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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

四旬節第4主日 (2021/3/14 ヨハネ3章14-21節)  


教会暦と聖書の流れ


 四旬節・復活節の根本的なテーマはイエスの死と復活にあずかることです。ヨハネ福音書はある意味で、すべての箇所がこのテーマを表していると言えるので、この季節によく読まれます。先週の箇所に続き、ヨハネ3章1節からイエスとニコデモとの対話が始まりますが、その中できょうの言葉が語られています。


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  (1) ヨハネ3章1節で、ニコデモは「ファリサイ派に属する」「ユダヤ人たちの議員であった」と紹介されています。彼はイエスに尊敬の念を持って近づいていったようです。このニコデモとの対話の中で、きょうの言葉が伝えられています。ただし、3章16-21節はイエスの言葉というよりも、福音記者ヨハネの言葉と考えることもできます(聖書のギリシア語本文には「 」のようなしるしはありません)。
 ニコデモには「新たに生まれる」(3,7節)というイエスの言葉が理解できませんでした。この「新たに」はギリシア語ではanothen(アノーテン)という言葉で、「新しく」という意味の他に「上から」という意味もあります。イエスは「上から、すなわち神から生まれること」について語っているのに、ニコデモのほうは「もう一度母親の胎内に入って生まれる」ことだと思っているので、話がかみ合わないのです。自分の努力で一生懸命律法を守ることによっていのちが得られると考えたファリサイ派のニコデモには、イエスが語られる「神からのいのち、神の霊によって生かされるいのち」が理解できなかったようです。

  (2) 「天から降(くだ)って来た者、すなわち人の子のほかには、天に(のぼ)った者はだれもいない」(13節)の「人の子」はもちろんイエスご自身のことです。そして、この言葉は続く14節の「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」とつながっています。「モーセが荒れ野で蛇を上げた」話は民数記21章4-9節にあります。紀元前13世紀、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野の厳しい生活に耐え切れず、神とモーセに不平を言いました。その時「炎の蛇」が民を噛み、多くの死者が出て、民はようやく回心しました。「主はモーセに言われた。『あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。』モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」(21章8-9節)。古代の人々にとって、蛇は不思議な力を持つ存在で、人間を害するもの=罪や悪のシンボルでもありましたが、同時に、いやしと救いのシンボルにもなりました。この2面性が十字架の2面性と通じるのでしょう。十字架もまた、のろいと死のシンボルでしたが、キリスト者にとっては救いといのちのシンボルになったからです。

  (3) とにかく、ヨハネ3章14節の「上げられる」は、直接には十字架の木の上に上げられることを意味しています。ここにヨハネ福音書の一つの特徴があります。ヨハネは受難の物語を始めるに当たってこう言います。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(13章1節)。ヨハネは十字架のイエスの中に「愛の極限の姿」を見ています。ヨハネにとって「神は愛」(ヨハネの第1の手紙4章8,16節)です。十字架において、イエスはこの「愛である神」と完全に一つになります。だから十字架は挫折ではなく、栄光の時であり、ヨハネ福音書では「十字架に上げられる」ことと「天に上げられる(=神のもとに行く)」ことが一つのことになっているのです。

  (4) 次に、14節から16節をよく見てみましょう。
 14 モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
 15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
 16a 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
 16b 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 このように並べてみると、15節と16節bはほとんど同じことを言っているのに気づきます。だとしたら、14節と16節aも同じことを言っているのではないかと考えられます。つまり、「独り子をお与えになった」ということには、ただ「イエスを世に遣わした」というだけではなく、「十字架の死に至るまで与えつくした」という意味のあることが分かります。ヨハネはそこに神の愛の最高の表れを見るのです。

  (5) 18-21節の「裁き」のイメージは大切です。ふつう「裁き」というと「神が人に善し悪しをつけること」と考えがちですが、ここではそうではありません。神は圧倒的に光をもたらす方であって、その光を受け入れないことが(つまり闇の中にとどまることが)裁き(=救われない状態)であるというのです。創世記の1章を思い出します。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた」(創世記1章3-4節)。神はこの闇の世界に、光だけをお造りになりました。闇とは、その光がない状態なのです。
 ヨハネ福音書は、イエスの圧倒的な愛を体験し、ここにこそ、光と救いといのちがある、と確信したところからすべてを語っています。だから、この方を受け入れるか否か(=信じるか否か)に救いのすべてがかかっているのです。ここでは、「客観的に考えてみて、キリストを信じない人は救われるかどうか」というようなことは問題になっていません。根本にあるのは「愛の体験、光の体験」なのです。わたしたちにもそのようなイエスとの出会いの体験があるでしょうか。




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Posted on 2021/03/05 Fri. 08:30 [edit]

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四旬節第3主日 (2021/3/7 ヨハネ2章13-25節)  


教会暦と聖書の流れ


 四旬節第3~5主日の福音は年によって雰囲気がかなり違います。四旬節の持つさまざまな性格が年毎に表れていると言えます。A年は伝統的な洗礼志願者のための福音(ヨハネ4、9、11章)、C年は回心とゆるしをテーマとした箇所。今年(B年)はイエスの「死と復活」を直接テーマとする箇所が選ばれています。そういう意味で、今日の箇所の中心テーマは「三日で建て直される神殿」すなわち「死んで三日目に復活するイエスの体」です。


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  (1) マルコ・マタイ・ルカ福音書によれば、イエスはずっとガリラヤ地方で活動していて、生涯の終わりに1度だけエルサレムの都に上り、そこで殺されたということになっていますが、ヨハネ福音書ではイエスは何度もガリラヤとエルサレムを行き来しています。「過越祭(すぎこしさい)」の季節にエルサレムに行くのは自然なことでしょう。ただし、この箇所でわざわざ「過越祭」について言及されているのは、イエスの「死と復活」を暗示するためかもしれません。イエスが殺されたのは過越祭の時でしたし、イエスは死からいのちへと過ぎ越す新しい「過越」そのものだからです。この「過越」はきょうの福音の重要なテーマです。

  (2) 牛や羊や鳩は神殿でいけにえとしてささげられる動物でした。また、当時流通していたギリシアやローマの貨幣は神殿への献金には使えなかったので、イスラエルの伝統的な貨幣に交換してもらう必要もありました。これらの商売は神殿にとって必要なものだったのです。イエスはなぜ彼らの商売を妨害しようとしたのでしょうか。
 ヨハネ福音書ではイエスの活動の初期の話ですが、マタイ、マルコ、ルカ福音書では同じ出来事が生涯の最後に起こっています。そこでイエスは「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」というイザヤ書56章7節の言葉を引用しています(マルコ11章17節など)。イエスにとって神殿は純粋に「祈りの家」であるべきだったので商売を否定したということでしょうか。だとしたら神殿そのものは否定されていないということになります。ヨハネ福音書でも詩編69編10節を引用した「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」という言葉が伝えられていますが、これは「あなたの家(=神殿)に対する熱心さでわたしの心はいっぱいになっている」という意味です。少なくとも周囲の人々には、イエスが神殿を大切にしようとしていると見えたのでしょう。

  (3) しかし、ヨハネ福音書では、神殿そのものが過去のものになっていて、イエスと共に新しい時代が始まっている、という面が大切です。その意味で、2章1-11節のガリラヤのカナでの婚宴の話と対(つい)になっています。そこでは古い時代の象徴である「清めの水」が新しい時代の象徴である「ぶどう酒」に変えられました。エルサレムの神殿がローマ軍によって破壊されるのは、イエスの死から40年ほど後の紀元70年のことですが、ヨハネ福音書が書かれた時代から見れば、過去の出来事でした。しかしヨハネ福音書は、イエスが登場したとき、もうすでに石造りの神殿の時代は終わったと見ているのです。
 ヨハネ福音書は奇跡のことを「しるし」と言います(2章11節参照)。奇跡は単なる不思議な出来事ではなく、イエスとはどういう方かを表す「しるし」なのです。しかし、ただ単に奇跡に驚いてイエスを信じる態度は否定されています。三日で建て直される神殿とは、「死んで三日目に復活するイエスの体」のことです。究極のしるしは「イエスの死と復活」だと言ってもいいでしょう。そこでこそ、イエスとはどういう方かが明らかにされるからです。神殿の本来の意味は「神がそこに住まい、人が神と出会う場」です。イエスという方において、特に死んで復活したイエスという方において、神は人と共におられ、人は神に出会うことができる。わたしたちもこの新しい時代に生きています。

  (4) ヨハネが伝えるイエスの言葉「わたしの父の家を商売の家としてはならない」(16節)の背景には、ゼカリヤ書の結びにある「その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」(14章21節)という言葉があるのかもしれません。「その日」は救いの完成の日です。なぜ、その日には神殿から商人の姿がなくなるのでしょうか。ゼカリヤ書は直前でこう言います。「(その日には、)エルサレムとユダの鍋(なべ)もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る」(14章21節)。「鍋」は日常生活の象徴です。その日には、日常生活のすべてが聖化されるので、もはやエルサレムの神殿で行なわれるいけにえの儀式は不必要になる、だからいけにえの動物を売る商人もいなくなる。つまり日々の生活が神との出会いの場になるという預言だと考えられます。これもイエスによって始まった新しい時代の特徴です。わたしたちの日々の生活の中でそれを感じることができるでしょうか。

  (5) 23-25節は何でしょうか。「イエス御自身は彼らを信用されなかった」(24節)の「信用する」は原文では23節の「信じる」と同じ動詞です。ここで「しるし(奇跡)を見てイエスを信じる」という態度が否定的に見られているのは明らかです。奇跡によってイエスを信じても、いつか(特に十字架を前にした時に)人は離れていくであろうということが予告されているようです。この箇所には、もしかしたら3章のニコデモとの対話への導入の意味もあるかもしれません。ファリサイ派の議員であったニコデモは「神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできない」(3章2節)と言いますが、彼が本当にイエスを信じるようになったのは、イエスの死の後のことだったようです(19章39節参照)。わたしたちもイエスの死と復活を見つめるように招かれています。




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Posted on 2021/02/26 Fri. 13:00 [edit]

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四旬節第2主日 (2021/2/28 マルコ9章2-10節)  


教会暦と聖書の流れ


 四旬節に「主の変容」の箇所が読まれるのは、教会の古い伝統です。山の上でのイエスの栄光の姿は、イエスが受難と死をとおって受けることになる栄光の姿が前もって弟子たちに現されたのだと考えられてきました。この日の福音の中に、「イエスの受難・死・復活にあずかる」という四旬節の大きなテーマが示されています。
 四旬節には、「洗礼志願者の準備」、「回心」とその具体的な表れとしての「祈り・節制・愛の行い」など、さまざまなテーマがありますが、そのすべてはきょうの福音のテーマ「イエスの受難・死・復活にあずかること」につながっています。


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  (1) この「高い山」とはどこのことでしょうか。伝統的にはガリラヤ地方エズレル平原にあるタボル山だとされています。平野の中にお椀を伏せたような形で、標高は558メートルです。それほど高い山とは言えないでしょう。もう一つの可能性は、「ヘルモン山」です。こちらは2,800メートル級の山々で、現在ではスキー場もあるそうです(写真は1月のヘルモン山)。マルコ福音書のこの箇所の直前に出てくる地名は「フィリポ・カイサリア地方」です(8章27節)。フィリポ・カイサリアとヘルモン山はそう遠くありません。きょうの箇所は「六日の後」という言葉で始まり、前の話とのつながりを感じさせますので、ヘルモン山だと考えてもよいかもしれません。

  (2) 直前の箇所は、8章の、いわゆるペトロの信仰告白と最初の受難予告です。
 「31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32a しかも、そのことをはっきりとお話しになった。32b すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱(しか)って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。』」
 マルコ福音書は3回の受難予告を伝えますが、いつも同じパターンがあります。
 (A) イエスがご自分の受難・死・復活を予告する(31-32節前半a)。
 (B) 弟子たちはそれを理解できず、見当はずれのことを考えている(32節後半b)。
 (C) イエスは弟子たちに受難の道の意味を語り、同じ道に弟子たちを招く(33-35節)。
 きょうの出来事はこれと密接に結びついています。8章31-35節が言葉による受難予告であったとすれば、きょうの箇所は「出来事による受難予告」と言ってもよいでしょう。

  (3) モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の中心部分を表し、イエスの受難と復活が、聖書に記された神の計画の中にあることを示しています。なお、ルカ福音書はイエスとこの2人が話し合っていた内容を「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9章31節)であったとし、この出来事とイエスの受難・死の結びつきをより明確に示しています。
 ペトロが仮小屋を建てようと言っているのは、この光景のあまりの素晴らしさが消え失せないように、3人の住まいを建ててこの光景を継続させたい、と願ったからでしょう。しかし、この光景は継続するものではなく、一瞬にして消え去りました。今はまだ栄光の時ではなく、受難に向かう時だからです。マルコ福音書は、ここで弟子の無理解を描こうとしているのでしょうか(上記(B)の要素)。

  (4) 雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。イスラエルの民の荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト記40章34-38節参照)。雲の中からの声は、もちろん神の声です。「これはわたしの愛する子」という言葉は、ヨルダン川でイエスが洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マルコ1章11節)。洗礼の時から「神の愛する子」としての歩みを始めたイエスは、ここからは受難の道を歩むことになりますが、その時に再び同じ声が聞こえます。つまりここで、この受難の道も神の愛する子としての道であることが示されるのです。「これに聞け」の「聞く」はただ声を耳で聞くという意味だけでなく、「聞き従う」ことを意味します(申命記18章15節参照)。受難予告で「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8章34節)と言われていたことと対応していると言ったらよいでしょう。これは上記(C)の要素にあたります。

  (5) イエスの変容の姿は受難のイエスに従うよう弟子たちを励ますものでしたが、弟子たちは結局従うことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(14章50節)と、マルコははっきり書いています。受難予告を理解できず、最後までついて行けなかった昔の弟子たちをマルコは非難しようとしているのでしょうか。そうではなく、自分たちも同じ過ちを犯す危険があると警告しているのでしょう。弟子たちは実際にイエスの死と復活が起こった後で、本当の意味で理解し、従う者となりました。わたしたちはもうすでにイエスの歩まれた道を知っています。そのわたしたちをイエスはご自分の道に招いてくださっています。今のわたしたちにとってイエスに「聞く=聞き従う」とはどういうことでしょうか。




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Posted on 2021/02/19 Fri. 13:54 [edit]

category: 2021年(主日B年)

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四旬節第1主日 (2021/2/21 マルコ1章12-15節)  


教会暦と聖書の流れ


 「四旬節」は復活祭の準備の季節です。「四旬節」という言葉は「40日間」を意味します。復活祭までの日曜日を除く40日間が断食の期間とされたので、灰の水曜日が四旬節の始まりの日になりました。そもそもは復活祭に入信の秘跡(洗礼・堅信・聖体)を受ける人の準備期間であり、今もこの四旬節第1主日に洗礼志願式が行われます。また、教会全体が主の過越(死と復活)にふさわしくあずかるための準備期間とも考えられるようになりました。


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  (1)  きょうの箇所は2つの部分からなっています。イエスの活動開始に先立つ荒れ野での誘惑(12-13節)と、イエスの活動開始の部分(14-15節)です。四旬節第1主日には四旬節の原型となった40日の荒れ野の誘惑の場面が、3年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書から読まれます。マタイやルカは誘惑の内容を伝えますがマルコはもっと簡潔です。
 イエスを荒れ野に送り出すのは、"霊"です。新共同訳聖書は、以前の口語訳聖書で特別に「聖霊」の意味で「御霊(みたま)」と訳されていた箇所を「"霊"」と表記しています。この霊は1章10節で「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて"霊"が鳩のように御自分に降(くだ)って来るのを、御覧になった」と描かれています。洗礼のとき以来、一貫してイエスの行動を導くのは神の霊なのです。

  (2)  「荒れ野」についてはA年四旬節第1主日の「福音のヒント」を参照してください。「サタン」はヘブライ語で「告発する者」「敵」を意味する言葉です。人を神から引き離す力の元締めがサタンだと考えればよいでしょう。「誘惑」と訳された言葉には「誘う」と「試す」の両方の意味がありますが、ここでは「神から離れるように誘うこと」です。
 主の祈りの文語訳は「われらを試みに引きたまわざれ」となっていましたし、新共同訳のマタイ6章13節では「わたしたちを誘惑に遭(あ)わせず」と訳されています。しかし、誘惑や試練は必ずあるものなので、「誘惑や試練にあわせないでください」と祈ることは考えにくいでしょう。今、カトリック教会で唱えられている主の祈りでは「わたしたちを誘惑に陥らせず」となっていて、「誘惑があってもそこに陥ることのないように守ってください」と理解しています。このほうが、きょうの箇所のイメージにもつながるでしょう。

  (3) マルコは「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」と述べています。これは何を意味しているのでしょうか。この箇所の背景に旧約聖書のイメージがあるとすると、思い浮かぶ箇所の一つはイザヤ書11章です。
 「6 狼は小羊と共に宿り/豹(ひょう)は子山羊(こやぎ)と共に伏す。子牛は若獅子(わかじし)と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。7 牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。8 乳(ち)飲み子は毒蛇(どくじゃ)の穴に戯れ/幼子は蝮(まむし)の巣に手を入れる。9 わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。10 その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」
 ここで、野獣はもはや人を害するものではなくなっています。神の救いが実現する終末的な平和の状態が描かれているのです。「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」をこのような終末の時がもう始まっている描写と見るのが一つの可能性です。
 
  (4) 別の箇所ですが、詩編91では野獣と天使が同時に現れます。
「3 神はあなたを救い出してくださる/仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。4 神は羽をもってあなたを覆い/翼の下にかばってくださる。・・・(中略)・・・11 主はあなたのために、御(み)使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。12 彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。13 あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり/獅子の子と大蛇(だいじゃ)を踏んで行く。14 『彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。15 彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。』」
 ここでは危険がまだ続いています。しかし、その中でも天使(御使い)に象徴される神の確かな保護がある、というのです(ちなみにこの詩編の11-12節は、マタイ4章6節とルカ4章10-11節でイエスを誘惑するために悪魔が引用する箇所です)。もしかすると、このほうがこれから始まるイエスの歩み全体には合っているかもしれません。十字架に至るまでイエスは神に従い、悪と戦い、神によって復活させられたからです。このイメージはまた、困難や危険に満ちたわたしたちの現実にもあてはまるのではないでしょうか。

  (5) 活動開始の箇所が読まれるのは「悔い改めて福音を信じなさい」という言葉のためで、回心の季節としての四旬節の性格を明らかにします。「悔い改め」はギリシャ語(名詞形)で「メタノイアmetanoia」と言います。「メタ」は「変える」、「ノイア(ヌース)」は「心」の意味です。元来は「心を変えること」を意味しましたが、新約聖書では「全身全霊で主に立ち帰る」ことを意味しています。「メタノイア」とはただ単に過去の過ちを後悔し、自分の罪深さを思うだけではありません。むしろ、神に心を向け直すことです。それは「心と生き方の方向転換」と言ってもよいでしょう。それを表すのが「回心」という漢字の表記です。主の死と復活を記念する四旬節・復活節のはじめに、わたしたちの心と生き方がどこを向いているかが問われています。




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Posted on 2021/02/12 Fri. 12:00 [edit]

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年間第6主日 (2021/2/14 マルコ1章40-45節)  


教会暦と聖書の流れ


 マルコ福音書は1章39節でイエスの活動を簡潔にまとめて、「ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」と表現しています。「悪霊を追い出す」ことは「病人をいやす」ことと密接に結びついていました(先週の「福音のヒント」参照)。きょうの箇所も一人の病人とイエスとの出会いを伝えています。


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  (1) 「重い皮膚病」は1987年発行の『聖書 新共同訳』の中では「らい(病)」と訳されていましたが、1996年の「らい予防法」廃止を契機に「重い皮膚病」という訳に変わりました。差別的なニュアンスのある「らい(病)」という言葉を避けるためであり、また、聖書の中のこの病気が現代医学の「ハンセン病」と同じだとは言い切れないからです(なお、2018年発行の聖書協会共同訳では「規定の病」という訳語が用いられています)。しかし「重い皮膚病」や「規定の病」という言葉では、古代から続くハンセン病患者たちの大きな苦しみを感じることができなくなってしまうかもしれません。聖書の世界でこの病の人々が負わされていた苦しみはレビ記の規定から想像できます。
 「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚(けが)れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ13章45-46節) 。
 「伝染病」という考えはなくても、「汚れがうつる」という考えはありました。「汚れている」とは「聖である神と対極にいる、神からもっとも遠い人間だ」ということです。また、この病は「神に撃たれたもの」とも考えられました。「宿営の外」は共同体から追放されることを意味しています。神との関係も人との関係も完全に絶たれてしまうのです。肉体的な苦しみだけでない、大きな苦しみがこの人々にはありました。このような苦しみのことを考えずに、きょうの箇所を理解することはできません。

  (2) 「御心(みこころ)ならば、わたしを清くすることがおできになります」「よろしい。清くなれ」(40-41節)は、直訳では「あなたが望むなら、あなたはわたしを清めることができます」「わたしは望む清められよ」です。単純で力強いイエスの言葉です。イエスは彼に触れました。触れることは相手の苦しみを共に担おうとする動作だとも言えますし、「あなたは神からも、人からも断ち切られた人間ではない」という宣言だったとも言えるでしょう。病気や苦しみに対するイエスの態度はどのようなものだったのでしょうか。確かにイエスは人々を苦しみから解放しようとされました。しかし、最後にはご自分の身に降りかかってくる苦しみを受け入れました。病気や苦しみについて考えるとき、この両面を考えないわけにはいきません。どちらの場合も、イエスにとって大切なことは神とのつながり、人とのつながりを生き抜くことでした

  (3) 「深く憐れんで」は、元のギリシア語では「スプランクニゾマイsplanknizomai(=はらわたを揺さぶられる)」という言葉(C年年間第15主日の「福音のヒント」参照)ですが、ここには写本上の問題があります。現存する古代の多くの写本を比べてみると、それぞれ微妙な違いのある箇所があります。この箇所では「深く憐れんで」が「怒って」となっている写本があるのです。「深く憐れんで」のほうが分かりやすいことは確かです。しかし、書き写す際にわざわざ難しく書き換えることは考えにくいので、本来は「怒って」だった可能性もあります。もし「怒って」だとすれば、その怒りは何に対するものでしょうか。もちろん、目の前の病人に対してではないはずです。この人を苦しめている何ものかに対する怒りだと言ったらよいでしょう。いずれにせよ、イエスは目の前の苦しむ人との出会いの中で激しく心を揺さぶられ、その人を助けます。イエスは「神の国の到来」を証明しようとして「いやし」を行なったわけではないのです。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」(44節)という言葉にも、このようないやしの奇跡によって自分を理解されることを望まないイエスの思いを感じ取ることができます。

  (4) 「祭司に体を見せ」ることは社会復帰のための条件でした。当時、人を重い皮膚病であると判定するのも、それが清められたことを判定するのも祭司の役割でした。肉体的にいやされても、祭司によって清いと宣言されなければ、もといた村や家族のところに帰ることはできないのです。イエスはただ単に彼の肉体的な病をいやすだけでなく、彼と人々との絆(きずな)を取り戻そうとしていると言うこともできるでしょう。

  (5) イエスによるいやしについて、アルバート・ノーランという南アフリカのドミニコ会司祭は次のように書いています。「イエスのいやしの活動が成功したことは、宿命論に対する信仰と希望の勝利として見られねばならない。病気を自分の定めとして諦めていた病人が、自分たちは治ることができるし、そうなると信じるよう勇気づけられたのだ。イエス自身の信仰、そのゆるぎない確信が病人のうちにこの信仰を呼び覚ました。信仰は、人々がイエスとの接触をとおして彼から獲得したある態度であった」(『キリスト教以前のイエス』篠崎榮訳。新世社)。わたしたちの時代にもある種の宿命論(=あきらめ)があります。「どうせ世界は変わりっこない」「あんな人はダメに決まっている」「自分はどうにもダメな人間だ」などなど。もちろん、イエスが受難の道を受け入れたように、人間には受け入れなければならないこともあります。しかしあきらめてはいけないこともあるはずです。イエスの信仰(確信)は、神はすべての人のアッバ(父)であり、どんな人をも決して見捨てることなく、ご自分の子として愛してくださる、ということでした。イエスのこの確信は現代のさまざまな形の宿命論(=あきらめ)にも挑戦してきます。




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