福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第3主日 (2017/1/22 マタイ4章12-23節)  


教会暦と聖書の流れ


 きょうの箇所はマタイ福音書の中の、いわゆる「宣教開始」の場面です。ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で悪魔の誘惑を退けたイエスが、いよいよご自分の活動を始めていきます。今年(A年)の年間主日のミサの中では、四旬節・復活節の長い中断(約3ヶ月)をはさんで11月まで、マタイ福音書をとおして、イエスの活動の歩みを思い起こしていくことになります。
 きょうの福音でマタイが引用しているイザヤ8章23節~9章1節は、実は「主の降誕・夜半のミサ」で読まれた箇所です。降誕節のテーマであった「闇に輝く光、神の栄光の現れ(エピファニア)」というテーマは、イエスの活動全体を貫くテーマでもあります。


福音のヒント


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  (1) 「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」(12節)。ヨハネが洗礼活動をしていたのはヨルダン川の下流、ユダヤに近い地方だと考えられています。洗礼者ヨハネが捕らえられて、イエスご自身も身の危険を感じたのでしょうか、ヨハネの活動の限界を感じたのでしょうか、イエスはご自分の故郷とも言えるガリラヤに戻ってきます。そして、これを契機にイエス独自の活動が始まることになりました。
 「ガリラヤ」について。紀元前10世紀にイスラエルの王国は、エルサレムを中心とする南のユダ王国とサマリアを中心とする北のイスラエル王国に分裂しました。イザヤは紀元前8世紀、北王国がアッシリアに滅ぼされていった時代の、ユダ王国の預言者です。ガリラヤ地方はサマリアのさらに北にあります。イザヤの時代のユダヤ人から見れば、まさに「異邦人のガリラヤ」と呼ぶべき暗闇の地でした(なお、「ゼブルンとナフタリ」は、エジプトを脱出したイスラエルの民が約束の地に入ったとき、ガリラヤ地方を割り当てられた部族の名です)。イエスの時代のガリラヤ地方は、南のユダヤ人が入植して町を作っていたので、民族的にも宗教的にも南のユダヤ人と結びついていましたが、ユダヤの人々からは軽んじられていました(「ガリラヤから預言者は出ない」ヨハネ7章52節)。マタイはイエスがこのガリラヤで活動を始めたことを神の計画と見ています。復活したイエスが弟子たちに姿をあらわす場所もガリラヤの山です(マタイ28章16節)。見捨てられ、暗闇に覆われた場所、しかし、その中でこそ神の救いの計画が実現し、イエスと出会うことができる場所。わたしたちにとっても「ガリラヤ」と言える場所があるでしょうか。

  (2) 17節の「天の国」はマタイ福音書によく出てくる表現で「神の国」の言い換えです。マタイ福音書は洗礼者ヨハネとイエスのメッセージを「悔い改めよ、天の国は近づいた」(3章2節参照)というまったく同じ言葉で紹介し、2人が唯一の神の同じ1つの計画の中にいることを示しているようです。この「近づいた」(完了形)には「近づいているけれどまだ来ていない」というニュアンスだけでなく、「近づいてもうここに来ている」というニュアンスがあります。2人の違いは、ヨハネが「天の国(=神の国)」の準備の時代の人であったのに対して、イエスが神の国の実現の時代の人だという点です(マタイ11章11節「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」参照)。わたしたちは「み国が来ますように」と祈りますが、イエスによって神の国は何らかの意味でもう始まっているのです。わたしたちにとって、すでに始まっている神の国とはどのようなものでしょうか。

  (3) イエスが最初になさったことは弟子を作るということでした。これもマタイ福音書の結びと対応しているようです。復活したイエスの弟子たちへの命令の中心は「すべての民をわたしの弟子にしなさい・・・」(28章19節)というものでした。イエスの弟子を作るという活動がまさにイエスの活動の中心であったからこそ、同じことがイエスの復活後の弟子たちの活動の中心になるのだと言ったらよいでしょう。
 「わたしについて来なさい」は「わたしの後に」という意味の言葉が使われています。一方「従う」と訳された「アコリュテオーakolytheo」というギリシア語は、ただ「後を歩む」だけでなく「同行する、仲間になる」という意味もあります。もちろん、それは司祭や修道者だけの問題ではありません。キリスト信者は皆、イエスに弟子として呼ばれた者なのです。わたしたち一人一人が弟子として呼ばれていることを感じられますか。イエスの弟子として歩むということはわたしたちにとってどういうことでしょうか。

  (4) きょうの箇所は、イエスが突然誰かに声をかけ、呼ばれた人たちがすぐにすべてを捨ててついていく物語ですが、常識的に考えると少し不自然ではないでしょうか。イエスの弟子とは、イエスの言葉と行動に触れて、イエスに従うことを自分で決断した人たちだと考えるほうが自然でしょう。マタイ福音書がマルコ福音書から受け取った、この最初の弟子の物語はいささか理想化(あるいはパターン化)されていると言わざるをえません(ルカやヨハネは別の形でこの弟子たちとイエスとの出会いを伝えています。ルカ5章1-11節、ヨハネ1章35-42節参照)。普通の師弟関係なら、弟子のほうが「これぞ」と思う先生を見つけて弟子入りを願うものです。しかし福音書の中では、先生であるイエスのほうが弟子を選ぶということが目立っています。「イエスが弟子を選ぶ」ということは、神の選びの根拠は人間の側にない、という聖書特有の考え方に基づいています。人間が神を選ぶのなら、人間の側の選択能力が優れているということにもなりますが、神が人間を選ぶというのは、選ばれた人間が優れているからではないのです。神の選びとは、もっとも弱く、貧しい人を選ぶことによって、すべての人を救おうとするものです。つまり選ばれた側は何も誇ることができないのです(Ⅰコリント1章26‐31節参照)。ペトロやヨハネも後々まで「無学な普通の人」(使徒言行録4章13節)と言われていました。
 ここでは「すぐに」ということと「何もかも捨てて」ということが弟子の理想の姿として描かれています。自分自身のことを考えると戸惑いを感じるかもしれませんが、わたしたちの中にもそんな経験がまったくないとは言えないのではないでしょうか。




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Posted on 2017/01/13 Fri. 07:40 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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年間第2主日 (2017/1/15 ヨハネ1章29-34節)  


教会暦と聖書の流れ


  「年間主日」のミサの福音は、福音を告げるイエスの活動の歩みを追っていきます。3年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書が読まれ、ヨハネ福音書は主に四旬節や復活節に読まれるようになっています。ところで、ヨハネ福音書でイエスの最初期の活動を伝える部分は他に読む日がないので、年間第2主日に読まれることになっているのです。
 もちろん、成人したイエスの話ですが、ここに「神の子の栄光の現れ」という降誕節のテーマの余韻を感じ取ることもできるでしょう。なお、日本語で「公現」と訳されているラテン語の「エピファニアepiphania」(元のギリシア語では「エピファネイアepiphaneia」)は、もともと「現れること」、特に「神の現れ」を表す言葉です。


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   (1)  ヨハネ福音書は主の降誕・日中のミサで読まれた序文(1章1-18節)の後、イエスの活動のはじまりを最初の6日間の出来事として伝えています(1章19節~2章11節)。それは創造の6日間(創世記1章)を思い起こさせるものだとも言えます。イエスによって「新しい創造」とも言える神の画期的な業(わざ)が始まったのです。きょうの箇所は「その翌日」という言葉から始まる第2日目の出来事です。ヨハネ福音書はイエスについての多くのエピソードを伝えていますが、それはただの出来事の報告ではありません。ヨハネはいつも1つ1つの出来事の中にイエスとはどういう方であるかが示されている、と考え、そういうものとして1つ1つのエピソードを書き記しています。洗礼者ヨハネとイエスの出会いを伝えるきょうの箇所も、「イエスとはどういう方か」ということをわたしたちに教え、そのイエスとの出会いにわたしたちを招いていると受け取ったらよいでしょう。

  (2) 「世の罪を取り除く神の小羊」はミサの中でお馴染みの言葉ですが、分かりやすいとは言えないでしょう。「神の小羊」には旧約聖書の背景がいくつか考えられます。
 (a) 過越(すぎこし)の小羊 出エジプト記12章にあるエジプト脱出の晩の物語から、小羊は神の救いのシンボルとなり、イスラエルの民は毎年、過越祭に小羊を屠(ほふ)ってこの救いの業を記念しました。イエスはこの過越祭のころに十字架刑に処せられました。
 (b) 主のしもべの比喩としての小羊 イザヤ53章7節には「屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」という言葉があります。これは苦しみをとおして多くの人の罪をあがなう有名な「主のしもべ」について語られている箇所です。この箇所は、旧約聖書の中で最も強くイエスの受難を思い浮かべさせる箇所だと言えるでしょう。
 (c) 犠牲動物としての小羊 また、旧約聖書では神殿にささげられる動物としての羊があります。このいけにえは、特に罪のあがないと関連しています。
 ヨハネ福音書はこれらすべてを背景として、イエスこそが神の救いをもたらす方だという意味で、イエスを象徴的に「神の小羊」と呼んでいると受け取ったらよいでしょう。
 ただこの箇所では「神の小羊」という言葉の意味よりも、洗礼者ヨハネが「見よ!」と弟子たちの注意をイエスに向けさせていることが大切だとも言えます(ヨハネの弟子にとってもこの時点では「神の小羊」は意味不明の言葉だったはずです)。イエスについて言葉で説明して頭で理解することよりも、イエスご自身の姿をしっかりと見つめることのほうが、ある意味ではもっと大切なことなのです。

  (3) 「わたしよりも先におられた」(30節)という表現も分かりにくいでしょう。1つのヒントとして「永遠」ということを考えてみるとよいかもしれません。「神が永遠である」という時の「永遠」とは、時間を過去と未来に果てしなく延長したものというよりも、時間を超えたものです。「天」が「地」(われわれの生活空間)を超えたものであるから、神はどこにでもいると言えるように、「永遠」はわれわれの経験している時間を超えたものですから、「神はいつもおられる」と言えるのです。「天」とはもともと大空のことを指した言葉(空間的な表現)ですが、古代の人はその言葉を用いて日常生活の空間を超えた世界を表そうとしました。「先」「後」という表現もわれわれの経験している時間内の表現ですが、ここではむしろイエスが永遠の方であることを言おうとしているのだと考えたらよいでしょう。ヨハネ1章18節で「父のふところにいる独り子(ひとりご)である神」と言われるように、永遠の神とともにいることがイエスの本質だと言うのです。
 わたしたちの信仰は、人のいのちを「目に見える世界だけの、今という時だけのいのち」ではなく、もっと豊かな「時間を超えた永遠とのつながりの中にあるいのち」として受け取ります。そのことがもっとも強く感じられるのは、病気や死に直面したときでしょう。もちろん、それ以外の場面でも感じることがあるかもしれません。

  (4) ヨハネ福音書は、イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたという事実を報告しようとはしていません。むしろ、そのことの意味をはっきりと示そうとしています。
 「"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」(33節)。洗礼の元のギリシア語は「バプティスマbaptisma(水に沈めること)」であることをいつも思い起こすとよいでしょう。ヨハネは回心のしるしとして、人を水の中に沈めました。イエスは聖霊の中に人を沈める、というのです。ここにはイエスこそが聖霊(神のいのち・神とのつながり)を人にもたらす方だということが表されています。
 「洗礼を授ける(バプティゾーbaptizo)」を「漬ける」と訳した人がいます。「聖霊によって洗礼を授ける」は「聖霊漬けにする」と言ってもよいかもしれません。「福神漬け」というのは、七福神のようにさまざまな野菜が1つの漬物になっているからそういう名前になったそうです。福神漬けの中に入っている野菜が、それぞれの個性を失わず、それぞれの野菜のままでありながら、すべての野菜が福神漬けになっている、というイメージを思い浮かべてみてはどうでしょうか。「一人一人が聖霊の香りを放つ者になる」と言ってもよいかもしれません。わたしたちが「聖霊漬け」になるというのは・・・?




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Posted on 2017/01/06 Fri. 07:30 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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主の公現 (2017/1/8 マタイ2章1-12節)  


教会暦と聖書の流れ


  本来は1月6日が公現の祭日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では1月2日から8日までの間の日曜日に移して祝われます。「公現」はギリシア語では「エピファネイアepiphaneia」で「輝き出ること」です。イエスにおいて神の栄光の輝きが現れたこと、イエスが神の子キリストとして現されたこと、それは待降節・降誕節全体の大きなテーマだと言えます。福音は毎年同じ箇所で、マタイ福音書の話が読まれます。マタイはルカとはまったく違うイエスの幼年時代の物語を伝えています。無理やり1つの物語にしてしまうより、それぞれの物語を通して神が語りかけているものを受け取るとよいでしょう。


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  (1) 「占星術の学者」について、キリスト教の伝統の中では「3人の博士」や「3人の王」のイメージが強くあります(3人という数は聖書には書かれていません。贈り物の数からいつの間にか3人ということになったようです)。この「占星術の学者」と訳されたことばはギリシア語では「マゴスmagos」です。メディア(今のイラン)の一部族であり、祭司階級でもあった「マギ」に属する人、の意味です。彼らは占星術や魔術にすぐれていたと言われています。この人たちについては2つの見方があることを考慮しておくとよいでしょう。1つは、天文学を究めた当時最高の知識人という見方。もう1つには、ユダヤ人にとっては、怪しげな異教徒で、まことの神を知らない人々という見方です。もちろんどう見るかによってこの箇所全体のイメージが変わってきます。どちらが正しいか、というよりも、2つの見方の両方でそれぞれに味わってみると聖書の読み方が豊かになるのではないでしょうか。

  (2) ベツレヘムはエルサレムの南7kmほどのところにある町です。マタイ福音書はイエスがベツレヘムでお生まれになったことを、旧約の預言の成就と見ています。ベツレヘムはダビデ王の出身地であり、「ダビデの子孫である理想的な王=メシア」はベツレヘムで生まれるという伝承がありました。6節で引用されているミカ書もそのひとつです。ヘブライ語原文からの訳である新共同訳聖書のミカ5章1節は次のようになっています。
 「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
 お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る」
 ミカは紀元前8世紀の南ユダ王国で活動した預言者です。ミカは当時さびれていたベツレヘムの町(いと小さき者)から救い主が誕生すると預言し、人間の思いを超えた神のすばらしい計画を見ていますが、マタイはこの町の重要性を考えて「いちばん小さいものではない」と変えているようです。

  (3) ヘロデは紀元前37~前4年、王としてパレスチナを支配しました。ローマ帝国からユダヤの王として認められていたヘロデですが、純粋なユダヤ人ではなくイドマヤ人の血を引いていたので、ユダヤ人からは正統な王と認められませんでした。そこで「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」の知らせを聞いたときに自分の地位を脅かす存在と感じて不安になったのです。この箇所の後に、この幼子を抹殺しようとしてベツレヘム周辺の幼児を大量虐殺した話があります(マタイ2章16-17節)。
 「メシア=キリスト=油注がれた者」という言葉には、いつもこのように「王」のイメージがあります。ただ、「イエスが王である」ということの本当の意味は、降誕物語だけでなく、その生涯全体を見つめなければ見えてきません

  (4) 学者たちが幼子を訪問したこの出来事は、イエスによってもたらされた救いが民族の壁を越えてすべての人にもたらされる、ということを示しています。この物語の中に、救いの大きな広がりを感じることができるでしょう。2000年前にユダヤやガリラヤに始まった救いの知らせは、今の極東のわたしたちにも届けられています。どうやってわたしたちのところまでこの知らせが届いたかを頭の中で思い巡らせてみたらよいかもしれません。このわたしはどうやって(だれから)この福音を受け取ったのか、そこからさかのぼっていくと2000年の歴史の中でどのようにこの福音が広がってきたかが見えてきて、そこに神の大きな救いの計画を見いだすことができるのではないでしょうか。
 
  (5) 「拝む」という日本語はほとんど死語になっているかもしれません。ギリシア語の「プロスキュノーproskyno」には本来「~に対してキスする」という意味があります。人間に対しても用いられることがあります(使徒言行録10章25節)が、原則としては神または超越的存在に対する礼拝の意味で用いられる言葉です。「黄金、乳香、没薬」それぞれにシンボリックな意味を見ることもできますが、単に敬意を表す贈り物と考えれてもよいのでしょう。彼らは精一杯の敬意と賛美と喜びをこの幼子に示したのです。
 学者たちは「星の導き」によって救い主に出会いました。また「夢のお告げ」(12節)でヘロデ王の危険な考えを察知しました。人はいろいろな仕方で神を知り、神と出会うことができます。ふだん信仰心など持っていないようにみえる多くの日本人が、正月には初詣に行ったり、初日の出を拝んだりするのは、そこに何かしら超越的なものを感じているからでしょう。それらを「間違った信仰心」と言えるでしょうか。自分たちは何かしら大きな力に守られていると感じ、そのことに感謝し、今年一年の幸いを願う、という心はすべての人の中にある共通のものでしょう。そういう意味で、キリストを信じるわたしたちはキリスト信者ではない多くの人々との連帯を感じることができるのではないでしょうか。




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Posted on 2016/12/29 Thu. 17:23 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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神の母聖マリア (2017/1/1 ルカ2章16-21節)  


教会暦と聖書の流れ


 1月1日は「神の母聖マリア」の祭日ですが、福音の箇所は主の降誕・夜半のミサの続きです。日本の社会ではクリスマスのデコレーションが取り払われ、お正月飾りになっていますが、教会ではクリスマスの祝いが続いているのです。大きな祝日は8日間かけて祝う伝統があり、きょうは降誕祭を締めくくる「降誕八日目」に当たります。教会はお生まれになったイエスの光の中で新年を迎えると言うこともできるでしょう。
なお、パウロ6世教皇はこの日を「世界平和の日」と定めました。年の初めにあたって人にはそれぞれの願いがあります。しかし、人類共通の願いとしてすべての人の平和を祈るよう教会は呼びかけています。


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  (1) 羊飼いたちが天使から聞いた救い主のしるしは「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」(ルカ2章12節)というものでした。ベツレヘムの村には他にも赤ちゃんがいたでしょう。しかし、「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」はイエス以外にいなかったはずです。イエスの時代の羊飼いは、町の人々から罪びと同様に見られ、蔑まれていました(主の降誕・夜半のミサの「福音のヒント」参照)。もし、お生まれになった救い主が、金のベッドに寝かされ、立派な宮殿のような場所にいたら羊飼いたちは近づくこともできなかったでしょう。この幼子が飼い葉桶の置かれた家畜小屋のようなところにいたからこそ近づくことができたのです。羊飼いたちの喜びは、天使のお告げどおり救い主が誕生した、というだけでなく、その救い主がこれほど自分たちの近くに来てくださった、ということだったのではないでしょうか。

  (2) 17-18節には羊飼いたちが人々にこのことを話し、人々が「不思議に思った」とあります。この人々の反応は19節のマリアの姿と対比されているようです。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と言われていて、マリアはただ不思議に思っていただけではなかったのです。「心に納める」は少年イエスがエルサレムで迷子になり、神殿で見つかる、という話の結び(ルカ2章51節)でも使われている言葉です。「記憶の中にしっかり留めておく」ことを意味します。「思い巡らす」は「しっかりとよく考える」の意味です。
 マリアは幼子イエスの誕生にまつわる出来事のすべてをしっかり記憶の中に留めました。聖霊によって宿り、ダビデの王座を受け継ぐはずの子が、家畜小屋のようなところで貧しく生まれたこと。そして最初に訪ねてきたのが当時の人々から蔑まれていた羊飼いたちだったこと。それはマリアにとっても確かに不思議なことだったでしょう。しかし、マリアはそれについて熟考し、そこに神の働きを見つけていくのです。
 エリサベトを訪問したとき、マリアは神の働きをこう賛美しました。
 「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカ1章51-53節)。すべての人を救う神の働きが、人間の目からは不思議に見える仕方で実現し始めていることをマリアは深く味わっていたのでしょう。
 わたしたちも過ぎた1年のことを「心に納めて、思い巡らし」ます。良かったこと、悪かったこと。予想していたこと、予想外のこと。さまざまな出来事の中に(たとえ悲惨なことが多かったとしても)、神がおられることを感じることができるでしょうか。

  (3) 羊飼いたちが探し当てた幼子は、病気をいやしたり、パンを増やしたり、立派な説教をしてくれるわけではありませんでした。羊飼いたちの辛く厳しい現実は何も変わりません。それでも「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)のです。この羊飼いたちの喜びは、わたしたちのこの現実の中に救い主が来てくださった、という喜びではないでしょうか。問題や困難な状況はなくならないかもしれません。しかし、わたしたちは神から見捨てられているのではなく、神はわたしたちとともにいてくださるのだ、という喜び。わたしの人生はただの無意味な出来事の連続ではなく、キリストがともにいてくださる人生だと感じられる喜び。マリアとヨセフと羊飼いたちを包んでいたこの小さな喜びの光が、全世界に広がり、今のわたしたちにまで届けられています。
 
  (4) 「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」(21節)。割礼はアブラハムとの契約のしるし(創世記17章10-11節)であり、神の民の一員となるしるしです。「イエス」という名は旧約聖書では「ヨシュア」にあたり、「主は救い」「主は救う」という意味があります。
 イエスは成人してからさまざまなことをしたと伝えられています。しかし、キリスト教はイエスが力強く語り、行動した姿よりも、何もできない無力なイエスの姿を最も大切にしてきました。それが「飼い葉桶の幼子」の姿であり、「十字架のイエス」の姿なのです。その姿は、2000年にわたって、貧しく無力で苦しみに満ちた人生を送るすべての人を励まし続けてきたのです。「君は一人ぼっちじゃない。ぼくがいるよ。ぼくは君たちみんなの喜び、苦しみ、悲しみを一緒に担うために生まれてきたんだ。だから、だれでも安心してぼくのところに来ていいよ」・・・わたしたちも、飼い葉桶の幼子イエスの、このような呼びかけを聞き取ることができるでしょうか。




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Posted on 2016/12/23 Fri. 15:48 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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主の降誕・夜半のミサ(2016/12/25 ルカ2章1-14節)  


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 今年は12月25日が日曜日にあたり、主日に降誕祭を祝うことになります。主の降誕の祭日のミサには早朝や日中のミサもありますが、ここでは「夜半のミサ」の福音を取り上げます。ルカ福音書だけが伝える、イエスが誕生した夜の物語です。
 この箇所の前半(1-7節)はローマ帝国の支配に翻弄された貧しい家族の中で1人の男の子が誕生する物語で、後半(8-14節)でその幼子の誕生の意味が解き明かされます。


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  (1) 1-2節で、ルカは歴史家のように皇帝や総督のことを述べますが、同時にこれは、当時の世界で圧倒的な力を持っていたローマ帝国の支配地域の片隅に生まれたこの赤ん坊こそが、実は「すべての人のメシア(王)である」という対比を印象づけようとしているのでしょう。紀元前63年ローマのポンペイウス将軍がパレスチナを占領して以来、ユダヤ、サマリア、ガリラヤなどの地方はローマ帝国の植民地になっていました。ローマ帝国は傀儡(かいらい)政権であるヘロデ王家を立て、ユダヤ人の宗教的な自由を認めつつ、住民に税金をかけることによって植民地支配の利益を得ていました。この税を徴収するために行なわれたのが「住民登録」でした。身重のマリアを連れたヨセフは、このローマ帝国の支配力に振り回されて、苦しい旅を強いられることになったのです。

  (2) 「ベツレヘム」(4節)はダビデ王の出身地で、こう預言されていた町。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(ミカ5章1節)。
 7節の「初めての子」という言葉は、後にも子どもが生まれたことを意味しているわけではありません。「長子(ちょうし)」という特別な立場を持った子どもとしてイエスが生まれたことを表しています。「飼い葉桶」はイザヤ1章3節「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない」を背景にしているとも言われます。「宿屋」と訳された言葉は「宿をとるところ」の意味で、大きな家の客間も指す言葉です。「彼らの泊まる場所がなかったからである」は、直訳では「彼らのために場所がなかったからである」です。

  (3) 「羊飼い」はイスラエルの人々にとって馴染み深い職業でした。先祖は皆、羊飼いでした。ダビデ王も若いとき羊飼いであり(サムエル上16章11節)、さらに神ご自身が羊飼いにたとえられました(詩編23など)。そういう意味で「羊飼い」をプラス・イメージで捉えることもできるでしょう。しかし、逆にマイナス・イメージもあります。イエスの時代、多くのユダヤ人は町や村に定住するようになっていました。その人々から見れば、羊飼いというのは「流れ者、野宿者」であり、罪びとと大差のない連中と思われていました。彼らも「自分のために場所がない」と感じていた人々といえるかもしれません。
 「自分のために場所がない」と感じることはとてもつらいことです。身近にそう感じている人はいるでしょうか。わたしたち自身もそう感じることがあるでしょうか。
 この羊飼いたちに、救い主誕生の知らせがもたらされます。彼らに示されたしるしは、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」というものでした。きょうの箇所を特徴づける「貧しさ」は、「貧しい人は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6章20節)という福音のメッセージにつながっています。

  (4) 「主の天使」「主の栄光」(9節)は神がそこにおられ、人間に語りかけることを表しています。羊飼いたちに告げられた天使の言葉(10-12節)のうち、「民全体」は直接には「イスラエルの民」を指す言葉ですが、ここにルカは「神の民となるすべての人」の意味を込めているようです。「大きな喜びを告げる」の「告げる」は「福音を告げる」という言葉が使われています。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」の「今日」は、ルカ福音書では特別に、「救いが実現している時である今」を意味しています(4章21節, 19章5,9節, 23章43節など参照)。

(5) 14節「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」の「御心に適う」はギリシア語では「エウドキアeudokia」という言葉です。「エウ」は「良い」という意味で、「ドキア」は「思う」という意味の動詞から来ています。「良く思うこと=好意」が元の意味ですが、聖書の中では特別に「神がお喜びになること」を意味します。「神がお喜びになる人」「御心に適う人」とは誰のことでしょうか? 「神はすべての人に好意を向けているはずだ」と考えれば、誰かを排除する言葉ではなく、すべての人を指していると受け取ることもできるでしょう。なお「御心に適う人」は「善意の」と訳されたこともありましたが、その場合「神のよい思い」ではなく「人間のよい思い」の意味になってしまいます。「平和」は単に争いのない状態ではなく、神の恵みに欠けることのない(それゆえ争いがない)状態を指します。ルカ19章38節では「祝福、平和、栄光」がセットになっていますが、これらは別々のことではなく、密接につながっていると考えたらよいでしょう。降誕の夜は、そのすべてに満たされる時なのです。
 貧しく無力な人々に近づくために、イエスは貧しく無力な幼子の姿で世に来られました。救い主が誕生しても、この人々の現実が変わるわけではありません。しかし、マリアとヨセフと羊飼いたちは、この幼子の中に神の救いの約束の実現を見て、喜びに満たされました。わたしたちはこの幼子の中にどんな喜びを見つけることができるでしょうか。




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Posted on 2016/12/16 Fri. 07:00 [edit]

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