福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第13主日 (2018/7/1 マルコ5章21-43節)  


教会暦と聖書の流れ


 マルコ4章35-41節でガリラヤ湖の嵐を静めた後、イエスは向こう岸の異邦人(ゲラサ人)の地に渡り、そこで悪霊に取りつかれた人をいやしました(5章1-20節)。そこから再びユダヤ人の地に戻って来てきょうの箇所になります。きょうの福音では、2つのいやしの物語が伝えられています。ここでは「信じる」というテーマが重要だと言えるでしょう。この「信じる」というテーマは、来週の福音の箇所(6章6節)にも続くテーマです。


福音のヒント


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  (1) きょうの箇所は21-24節と35-43節のヤイロの娘の話の間に、25-34節の出血の止まらない女の話が挟まれる、サンドウィッチのような形になっています。
 まず、25-34節について見てみましょう。「出血の止まらない女」と言われていますが、これは女性特有の病気の症状のようです。彼女は肉体的にも経済的にも苦しんでいましたが、それだけではない苦しみもありました。レビ記15章25-27節にこういう規定があります。
 「もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は(けが)れており、生理期間中と同じように汚れる。この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている
 つまり彼女は、重い皮膚病の人と同じように「汚れた者」というレッテルを貼られ、神から断ち切られていましたが、同時に汚れを移さないよう、人に近づくことも禁じられていて、人との交わりからも断ち切られていたことになります。

  (2) 人に近づくことが許されなかったので、彼女は「群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」のです。このような行為は、いやしの力を盗むことで許されないと考えられていたようです。彼女は「すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」とあります。イエスも「自分の内から力が出て行ったことに気づ」きます。イエスと彼女は、二人の間で起こったことを体で感じたようです。そしてイエスは彼女を見つけ出そうとします。なぜでしょうか?「ただ病いがいやされたということで終わるのではなく、イエスに出会い、イエスと人格的な交わりを持つことが本当の信仰だからだ」という説明もあります。もちろんそう言えるかもしれません。しかしもっと単純に、「いやしを盗んだ」彼女の後ろめたさと恐れを取り除くためだったと言ってもよいかもしれません。イエスは彼女の態度を「信仰」として評価し、彼女の心に「安心」を与えていくのです。

  (3) 「あなたの信仰があなたを救った」(34節)は福音書の中で何度か繰り返される言葉です(マルコ10章52節、ルカ7章50節、17章19節など)。これは不思議な言葉です。「神が救った」あるいは「イエスが救った」というのが本当ではないでしょうか。
 「信仰」と訳された言葉はギリシア語では「ピスティスpistis」で、36節の「信じる(ピステウオーpisteuo)」の名詞形です。「信じること、信頼」と訳すこともできます。福音書の中で語られる「ピスティス」とは、頭の中で「神がいる」とか「イエスはキリストである」と考えている、ということではありません。あきらめや不安を乗り越え、神に信頼を置いて生きるという態度なのです。きょうの出血症の女性のように、この人なら自分を救ってくれると信じて、必死の思いでイエスに向かって行く姿勢そのものが「ピスティス」だと言ったらよいでしょう。すべての人の父であり、すべての人に救いの手を差し伸べておられる神に対して、イエスご自身が深い信頼を寄せていました。イエスは同じ信頼を人々の中に呼び覚まします。神の救いを受け取るためにはこの「ピスティス」が不可欠なので(マルコ6章6節、来週の福音参照)、イエスは「ピスティス」を最大限に評価したのでしょう。

  (4) イエスがこの女性に関わっている間に、ヤイロの娘が死んだという知らせが届きます。出血病の女性の話は、ヤイロの話の展開に大きな意味を持っています。ヤイロや他の人々は、娘が生きているうちにイエスを呼べば助かる、しかし、死んでしまってはいくらイエスが来てくれてももう遅いと考えていたはずです。イエスはそのヤイロに向かって「恐れることはない。ただ信じなさい」(36節)と言います。出血症の女性の話は、ヤイロの娘の話に「信じる」というテーマを導き出す役割を持っているのです。このサンドウィッチのような物語の展開はただ単に時間的にそのように起こったというだけでなく、テーマの関連があるからこそ、このような形で伝えられてきた、と言えるでしょう。

  (5) 「ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネ」は最初の弟子で、特にイエスに近い弟子だったようです。彼らだけを連れて行ったこと、また「死んだのではない。眠っているのだ」というイエスの言葉は、どちらも奇跡を隠そうとしているのだと言えるでしょう。イエスはこの奇跡を人々に見せびらかすためにしたのではありません(なお、死は眠りに過ぎないという考えは、イエスの復活を知った初代教会の人々の確信でもあります)。
 「タリタ・クム」はアラム語です。新約聖書は1世紀の地中海周辺地域の共通語であったギリシア語で書かれましたが、イエスが話したアラム語がそのまま残されている箇所がいくつかあります(マルコ7章34節、15章34節など)。これらの言葉がアラム語のまま伝えられたのは、イエスの声の響きが聞いている人の耳によほど強い印象を残したということではないでしょうか。言葉には「ものごとを説明する」という働きがありますが、もっと根源的には「相手に働きかけ、相手を変える」働きがあります。創世記1章3節の「光あれ」のような力強い言葉として、イエスの言葉は人々の耳に(また、死んでしまったこの少女の耳にも)響いたのでしょう。ここには、必ずこの人にわたしの声が届くはずだ、というイエスの深い信頼(ピスティス)を感じとることができるでしょう。イエスは同じように、きょうもわたしたちにやさしく力強い声で語りかけてくださっているのです。




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Posted on 2018/06/22 Fri. 07:36 [edit]

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洗礼者聖ヨハネの誕生 (2018/6/24 ルカ1章57-66,80節)  


教会暦と聖書の流れ


 洗礼者ヨハネの誕生の祭日は毎年6月24日に祝われますが、今年はこの日が日曜日にあたり、年間主日よりもこちらが優先して祝われることになります。
 洗礼者ヨハネの誕生が父ザカリアに告げられてから、「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた」(ルカ1章26節)とあり、そこでイエスの誕生が告げられているので、主の降誕の6ヶ月前にこの祭日を祝うことになっています。きょうの祭日と福音の内容は、イエスの誕生の出来事と密接に関連しているのです。


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  (1)  エリサベトは洗礼者ヨハネの母親です。彼女はずっと子どもがないまま、高齢になっていました。当時の女性にとって子どもを産めないことは恥と考えられていました。エリサベトは子を身ごもったことを知ったとき、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」(ルカ1章24節)と言っています。子どもを産んだことのない高齢の女性から子どもが生まれることの中には、人間の力ではなく、神の力が働いていると考えられました。「主がエリサベトを大いに慈(いつく)しまれた」というのはそのためです。
 「近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った」(ルカ1章58節)。洗礼者ヨハネの誕生は周囲の人々に大きな喜びを与えます。「喜び合った」は直訳では「彼女と一緒に喜んだ」です。一人の喜びがみんなの喜びになる、そこには素晴らしいコミュニティーの姿があると言えるのではないでしょうか。

  (2) 「割礼」は、生後8日目に男子の包皮を切り取る儀式ですが、この儀式は、人が神の民の一員となることを意味していました。この日に命名も行なわれました。
 「ヨハネ」という名は、旧約聖書では「ヨハナン」と記されますが、この名前には「主は恵み深い」という意味があります。ここでは名前の意味よりも、それが天使によってザカリアに告げられた名(ルカ1章13節)であることのほうが重要でしょう。ザカリアは高齢の自分たち夫婦から子どもが生まれるという天使のお告げを信じなかったため、口が利けなくなっていました。62節に「手振りで尋ねた」とありますから、耳も聞こえなくなっていたようです。エリサベトはそれまで、ザカリアが天使に告げられた言葉を聞いていなかったと考えるのが自然でしょうか。そして、「名はヨハネとしなければなりません」というエリサベトの言葉はザカリアには聞こえていなかったはずです。だから、ザカリアが「この子の名はヨハネ」と書き、神を賛美し始めたことに多くの人が驚いたというわけです。
 「近所の人々は皆恐れを感じた」(65節)という時の「恐れ」は、「畏(おそ)れ」を表す言葉でもあります。これは神の力や神の現れに接して圧倒された人間の様子を表しています。
 なお、66節の「主の力が及んでいた」は直訳では「主のみ手が彼とともにあった」です。

  (3) 省略されている67-79節には、ザカリアが神を賛美して語った言葉が伝えられています。この賛歌は「ザカリアの預言」とか「ザカリアの歌」と呼ばれています。後半にこういう言葉があります。「幼子(おさなご)よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦(ゆる)しによる救いを/知らせるからである。これは我らの神の憐(あわ)れみの心による。この憐れみによって、/高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く」(76-79節)。父ザカリアは幼子の将来について預言しています。「主に先立って」の「主」は来たるべき救い主を暗示しています。「あけぼのの光」も来たるべき方を指しています。この「あけぼのの光」というところから朝の賛美に用いられるようになり、今も「教会の祈り(聖務日課)」の朝の祈りの中で毎日歌われています。

  (4) ルカ福音書は洗礼者ヨハネの誕生・成長の話とイエスの誕生・成長の話を並行させ、2人が同じ神の救いの計画の中にいることを印象づけています。ただし、神の子であるイエスの場合、さらに特別なことがあるという面もそこには表れています。
 高齢の女性が出産することの中には、神の力が働いていると考えられましたが、イエスの母マリアは処女でイエスを身ごもったので、その誕生は人間の力によるのではなく神の力によるものだということが、さらに徹底的に強調されています。誕生の場面についても違いがあります。イエスの誕生はヨハネの誕生よりもひそやかな出来事でした。イエスはヨセフとマリアの旅先で生まれ、宿屋には泊めてもらえず、祝いに駆けつけたのは貧しく、町の人々からさげすまれていた羊飼いだけでした。そこにはイエスの成人してからの活動と受難の姿が暗示されています。しかし、いずれにせよ、大きな喜びに満ちています。それはこの子どもをとおして神の救いの約束が実現していくという喜びです。

  (5) 80節の「幼子は身も心も健やかに育ち」は、直訳では「この幼子は成長し、霊が強められ」です。イエスについては2章40節で「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた」と言われ、2章52節では「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」と言われています。ここでもイエスのほうが、神の子としての特徴が表れていると言えるでしょう(なお、「イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた」と言われますが、これはヨハネが成長してから活動を始めるまでのことです)。洗礼者ヨハネやイエスという特別な人の成長のことが述べられていますが、ここで、同じように力強く成長していくすべての子どもたちのことを思い浮かべてもよいのでしょう。




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Posted on 2018/06/15 Fri. 08:30 [edit]

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年間第11主日 (2018/6/17 マルコ4章26-34節)  


教会暦と聖書の流れ


 マルコ福音書では、この4章にイエスの語ったさまざまなたとえ話が集められています。4章1-2節にはこう始まっていました。「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。…」(1-2節)。こうして「種まく人」のたとえ話が語られますが、10節には、「イエスがひとりになられたとき、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。」とあり、その後、きょうの箇所まで場面や話の相手は変わっていないような印象があります。


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  (1) しかし、マルコ4章の伝える状況が、イエスがこのたとえ話を語った本来の状況だったとは考えにくいものがあります。むしろ、いろいろな場面、いろいろな状況で語られたイエスのたとえ話が、その本来の状況から切り離されて、たとえ話だけで独立して伝えられてきて、それがこのマルコ4章の「たとえ話集」のように集められたのだと考えられるでしょう。ですから、マルコ4章では群衆や弟子たちに向けて語られた一般的な教えのようになっているものも、本来はそうではなかったのかもしれません。
 ヨアキム・エレミアス(1900-1979)という聖書学者は、イエスのたとえ話は本来すべて「福音の弁明」であると考えました (A年年間第15主日の「福音のヒント」参照)。イエスのたとえ話は抽象的、一般的な教えを述べるためではなく、ある特定の状況の中で、イエスに対する批判や疑問に答えるために語られたというのです。イエスに対する批判に答えるためにたとえ話が語られた典型的な例としては、有名なルカ福音書15章があります。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人(つみびと)たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された」(1-3節)。こうしてイエスは「見失った羊」「無くした銀貨」「放蕩息子」という3つのたとえ話を語ります。これらのたとえ話は、イエスがご自分の行動の意味を解き明かし、何が神のみ旨にかなうことであるかとはっきりと示すためのものです。

  (2) 今日のたとえ話は、一般論として神の国が最初は小さいが、いつか大きくなるということを教えているのでしょうか。むしろここにもイエスに対する批判や疑問が背景としてあったと考えてはどうでしょうか。
 イエスのメッセージの核心は、「時は満ち、神の国は近づいた」というものでした(マルコ1章15節)。それは言葉を代えて言えば、「神は沈黙を破り、ご自分の民を救うために、今、決定的な何かをなさろうとしておられる」というメッセージであり、当時の人々にしてみれば、ローマ帝国の支配を打ち破り、イスラエルに自由と解放をもたらすというような、政治的・軍事的なメッセージに聞こえたことでしょう。しかし、現実にイエスの周りで起こっていたことは、病人や悪霊に取りつかれている人がいやされ、貧しく無学な人々がイエスの弟子になっていくということでした。イエスの周りには多くの人が集まってきますが、それはマタイ福音書の表現を借りるならば「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(マタイ4章24節)の群れでした。マルコでも「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せた」(3章10節)とあります。イエスのもとに集まった人々はほとんど病人とその家族のようでもあります。そして、イエスはこの人々を指して、「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」(3章34節)と宣言されたのです。

  (3) 周囲の人々から、この様子はどう見られたでしょうか? 神の国のために戦う戦士になろうと考えていた「熱心党のシモン」(マルコ3章18節)のような弟子たちはこの現実をどのように見たのでしょうか? 多くの人々から見ればイエスの周りで起こっていることはあまりにも小さく、弱々しい人の群れでしかなく、神の国からほど遠いものだったのではないでしょうか。そんな中でイエスが今日のたとえ話を語ったとすれば、それはどういう意味を持ったでしょうか。
 「確かに神の国と言っても今は吹けば飛ぶような小さな現実にしか見えないかもしれない。しかしそれは種なのだ。種が本物で生きていれば、いつかそれは必ず大きなものへの成長していき、大きな実りがもたらされる」イエスは神の国のメッセージに対する疑問にこのようなたとえ話を用いて答えたのではないでしょうか。
 28節「ひとりでに」はギリシア語で「アウトマトスautomatos」という形容詞で、英語の「オートマチックautomatic」の語源です。「からし種」は、種は直径1,2ミリの小さなものですが、成長すると2~3メートルにもなる植物です(表の写真参照)。もちろんこの驚くべき成長をもたらすものは神ご自身の力なのです。

  (4) 「たとえ話」は常識的には、物事を分かりやすく伝えるために語られるはずです。イエスのたとえ話も本来、それを聞いている人に分かりやすいものだったはずです。しかし34節では、たとえ話には特別な説明が必要であるかのように言われています。11-12節にもこうありました。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦(ゆる)されることがない』ようになるためである。」もし福音書のたとえ話が分かにくいとするならば、上に述べたように、本来語られた状況が消えてしまい、たとえ話だけが伝えられたことによるのではないでしょうか。
 たとえ話を読むとは、イエスのたとえ話を今のわたしたちの現実の中に置き直してみることでもあります。わたしたちの現実の中で、みすぼらしく、弱々しく、こんなのでは何にもならないと思われるような現実があるとき、それでもそこに神の国の「種」を見ていくことができるならば、わたしたちの現実に対する見方は変わっていくはずです。




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Posted on 2018/06/08 Fri. 09:00 [edit]

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年間第10主日(2018/6/10 マルコ3章20-35節)  


教会暦と聖書の流れ


 イエスのガリラヤでの活動の中の出来事です。イエスの活動の内容は、神の国の福音を宣べ伝え、病人をいやし、悪霊を追い出す、ということでした(マルコ1章14-15, 39節、3章10-12節参照)。多くの群衆が押し寄せて来ましたが、イエスはその中から12人を選び、使徒とされました(マルコ3章13-19節)。それに続く箇所です。


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  (1) この箇所の冒頭に「身内の人たち」がイエスを取り押さえに来た、という話があり、結びにも「母と兄弟たち」がイエスを呼びに来る話があります。2つの話はこの箇所全体の枠組みのようになっています。この間に、エルサレムから来た律法学者たちのイエスに対する批判とそれに対するイエスの答えが伝えられています。このようにサンドウィッチのような構造になっている場合、単に出来事の順序がそうであったというだけでなく、2つの話にはテーマの関連があると考えることができます。ここでは、身内の人についての話と律法学者たちの話、いずれの話もイエスに対して無理解な人々の姿という点で共通していると言えるでしょう。
 イエスの活動は、病気や悪霊に苦しめられていた人々には、大きな救いと希望を与えるものでしたが、必ずしもすべての人がイエスを好意的に迎え入れたのではありませんでした。ここではイエスに対する否定的な見方が伝えられています。

  (2) 「ベルゼブル」は列王記下1章2-8節の物語で、唯一の真の神への信仰を人々に求めた預言者エリヤ(紀元前8世紀)が否定した異教の神の名で、旧約聖書では「バアル・ゼブブ」と表記されています。新約聖書では、この言葉はサタンと同じ意味で使われています。「サタン」はヘブライ語で「敵対者」を意味し、神に敵対する者を指します。普通、「悪魔」と訳されているギリシア語の言葉は「中傷する者、告訴する者」を意味する「ディアボロスdiabolos」ですが、これは「サタン」と同様の意味で、サタンと悪魔は同じものと考えて間違いありません。「悪霊」と訳される言葉はギリシア語で「ダイモニオンdaimonion」です。旧約聖書では異教の神々を指しましたが、新約聖書では一般的に「汚れた霊、悪霊」を表す言葉になりました。この悪霊の元締めがサタン=悪魔です。

  (3) 「悪魔」「悪霊」と言っても、現代のわたしたちにはピンと来ないかもしれません。古代の人々は、形がなく、目にも見えず、人間の力を超えた大きな力をさまざまに感じていました。それが神から来るものであれば「神の霊、聖霊」であり、逆に悪いものであれば「悪霊、汚れた霊」と呼ばれたのです。福音書の中で、イエスは悪霊に取り憑(つ)かれたとされていた人々をいやしましたが、それは肉体的・精神的な病気のいやしとつながっています。ある種の病気は、人間の力の及ばない悪の力(悪霊)によるものと考えられていたのです。イエスはその人々も決して神から見捨てられた人ではなく、神がその人々をいつくしみ、救ってくださると信じて、その人々に関わっていきました。
 24-27節のたとえはわかりにくいものですが、要するに、サタンがサタンを、悪の力が悪の力を追い出すことはありえない、ということでしょう。さらに悪霊に取り憑かれたとされる人の一人一人を救うことが可能なのは、イエスが悪の元締めであるサタンに打ち勝っているからだということも言えるでしょう。

   (4) 「聖霊を冒涜する」とは何でしょうか。この言葉だけを考えればいろいろな解釈が可能かもしれません。しかし、きょうの福音の文脈から考えれば、悪霊を追い出しているイエスの上に働いている神の力(すなわち聖霊)を認めないことを意味するのだと考えるべきでしょう。目の前で起こっていることが、神から来るものか、悪の力から来るものなのか、それを見極めることができるのは、それぞれの人の心に直接働きかける神の力=聖霊によると言えます。その内なる聖霊の働きにさえ心を閉ざすならば、もはや救いようがない、ということになるのでしょう。イエスを受け入れなかった人々の態度とはまさにそういう態度でした。
 律法学者たちは、目の前の出来事を説明しようとしました。イエスが悪霊を追い出していることは否定できませんし、そこに大きな力が働いていることも認めざるをえません。しかし、そのイエスが神から来た人であることを受け入れようとしないので、これはもっと強い悪魔のしわざだ、と説明するのです。イエスは出来事を説明しようとしません。出会った人の苦しみに共感し、その人々を神が見捨てない人と見て、かかわっていくのです。

  (5) 31節に「母と兄弟たち」、32節に「兄弟姉妹がた」とあります。母はもちろんマリアですが、カトリック教会では伝統的に、イエスに兄弟がいたとは考えられていません。「兄弟姉妹」とは、実際はいとこ(従兄弟・従姉妹)たちのことだとするのが、教会の伝統的な解釈です。21節の「身内の人たち」と同じ人だと考えてもよいでしょう。彼らはイエスに会いに来ます。21節とのつながりを考えれば、イエスをいさめようとしたと言えるでしょう。彼らはイエスが人々の常識を超えるような言動をしていることの意味を理解しません。それは故郷ナザレの人同様(マルコ6章1-6節参照)、イエスを自分の身内で、自分たちと同じレベルの者としてしか理解できなかったからでしょう。
 「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(34節)という言葉は、イエスが血縁を超えたまったく新しい人と人とのつながりに生きていることを示しています。「神の御心を行う人」と言えば、何か特別に優れた人の意味でしょうか。しかし、イエスはご自分の周りに集まって来た人々を指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と宣言されたのです。この人々はほとんどが病人や障害者、貧しい無学な人々でした。当時の律法の基準からすれば、立派ではない人々、罪人同然の、神から程遠い人々でした。「あなたがたこそわたしの家族だ」、イエスからそう言われた人々の喜びを、わたしたちも感じることができるでしょうか。




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Posted on 2018/06/01 Fri. 08:30 [edit]

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キリストの聖体(2018/6/3 マルコ14章12-16, 22-26節)  


教会暦と聖書の流れ


 聖体の制定を記念するミサは、聖週間中の聖木曜日に行なわれる「主の晩さんの夕べのミサ」です。しかし、復活節が終わった後、改めてキリストの聖体の祭日を祝います(本来は聖霊降臨後の第二木曜日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では日曜日に移して祝われています)。この日も先週の三位一体の主日と並んで、四旬節・復活節のまとめと言えるでしょう。聖体の秘跡とはイエスの受難・死・復活にわたしたちが日々結ばれて生きるための秘跡だからです。B年の福音朗読は、マルコ福音書の最後の晩さんの箇所です。


福音のヒント


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  (1) 過越祭(すぎこしさい)は春の祭で、元来は農耕生活に関連した祭だったようですが、古代イスラエルで、エジプト脱出という救いの出来事の記念祭として祝われるようになりました。イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放された救いの歴史の原点を記念する過越祭は、1年でもっとも大きな祭でした。過越祭に始まる1週間の祭の期間が「除酵祭(じょこうさい)」です。「酵母を取り除く祭」の意味で、過越祭に続く7日間、酵母の入っていないパン(種なしパン)を食べました。
 マルコ福音書はイエスと弟子たちとの最後の晩さんが「過越の食事」であったとはっきり述べています。ヨハネ福音書では日付が1日ずれています(ヨハネ18章28節参照)が、いずれにせよ新約聖書は、イエスの受難を過越祭と結びつけ、イエスの死が人々を罪の支配から解放し、神との和解をもたらす「新しい過越」であると考えています。

  (2) 水がめを運ぶのは当時、女性の仕事でした。ですから、男性が水がめを運んでいれば、特別な目じるしになります。イエスはこの過越の食事をする場所の手配を誰かに頼み、しかも、それを普通には分からない方法で弟子たちに教えようとしたことになります。弟子たちにとってこのことは「すべてがイエスによってあらかじめ整えられていた」と感じさせることだったでしょう。わたしたちにもそういう経験があるかもしれません。
 それにしても、イエスはなぜこの暗号のような指示をしたのでしょうか。一つの考えはこうです。イエスはご自分に迫っている危険を予感し、受難が避けられないことを知っていました。その状況の中で、外部の人に分からない場所でこの食事をしようとしたのです。それは「誰にも邪魔されずに、どうしてもこの食事だけはしておきたい」というイエスの強い思いの表れではないでしょうか(ルカ22章15節参照)。わたしたちもこの食事に込めたイエスの思いを深く感じ取りましょう。

  (3) 「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて」は、5つのパンを大群衆に分け与えたとき(マルコ6章41節)の動作とまったく同じです。ユダヤ人の食事の際には、家長に当たる人がそのようにするのが普通だったと言われています。しかし、イエスはここで特別なことを言いました。「体」は人間全体を指す言葉で、「これはわたしの体である」は「これはわたしだ」という意味です。これを食べることは、イエスと一つに結ばれることなのです。イエスは世を去る前に、ご自分と弟子たちの絆を永遠のものにしようとしたのだと言えるでしょう。
 杯についての言葉は、新共同訳では「わたしの血、契約の血」となっていますが、原文では「血」という言葉は1度しか使われていません。直訳では「契約の、わたしの血」です。「契約の血」は出エジプト記24章8節にある言葉です(第一朗読)。牧畜民族にとって「契約」と「血」は切り離せないものでした。それは、その契約がお互いの血を賭けたもの=命がけのものであることを表したのです。「これは・・・わたしの血」は「これはわたしの体」という表現に似ていますが、ここには「多くの人のために流される」という言葉が加えられています。「多くの人」はヘブライ語的な表現で、意味としては「すべての人」です。イエスは自分の死をすべての人の救いのための死であると自覚しておられたのです。

  (4) 「契約」という言葉は聖書の中で「神と人との特別な関係」を表す言葉です。出エジプト記24章で結ばれた契約はシナイ契約と呼ばれます。紀元前13世紀、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出し、その救いを体験した民は神との特別な関係を生きることになります。これを表すのが「契約」という言葉です。そこではイスラエルの民が神に対し、人に対してどう生きるべきかを示す道として「律法」が与えられました。しかし、イスラエルの民は神との関係、人と人との正しい関係を見失っていきます。そこで紀元前6世紀のバビロン捕囚時代の預言者たちは、「新しい、永遠の契約」を予告することになります。典型的なのがエレミヤです。「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪をゆるし、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ31章33-34節)

  (5)  この「新しい契約」がイエスの死によって実現した、というのが新約聖書の中心テーマです。それはどういう意味でしょうか。イエスの生涯全体の歩みを見れば、イエスという一人の人の中で上のエレミヤの言葉が完全に実現していたと言えるでしょう。もう一つには、わたしたちがイエスの十字架の姿を見たときに、神の深い愛の心を悟り、エレミヤのこの言葉を生きるものに変えられていくという面もあるはずです。それこそが聖体の意味でもありますが、本当にわたしたちの中で実現しているでしょうか。
25節の「ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」は受難予告のような言葉です。しかし同時に「神の国で新たに飲むその日まで」ということによって、最終的な完成に向かう意識が強調されています。「新しい契約」は確かにイエスによって実現しました。しかし、最終的にわたしたちが神と完全に一つに結ばれるのは将来のことだとも言えます。そこに向かって歩むための糧として、聖体が与えられているのです。




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Posted on 2018/05/25 Fri. 08:30 [edit]

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