22主日 (2016/8/28 ルカ14章1, 7-14節)  


教会暦と聖書の流れ


 ルカ福音書の中の、エルサレムへの旅の段落(9章51節~19章44節)が続いています。ある安息日の食事の場面ですが、共に食事をすることは、「神の国の宴(うたげ)=神の国の完成の姿」を表すものでした。ここで語られているのは、単なるテーブルマナーや人づき合いの方法ではなく、「神の国とはどういうものか」ということなのです。


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  (1) 省略された2-6節には、水腫(すいしゅ)の人のいやしの話があります。ルカ福音書では、安息日にイエスが病人をいやしたことが6章6-11節、13章10-17節とこの箇所の3回伝えられています。いずれも苦しむ人々へのイエスの深い共感と愛を表している話です。イエスは、「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか」(14章5節)と問いかけます。イエスは「安息日の律法が何を禁じているか」ということに関心があるのではなく、目の前の苦しんでいる人に目を向けます。そのイエスの姿勢は、きょうの福音の教えにもつながっています。福音書を読むとき、単なる「言葉による教え」ではなく、その背後にあるイエスの生き方・イエスの心を受け取ることが大切です。
 
  (2) 8-11節は「へりくだること」を勧めています。フィリピの信徒への手紙2章の有名なキリスト賛歌では、イエスご自身が「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(8節)と言われています。この「へりくだる」はギリシア語で「タペイノオーtapeinoo」という言葉で、今日の11節で「低くされ」と訳されている動詞です。この動詞の元にあるのは「タペイノスtapeinos」という形容詞で、普通は「身分が低い」と訳される言葉です。イエスご自身がご自分のことを「タペイノス」であると言われたこともあります。マタイ11章29節です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい」。ここで「謙遜」と訳されている言葉は、直訳では「心において身分の低い者、心へりくだる者」という意味です。
 「へりくだる」という言葉を一般的・抽象的に考えるよりも、「イエスはどのような意味でへりくだる者であり、身分の低い者であったか」を見つめてみるとよいのではないでしょうか。イエスの「へりくだり」は決してポーズとしての、うわべだけの謙虚さではありませんでした。それは神に対する従順とすべての人に対する連帯を貫く生き方だと言えるかもしれません。なお、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)は、イエスの死と復活につながるイメージだとも言えるでしょう。

  (3) 「面目を施す」と訳された言葉は直訳では「ドクサdoxaがある」です。この「ドクサ」という言葉は、元々のギリシア語では「人からの評判や名誉」を表す言葉でしたが、聖書の中では多くの場合、「栄光」と訳されています。「神の栄光」あるいは「神からの栄光」の意味で使われています。ここでも「みんなの前で神からの栄光(栄誉)がある」という意味に受け取ることができるでしょう。イエスが問いかけているのは、単なる人間的な評判の問題ではないはずだからです。なお、11節の「低くされ」「高められる」という受動態の形は、「神が低くし」「神が高めてくださる」という意味でもあります。

  (4) イエスは13節で、貧しい人や障がいのある人を食事に招きなさい、と言います。障がい者に対する古代イスラエル社会の見方は非常に差別的なものでした。聖書の中でも、障がいのある者は祭司の務めを果たすことが許されない(レビ記21章17-23節)とか、「目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない」(サムエル記下5章8節)というような箇所があります。そこから考えればイエスの語る「神の国」は、そのように差別され、排除された人々が奪われた人間性を取り戻し、すべての人が神の子どもとして等しく尊重される場だと言うことができるでしょう。

  (5) 「その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(14節)というのはもちろん、神からの報いがあるということです。ここには、人からの報いを期待しないという面があります。わたしたちは普段の生活の中で、プレゼントやそのお返しにずいぶん気を使いながら生きているのではないでしょうか。人からの報いや人へのお返しが当たり前の社会に生きているわたしたちにとって、イエスの言葉は非常に強烈な問いかけです。「これだけのことをしてあげたら、これだけのことはしてもらえるだろう」「これだけのことをしてもらったから、これくらいはしてあげなければならない」というだけの世界では、自分の本当の生き方を見いだすことはできないのです。自分の生き方を人からの報いではなく、神との関わりの中で選び取るということは大切なことです。

  (6) 一方、「人からの報いを期待せず、神からの報いのみを期待する」という態度にも落とし穴があるかもしれません。それは天国での報いばかりに目を向けて、この世の現実との関わりを見失い、現実の人間の苦しみ・悲しみなどどうでもよくなって、宗教的な信念(実は妄信)だけの世界に陥る、という危険です。これこそ「原理主義fundamentalism」と言われる信仰姿勢の問題点です。
 イエスが語っておられることは、本当は「報いを得るために何かをする」ということではないのではないでしょうか。貧しい人や障がいのある人と出会い、一緒に生きようとすることは、それ自体が神のみ心にかなう道であり、そこに神の国がもう始まっている、と言えるような素晴らしい世界なのです。イエスはこの福音の世界にわたしたちを招いておられるのです。もし、わたしたちが自分たちの現実の中に、今日のイエスの言葉とつながる何かを見つけることができるならば、わたしたちの中にもある意味で、もう神の国(=神の愛がすべてにおいてすべてとなること、そこですべての人が愛によって結ばれること)は始まっているのです。




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Posted on 2016/08/18 Thu. 09:00 [edit]

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年間第21主日(2016/8/21 ルカ13章22-30節)  


教会暦と聖書の流れ


 ルカ福音書はガリラヤからエルサレムに上るイエスの旅の途中にさまざまなエピソードを伝えています(ルカ9章51節~19章44節)。この旅は、神の国を告げ知らせる旅であり、十字架を経て神のもとに向かう旅でした。きょうの福音もその旅の段落の一節ですが、ここから神の国についての豊かなイメージを受け取ることができるでしょう。


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  (1) 「救われる」(23節)というのは、ここでは「神の国に入っている」(28節)、「神の国で宴会の席に着く」(29節)ということを意味しています。「神の国」とは、「神の愛がすべてにおいてすべてとなること」と言ってもよいでしょうが、それには「すでに始まっている」面と「最終的にいつか完成する」という面があります。ここで問題になっているのは、最終的な神の国の完成にあずかることができるかどうか、ということです。もちろん、それにあずかることができるかどうかは「神の判断=裁き」にかかっています。
 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。この問いを発した人は、なぜこんなことを聞いたのでしょうか。「救われるのが少数ならば、そうとうがんばらなければならない、逆に、多くの人が救われるというのなら、まあまあ人並みにやっていれば大丈夫だろう」そのような考えがあったのかもしれません。「入ろうとしても入れない人が多い」というイエスの言葉は、「救われる人は少ない」と言っているようにも聞こえます。しかし、本当にそうでしょうか。

  (2) 「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」(29節)は非常に多くの人がそこに受け入れられているイメージです。「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」(30節)は、「人間の考えでは先だと思っている人が神の国では後になり、人間の考えで後だと思っている人が神の判断では先になる」ということです。一方ではものすごい広さがあって、予想もしなかった多くの人がそこに招かれていく、という面と、同時に、入れるはずの(つもりの)人が入れないという面があるのです。神の裁き(判断)は、人間の考えや計算を超えている、ということなのでしょう。「救われる人が多いか少ないか」という人間の「取らぬタヌキの皮算用」は通用しない世界なのです。「戸を閉めてしまってからでは」(25節)ダメだというのは、あくまでも今の生き方が問われるということですが、では、神の目から見て何が本当に良しとされることなのか。これについて、きょうの箇所には明白な答えがないようにも感じられます。

  (3) マタイ7章22-23節 にはよく似た言葉が伝えられています。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心(みこころ)を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名(みな)によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」。
 ここでは、「天の父の御心を行う」という表現が使われていますが、マタイ福音書には、もっと明確な言葉もあります。それは25章31-46節です。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(35-36節)「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)。ここでは、神の裁き=判断の基準は非常に明白です。

  (4) ルカ福音書の中のたとえ話で言えば、やはり「善いサマリア人のたとえ」(ルカ10章25-37節)を思い出すべきでしょう。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」、「わたしの隣人とはだれですか」と問いかけた律法学者に向かってイエスはこのたとえを話されました。律法学者は、神の報いについて人間的な計算をしようとしたのでしょう。しかし、たとえ話の中のサマリア人は、報いを期待して道に倒れていた人を助けたのではありません。彼は「憐(あわ)れに思って」、すなわち「はらわたをゆさぶられた(スプランクニゾマイsplanknizomai)から」助けたのです。
 イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」(37節)と教えましたが、イエスご自身の生き方がまさにこのサマリア人のような生き方だったとも言えます(ルカ7章13節など参照)。古代のある人はイエスを「アウトバシレイアautobasileia(ご自身が神の国である方)」と呼びました。イエスは神の国に入る資格があるというより、イエスの中に神の国がもう実現しているのです。今神の国を生きること、そして最後まで神の国を生き抜くこと。このイエスの生き方は、人間的な計算に基づく生き方ではありませんでした。

  (5) 救われるための計算に基づく行いは、その人の本当の生き方とは言えないでしょう。「自分が救われるために人を愛する」というのも何か変です。わたしたちは、どうしたら今、神の国を生きることができるのでしょうか。
 ルカの今日の箇所では、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と言われています。これは、「多くの人が来るが、その中の少数しか入れないほど狭い戸口」というニュアンスですが、マタイ7章13-14節には「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」という言葉があります。この「狭い門」は多くの人が見過ごしてしまうほど小さな門、という意味でしょう。わたしたちにとって、狭い門、狭い戸口から入るとはどういうことでしょうか。人間的な見方や打算ではなく、わたしたちの心のもっとも深いところに働きかける神の呼びかけに従うことだと言ったらよいかもしれません。それを「聖霊の導き」と言うのですが・・・。




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Posted on 2016/08/11 Thu. 09:00 [edit]

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年間第20主日 (2016/8/14 ルカ12・49-53)  


教会暦と聖書の流れ


 イエスのエルサレムに向かう旅の段落の中で、ずっと語られているのは「神の国」についての教えです。この神の国には、「今すでに始まっている」という面と、「世の終わりに現れ、完成する」という面があります。終末における完成ということの中には、神に反するすべてのものが滅ぼされる「裁き」の面があります。先週の箇所(ルカ12章32-48節)もその裁きについての警告の言葉でしたが、きょうの箇所にも、非常に厳しい警告の内容を持つイエスの言葉が集められていると考えたらよいようです。なお、51-53節はマタイ10章34-36節に似た言葉があります。


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  (1) ここでイエスがおっしゃる「火」とは何のことでしょうか。この箇所だけから考えるのは難しいでしょうが、ルカ3章16節に洗礼者ヨハネのこういう言葉がありました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。この「火」は一方では神に反するものを滅ぼしつくす「裁きの火」です。ただ、この見方だけではルカ12章49節の「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」との結びつきは理解しにくくなるかもしれません。
 この「火」は「聖霊」、「洗礼」と結びついています。使徒言行録2章にある「炎のような舌」も聖霊のシンボルです。ここには「清め」のイメージもあります。「火」は、聖霊によって人に罪のゆるしをもたらし、神との結びつきを確かにする「清めの火」でもあると言えるでしょう。なお、きょうの50節にも「洗礼」のイメージが続いています。

  (2) 「平和」はヘブライ語で「シャローム」と言います。すでにイエスの誕生の場面で、天使たちはこう歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2章14節)。イエスのもたらすものは本来、平和であるはずです。この平和は人と人とが深く尊重し合って生きるような、神から来る平和だと言うことができるでしょう。これに対して、「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」という時の「平和」は争いが避けられ、表面的に平穏が保たれているだけの状態だということだと言えます。
 イエスの到来とそのメッセージは、人々にはっきりとした態度の決断を求めるものでした。それは、イエスによって始まっている神の国を受け入れるか、それを拒否するか、という決断です。そこでは表面的な平穏さを保つだけではすまないのです。

  (3) 53節はミカ7章6節の引用だと考えられます。「息子は父を侮(あなど)り/娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」。これは人々の中に悪が満ち、もはや親しい者さえも信じることができないという終末の混乱した状況を語る言葉です。これに続くミカ7章7-8節では、その混乱の中で主に信頼する人の生き方が示されます。
 「しかし、わたしは主を仰ぎ/わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光」。
 終末についての聖書の教えは、神が人間の間に混乱や分裂を引き起こすということを語ろうとしているのではありません。現実にどのような混乱や分裂があっても、それを突き抜けて神の救いが実現する、という希望と確信を表すものなのです。

  (4) 「五人」の家族というのは、両親とその息子、娘に、息子の嫁を加えた家族の姿が考えられているのでしょうか。だとするとこの対立は、親の世代と子どもの世代の間の対立であるという見方もできるかもしれません。それは、イエスご自身や弟子たちが経験したことでもあったようです。
 「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とは誰か』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」(マルコ3章31-34節)
 「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(マルコ1章19-20節)。
このような場面を思い起こすならば、この対立は、自分の家族の中でうまくやっていけばよいという態度と、神の子どもとして、すべての人と兄弟姉妹としてのつながりを生きようとする態度の間にある対立ということになるでしょう。

  (5) きょうの箇所が語っているのは、いつのことでしょうか。最終的な裁きと神の国の完成の時のようでもあり、イエスが活動している今のことのようでもあります。また、「わたしには受けねばならない洗礼がある」という言葉は、イエスの十字架の時を特に意識させます(マルコ10章38-39節参照)。今が終わりの時である、イエスの到来とともにすでに終わりの時は始まっている、ということはわたしたちにとっても大切でしょう。
 わたしたちの中にも分裂や対立の厳しい現実があるかもしれません。その中で神の救いが見えなくなることもあるかもしれません。それはある意味で終末のような状況です。しかし、「対立して分かれる」(53節)ということがイエスの望みではないし、本当の終わりでもないのです。
 内容的に言えば、きょうの箇所に続くはずの言葉は、「ただ、神の国を求めなさい」(ルカ11章31節)ではないでしょうか。だとすれば、「火」とは「神の国に対する熱い思い」だと考えることもできるでしょう。イエスがわたしたちに求めているのは、「その火がすでに燃えていたら」ということだと受け取ってみてはどうでしょうか。




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Posted on 2016/08/04 Thu. 07:00 [edit]

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年間第19主日 (2016/8/7 ルカ12章32-48節)  

教会暦と聖書の流れ


 ルカ福音書で、イエスのエルサレムに向かう旅の段落(ルカ9章51節~19章44節)が続いていますが、この中で、ルカはイエスのさまざまな教えを伝えています。この旅は十字架を経て神のもとに行く旅ですが、同時に、神の国について語り続ける旅でもあったのです。きょうの箇所は、先週の「おろかな金持ち」の話の後、「思い悩むな、ただ神の国を求めなさい」という教え(22-31節)に続いて語られる言葉です。


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  (1) 32節「小さな群れよ、恐れるな」。これはもちろんイエスと共にエルサレムへの旅をしていた弟子たちに向けられた言葉です。イエスが今のわたしたちにも同じように呼びかけてくださっていると感じてみてはどうでしょうか。「父は喜んで神の国をくださる」という喜びの雰囲気も感じたいものです。イエスは弟子たちの心を、目先の利害・損得ではなく、もっと大きな、過ぎ去ることのない「神の国」の喜びのほうに向けさせようとしているのです。「持ち物を売り払って施しなさい」「富を天に積みなさい」(33節)も、難しい命令というだけではありません。わたしたちはイエスの言葉を、本当にすばらしい、豊かないのちへの招きとして受け取ることができるのではないでしょうか。

  (2) 「主人が帰ってくる」(36-38節)、「人の子が来る」(40節)というのは終末のイメージです。聖書が語る世の終わり、あるいは個人の終わり(死)についての教えの中ではいつも2つの確信が示されています。1つは「今のこのときは終わる、過ぎ去る」ということ、そしてもう1つは「そこで神(あるいは、キリスト)との決定的な出会いがある」ということです。この終末についての教えは聞く人の状況によって、希望のメッセージにもなれば、警告のメッセージにもなります。
 (a) 希望のメッセージ
 本来、聖書の中で「世の終わり」が語られるようになった背景は、迫害や極度の苦しみという状況でした。「信じれば信じるほど現実には救いが見えなくなる」という状況の中で、「今この世を支配している悪の力がすべてではない」「この悲惨な現実を超えて(死さえも超えて)、神はもっと豊かな救いを(いのちを)与えてくださる」これが終末のメッセージの大切な1つの面です。
 (b) 警告のメッセージ
 他方、迫害や苦しみの中ではなく、「なんとなくいい加減に生きている」というとき、終末のメッセージは厳しい警告のメッセージになります。最終的に神に出会い、神の目から見たときに何が本当に価値あるものなのかが明らかになる(この神の判断を「裁き」と言うのです)。今わたしたちが求めているもの、大切にしているものは、神の目から見たら正しいのかどうか、そのことを強烈に問いかけるのです。
 きょうの福音の中にもこの両方の面があります。わたしたちは自分の状況をどう感じているでしょうか。そこからこのメッセージをどのように受け取ることができるでしょうか。

  (3) 「目を覚ましている」という言葉は、考えてみると少し分かりにくいところがあります。「泥棒に入られないようにいつも警戒している」(39節)と言うたとえは分かりやすいのですが、そうすると、来るべき神の国が「災い」であるかのように聞こえてしまう恐れがあります。むしろ「目を覚ましている」というとき、「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている」(36節)というイメージが大切でしょう。この僕(しもべ)は、主人が来るのを心から待ち望んでいます。主人のほうにいつも心を向けているのです。ルカ21章36節には、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」という言葉があります。祈りとは何よりも心を神に向けることです。自分の思いや、反省や、願いを自分の心の中でどうどう巡りさせているのが、祈りではありません。それらを突き抜けて心を神に(イエスに)向けていくこと。ルカ福音書の「目を覚ましていること」とはそういうことだといったらよいかもしれません。わたしたちにとって「目を覚ましている」とはどういうことでしょうか。

  (4) 37節の「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」というのは非常に印象的な姿です。常識的には、いくら僕がよくやったからと言って、そこまでする主人はいないでしょう。しかし、イエスの姿はまさにそうだったと言えます。マルコ10章45節に「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」という言葉がありますが、イエスの生き方は、主でありながら人々に仕える生き方そのものでした。僕にとって主人から給仕されることが喜びなのではありません。むしろ、仕えることを喜びとする主人(イエス)の心を、本当に深く受け取ることこそが大切なのだと言えるのではないでしょうか。

  (5) 35-40節がすべての弟子のあるべき態度を語っているのに対して、41節以下は教会の中の特定の人々、責任を負った人々のことを語っているように聞こえるでしょうか。確かに「主人が召し使いたちの上に立て・・・(た)・・・管理人」というのは教会の指導者のことだと考えるのが一般的な解釈です。
 ところで、彼らはなぜ厳しく責任を問われるのでしょうか。立場上、大きな責任を負わされているから、というだけでなく、「彼らは主人の思いを知っているはずだ」という点は大切でしょう。そうだとすれば、ここで語られている管理人のあり方についての教えは特定の指導者だけでなく、「主人の思いを知っている」すべての人にかかわる教えだとも考えられます。「多く与えられた者」「多く任された者」というのも、わたしたち一人一人が自分自身のことだと受け取ってみてはどうでしょうか。




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Posted on 2016/07/29 Fri. 19:10 [edit]

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