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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第20主日 (2018/8/19 ヨハネ6章51-58節)  


教会暦と聖書の流れ


 年間17主日の福音で、イエスが5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与えた話(ヨハネ6章1-15節)が読まれ、そこからパンについてのイエスとユダヤ人との間の長い対話が始まりました。きょうの箇所はその頂点とも言える箇所です。ヨハネ福音書は最後の晩さんの席での聖体制定を伝えていませんが、この箇所で聖体の豊かな意味を語ろうとしています。


福音のヒント


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  (1) 51節は先週の箇所の結びでもありました。ここには「わたしが・・・パンである」と「わたしが与えるパン」という、似ていて少し違う表現が使われています。「わたしがパンである」はこれまでずっと語られてきたことですが、そのまとめとして、イエスを信じることの中にこそ永遠の命があるということが再度語られています。「わたしが与えるパン」のほうは「聖体」という新しいテーマの始まりと考えることができるでしょう。
 最後の晩さんでの聖体制定を伝えるマタイ、マルコ、ルカ、Ⅰコリントは「これはわたしの体である」というイエスの言葉を伝えていますが、ここでは「わたしが与えるパンとは、・・・わたしの肉のことである」と言われています。「体」ではなく「肉」という言葉が使われているのは「血」との対比を鮮明にするためでしょう。「肉を食べ」の「食べる」はギリシア語では「トラゴーtrago」という動詞が使われていますが、これは普通に食事をするというよりも、もっと生々しい表現です。「血」は6章のこれまでの対話にはない言葉で、ここで突然のように語られ始めます。もちろん、これはイエスの血である聖体のぶどう酒のことを意識しているからです。

  (2) 「血」については、レビ記17章に次のような規定があります。
 「10 イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。11 生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖(あがな)いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。12 それゆえ、わたしはイスラエルの人々に言う。あなたたちも、あなたたちのもとに寄留する者も、だれも血を食べてはならない。13 イスラエルの人々であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、食用となる動物や鳥を捕獲したなら、血は注ぎ出して土で覆う。14 すべての生き物の命はその血であり、それは生きた体の内にあるからである。わたしはイスラエルの人々に言う。いかなる生き物の血も、決して食べてはならない。すべての生き物の命は、その血だからである。それを食べる者は断たれる。」
 「血の中に命がある、だから決して食べてはならない」というのが律法の教えでした。ですから「わたしの血を飲む」というイエスの言葉は人々に衝撃を与えたようです(60節参照)。この言葉は、十字架で流されたイエスの血によって、人々が罪から解放され、永遠の命がもたらされた、という確信抜きには理解できない言葉です。イエスにとっては「血は自分の命であるからこそ、この血を飲ませ、命を与える」ということになります。

  (3) 56節の「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」にはヨハネ福音書に特徴的な表現が見られます。「わたしの内におり」はギリシア語原文では「エン・エモイ・メネイen emoi menei」ですが、ここで使われている動詞「メノーmeno」は「とどまる、つながっている」と訳されることもあります。ヨハネ15章でぶどうの枝がぶどうの木につながっているというときもこれと同様の表現が使われていて、15章1-9節には繰り返しこの表現があります。次の箇所も典型的です。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(14章20節。ここでは動詞は省略)。これは「相互内在」とも言われるほど深い、互いの結びつきを表す表現です。
 57節の「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」にも、ヨハネ福音書の中で非常に特徴的な表現が見られます。「~ように~も」はギリシア語では「カトースkathos~カイkai~」と言いますが、次のような箇所に使われています。「父がわたしを愛されたように、わたしあなたがたを愛してきた」(15章9節)、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしあなたがたを遣わす」(20章21節)。父とイエスの関係が、イエスと弟子たちの関係に波及し、弟子たちの生き方を根本から新たにしていくのです。

  (4) このように見てくるとヨハネ福音書は、聖体のパンとぶどう酒をいただくことに超自然的な効果があるというよりも、聖体をいただくことはイエスと結ばれ、イエスによって生きることそのものを意味している、ということを強調していると言えるでしょう。この背景にはどんな現実があったのでしょうか? ヨハネの時代の教会の中に、聖体をいただくことを単なる儀式として軽んじる傾向があったのでしょうか? あるいは、実際に聖体のパンとぶどう酒をいただきながら、それが単なる形式になってしまっていて、心からイエスに結ばれて生きていない人々がいたのでしょうか?
 結びの58節で「これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる」というときの「これ」「このパン」は、「わたしはパンである」というイエスご自身のことであり、同時に「わたしが与えるパン」すなわち「聖体」でもある、という両方の意味があるようです。イエスを信じることと聖体をいただくこと、この2つのことは別のことではなく、結局は1つのことなのだ、と言うのがヨハネの結論だと言えそうです。
 教会は聖体をいただくために信仰と罪のない状態が必要であると言ってきました。しかしそれはただ単に洗礼とゆるしの秘跡を受けているかいないか、という外面的な規則の問題ではありません。わたしたちは聖体をいただくとき、信仰と愛によってイエスに結ばれて生きようとしているかどうか、をいつも問われているのです。




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Posted on 2018/08/10 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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年間第19主日 (2018/8/12 ヨハネ6章41-51節)  


教会暦と聖書の流れ


 三年周期の主日のミサの聖書朗読配分で、今年(B年)は主にマルコ福音書を読む年ですが、その途中(年間17~21主日)にヨハネ福音書6章の朗読が入り込んでいます。ヨハネ6章は、イエスが5つのパンと2匹の魚で大群衆を養った話(先々週の箇所)に始まり、パンについてのイエスと群衆の対話が続きます。先週の箇所は「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)というイエスの宣言で結ばれていました。きょうの箇所はその少し後から始まります。


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  (1) ヨハネ福音書は1世紀末か2世紀の初めに書かれたと考えられています。紀元80年にユダヤ教はキリスト信者を会堂から追放するという決定をしました。ヨハネにとってはユダヤ人=ユダヤ教徒がイエス・キリストを受け入れないということは現実のことになっていました。ヨハネ福音書には「ユダヤ人」という言葉がたびたび使われていますが、イエスの時代のユダヤ人というよりも、キリストを受け入れないことが決定的になった時代のユダヤ教の人々を指すような表現です。この箇所での人々の反応も、ヨハネ福音書が書かれた時代のユダヤ人全般の反応だと考えたらよいでしょう。また、この箇所のイエスの言葉は、イエスが語った言葉そのものというよりも、長い年月をかけてイエスの言葉が受け継がれる中で、ユダヤ教に対するキリスト教の反論として拡大していったものだと見てもよいでしょう。

  (2) 「パン」はもちろん、人の命を生かすもののシンボルです。「天から降(くだ)ってきた」というのは、人を真に生かすものは神から来るということを表しています。この箇所には「この世の命」と「永遠の命、復活の命」についてのいろいろな表現が見られます。
 聖書の根本的な生命観は、創世記2章7節の「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」という箇所によく表れています。人は神とのつながりによって生きるものであって、神とのつながりを失ったらただ滅び行くものでしかない、という見方です。イスラエルの民は紀元前2世紀、セレウコス朝シリアの支配下での厳しい宗教迫害を体験しました。この体験をとおして、神とのつながりは、この世の命の中だけのことでなく、この世の命が終わった後、死を超えて完成されるという信仰が形作られました。それが「復活の信仰」です。
 一方、47節の「信じる者は永遠の命を得ている」は現在形になっています。これは死後の命について語っているのではなく、今、神とのつながりに生きるとき、そこにもう永遠の命が始まっているということを意味しています。「死なない」(50節)という言葉も、この世の命のレベルで死なない、という意味ではなく、「神とのつながりの中にある命は決して滅びない」ことを表しています。今もうすでにわたしたちが永遠の命を生きていると感じられるとしたら、それはどういうことでしょうか?

  (3) 49節に「マンナ」という言葉が出てきますが、この箇所全体の背景には旧約のマンナの話があります(なお、新共同訳の旧約では「マナ」と表記されています)。マンナはイスラエルの民がエジプトを脱出し、荒れ野を旅していた時に、神から与えられた食べ物でした。これについて、出エジプト記16章にはこう述べられています。
 「15 モーセは彼らに言った。『これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。16 主が命じられたことは次のことである。「あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。それぞれ自分の天幕にいる家族の数に応じて取るがよい。」』17 イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。18 しかし、オメル升(ます)で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。19 モーセは彼らに、『誰もそれを、翌朝まで残しておいてはならない』と言ったが、20 彼らはモーセに聞き従わず、何人かはその一部を翌朝まで残しておいた。虫が付いて臭くなったので、モーセは彼らに向かって怒った。21 そこで、彼らは朝ごとにそれぞれ必要な分を集めた。日が高くなると、それは溶けてしまった。」
 ここにマンナという食べ物の特徴が表れています。荒れ野という厳しい環境の中で、神はすべての人に必要なものを日々与え、一人ひとりが今日必要なものを与えられました。そこではすべての人が平等でした。人間が持ち物を蓄えようとするところから人と人との間に不平等が生まれ、そこに争いが生じるようになるのではないでしょうか。だとしたらマンナによって生きることは、理想の生き方だとも言えるでしょう。本当に神によって生きること、人と人とが愛と平和のうちに生きること、それがマンナの示している世界であり、5つのパンの出来事をとおして示されている世界なのです。わたしたちの世界はどうでしょうか? あまりにも聖書からかけ離れた世界だと嘆いていても仕方ありません。この現実の中でわたしたちには何ができ、何が求められているのでしょうか?

  (4) 44節「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」という言葉から、イエスを信じる人と信じない人を神が前もって決めていると考えるべきではありません。ヨハネ福音書はユダヤ教との決裂が決定的になった時代に書かれています。この表現は、ユダヤ人がイエスを受け入れなかったことも神の計画の一部だったということを言い表そうとしているのかもしれません。あるいは、イエスを信じることが人間の力ではなく、神の恵みによることだということを強調しているのかもしれません。 
 「命のパンであるイエスを食べる」とはどういうことでしょうか。それはイエスのもとに来て、イエスを信じることです(35節)。一方、きょうの箇所の最後に「わたしが与えるパン」という表現が現れ、それは「わたしの肉」であると言われています。これまでの箇所と密接に関係しながら、ここからから新しいことが言われています。51節の終わりから、直接「聖体(エウカリスティア)」のことが語られ、来週の箇所に続いていくのです。




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Posted on 2018/08/03 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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年間第18主日 (2018/8/5 ヨハネ6章24-35節)  


教会暦と聖書の流れ


 主日のミサの聖書朗読は3年周期になっていて、今年(B年)の年間主日には、主にマルコ福音書が読まれます。しかしその途中、先週の年間第17主日から5週の間は、ヨハネ福音書6章が読まれることになっています。先週の福音は、5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与えたという話でしたが、きょうはその翌日の話です。パンをめぐるイエスと群衆の対話の中で、何が「命のパン」か、すなわち、何がほんとうに人を生かすものであるかが問われ、そして、明らかにされていきます。


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  (1) 5つのパンと2匹の魚の話の後、きょうの箇所との間(6章16-21節)に、イエスが湖の上を歩いたという話が伝えられています。この話はマルコ福音書やマタイ福音書でも5つのパンの話に続けて語られていますから、ヨハネもそれを踏襲したのでしょう。この話の中に「わたしである(=わたしがいる)、恐れることはない」(20節)というイエスの力強い言葉があります。ヨハネ福音書の場合、湖の上を歩いた話は単に奇跡物語であるだけでなく、このイエスの力強い宣言をとおして、人々をイエスに対する信仰、「わたしが命のパンである」というイエスへの信仰に招く意味があるようです。
 イエスと弟子たちが「主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所」(23節)を離れ、舟に乗って出かけたので、群衆がイエスを探して「湖の向こう岸」のカファルナウムにやって来る、というところからきょうの箇所は始まります。

  (2) 「ラビ」(25節)は、ヘブライ語で「わたしの先生」という意味の尊敬を込めた呼びかけの言葉です。5つのパンの物語の結びに「人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」(ヨハネ6章14-15節)とありました。人々は確かにイエスのすばらしさを認めていますが、それはイエスが人々に期待した反応とは違っていたようです。イエスに対する人々の期待は、いろいろでした。病気をいやす力を持った者としての期待(2節参照)、ローマ帝国の支配を打ち破る王としての期待(15節)、さらに自分たちが満腹できるように必要なパンをいつも与えてくれる方としての期待。イエスはそれらの期待を退けます。
 「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)。イエスが求めるのは、人々が「しるし」を見ることです。ヨハネ福音書では奇跡のことを「しるし」と言いますが、不思議な出来事をとおして、人がイエスを知り、神ご自身を知るようになるのが「しるし」という言葉の意味することです。単に目に映る出来事に驚いたり、目に見えるものを期待するだけでは不十分なのです。

  (3) 27節「朽(く)ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」ここから、ほんとうに人を生かすものは何か、ということがはっきりと語られていきます。それは、別の箇所ではこう言われていることと同じです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17章3節)。
 27節の「人の子」は、もともと人間一般を指す言葉でしたが、ダニエル書7章13節によって、「神が遣わされる決定的な裁き主・救い主」を指すようになった言葉です。ヨハネ福音書ではイエスご自身がたびたび、ご自分のことを「人の子」と呼んでいます。イエスはもちろん、神の独り子(ひとりご)ですが、神から遣わされて世に来られ、人として生き、人々の救いのために救い主としての使命を果たされる、このことを表すために、この「人の子」という言葉が用いられていると考えればよいでしょう。なお、同じ27節の「認証」は「証印を押して確認すること」を表す言葉です。
 
  (4) 28,29節の「神の業(わざ)」とは「神の望まれる業」のことでしょう。ところで、28節の「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」という人々の問いは、日本語では唐突な印象があるかもしれません。27節でイエスが「働きなさい」というときに、ギリシア語では「エルガゾマイergazomai」という動詞が使ってありましたが、この言葉の名詞の形が「エルゴンergon(業、働き)」です。28節の「神の業を行う」は原文に即して訳せば「神の働き(エルゴン)を働く(エルガゾマイ)」ということになり、これは27節の「働きなさい」という言葉に対する直接の反応だということになります。
 31節の「マンナ」は紀元前13世紀、エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、荒れ野で食べ物がなくて苦しんでいた時に、神によって与えられた不思議な食べ物です(出エジプト記16章=きょうの第一朗読、民数記11章6-9節)。出エジプト記16章4節、詩編78編24節では、「天からのパン(穀物)」とも呼ばれています。「マンナ」は、神がいつくしみ深く民を養い、守り、導き、生かすことのシンボルでした。

  (5) 35節はこれまでの議論の結論です。イエスが命のパンである、すなわち、イエスのうちにこそ命がある、というのです。それはどういうことなのでしょうか?
 地上に生きていたイエスの命は神とのつながり、人とのつながりの中にありました。ヨハネ6章11節で「パンを取り、感謝の祈りを唱えた」イエスは、神によって生かされる命をいつも生きていました。そのパンを「人々に分け与えられた」イエスは、人と人とが生かし合う命を日々生きていました。わたしたちもこのイエスの命に招かれています。
 このイエスは受難と死を経て、復活の命を生きているイエスでもあります。最後まで弟子たちを愛し抜き、父のもとに移られたイエス(ヨハネ13章1節参照)は、父である神とともに永遠に生きていて、信じる人々を永遠の命に導く方なのです。
 また、根本的に、命は神から来るものです。イエスはその「神のふところにおられる独り子」(ヨハネ1章18節)であり、神と人とを結び合わせる方だからこそ、イエスのうちに命がある、とも言えるのです。




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Posted on 2018/07/27 Fri. 09:40 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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年間第17主日 (2018/7/29 ヨハネ6章1-15節)  


教会暦と聖書の流れ


  主日のミサの聖書朗読配分は、マタイの年、マルコの年、ルカの年の3年周期になっています。ヨハネ福音書はほとんどの箇所にイエスの死と復活というテーマが現れているので、四旬節や復活節に集中して読まれます。ただし、ヨハネ1章19節~2章11節(イエスと最初の弟子たちの出会い=年間第2主日)と6章(パンについての話)だけは、年間主日の流れの中に組み込まれて読まれることになっています。今年はマルコの年で、先週の箇所(マルコ6章30-34節)に続くのは、5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与える話(6章35-44節)ですが、きょうの福音では同じ話をヨハネ福音書から読みます。そして、きょうから5週間、ヨハネ福音書の6章が読まれていくことになります。このようにカトリック教会の朗読配分では、主日のミサの中で4つの福音書をバランスよく読むことができるようになっているのです。


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  (1) 写真はカファルナウムの近くにある「パンと魚の教会」と呼ばれる教会の祭壇の下のモザイクです。5世紀ごろに作られたものだそうです。きょうの福音の出来事が古代の教会の中で大切にされていたことが分かります。この出来事が起こった場所は正確には分かりません。「向こう岸」とありますが、異邦人の地のことではなくカファルナウムの周辺の地だったようです。
 聖書の中で「」は、特別に「神がご自身を現す場」「神との出会いの場」です。「過越祭(すぎこしさい)」はエジプトの奴隷状態からの解放という、神の救いのわざの原点を記念するイスラエル最大の祭りです。ヨハネ福音書は、この出来事をとおしてイエスの神性が現れ、新しい過越とも言うべき大きな救いが示されることを伝えるために、この場所と時を選んでいるようです。

  (2) 「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(5節)というイエスの問いはヨハネ6章全体にかかわる大きな問いです。この問いの本当の答えは、6章35節にあるイエスの宣言、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」ということだからです。もちろん弟子たちは、ここではまだ、そのことを理解できていません。「二百デナリオン」は200日分の日給にあたりますからたいへんな額です。とても自分たちの手には負えない、と考えて「足りないでしょう」「何の役にも立たないでしょう」と言うのです。このようなつぶやきはわたしたちの中にもあるかもしれません。

  (3) 11節「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」。「感謝の祈りを唱え」はギリシア語で「エウカリステオーeucharisteo」ですが、マルコ、マタイ、ルカでは「賛美の祈りを唱え(エウロゲオーeulogeo)」という言葉が使われています。賛美と感謝の違いはあまり問題になりません。どちらもこのパンが神から与えられたものであることを確認し、このパンを与えてくださった神に賛美と感謝をささげているのです。「分け与える」は他の福音書では「パンを裂いて与える」というような表現になっていますが、動作としては同じです。これは最後の晩さんのときのイエスの動作、そしてミサの中での司祭の動作にもつながる大切な表現です。

  (4) パンを食べたすべての人は満腹しました。男の数が5千人ですから女性や子どもを入れれば1万人ほどの人がいたことになるでしょう。この不思議な出来事は4つの福音書すべてに伝えられていますが、このような出来事をどう考えればよいのでしょうか。
 第一朗読で読まれる列王記下4章42-44節には同じような出来事が伝えられています。そこでは、紀元前9世紀の預言者エリシャが大麦パン20個を100人の人に食べさせ、人々は食べきれずに残したという話になっています。5つのパンで5千人というのはもっと奇跡的な出来事であることが強調されていますが、正確な数字だと考えなくてもよいのではないでしょうか。この話のもとには、弟子たちのなんらかの体験があったはずです。それは「大勢の人がいて、パンは絶対に足りないと思ったのに、イエスを中心にそのパンを分け合ったとき、そこにいたすべての人が満たされた」というような体験だったのかもしれません。

  (5) 「パンの屑(くず)」(12,13節)の「屑」と訳された言葉は、原文では「裂かれたもの」を意味する言葉が使われていますから、むしろ、「パンのかけら」と訳したほうがよいでしょう。「十二」はイスラエルの部族を象徴する数だとも言われますが、ただ単に完全さを現す意味で「十二」という数になっているのかもしれません。とにかくここで、イエスのもとにある豊かさが強調されていると言うことができるでしょう。
 「イエスのもとにある本当の豊かさ」とは何でしょうか。11節のイエスの動作にその秘密があるのではないでしょうか。イエスは食事の際の動作の中で、神とのつながり、人と人とのつながりをはっきりと示しています。目の前にパンがあってそれを自分が食べるから満たされるのではなく、わずかなパンでもそれを与えてくださった神とのつながりを思い、そこにいるすべての人とのつながりを大切にしていただくときに満たされる。わたしたちの中にもそのような体験があるのではないでしょうか。

  (6) この出来事に対する人々の反応は、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」というもので、決して否定的な反応ではありませんでした。しかし、イエスは「人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしている」と受け取ります。イエスが十字架につけられた時の罪状書きは「ユダヤ人の王」というものでした(ヨハネ19章19節)。ここでの「王」もローマ帝国の支配を打ち破り、ユダヤ人をローマ皇帝から解放してくれる政治的指導者の意味でしょう。イエスの力を見た人々はイエスにこのような期待をかけ、イエスを自分たちの王に祭り上げようとしたのです。わたしたちはイエスに何を期待しているのでしょうか。そして、イエスはわたしたちに何を求めているのでしょうか。




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Posted on 2018/07/20 Fri. 09:00 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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年間第16主日 (2018/7/22 マルコ6章30-34節)  


教会暦と聖書の流れ


 イエスが12人の弟子を派遣した先週の箇所の結びには、「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6章12-13節)とありました。続く14-29節には、弟子たちがイエスとともにいなかった時間を埋めるかのように、洗礼者ヨハネの殉教の物語が伝えられています。ですから、きょうの箇所は内容的には13節から続いているのです。
 この後、5つのパンと2匹の魚を大群衆に分け与える話になっていきますが、実は、来週の福音は同じ話をヨハネ福音書から読むことになり、ヨハネ6章の朗読が5週間続きます。年間主日のマルコ福音書の朗読が再開されるのは、年間第22主日(マルコ7章)からです。


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  (1) 30節の「使徒」という言葉は、マルコ福音書ではすでに3章で使われていました。「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」(3章14-15節)。「使徒」は、ギリシア語では「アポストロスapostolos」で、「アポステローapostello(遣わす、派遣する)」という動詞から来ています。意味は「遣わされた者」です。遣わされた者の使命は「神の国を宣べ伝え、悪霊を追い出す」ことですが、これはイエスがしてきたことと同じことだと言えます。「使徒」はイエスの近くにいた12人の弟子、初代教会では、復活したイエスに出会い、イエスから派遣された特別な人を指す言葉ですが、福音書を読むときは、いつもわたしたち自身が「遣わされた者」であることを忘れないようにしましょう。2000年前のガリラヤとユダヤでイエスがしていたことを、今のわたしたちが自分の置かれた場でなんとか行なっていこうとするとき、わたしたちも「使徒」だと言えるはずです。

  (2) イエスは群衆の「飼い主のいない羊のような有様」(34節)を見ます。羊は弱い動物なので、群れを離れると滅んでしまいます。「飼い主=羊飼い=牧者」の役割は、羊の群れを一つにまとめ、野獣から守り、草のあるところに導くことでした。右上の写真は、イスラエル占領下にあるゴラン高原(ガリラヤの北西にあたる)で見かけた羊と羊飼いです。この羊飼いはドゥルーズ人というアラブ系の人のようでした。イスラエル人の先祖も羊飼いでしたので、旧約聖書には「飼い主のいない羊」のイメージがたびたび現れます。
 一番印象的なのはエゼキエル34章でしょう。エゼキエルは、人々を守らず、かえって人々から奪い取るだけのイスラエルの牧者たち(=指導者たち)を厳しく批判してこう言います。
「3 お前たちは乳(ちち)を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠(ほふ)るが、群れを養おうとはしない。4 お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した」
 そして民の姿を次のように表現しています。
 「5 彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣(けもの)の餌食となり、ちりぢりになった。6 わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。7 それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。8 わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいない
 そして、神ご自身が「わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」(11節)、また「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧(ぼく)させる」(23節)と約束されます。イエスはこの牧者として人々に目を注いでいます。

  (3) 34節の「深く憐れみ」は、ギリシア語では、「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉です。この言葉は、新約聖書の中で12回使われていて、そのうちマタイ福音書に5回、マルコに4回(この箇所のほか、1章41節、8章2節、9章22節)、ルカに3回使われています。この言葉については他の箇所でも説明しました(C年年間第15主日の「福音のヒント」など)が、「スプランクノンsplanknon(はらわた)」という名詞に動詞の語尾をつけたもので、「はらわたする」と訳した人もいます。「目の前の人の苦しみを見たときに、こちらのはらわたがゆさぶられる」ことを表します。相手の痛みをわがことのように感じてしまう深い共感(コンパッションcompassion)を表す言葉なのです。イエスの愛の行いはいつもここから来ていると言ってもよいのでしょう。
 きょうの箇所で、この深い共感からイエスがしたことは「教え始められた」ということでした。マルコはいつものように教えの内容を伝えていません。もちろんそれは「神の国=神が王となること」についてのメッセージです。「王」と「羊飼い」のイメージはつながっています。この箇所のイエスの教えは、「野の獣の餌食となり、ちりぢりになった」(エゼキエル34章5節)羊たちを一つの集め、力づける牧者としての言葉だと言えるでしょう。わたしたちもそのようなイエスの言葉を聞くことがあるでしょうか。

  (4) 現代社会に生きているわたしたちの多くはたぶん疲れています。31節でイエスは弟子たちに「しばらく休むがよい」と言われましたが、わたしたちもこの言葉を切実に必要としているかもしれません。
 ただし、この場面の弟子たちは簡単には休めなかったようです。群集が押し寄せてきたからです。きょうの箇所の後の5つのパンと2匹の魚の話では、弟子たちは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(37節)と命じられ、大群衆にパンを配るのを手伝わされています。結局のところ、休むことはできなかったのでしょうか。
 イエスが「教え」「パンを分け与える」。これは「ことばの典礼」と「感謝の典礼」からなる「ミサ」そのものと言えるかもしれません。いろいろな休み方がありますが、本当の休みはイエスのもとにいて、イエスとともに時を過ごし、イエスの言葉を聞き、イエスの食卓にあずかること。そう感じることができたらどんなに素晴らしいことでしょう!




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Posted on 2018/07/13 Fri. 09:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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