福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

待降節第4主日 (2016/12/18 マタイ1章18-24節)  


教会暦と聖書の流れ


 クリスマスの直前の主日には、イエスの誕生に直接関係する福音書の箇所が読まれます。今年(A年)の箇所はマタイ福音書で、幼子の誕生がヨセフに告げられる場面です。
 マタイ福音書は「イエス・キリストの系図」として、アブラハムからヨセフまでの系図を伝えます(1章1-17節)が、16節は「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」となっています。ヨセフとイエスの間に血のつながりはありません。それでもヨセフはきょうの箇所を通して、信仰によってイエスの父としての役割を引き受けていくことになります。


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  (1) 19節にある「ヨセフは正しい人であったので」ということと「ひそかに縁を切ろうと決心した」ということはどのようにつながっているのでしょうか? 2つの見方があるようです。
 1つは、マリアへの思いやりに満ちた態度の中にヨセフの「正しさ」を見る見方です。自分とは無関係にマリアが妊娠していることを知ったら、ヨセフとしては縁を切るしかない、しかし、ヨセフはマリアを辱めないように「ひそかに」縁を切ろうとした、ということ。
 もう1つは、神への畏敬の念をヨセフの「正しさ」と見る見方です。ヨセフはマリアを信頼していたので、この妊娠に神の介入を感じた、そこで自分はこのことに関わるのにふさわしくないと感じて身を引こうとした、ということ。この考えは、20節の「恐れずに」ともよく合います。

  (2) 「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい」(21節)。「イエス」は旧約聖書で言えば「ヨシュア」という名にあたります。ユダヤ人の間ではよくある名前ですが、マタイ福音書はこの「イエス」という名の中に意味を見いだしています。「ヨシュア(=イエス)」は「主は救い」あるいは「主は救う」という意味なのです。
 上の21節の言葉は、23節で引用されるイザヤ7章14節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」によく似ています。この預言の言葉がイエスにおいて実現したとマタイは見ています。ここで「おとめ」と訳された言葉は、ギリシャ語(マタイ)では「パルテノスparthenos」ですが、元のヘブライ語(イザヤ書)は「アルマー」です。パルテノスは「処女」を意味しますが、「アルマー」は単に「若い女」を意味する言葉です。もちろん、イエスの誕生物語を伝えるマタイも、ルカも「パルテノス」を「処女」の意味で受け取っています。
 マリアが処女でイエスを身ごもった(いわゆる「処女懐胎」)ということにはどんな意味があるのでしょうか。そこにマリアの「清らかさ」を見てきた伝統があります。しかし、ルカもマタイも共通して強調しているのは、その受胎が「聖霊による」ということです(マタイ1章18,20節、ルカ1章35節)。処女であるマリアは人間的には子どもを産むことができないはずですが、そのマリアから子どもが生まれる。そこに、人間の無力さと、その中に働く神の力の対比があざやかに示され、その子どもの誕生(救い主の到来)が人間の力によるのではなく、神の力(聖霊)によるのだということが強調されているのです。

  (3) イエスは新約聖書の他の箇所で一度も「インマヌエル」と呼ばれたことはありません。マタイは「インマヌエル」をイエスの「呼び名」ではなく、イエスの「本質を表す名」だと言っているのです。「インマヌエル」はヘブライ語で「神は我々と共におられる」あるいは「我々と共にいる神」の意味です。マタイ福音書はこの「インマヌエル」の物語から始まり、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)というイエスの約束で結ばれています。「神が共にいる」、「イエスが共にいる」ということがこの福音書全体のテーマだと言ってよいかもしれません。
 わたしたちはクリスマスを2000年前の一人の男の子の誕生日として祝うのではありません。イエスの誕生(到来)という出来事の意味が今も生きていることを祝うのです。神のひとり子が人類の一員となり、この方において神は「わたしたちと共にいてくださる神」になってくださった、それはどれほど力強い支え・励ましでしょうか。

  (4) この「インマヌエルであるイエス」をわたしたちはどこで見いだすことができるでしょうか。マタイ福音書の中からヒントを探してみましょう。
1. 18章20節「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」
 キリストが信じる者の集いの中にいるという約束です。特に日本のような、周囲を見回してもキリスト信者がほとんどいない社会の中で、同じ信仰を持った人が一緒にいてくれる、キリストの弟子の道をともに歩んでくれる仲間がいる、ということは大きな励ましでしょう。この集いの中にキリストご自身がいてくださるというのです。
2. 26章26-28節「取って食べなさい。これはわたしの体である」「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」
 パンとぶどう酒の形の聖体の中にいるという約束、これも2000年にわたって数多くのキリスト信者を支え、励ましてきたことでした。それは特に困難や苦しみの中で感じられる支え・励ましかもしれません。キリストの死と復活を思い起こし、それに深く結ばれる。キリストと一つになり、キリストを中心として人と人とが一つになる。聖体の前で一人静かに祈る中でイエスに出会う。そのような体験がわたしたちの中にあるはずです。
3. 25章40節「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
 日々出会う人々、特に助けを必要としている人の中にイエスはいる、これもとりわけ現代世界の中で大切なことでしょう。マザーテレサのように、もっとも貧しく、小さい人との出会いの中にキリストとの出会いがある、という体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。




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Posted on 2016/12/08 Thu. 15:49 [edit]

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待降節第3主日 (2016/12/11 マタイ11章2-11節)  


教会暦と聖書の流れ


 先週に引き続き、きょうの福音にも洗礼者ヨハネが登場しますが、本当の主役はもちろんイエスご自身です。きょうの箇所では、イエスによって実現したことが何だったのか、ということが示されています。「待降節第3主日」は「喜びの主日」と言われてきました。待降節は、英語でアドベントAdvent (「到来」の意味)ですが、イエスの到来によってもたらされた喜びとは何なのかを味わう箇所としてきょうの福音を読むと良いでしょう。


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  (1) イエスがヨルダン川で洗礼を受けたとき、すでに洗礼者ヨハネはイエスを「来(きた)るべき方」だと認めていたはずです(マタイ3章14節参照)。それなのになぜ、きょうのこの箇所で「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と自分の弟子たちに質問させたのでしょうか。
 一つの考えはこうです。洗礼者ヨハネは捕らえられ、自分が死を迎えることを予感していたので、自分の弟子たちの目をイエスに向けさせ、彼らをイエスのもとへ導くために、こういう指示をした。つまり、洗礼者ヨハネ自身はイエスが「来るべき方」だということを疑っていたのではない、という考えです。
 もう一つの考えはこうです。やはり洗礼者ヨハネは疑問に思った。それはヨハネが思い描いていた「来るべき方」のイメージと、実際に到来したイエスの姿が大きく異なっていたからではないか。洗礼者ヨハネは「来るべき方」について告げ知らせましたが、ヨハネが思い描いていたのは「神の怒りと裁きをもたらす方」でした。ヨハネは実際のイエスの活動を見聞きして、それが自分の考えるメシア(=キリスト)のイメージと違うことに戸惑ったのではないでしょうか。

  (2) 2節の「キリストのなさったこと」という言葉は「キリストの業(わざ)」とも訳せます。これはただ単に「イエスがしていた行為」というだけでなく、「イエスがキリスト(救い主)として行なっていた行為」という意味に取ることもできる言葉です。イエスの答えは、イエスの周りで実際に何が起こっているかに目を向けさせるものでした。それは旧約聖書の救いの到来に関する預言の成就と言えることです。 特に次の箇所が思い浮かびます。
 「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍(おど)り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ35章5-6節)
 「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(イザヤ61章1節)

  (3) 「貧しい人」というのは「さまざまな事情で圧迫され小さくなっている人」のことです。「目の見えない人」「足の不自由な人」などは皆、「貧しい人」と別の人のことではないでしょう。苦しみの中にあって神の救いを待ち望んでいるすべての人が「貧しい人」と呼ばれている、と考えたらよいのではないでしょうか。「神の救いに飢え渇く人」と言ったほうが分かりやすいかもしれません。それは「神なしで満ち足りている」というのとは正反対の状態だと言えます。
 ルカ4章16-21節でも、イエスは「貧しい人に福音を告げ知らせる」という言葉をご自分に当てはめています。この言葉は、イエスの使命、イエスがもたらしたものを実に簡潔明瞭に表す言葉だと言えます。
 では、わたしたちの「貧しさ」とは何でしょうか。わたしたちにとっての「福音」とは何でしょうか

  (4) わたしの中の「貧しい部分」「飢え渇いている部分」は何でしょうか。わたしたちの周りの家庭や社会、この世界の中で「貧しい部分」「飢え渇いている部分」は何でしょうか。このようにわたしたち自身の「貧しさ」を見つめることは、実は待降節の大切なテーマです。ルカ福音書の伝えるイエスの誕生の物語は、旅をしている貧しい夫婦、飼い葉桶の中の貧しい幼子、そして最初にこの幼子を訪れた貧しい羊飼いの姿を伝えています。イエスの誕生が貧しい人々にもたらした救いの喜びを深く味わうのがクリスマスの祝いの意味なのです。
 イエスによって実現したこと(=キリストの業)は、単なる病気のいやしではありません。イエスが2000年前の貧しい人々に何をもたらしたのか、今の貧しいわたしたちに何をもたらしてくれるのか、いくつかのヒントを挙げてみます。
 1. この貧しさや苦しみの中で、自分はまったく独りぼっちではないと気づくこと!
 2. この世界は神がともにいてくださる世界であると気づくこと!
 3. だから、わたしたちの心に信頼と希望と愛が生まれること!
 そういう体験がわたしたちにもあるのではないでしょうか。だとしたら、それがわたしたちにとっての「到来(アドベント)」であり「降誕」なのではないでしょうか。

  (5) 11節の「天の国」はマタイ福音書特有の言い方で、「神の国」と同じ意味です。「国」はギリシア語では「バシレイアbasileia」です。この言葉は「王(バシレウスbasileus)」から来た言葉で「王であること、王としての支配、王が治める国(=王国)」を意味します。
 イエスは洗礼者ヨハネを預言者として、人間として最大限に評価していますが、同時に「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言っています。それは、ヨハネが神のバシレイアの「準備の時代」の人であったのに、イエスの救いを受け取った人は、その「実現の時代」にいる、ということを意味しているのでしょう。イエスと共にまったく新しい救いの時代が始まっているのです。
 わたしたちはこの「もうすでに始まっている神のバシレイア(国、支配)」に生きているはずです。そしてイエスによって始められた神のバシレイアをもうすでに生き始めているからこそ、わたしたちは、世の終わりの(あるいは、人生の終わりの)ときの「救いの完成」に向けての確かな希望を持つことができるのです。




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Posted on 2016/12/01 Thu. 08:00 [edit]

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待降節第2主日 (2016/12/4 マタイ3章1-12節)  

教会暦と聖書の流れ


 待降節を、英語では「アドベントAdvent」と言いますが、元はラテン語から来た言葉で、本来の意味は「到来」です。待降節第2、第3主日の福音では毎年、洗礼者ヨハネに関する箇所が読まれます。それはわたしたちが洗礼者ヨハネの弟子になるためではありません。わたしたちはイエスの弟子になろうとしています。そのために、洗礼者ヨハネとともに、彼がその到来を告げ知らせた「来(きた)るべき方」のほうに心を向けていくのです。


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  (1) 洗礼者ヨハネは「預言者」でした。洗礼者ヨハネが登場した時代、すでに文字に書かれた聖書(旧約聖書)ができあがっていました。神は聖書を通して語られるのであって、もう生身の預言者の口をとおして民に語りかけることはない、という雰囲気がありました。その中で、洗礼者ヨハネは「今、神が語られる言葉」を告げます。
 彼の活動は伝統的な預言者のスタイルを意図的に再現したものでした。「荒れ野」は生きるために厳しい場所ですが、イスラエルの伝統の中では、神との出会いの場でもありました。生きるか死ぬかのギリギリのところで、それでもなお自分を生かしてくださる神の存在を身近に感じ取ることができるのです。洗礼者ヨハネはこの荒れ野で神の声を聞き、町に住む人々に語りかけます。だから彼は「声」(3節)と呼ばれます(ちなみにこの箇所はイザヤ40章3節の引用ですが、福音書は原文を少し変えて引用しています)。「毛衣と革の帯」は、列王記下1章8節に伝えられている預言者エリヤと同じ服装です。「いなごと野蜜を食物としていた」は、荒れ野の中でかろうじて手に入れられるものだけで生きていた、すなわちほとんど断食のような生活をしていた、ということです。このように、ヨハネは典型的な預言者だったのです。

  (2) 洗礼者ヨハネが呼びかけたのは「回心」でした。ヨハネにとって「差し迫った神の怒り」(7節)が問題でした。そこから救われるために必要なことは「悔い改め、回心」(ギリシア語で「メタノイアmetanoia」)でした(2節)。この悔い改めは、すべての人に求められました。「自分たちはアブラハムの子孫だ」という誇りや安心感は、神の裁きの前では何の役にも立ちません(9節)。すべての人が今、回心しなければならないのです。しかしこのことは逆に、どんな人でも今、回心すれば救いにあずかれる、という希望のメッセージにもなりました(こんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。9節)。そして、その回心のしるしが「洗礼」だったのです。
 また、同時に大切なことは、「悔い改めにふさわしい実を結ぶこと」(8節)、「良い実を結ぶこと」(10節)です。洗礼者ヨハネが求めたことは、具体的な生活の改善でした。それはそれぞれの人が自分の置かれた生活の場の中で、愛と正義を行うことだったのです(ルカ3章11-14節参照)。

  (3) ヨハネは、自分の「後から来る方」について語っています。そして「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言います(11節)。キリスト教は、イエスこそが洗礼者ヨハネの告げた「来(きた)るべき方」だと考えます。「洗礼を授ける」はギリシア語では「バプティゾーbaptizo」という1つの動詞で、本来の意味は「沈める、浸す」です。「聖霊と火で洗礼を授ける」というのも本来は「聖霊と火の中に人を沈める、浸す」というイメージなのです(実際、ヨハネの洗礼もヨルダン川に人の全身を沈めるものでした)。これを「神のいのちである聖霊を与え、愛の火で人を清める」という意味に受け取るようになったのは、キリスト教による理解です。
 しかし、洗礼者ヨハネ自身はこういう意味でこの言葉を語ったのでしょうか? この直後に「手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(12節)という言葉があります。「箕」は麦の実ともみ殻を分けるための農具です。麦の実と殻が混じったものを箕に入れてほうりあげると、軽いもみ殻は風に飛ばされ、重い麦粒だけをより分けることができるのです。聖霊の「霊(プネウマ)」にはもともと風の意味がありますが、この「風と火に浸す」のイメージは、来るべき方が怒りと罰をもたらす方だということを言おうとしていたのではないでしょうか。
 一方、実際に来られたイエスは、決して「怒りと罰」をもたらしたのではありませんでした。イエスのメッセージの中にも厳しい裁きの面はありますが、イエスがもたらしたものはむしろ、ゆるしと恵みでした。だからわたしたちは、恐れおののきつつ、来るべき方を待つのではありません。「愛と喜びに包まれた待望の時」(典礼暦年に関する一般原則39の言葉)として、この待降節を過ごしているのです。

  (4) 「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2節)。マタイ福音書によれば、イエスもまったく同じ言葉でご自分の活動を始めました(4章17節)。ヨハネもイエスも同じように切実な終末意識を持って、人々に回心を呼びかけたのです。「悔い改め、回心」の原語の「メタノイア」は「心を変えること」を意味しています。それは単なる「改心」というよりも、「神に心を向け直すこと」「主に立ち返る」ことなのです。
 ただ、洗礼者ヨハネの場合は「近づいているが、まだ来ていない」のに対して、イエスの場合は「近づいてきて、ある意味でもうすでに始まっている」というところに決定的な違いがあります。イエスは、父である神の愛のバシレイアbasileia(王国、支配)がもう始まっている、だから「その父である神に心を向けなさい」と呼びかけるのです。
 待降節を過ごしているわたしたちにも両面があります。確かにイエスは2000年前に来られ、神の国はすでに始まった、という面と、最終的にいつか本当の意味で実現する、という面。また、それだけでなく、わたしたちの生活の中に日々「主は来られている」ということも大切でしょう。この「日々の到来(アドベント)」についてはわたしたちの姿勢がいつも問われます。わたしたちが回心と信仰を持って受け入れなければ、日々のアドベントは受け取れません。その意味で、洗礼者ヨハネのメッセージは今のわたしたちにとっても切実な呼びかけだと言えるのではないでしょうか。




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Posted on 2016/11/24 Thu. 17:59 [edit]

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待降節第1主日 (2016/11/27 マタイ24章37-44節)  


教会暦と聖書の流れ


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 クリスマスの4週前の日曜日から待降節が始まります。教会の暦ではこの待降節第1主日から新しい年になります。この年は、3年周期の主日のミサの朗読配分では、A,B,C年のうちA年にあたり、福音朗読では主にマタイ福音書が読まれていきます。
「待降節」という日本語は「主の降誕を待つ季節」という意味では分かりやすいのですが、元のラテン語はアドヴェントゥスAdventus(英語ではアドヴェントAdvent)で、「到来」を意味する言葉です。待降節とは、2000年前にイエスが世に来られたことを思うだけでなく、世の終わりに栄光のうちに再び来られることを思う季節でもあります。待降節のミサの福音朗読は毎年、終末についての説教からとられた「目を覚ましていなさい」という言葉から始まります。


福音のヒント


  (1) 「人の子」はダニエル書7章13節に基づく表現で、神が最終的に天から遣わす方を表す言葉です。新約聖書では「人の子の到来」は、天に上げられたイエスが世の終わりに再び来られることを意味しています。人の子の到来は「救いの完成の時」であると同時に「裁きの時」でもあります。キリストが力をもって来られ、キリストがすべてにおいてすべてとなる、ということは、神に信頼し、救いを待ち望んでいる者にとっては救いの完成ですが、同時にそれは神に反するすべてのものが滅ぼされる時だとも言えます。きょうの福音の箇所では、この「裁き」の面が強調されています。「愛は決して滅びない」(Ⅰコリント13章8節)という大きな希望の言葉がありますが、神の裁きには「愛に反するものはすべて滅ぼされる」という面もあるのです。「愛に反するものが滅ぼされる」というのは「愛に反する人が滅ぼされる」というよりも、「わたしたちの中の愛に反する部分が滅ぼされる」と受け取ることができるでしょう。それはわたしたちがキリストのように愛そのものへと変えられていくためです。Ⅰヨハネ3章2節の次の言葉は大きな参考になるでしょう。「わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」

  (2) 「ノアの時」は創世記6章から始まる有名な洪水物語のことです。人の子の到来の時(裁きの時)は人が考えていないときに突然やってくるということが強調されています。きょうの箇所の直前に「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(24章36節)という言葉がありましたが、内容的にそれとつながっています。「思いがけない時に来る」ということは43-44節でも繰り返されるテーマです。人にはいつ来るか分からない、ということだけでなく、来るということさえ意識していないということもあるでしょう。その中で「いつか確実に来るのだ」ということも強調されています。
 「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」(40-41節)は、人の目にはまったく同じように見える2人の人間が、神の裁きの目から見るとまったく違う評価を受ける、ということです。これは、人間が勝手に神の裁きを想像して、自分で自分を裁いたり、他人を裁いてしまったりすることへの警告と言えるのかもしれません。

  (3) 「目を覚ましている」というのはわたしたちにとってどういうことでしょうか。泥棒を警戒するように「裁きの時を警戒してビクビクしながら生活する」ことでしょうか? 43節のたとえから考えるとそうなってしまいそうですが、それがわたしたちに求められている生き方だとは到底思えません。あるいは「この世のことよりも終わりの時の裁きのことを考える」ということでしょうか? 最終的な神の裁きのことばかりを思うことには落とし穴があります。それは、今の生活がどうでもよくなり、現実の目の前の人間の苦しみや社会の不正に目を閉ざしてしまう危険です。実は、きょうの箇所には「目を覚ましている」とはどういうことか、ほとんど何も語られていないのです!
 マルコ福音書13章は「目を覚ましていなさい」という警告でイエスの長い終末についての説教を結んでいますが、マタイ福音書は、マルコ福音書を基にしながら、この説教の後に24章45節~25章46節の大きな部分を付け加えています。この部分は4つの話からなっていて、この4つの話はすべて「目を覚ましている」とはどういうことかを語る話だと言えます。それは「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしている」(24章46節)ことであり、「ともし火と一緒に、壺に油を入れて持っている」(25章4節)ことであり、「預かったタラントンを用いて、ほかのタラントンをもうける」(25章16-17節)ことなのです。とはいえ、ここまでの3つの話はすべてたとえ話で、これらのたとえが何を意味しているか、本当に「目を覚ましている」こととは何なのか、ということは25章31-46節になってはじめて明らかにされます。そこまで読まなければ、「目を覚ましている」ということは分からないようになっているのです!(ちなみにマルコやルカの福音書を読むと違う面が見えてきますが、今回は触れることができません)

  (4) マタイ25章31-46節は、飢え、渇き、旅人であったり、裸であったり、病気であったり、牢にいる人に助けの手を差し伸べること、「わたし(キリスト)の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことだ」という箇所です。マタイ福音書の中で「目を覚ましている」とはどういうことか、と言えば、ここにもっとも明快な答えがあります。「助けを必要としている人に手を差し伸べること」「愛を持って生きること」と言ったらよいでしょうか。あるいは、「出会う一人一人の人の中にキリストを見いだすこと」「苦しむ人、虐げられている人を通してキリストに出会うこと」と言うこともできるかもしれません。今年の待降節を迎えるわたしたちにとって、「目を覚ましている」とはどういうことなのでしょうか?




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Posted on 2016/11/18 Fri. 09:53 [edit]

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王であるキリスト (2016/11/20 ルカ23章35-43節)  


教会暦と聖書の流れ


 教会の暦には、クリスマスの前後に待降節と降誕節、復活祭の前後に四旬節と復活節という特別な期間(=「季節」)があり、それ以外の期間を「年間」と呼んでいます。王であるキリストの祭日は年間最後の主日にあたります。「王」というのは現代日本のわたしたちには馴染みにくいイメージですが、この祭日の本当のテーマは、キリストがすべてにおいてすべてになる、終末における救いの完成ということです。
 王であるキリストのミサの聖書朗読の箇所は年によってずいぶん違っています。いずれもただ単に「キリストが王である」ということよりも、キリストが「普通の人間の王とどのように異なる王であるか」を表す箇所が選ばれています。「王」という言葉にあまりこだわらずに、福音の箇所そのものを味わうようにしたらよいでしょう。


福音のヒント


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  (1) イエスが十字架にかけられる場面です。ルカ福音書の受難物語はマルコ福音書の受難物語をもとにして、ルカ独自の資料・伝承を挿入する形で書かれています。マルコ、マタイでは、イエスとともに十字架につけられた犯罪人が二人ともイエスをののしった、となっていますが、ルカは別の伝承を採用しています。ルカだけは、二人のうちの一人が回心し、イエスに救いを願った、という話を伝えているのです。
 「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40-41節)。ここにはルカ福音書の受難物語の1つの特徴が表れています。それは、イエスが罪なき方であることを強調することです。ユダヤの最高法院でイエスは「自分を神の子とした」という冒瀆(ぼうとく)の罪(22章70-71節)を着せられ、ローマ総督に対して「民衆を扇動し、皇帝への納税を禁じた」と訴えられました。しかし本当のところ、イエスは無罪なのです(ルカ23章4、14-15、22、47節参照)。ルカは「彼は不法を働かず、その口には偽りもなかったのに・・・」(イザヤ53章9節)という苦しむ主のしもべの姿をわたしたちに思い出させようとしているのかもしれません。

  (2) 「議員たち」はユダヤ人の最高法院の議員たち、「兵士たち」は処刑を担当したローマ人の兵士です。2人の「犯罪人」は十字架刑を受けるほど重大な犯罪を犯した人なのでしょう。35-39節で、彼らがイエスに向かって言ったことはすべて「自分を救ってみろ」ということでした。イエスはそれに何一つ答えません。イエスは自分を救うことができなかったのでしょうか? イエスが神の子キリストとして、人々の救いのためにご自分の命を差し出されたと考えれば、イエスは自分を救うことができたのにあえて自分を救わなかったのだと考えるべきでしょう。もちろん、これが伝統的なキリスト教の見方です。
 しかし、現代のわたしたちが直面している暴力(戦争・テロから身近なところでの暴力に至るまで)の問題から、イエスの受難を見るならば、違う見方が必要になるかもしれません。「自分を救えるのに救わない」ということは、暴力を容認し、被害者が耐え忍ぶことを良しとし、暴力を繰り返させる危険さえあるのではないかという問いもありうるからです。「罪人をゆるすこと」と「暴力を許すこと」とは別の問題です。神の望みは人が暴力から解放され、平和のうちに生きることであるはずです。イエスがご自分に振りかかる暴力をどう受け止めたのか、これは今のわたしたちにとって切実な問いではないでしょうか?

  (3) 「自分を救わない」あるいは「救えない」イエスの姿の中に、「暴力によって苦しむすべての人」との連帯の姿を見ることはできないでしょうか。暴力は人を肉体的に傷つけるだけではありません。暴力は人を孤立無援の状態に追い込みます。イエスも表面的には神から見捨てられ、人からも見捨てられたような姿になりました。暴力のもう1つの作用は、人から力を奪ってしまうことです。確かに十字架のイエスはあらゆる力を奪われて何もできなくなってしまったかのようでした。そういう意味で、イエスはすべての暴力被害者と同じ体験をされたのだといえるでしょう。
 しかし、イエスには特別なことがありました。特にルカ福音書は、イエスが最後まで神への信頼と人への愛を持ち続けた姿を伝えています。イエスは絶望や憎しみに支配されることなく、出会ったすべての人、自分を十字架につけた人々をも愛し抜かれるのです。無力な十字架のイエスの中にこそ、愛と連帯によって本当の意味で暴力に打ち勝ち、暴力の連鎖を断ち切る道を見つけることができるのではないでしょうか。

  (4) 「ユダヤ人の王」(38節)はイエスをローマ帝国に対する反逆者とする罪状です。しかし、福音書はそこにもイエスが「真の王」であることが暗示されていると考えているのでしょう。ところで、きょうの箇所の中で、「王」というテーマはむしろ42-43節の犯罪人とイエスとの対話の中に表れてきます。「あなたの御国においでになるとき」という箇所は、写本によっては「あなたが王権をもって来られるとき」と読むこともできます。「国、王権」と訳された言葉はギリシア語の「バシレイアbasileia」です。この言葉は「王(バシレウスbasileus)」という言葉から来ていて、「王であること、王としての統治、王が治める国」の意味になります。この犯罪人は、自分もイエスも十字架で死を迎えることを知っていますから、このイエスの王国が死を超えて実現すると考えていることになります。その中で「わたしを思い出してください」と願うのです。
 43節「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」の「楽園」は、ギリシア語で「パラデイソスparadeisos」です。70人訳聖書(古代のギリシア語訳旧約聖書)の創世記2章8節では、エデンの園がこう呼ばれています。神と人、人と人との調和に満ちた世界、人が神と共にいる状態(Ⅱコリント12章4節参照)だと言ってもいいでしょう。そして、イエスがそれを約束するのは「今日」なのです! 苦しみのどん底の中で、イエスが共にいてくださることに気づいたとき、そこにもう「バシレイア」が実現している、そこが「パラダイス」になる、と言ったらいいかもしれません。




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Posted on 2016/11/11 Fri. 07:00 [edit]

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