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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第 29 主日 (2018/10/21 マルコ 10 章 35-45 節)  


教会暦と聖書の流れ


 場面はエルサレムへの旅の途中で、マルコ福音書の 3 回目の受難予告(10 章 32-34 節)に 続く箇所です。「受難の道を歩むイエスに従う」というテーマは先週の福音(10 章 17-31 節) から続いています。これまで 2 回の受難予告同様、ここでもイエスの受難の道について無 理解な弟子たちの姿が現れていますが、この弟子たちに向けて、イエスはご自分の受難と 死の意味を最もはっきりとした言葉で告げられます。


福音のヒント


  (1) ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、ペトロ と並んで弟子たちの中でもっともイエスの近く にいた弟子です。彼らは「先生、お願いすること をかなえていただきたいのですが」(35節)とイエ スに話しかけます。この遠慮がちな頼み方は、彼ら自身、自分たちの願いがイエスの思いとは違うかもしれないという予感を持っていたことを表しているのでしょう。二人の願いは、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」というものでした。イエスが何度もご自分の受難を予告していたにも関わらず、彼らはそれを受け 入れることができず、ただイエスが栄光を受けることしか考えていません。二人の願いは、 その栄光のときに、他の弟子を差し置いて自分たちに特権的な地位が与えられるように、 という願いです。
 「(さかずき)」は普通、救いと喜びのシンボルです。しかし、日本語にも「苦杯をなめる」 という表現があるように、苦しみのシンボルにもなります。ここではもちろん「苦しみの 杯」の意味です。「洗礼」もキリスト者にとっては救いと喜びのシンボルですが、洗礼(ギリシア語の「バプティスマbaptisma」)の元の意味は「水に沈めること、浸すこと」ですから、死のイメージもあります。ここでは「死」のイメージで語られています。イエスは、 自分と同じ苦しみと死を引き受けることができるか、と問いかけているのです。

  (2) 二人の弟子はどこまでこの言葉を理解していたのか分かりませんが、39節で「できます」と答えます。イエスの栄光にあずかるためなら、彼らはどのような苦しみにも耐 える覚悟ができていたのでしょう。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わた しが受ける洗礼を受けることになる」。ヨハネの最期は聖書に伝えられていませんが、ヤコブは後に殉教したと伝えられています(使徒言行録12・1-2)。しかし、イエスは報いとし ての地位を彼らに約束しません。「定められた人々にゆるされる」というのは、「神がお決めになることだ」という意味で、それはあなたにもわたしにも関係ない、と言うのです。
他の10人は腹を立てます。彼らが腹を立てたのは、自分たちも同じようなことを考えているのに、ヤコブとヨハネが抜け駆けしようとしたからでしょう。そうでなければ腹を立てる必要はないのです。「人よりも先になりたい、上に立ちたい」という願望がいかに強いかを感じさせられます。そこから自由になることは簡単ではないのです。

  (3) 「異邦人」は「あなたがた(弟子たち)」と対比させられていますから、ここでは 「神やキリストを知らない人々」の意味だと言えるでしょう。「支配し」「権力を振るっている」は明らかに悪い意味で、人々を苦しめる権力の乱用のことです。
 「仕える者」はギリシア語で「ディアコノスdiakonos」です。「仕える」は「人のために働くこと」を表す言葉です(なお今のカトリック教会で使われる「助祭」という言葉の原語がこれです)。「僕(しもべ)」はギリシア語では「ドゥーロスdulos」で、こちらは働きの内容よりも「主人」との関係を表す言葉です。ここでは両方とも同じような意味で使われています。「仕える」「僕になる」という言葉には、「人のためにサービスする」という面がありますが、もう一つには「自分を低くする、自分を無にする」という面もあると言えるでしょう。

  (4) 45節のはじめには、新共同訳聖書では翻訳されていませんが、「なぜなら」という言葉があります。ここで弟子たちが「仕える者」「僕」になるべき理由が示されるのですが、それはイエスご自身の生き方がそうだから、ということになります。この45節は、 マルコ福音書の中でもっとも明確にイエスの使命と死の意味が語られる箇所です。
 イエスが来たのは「仕えるため」でした。これは生涯の最後の受難に向かう歩みだけで なく、これまでのイエスの歩み全体を貫く姿勢を表しています。「身代金」と訳された言葉はギリシア語で「リュトロンlytron」です。本来は奴隷を解放するために支払う代金のことを意味したので「身代金」と訳されています。しかし、この言葉はイスラエルの歴史をとおして、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放した、その神の救いのわざを指すようにもなりました。イエスの死は人々を解放し、命に導くためのものです。
 なお「多くの人」という言葉は、日本語では「すべての人ではない」というニュアンスに聞こえてしまうかもしれません。しかし、元のアラム語では「すべての人」の意味も含まれているそうです。イエスの十字架がもたらす救いを特定の人々だけに限定して考えることはできないでしょう。

  (5) マルコは生き方全体から死だけを切り離して、そこに意味があるというのではなく、イエスの死を「仕える」というイエスの生き方の頂点として示しています。このことは大切です。だからこそ、マルコはイエスのなさったこと一つ一つをていねいに伝え、わたしたちがその生き方をしっかり見つめるように促しているのだ、と言えるでしょう。
 「仕える」「僕になる」という生き方は、現代では流行(はや)らない生き方でしょうか。 わたしたちの社会は、「人は皆、平等であり、皆、上昇志向があり、だから競争に勝つことが大切で、結局勝った者が得をする」という社会だと言えるかもしれないからです。イエスはそのような考え方、生き方に挑戦してきます。「仕える者になる」「僕になる」という生き方の中にこそ、もっと豊かな神とのつながり、人とのつながりがあるのだ・・・。わたしたちはこのイエスの言葉をどのように生きることができるのでしょうか?




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Posted on 2018/10/12 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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年間第28主日 (2018/10/14 マルコ10章17-30節)  


教会暦と聖書の流れ


 マルコ福音書の2回目の受難予告(9章31節)の後、受難の道を歩むイエスに従うとはどういうことかを示す言葉や物語が続いています。きょうの箇所の冒頭の「イエスが旅に出ようとされると」はガリラヤからエルサレムへの旅のことです。ここでは、「イエスに従う」ということが、よりはっきりとしたテーマとして表れています。


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   (1) ある人がイエスに「善い先生」と呼びかけ、教えを乞います。この人はイエスの素晴らしさを認め、その教えを聞こうとしてイエスに近づいてきたようです。しかしイエスはなぜか「善い」という言葉にこだわります。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」(18節)。イエスは「善い者」であるはずですから、不思議に思われるかもしれませんが、イエスはここでこの人の心を、イエス自身にではなく、次節の神の掟に向けさせるために、あえてこう言っているようです。
 19節の「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」は十戒の言葉です(出エジプト記20章12-16節、申命記5章16-20節)。十戒は神に救われた民の「神との関係、他の人との関係」の根本を規定したものですが、ここではその後半の人間関係についての掟が引用されています。この人は「先生、そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と言います。この人は道徳的に見て立派な人だったのでしょう。
 イエスはこの人に対して「あなたに欠けているものが一つある」(21節)と言い、財産をすべて貧しい人に施し、イエスに従うことを求めます。この厳しさはなんでしょうか。イエスご自身が受難への道を歩み始めていることと関係があるのでしょうか。
 イエスの要求の厳しさは、精一杯受け止めるべきでしょう。実際に2000年のキリスト教の歴史の中で、多くの人がこのようなイエスの呼びかけにまともに応えようとしました。キリスト教とはそういう人々の歩みそのものだと言ってもよいのです。

  (2) ただし、だからと言ってイエスの呼びかけに応えられない自分はダメだと決めつけるべきでもないでしょう。イエスはこの金持ちの男のすべてを否定したとは思えません。「慈しんで」(21節。ギリシア語で「アガパオーagapao」)という言葉には、イエスの深い愛が感じられます。また、イエスはすべての人にこのような要求をしているわけでもありません。ルカ19章1-10節に徴税人の頭(かしら)で金持ちであったザアカイの物語があります。ザアカイはイエスに出会い、救いを受け取ったとき、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言いました。イエスはザアカイのこの決意を良しとしています。なぜ、きょうの箇所では「すべてを捨てて、貧しい人に施す」ことが要求されているのでしょうか?

  (3) イエスはこの男に「あなたに欠けているものが一つある」(21節)と言います。それはこの人の生き方の問題に気づかせるためだったのではないでしょうか。イエスの言葉を聞いて、彼は「悲しみながら立ち去」りました。こうして、彼が「自分の財産」を頼りにしていたことが明らかになってしまうのです。
 25節の「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」という言葉は、もちろん、それが不可能だ、という意味です。これを聞いて、弟子たちは驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言います。当時のユダヤ人にとって、財産は神の祝福のしるしでした。また、ある程度の財産があり、生活に余裕がなければ、律法に忠実な生活を送れないという考えもあったでしょう。イエスはそのような考えとまったく違うことを言っています。なぜでしょうか。それはもちろん、財産があれば、自分の財産を頼りにして、神に信頼する生き方を見失うということを意味しているのでしょう。

  (4) イエスが常に指し示していたのは、すべての人の父(アッバ)である神への信頼に生きることでした。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)という言葉は当たり前のことを言っているようですが、実は大切なことを言っています。救いの根拠は「人間にできること」ではなく「神の愛」なのです。ここに登場した金持ちの人は、永遠の命を得るために「自分に何ができるか」ということを考えていました。それは「富や功績があり、その上何をすれば?」という「人間にできること」の世界でした。イエスが「善い」という言葉を退けたのも「自分の善い生活」を自負したこの人に、それが本当に頼りになるものではない、と気づかせるためだったのかもしれません。この人に必要だったのは、神に信頼し、兄弟の必要に心を開くことだったのです。ザアカイの場合は、罪びとの自分を愛してくださるこの神の救いをイエスとの出会いによって知りました。だから、感謝と喜びのうちに財産を手放す決意をしたのです。
 
  (5) ペトロは「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」(28節)と胸を張ります。イエスはご自分に従う者の受ける報いを約束しますが、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(31節)とも言います。ここでもほんとうは人間の功績の問題ではないのです。神はすべての人を愛し、救ってくださる方、だから、誰が一番ということではないのだ、ということになります。
 ところで29-30節で、捨てるものの中にあって、「今この世で」受けるものにないのは「父」だけです。これは「本当の父は、天の父である」ということなのかもしれません。
 「捨てることによって、受ける」ということは言葉で説明できることではないでしょう。むしろわたしたちが実際に、福音のために何かを捨てたという経験があれば、そこでもっと豊かなものを受けたという体験もあるのではないでしょうか。
福音は自分を誇ったり、自分を責めたりするためにあるのではありません。わたしたちをより豊かな生き方に招くためのものです。わたしたちが本当に頼りにしているものは何でしょうか? 今のわたしにとって、イエスに従うとはどういうことなのでしょうか?




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Posted on 2018/10/04 Thu. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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年間第27主日 (2018/10/7 マルコ10章2-16節)  


教会暦と聖書の流れ


 マルコ福音書では、2回目の受難予告(9章31節)の後に、イエスのさまざまな行動や言葉が伝えられています。先週の箇所(9章38-50節)に続くきょうの箇所では、当時、社会的な立場・評価の低かった女性と子どもに対するイエスの見方が示されています。ここには、イエスがいのちがけで伝えようとした神(アッバ)の心がよく表れていると言えます。


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  (1) イエスの時代の「離縁」の問題と現代の「離婚」の問題は同じではありません。圧倒的な男性優位の社会でしたから妻の側からの離婚の申し出や協議離婚などありえず、「離縁」といえば一方的に「夫が妻を追い出すこと」だったのです。
 この「離縁」について、申命記にはこう規定されていました。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24章1節)。この律法は「離縁」のために2つの条件をつけています。1つは「何か恥ずべきことを見いだし」です。夫が妻を離縁するためには、妻の側に明らかな落ち度がなければならないのです。もう1つは「離縁状を書いて彼女の手に渡し」で、これは追い出された女性に再婚の可能性を保証することでした。ただ家を追い出されただけでは、前の夫との関係が切れていないので、再婚できません。男性優位の社会の中で女性が一人で生きていくのは、非常に困難なことでした。そこで、追い出される女性にせめて再婚の可能性を保証することが求められたのです。これは紀元前のイスラエル社会の中では、女性の立場を少しでも守ろうとしている規定だと言えないこともないのです。

  (2) ところで、イエスの時代、律法学者の中にヒレル派とシャンマイ派という有力な2つの派があったことが知られています。この箇所についての解釈はこの2派で分かれていました。シャンマイ派は「何か恥ずべきこと」を妻の側の異性関係の問題と解釈したのに対して、ヒレル派は「何か」と「恥ずべきこと」を分けて読み、この「何か」にはもっといろいろなことが含まれるとしました。有名な例に「夫の食べ物を過って焦がしてしまう」というのがあります。つまり、妻のどんな小さな落ち度でも、夫が気に入らないとなれば、離縁する正当な理由になったのです。一般にこのヒレル派の解釈が通用していました。だから、きょうの箇所でイエスの対話の相手も「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」(4節)と言い、「何か恥ずべきこと」という条件は無視しています。「離縁状さえ書けば、妻を離縁してよい」これが当時の一般的な考えでした。律法学者は皆、男性です。何百年かの間に、この律法は男性に都合のいいように解釈されていったのです。

  (3) イエスは当時の社会の中で、夫に追い出され、路頭に迷う多くの女性たちを見ていたのでしょう。断固として離縁に反対します。神の心は、夫が妻を離縁することを許すことではない、とイエスは主張します。そして、モーセの時代よりもさかのぼり、人間の創造の物語について語ります。「神は人を男と女とにお造りになった」(6節)は創世記1章27節の引用です。神にかたどって創造された男女が神の前に対等であることを語る箇所です。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」(7-8節)は創世記2章24節の引用です。そして結論として、イエスはこう言われます。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(9節)。
 妻とは何か? それは神が与えてくださったかけがえのないパートナーではないか。妻を自分の都合がよければ家に置いておき、都合が悪くなれば追い出せるようなものと考えるのはおかしいではないか・・・ということでしょう。イエスは律法の規定や結婚という制度を守ろうとしているのではなく、その中に生き、苦しんでいる一人ひとりの人間(ここでは弱い立場にいた当時の女性たち)を守ろうとしているのではないでしょうか。このように見るとイエスの言葉は「新しい律法」ではなく、まさに「福音(よい知らせ)」なのです。

  (4) 11-12節は一般的に離婚を禁じる言葉ですが、ここには「妻を離縁して他の女を妻にする者」(つまり男性)だけでなく「夫を離縁して他の男を夫にする者」(女性)のことが書かれています。これは前に述べたように、イエスの生きていたユダヤ社会ではありえないことでした。しかし、初代教会が地中海沿岸に広がる中では、このような地域もあったと考えられます。こう考えると、これはイエスご自身の言葉ではなく、初代教会の人々がイエスの言葉を受け取って、それを厳格に守ろうとする中で、付加された言葉のようです。
 初代教会の人々は、イエスの言葉を「新しい掟」として受け取りました。キリスト教は結婚の絆を非常に重要視し、神聖なものと考えるようになりました。それは確かに古代社会一般の中で女性の立場を守る役割を果たしたと言えるでしょう。しかし、掟には危険があります。「掟さえ守ればいい=離婚さえしなければいい」となってしまう危険です。本来のイエスの言葉の意味は「離婚してはいけない」という掟ではなく、結婚とは、互いに相手を神が結び合わせてくださったかけがえのないパートナーとして大切にすることではないか、ということだったのではないでしょうか。

  (5) イエスの時代のユダヤでは子どもは「無能力者」の代表でした。人間として価値を認められるのは、律法を学び守ることであり、その基準からすれば、無知で無力な子どもは無価値であると見なされていました。イエスの弟子たちでさえ子どもたちを追い払おうとしたのは、そういう社会だったからです。イエスは違います。14節「神の国はこのような者たちのものである・・・」。アッバ(父)である神は人の能力や功績にかかわらず、すべての人を愛し、それゆえ特別に小さく無力な者に目を注いでくださる。人は誰でもその神の愛を恵みとして受け入れ、信頼をもって自分をゆだねていくのが本来のあり方ではないか!
 イエスはわたしたちの人に対する見方に挑戦してきます。「自分にとって都合がいいかどうか、どれだけ役に立つか」という見方ではなく、目の前の人を神が出会わせてくださった人、同じ神の子ども・自分の兄弟姉妹として見るべきではないか、と!




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Posted on 2018/09/28 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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年間第26主日 (2018/9/30マルコ9章38-43,45,47-48節)  


教会暦と聖書の流れ


 先週読まれたマルコ9章30-37節で、イエスは2回目の受難予告をし、ご自分の十字架の道に弟子たちを招きました。先週の箇所では「仕える者になる」「子どもの一人を受け入れる」ということが言われていましたが、それに続くきょうの箇所でも、イエスに従う弟子たちの生き方とはどういうものかが示されると考えたらよいでしょう。つまり、ここには、弟子たちの生き方についての教えだけでなく、イエスご自身の十字架の道がどのようなものであるかということも示されていると言えそうです。


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  (1) 「ヨハネ」はもちろん、ヤコブの兄弟である弟子のヨハネです。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」(38節)。イエスの名を使って悪霊を追い出す、しかし、自分たちとは歩みを共にしない、これはイエスの地上での活動の時代よりも、後の教会の時代になってからのほうがありそうな問題です。
 イエスは弟子たちの狭いグループ意識を批判します。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」という言葉はイエスの非常に広い、開かれた心を表しています。これは、イエスが十字架に向かう中で、敵意や憎しみを受け止め、すべての人を愛し続けた姿とつながります。ルカ9章50節にも同様の言葉があります。
 一方、マタイ12章30節とルカ11章23節には、まるで正反対のような、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(マタイ)という言葉もあります。これらの箇所は「悪霊」につくか「神の霊」につくか、の二者択一を迫る文脈なので、厳しい言葉になっているようです。

  (2) マルコ9章41節「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」という言葉も、狭いグループ意識に凝り固まらないイエスの心を示しています。
 これとよく似た言葉をマタイは違う文脈の中で伝えています。「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10章42節)。マタイのほうは、弟子たちを派遣するにあたって弟子たちが迫害を受けることを予告する、という文脈の中でのことですから、マタイの「小さな者」は迫害されているキリスト者のことだと言えます。このマルコの箇所の「あなたがた」にも「圧迫され、苦しみの中にあるキリスト者であるあなたがた」というイメージがあるのかもしれません。なぜなら、続く42節には「わたしを信じるこれらの小さな者」という言葉があるからです。だとすれば、41節と42節はどちらも苦しむ人々への態度のこととして、なんらかのつながりがあると考えることもできるでしょう。

  (3) しかし、きょうの箇所全体を一つの教えとして考えることは難しいようです。37節の「子ども」(先週の福音)や41節の「キリストの弟子」と42節の「小さな者」はイメージとしてつながっています。42節の「つまずかせる」と43、45、47節の「つまずかせる」は言葉の上でつながっています。しかし、それぞれの文が内容的にも関連があるとは考えられません。さらに、きょうの箇所の後、50節までの箇所でも「地獄」「火」「塩」という言葉でつながっているだけで、内容的なつながりは見いだすことができません。
 どうしてこのようなことがあるのでしょうか? イエスの言葉は最初から文字に書きとめられたのではなく、口伝えで語り継がれていきました。人々の記憶に頼っていたので、このように、言葉やイメージあるいは似ている文章構造によって、短いイエスの言葉が結び合わされ、記憶しやすい形で伝えられていったのだと考えられます。もちろん、内容的にまったく無関係な言葉と考えることもできません。これらの言葉は全体としてイエスの弟子にふさわしい生き方を指し示す言葉として大切に伝えられていったのでしょう。

  (4) 「つまずかせる」は本来、「人の歩く道に罠を仕掛ける、道に障害物を置く」という意味です。「罪に誘う、神への道から引き離す」という意味に受け取ればよいでしょう。ただし、42節の「つまずかせる者は・・・」には、もっと一般的に「小さな者を軽んじ、小さな者に悪いことをしないように」という警告の言葉だと受け取ったほうがよいでしょう。イエスの目はいつも「小さな者」に注がれていました。同じように「小さな者」を大切にすることが弟子たちに求められるのです。43節以降の「手があなたをつまずかせる」「片方の足が・・・」「片方の目が・・・」は非常に強い言い方です。実際に手や足や目が人に罪を犯させるのではありませんし、もしそうだとしても手や足や目を取り去ることは考えられません。これは明らかに誇張された表現で、「自分をつまずかせるもの」つまり「自分を神から引き離し、罪に誘うもの」を一切捨て去るようにという強い警告です。「地獄」と「命・神の国」の対比も警告を強めるためですし、同じような警告が3度繰り返されるのも、この警告の厳しさをより強めています。
 ところで、新共同訳聖書のこの箇所を見ると、44、46節は省かれていて、そこに短剣のような記号「†」が付けられています。これは新共同訳がもとにしたギリシア語聖書(底本)で省かれている箇所の印です。写本によってはこの2箇所に「地獄では蛆(うじ)が尽きることも、火が消えることもない」という48節と同じ言葉があるのですが、現代の学者は本来のマルコ福音書になかったと考えています。写本が書き写されていく中で、3つの警告の形を統一するために付け加えられていったようです(なお、この言葉はイザヤ66章24節の引用です)。とにかくここで、わたしたちに対して、罪から絶縁するという厳しさが求められていることは確かです。ただし、それは、日常の小さな罪から離れるということよりも、神と人への愛からわたしたちを引き離す決定的な罪の誘惑(=つまずき)のことと考えてもよいのではないでしょうか? もし、43節以下が42節と内容的なつながりがあるとするならば、「小さな者を軽視し、小さな者の歩む道を邪魔する」という心のあり方こそが、もっとも重大な罪の問題だということになるからです。




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Posted on 2018/09/21 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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年間第25主日 (2018/9/23 マルコ9章30-37節)  


教会暦と聖書の流れ


 先週の箇所は、いわゆる「ペトロの信仰告白」と「最初の受難予告」の箇所(マルコ8章27-35節)でしたが、きょうの箇所は少し飛んで、2回目の受難予告と言われる場面です。マルコ福音書の3回の受難予告では、いつも同じパターンがあります。
 (a) イエスはご自分の死と復活を弟子たちに予告する。
 (b) 弟子たちはそれを理解できず、見当はずれなことを考えている。
 (c) イエスはその弟子たちにご自分の受難の道の意味を語り、弟子たちを同じ道に招く。
 この2回目の受難予告でも同じパターンが見られます。


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  (1) 弟子たちは「途中でだれがいちばん偉いかと議論し合って」いました。「何を議論していたか」と問われても彼らは「黙って」います。それがイエスの考えや生き方と合わないことを知っていたからです。情けない弟子たちの姿です。この弟子たちに向かってイエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(35節)と言われます。これは3回目の受難予告の後の言葉とよく似ています。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10章43-45節)。9章35節の言葉も一般的な教えというより、イエスの受難の道に弟子たちを招く言葉なのです。
 「人よりも先になりたい、上になりたい、偉くなりたい」という思いから自由になることは難しいことです。弟子たちは、実際にイエスの受難と死の姿に接することによって、そこから解放されていきました。わたしたちはどうしたら解放されるのでしょうか? 
 
  (2) ここまでの話と37節の子どもについてのイエスの言葉「子供の一人を受け入れる者は・・・」はうまくつながらないと感じられるかもしれません。マタイやルカもそんなふうに感じたようです。平行箇所(同じような話を伝える箇所)で、マタイ18章4節では「自分を低くして、この子どものようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」という言葉が加えられていますし、ルカ9章48節では「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」という言葉が加えられています。もしかしたら、マルコ福音書は「子どものようになること(=自分が小さい者であることを受け入れること)」と「子どもを受け入れること」を区別していないのかもしれません。
 マルコ福音書では、再来週の年間第27主日に読まれる10章13-16節にも子どもが登場します。そこではこう言われています。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。子どもに関するイエスの言葉はいろいろな形で伝えられていったようです。マルコはたまたまその一つをきょうの箇所で伝えているという見方もできるでしょう。

  (3) だとしたら、36-37節は前の部分と切り離して受け取ることもできるでしょう。「子どもを受け入れる」とは本来どういうことでしょうか? これと似ている表現は、福音書の次のような箇所にも見られます。
 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。・・・はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ10章40,42節)。ここでは、迫害を受けているイエスの弟子に対する態度のことが問われているようです。
 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)。ここでは「飢えている人、のどが渇いている人、旅をしている人、裸の人、病気の人、牢にいる人」が「最も小さい者」と呼ばれています。
 イエスの時代、律法という基準で人間の価値がはかられていました。一人前の人間として評価されるためには律法を学び、律法を忠実に守ることが必要でした。子どもは、律法についての知識もなく、守る力もない「無能力者」であるから、子どもであること自体には何の価値もないとされていました。迫害されている弟子たちや助けを必要としている小さな人々と「子ども」のイメージはつながっています。この人々を大切にすることこそが、イエスと神を大切にすることだというのです。

  (4) 現代の子どもたちはイエスの時代の子どもたちとは違って、律法の基準ではかられているわけではありません。しかし、「どれだけ役に立つか」という経済的基準ではかられている面はあるでしょう。「少子化」の問題が指摘され、子どもの数がもっと多いほうがよいと言われています。しかしそれは、社会の安定のため、将来の労働力確保のために子どもの数を必要としているに過ぎないのではないでしょうか? 大人の都合(役に立つか、立たないか?)で子どもを見る見方は、極端な場合には、子どもたちを犯罪や虐待の被害者にしてしまうこともあります。
 子どもに対するイエスの見方は、当時の社会の一般的な見方とも、現代の産業社会の見方とも違っていました。イエスは人間を律法の基準や経済的価値で見ず、すべての人を神の子と見ました。父である神はすべての人をわが子として愛し、だからこそ、特別に小さい者にいつくしみを注がれる方です。このイエスの見方からすれば、「子どものようになること」「子どものように神の国を受け入れること」「子どもを受け入れること」は、神の前で、だれもが本来そうあるべき姿勢なのだということになります。
 わたしたちはどうしたら、自分自身の小ささや無力さを受け入れることができるのでしょうか? また、わたしたちがイエスの眼差しをもって子どもを受け入れるとは本当にどういうことなのでしょうか?




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Posted on 2018/09/14 Fri. 08:30 [edit]

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