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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

復活節第2主日 (2019/4/28 ヨハネ20章19-31節)  

教会暦と聖書の流れ


 復活節各主日の福音のテーマは次のように捉えることができるでしょう。復活の主日は復活の朝の「空(から)の墓」の物語、第2、第3主日は「復活したイエスと弟子たちとの出会い」の物語、第4~第6主日は「復活したイエスは目に見ることはできないが、今もわたしたちとともにいてくださる」とはどういうことかを示すヨハネ福音書の箇所。
 復活節第2主日の福音は毎年同じで、「週の初めの日の夕方」と「八日の後」にイエスが弟子たちに姿を現したヨハネ福音書20章の箇所です(なお、この「福音のヒント」も毎年ほとんど同じです)。このような箇所は2000年程前のある日の出来事であると同時に、今のわたしたちのイエスとの出会いの物語として読むことができるでしょう。


福音のヒント


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  (1) 「弟子たちはユダヤ人を恐れて」(19節)とあります。先生であるイエスが捕らえられ、殺されていった、自分たちにもどんな迫害が及ぶか分からない、町にはイエスの残党を探して捕らえようとしている人々がいるかもしれない。弟子たちは恐怖におびえ、1つの家に閉じこもり、中から鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていました。
 そこへイエスが来て、弟子たちの集いの「真ん中に」立ちます(26節もそうです)。復活したイエスは時間と空間を超越した方ですから、戸をすり抜けてきたと考える必要はありません。イエスは「あなたがたに平和」と言います。これは普通のあいさつの言葉(ヘブライ語なら「シャローム」)でもありますが、21、26節で繰り返されるところを見ると、よほど印象的な言葉だったのでしょう。
 弟子たちが求めていたのは自分たちの身の安全でした。しかし、本当の平和は鍵をかけて閉じこもるところにはありません。いくら鍵をかけていても心は恐怖でいっぱいなのです。本当の平和はイエスがともにいてくださるところから来ます。イエスが共にいてくださる、だから何も恐れることはない、これがキリストの平和です。この平和に満たされたとき、扉を内側から開いて出て行くことができるのです。ミサの最後に「行きましょう、主の平和のうちに」と言われるとき、いつも思い出したい場面です。

  (2) 復活したイエスとの出会いは、弟子たちにとってゆるしの体験でもありました。「ゆるし」とは「和解、関係回復」の出来事です。父との縁を自ら断ち切ってしまった放蕩息子を、父親が再び子として受け入れること(ルカ15章11-32節)、これがイエスの語るゆるしのもっとも明快なイメージです。イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちはイエスの弟子であることにおいて失格者でした。しかし、復活したイエスは、弟子たちを責めるのではなく、再び弟子として受け入れ、新たに派遣していきます。

  (3) 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。これまで父である神から派遣された者としてイエスが地上で行なってきたことを、今度は弟子たちが行なっていくことになります。そして弱い人間である弟子たちが、この使命を果たすことができるように「聖霊」という神からの力が与えられるのです。
 弟子たちの使命の中心は「ゆるし」ですが、この使命は「互いに愛し合うこと」(ヨハネ13章34-35節、15章12節参照)と無縁ではないはずです。「ゆるし」は「愛」の典型だと言えるからです。23節の「だれの罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。だれの罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る」は、ゆるすもゆるさないも弟子たちの好きにしてよいという意味ではなく、だからゆるしなさい、あなたがたが人をゆるすことによって、神のゆるしがその人の上に実現するのだ、と受け取るべきでしょう。人から愛され、ゆるされることをとおして神の愛とゆるしを実感することができた、という体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。

  (4) 「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」(24節)。ルカ24章のエマオの弟子たちも他の弟子たちから離れていきましたが、イエスの死という出来事は、弟子たちのコミュニティーをバラバラにしてしまう出来事でもあったようです。トマスは、最後までイエスに従うという覚悟(ヨハネ11章16節参照)を果たせなかった自分に失望し、他の弟子たちにも失望して、弟子の集いから離れていたのかもしれません。しかし、このトマスにイエスが生きているという知らせが届きます。トマスにとって「主を見た」というほかの弟子の言葉は、とても信じられない言葉であったと同時に、信じれば自分の人生のすべてが変わる、という言葉でもありました。トマスは、もしそれが本当ならば自分で確かめたかったのです。だからこそ、「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」のではないでしょうか。そしてイエスはトマスを信じる者に変えてくださいました。
 トマスは弟子たちの集いの中で、弟子たちの集いの真ん中にいるイエスに出会いました。わたしたちはどこで復活のイエスに出会うことができるでしょうか。

  (5) 「見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)は、わたしたちキリスト信者すべてに向けられた祝福の言葉だと言えるでしょう。使徒たちの後の時代のすべてのキリスト信者は、「見ないで信じている者」だからです。イエスの復活を信じるとは「イエスと神とのつながりは死によって断ち切られなかった、イエスとわたしたちとのつながりも死によって断ち切られない」と信じることです。イエスの復活を信じるということは「愛を信じる」というのと似ています。人は「目に見えないものは信じない」と言い張ることもできるでしょう。愛も目に見えません。ならば愛も信じられない? しかし、「愛を信じる」こと同様、「復活を信じること」は単なる知的興味の問題ではなく、わたしたちの生き方の根幹にかかわることなのです(トマスにとってはまさにそうでした)。
 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」(31節)の原文は「信じていない人が信じるようになるため」とも「信じている人が信じ続けるため」とも取ることができます。ヨハネ福音書はいつも、すでに信じているわたしたちをイエスとのより確かな交わりへと導いてくれる書なのです。




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Posted on 2019/04/19 Fri. 08:30 [edit]

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復活の主日・復活徹夜祭(2019/3/27 ルカ24章1-12節)  


教会暦と聖書の流れ


 復活の主日のミサには、復活徹夜祭と日中のミサがありますが、この「福音のヒント」では3年周期になっている復活徹夜祭のミサの福音を取り上げます。今年はルカ福音書の箇所が読まれます(ちなみに日中のミサは毎年同じで、ヨハネ20章1-9節です)。
 イエスは安息日の前日に処刑され、墓に葬られました。このありさまを見ていた女性たちは家に帰って香料と香油を準備しました(ルカ23章49, 55-56節)。その日没から安息日が始まりました(当時のユダヤでは、日没から新しい1日が始まりました)。次の日没と同時に安息日が明けます。この安息日明けの日が1節の「週の初めの日」です。


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  (1)  どの福音書もイエスの十字架上での死と埋葬を見届け、3日目の朝、空(から)の墓を見つけた女性たちのことを伝えています。この女性たちについて、ルカ福音書8章1-3節ではこう述べられていました。「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」。「七つの悪霊」とはさまざまな病気を抱えていた状態を表しているのでしょう。病気をいやされイエスの一行に加わった女性たちは「奉仕していた」と言われますが、単なる身辺の世話係というよりも、女性の弟子たちと考えることができるでしょう。
 当時の墓は、洞窟のような横穴で、入り口が円盤型の大きな石でふさがれていました。その墓が開いていたことに女性たちはまず驚きます。イエスの遺体がなくなっていたのですから、彼女たちの驚きはさらに大きくなりました。ここに現れる「輝く衣を着た二人の人」は明らかに天使です。マルコでは1人ですが、ルカでは「2人の証言は確かである」(申命記17章6節, 19章15節参照)という考えが背景にあって2人になっているようです。

  (2) 5-7節で、天使ははっきりとイエスの復活を告げています。天使の語る言葉の後半はマルコ福音書ではこうでした。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(マルコ16章7節)。ルカにも「ガリラヤ」という地名がありますが、内容はずいぶん変わっています。「まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい」(6節)。ルカはこの後、エルサレムでの出現を報告するので、この部分を変えているようです。もちろん、確かにルカ9章21-22節で、まだガリラヤにいたときにイエスは受難と復活を予告し始めていました。「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」(8節)とありますが、この女性たちがそれをどこまで悟ったかは不明です。それでも彼女たちは男の弟子たちにこの出来事を伝えました。

  (3) 男の弟子たちは、女性たちの言うことをなぜ「たわ言」(11節)だと思ったのでしょうか。女性の弟子に対する偏見があったというよりも、むしろ、あまりに非現実的で信じられなかったのでしょう。12節でペトロは墓に行きます。とにかく行動してしまうというのはいかにもペトロらしいのですが、ヨハネ福音書でもこの空の墓の場面に、ペトロの姿が現れています。初代教会の中でペトロを復活の第一の証人とした伝承があり(Ⅰコリント15章5節参照)、それが影響しているのでしょう。
 復活の主日の福音は、空の墓の場面で、天使がイエスの復活を宣言していますが、まだイエスご自身は姿を現しませんし、弟子たちが信じたということもはっきりとは語られません。復活したイエスが姿を現した時もまだ「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(24章37節)と伝えられています。イエスの復活をなかなか信じることのできなかった弟子たちの姿は、復活を信じることの難しさを語ろうとしているのでしょうか?
 しかし、もちろんわたしたちはこの日に、イエスの復活についての信仰を宣言します。わたしたちにとって、イエスが復活して今も生きているとはどういうことでしょうか?

  (4) きょうの福音を読みながら考えてみたい1つのことは、「イエスの言葉が生きている」ということです。イエスの墓に行った女性たちは、天使から「お話しになったことを思い出しなさい」と言われます。「そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した」とも伝えられています。わたしたちも聖書を読みながらいつもイエスの言葉を思い出しています。イエスが「ガリラヤにおられたころ、お話しになったこと」は、福音書に数多く伝えられています。たとえば、「人よ、あなたの罪はゆるされた」(ルカ5章20節)、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6章20節)、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」(ルカ7章50節、8章48節)、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」(ルカ8章21節)などなど。
 ヨハネ福音書14章26節には、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」という言葉があります。これは、ただ忘れていた言葉を思い出すというよりも、イエスの語った言葉を、今のわたしたちの現実の中に生きている言葉として思い出すということでしょう。「イエスのおっしゃったことは過去のことになってはいない。その言葉は今もわたしたちの中に生きていて、働いている」、そう悟った時に、イエスが今も生きていると感じることができるのではないでしょうか。




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Posted on 2019/04/12 Fri. 08:30 [edit]

category: 2019年(主日C年)

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受難の主日 (2019/4/14 ルカ23章1-49節)  


教会暦と聖書の流れ


 4つの福音書それぞれに受難物語がありますが、「受難の主日」にはマタイ、マルコ、ルカが3年周期で読まれます(ヨハネ福音書は毎年「聖金曜日」に読まれます)。なお、今日の受難朗読には、ルカ22章14節~23章56節の長い形もありますが、ここでは短いほうを取り上げます。地上の生涯の終わりに、イエスは弟子たちとともに過越の食事をし、オリーブ山で祈った後、逮捕され、ユダヤの最高法院で裁判を受けました(22章14-71節)。その後、ローマ総督ピラトのもとに連れて行かれるところから、23章が始まります。


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  (1)  非常に長い朗読箇所ですが、ローマ総督ピラトによる裁判の場面(1-25節)とイエスが十字架にかけられる場面(26節以下)とに分けて考えましょう。前半では「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」というピラトの宣言が、4節、14-15節、22節と繰り返されています。イエスが何の罪もないのに処刑されることになった様子が伝えられています。
 この短い「福音のヒント」の中で、すべてのことを説明することはできませんので、特に後半のルカ福音書に特徴的な部分に焦点をあててコメントすることにします。

  (2) ルカ福音書の十字架の場面は、マルコ福音書を基にして、そこにいくつかの印象的なエピソードを付け加えています。その一つは28-31節です。イエスはご自分のために泣いているエルサレムの女性たちを逆に慰めます。29-30節はこれから起こる大きな災いを予告する言葉です。その災いは、子どもがいれば、自分の苦しみだけでなく、自分の子どもについても苦しまなければならないから、子どもがいないほうがましだ、と思わせるほどのものです。さらにそれは自然災害による死などよりももっと大きな苦しみなのだ、というのです。31節の「『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか」の「生の木」は永遠のいのちを持っているはずの罪のないイエスのこと、「枯れた木」は死んだも同然の罪びとである普通の人間のことでしょう。
 次にルカだけが伝えるのは、34節の祈りです。「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです』」この箇所は重要な写本で欠落しているものがあるので、新共同訳では〔 〕の中に入れられています。しかし、本来のルカ福音書になくて後から書き加えられたと考えることには無理があるでしょう。むしろ、写本を書き写した人の誰かが、「イエスを十字架につけた人々の罪だけは絶対にゆるされない」と考えて省いてしまったと考えたほうが自然です。

  (3) 40-43節の、一緒に十字架につけられた犯罪人のうち、一人が回心してイエスに救いを願う話もルカだけが伝えるものです。「あなたの御国(バシレイア)においでになるときには」は、別の写本では「あなたが王権(バシレイア)をもっておいでになるときには」と読めますが、いずれにせよ、この人はイエスを「キリスト(神が油注がれた王)」として認め、その救いにあずかることを願っていることになります。
 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエスは約束します。「いる」は原文では未来形が使われていますが、遠い将来のことではなく、それが「今日」のことだというのが特徴的です。ルカ福音書の中で「今日」という言葉は、「救いが今実現している」ことを強調する言葉です(ルカ4章21節、19章9節など)。「回心した今」、「苦しみの中でイエスとともにいる今」こそが救いの時だと言うことができるのかもしれません。
ルカが伝えるイエスの最後の言葉は、46節「父よ、わたしの霊を御手(みて)にゆだねます」です。これもルカ福音書だけが伝える言葉です。詩編31編6節に似た言葉があります。

  (4) マルコ福音書の受難のイエスは、ただ苦しむだけの無力な人になってしまいます。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)という叫びは特徴的です。すべての人から見放され、神からも見放されたような姿で死を迎えるのです。それは、「仕える者」として自分を無にして、苦しみのどん底まで降りて行かれる神の子・救い主の姿だと言えるでしょう(マルコ10章43-45節参照)。
 ルカの伝える受難のイエスも確かに無力で苦しむ人です。しかし、ルカは、これまで見てきたようなエピソードをとおして、そのイエスが最後の最後まで人々を愛し続け、神に信頼し続けた姿を伝えようとしています。無実の罪で死刑になる、こんな不条理なことがあれば、ただ怒りや憎しみ・恨みに支配されてしまうのが人間の普通の姿かもしれません。自分のことしか考えられなくなり、絶望して、神を呪い、人を呪うのが当然かもしれません。しかし、十字架のイエスはそうではなかったのです!

  (5) 傍(はた)から見れば、イエスの十字架の姿は神からも人からも断ち切られた姿にしか見えなかったでしょう。しかし、イエスはその中で「愛という人とのつながり」を「信頼という神とのつながり」を生き抜きます。そのイエスの歩みは、決して肉体の死で終わるものではなかった、むしろ死を超えて、イエスと神との絆(きずな)・イエスと人々との絆は完成していった!そう信じるのが、キリスト教の「復活」という信仰です。
 すべてを奪われたように見えても、それでも最後まで人を愛することはできる、それでも最後まで神に信頼して祈り続けることはできる。このルカ福音書が伝える十字架のイエスの姿はわたしたちの現実にとって光になるでしょうか。わたしたちもすべてをはぎ取られ、何もかも失ってしまい、自分では何もすることができなくなることがあります。それでもまだできることがある、と十字架のイエスは語りかけているのではないでしょうか?




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Posted on 2019/04/05 Fri. 09:22 [edit]

category: 2019年(主日C年)

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四旬節第5主日 (2019/4/7 ヨハネ8章1-11節)  


教会暦と聖書の流れ


 C年四旬節第3~5主日のミサの福音には、「回心と罪のゆるし」というテーマで朗読箇所が選ばれているようです。きょうの箇所も「ゆるし」に関する有名な箇所です。
 新共同訳聖書は、ヨハネ福音書のこの箇所をカッコの中に入れています。古代の重要ないくつかの写本の間に大きな食い違いがあって、後の時代の人が本来のヨハネ福音書に書き加えた箇所だと考えられるからです。しかし、この物語のイエスは、イエス以外の誰にもできないような大胆なゆるしの宣言をしていますから、この物語が実際に起こった出来事に基づいていることは疑いようがありません。


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  (1) この箇所が後の時代の挿入だとすれば、他の福音書には伝えられていないこの物語は、この物語だけで独立して伝えられて来て、ある時ここに挿入されたのでしょうか。
 そうではなく、本来はルカ福音書の中にあったものが、早い時期に省かれてしまい、その後ヨハネのこの箇所に挿入された、という可能性もあります。ルカ21章の終わりにはこういう言葉があります。「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた。民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た」(37-38節)。この言葉はきょうの福音の冒頭「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた」(ヨハネ8章1-2節)とよく似ています。きょうの箇所は、もともとルカ21章の終わりにあったと想像してみてもよさそうです。
 初代教会では、姦通は特別に大きな罪と考えられていました。ですから、姦通の罪を犯した女性をゆるしたイエスの物語は、スキャンダルになったのではないでしょうか。姦通の罪を犯した人をゆるせば教会の秩序が崩壊してしまうという理由のために、ルカ福音書から省かれてしまったのかもしれません。なお、ヨハネ福音書のこの箇所に置かれた理由は、直後のヨハネ8章15節にある「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない」という言葉につながると考えられたからでしょう。

  (2)  古代イスラエルにおいて「姦通」とは、男性が他人の妻(または婚約者)と性的関係を結ぶことでした。逆の場合、つまり、既婚の男性が自分の妻以外の独身の女性と関係することは「姦通」ではありませんでした(これが姦通とされるのは、キリスト教になってからのことです。マルコ10章11-12節参照)。律法は姦通を厳しく禁じていました。たとえば、レビ記20章10節。「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる」(なお、「姦淫」は不道徳な性行為全般を指す言葉ですので、「姦通」も行為としては「姦淫」の一部ということになります)。
 もちろん、男も女も同罪ですが、今日の福音の物語では女性だけが捕らえられています。男は逃げてしまったのでしょうか?あるいは男のほうは見逃されたのでしょうか?男女同罪のはずなのに、社会は昔から男性よりも女性のほうに厳しかったようです。

  (3) いずれにせよ、イエスがもしこの女をゆるせば、律法を無視したことになり、「石で打ち殺せ」と言えば、神のゆるしを告げてきたイエスの生き方とメッセージに反することになります。どう答えてもイエスは窮地に追い込まれることになるのです。
 人々はこの女性とイエスを取り囲んでいます。彼女は姦通の罪を犯したことで人々の裁きの前に立っていますが、イエスもこの女性をどう扱うか、ということで、人々に裁かれる側に立たされていると言えるでしょう。なお、このときイエスが地面に何を書いていたか、いろいろな想像がありますが、どれも想像の域を出ません。ただ、かがみこんでいるイエスの姿は印象的で、どこか弱々しく感じられるのではないでしょうか。
 人々は裁く側、イエスとこの女性は裁かれる側。この構図を一変させたのは、7節のイエスの言葉でした。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。この一言によって、そこにいたすべての人は神の裁きの前に立たされます。そして、自分が神の前で罪びとであることを認めざるをえなくなるのです。

  (4) 人々は去っていき、イエスとその女性だけが残りました。「わたしもあなたを罪に定めない」とイエスは言います。「罪に定めない」というのは、その人の行為を良しとすることではありません。あなたの罪にもかかわらず、わたしはあなたの死を望まない、あなたが生きることを望んでいるということです。彼女は自分が神の裁きの前というよりも、もっと大きな神の愛とゆるしの前に立っていることに気づいたはずです。
 きょうの福音がわたしたちに問いかけていることはなんでしょうか。1つには「わたしたちは皆、神の前に罪びとである」ということを本気で受け取ることができるかどうか、ということでしょう。人を裁く前に、自分も罪びとであり、その自分が神のあわれみによって生かされている、と感じること。そこから自分以外の罪びとに対してどう関わるかが問われてくるのです。罪びとを、社会を害する迷惑な存在であり、抹殺すべき対象と見るか、自分と同じように弱い兄弟姉妹であり、立ち直って生きることを願うか・・・。
 もう1つはこの女性のように、ゆるされたことの重み(=はかりしれない恵みの大きさ)を本気で受け取れるかどうか、ということでしょう。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」というイエスの言葉は、「まあなかったことにして、見逃してあげよう」というような言葉ではありません。「ゆるしを受けた者として、まったく新たな生き方を始めていきなさい」ということなのです。




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Posted on 2019/03/29 Fri. 08:30 [edit]

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四旬節第4主日(2019/3/31 ルカ15章1-3,11-32節)  


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  C年の四旬節第3~5主日の聖書朗読は「回心と罪のゆるし」をテーマにしています。今日の箇所は有名な「放蕩息子」のたとえ話です。ルカ15章には、「見失った羊」のたとえ(4-7節)、「なくした銀貨」のたとえ(8-10節)、そしてこの「放蕩息子」のたとえ(11-32節) の3つのたとえ話が伝えられています。15章の冒頭1-3節を見れば、これらのたとえ話が語ろうとしているのは、「イエスがなぜ罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしているかということの理由」であることは明白です。


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   (1) 徴税人は当時パレスチナを支配していたローマ帝国の税金を集めるユダヤ人でした。ローマ帝国の支配に加担して同胞から税を取る徴税人は、ユダヤ民族の裏切り者としてユダヤ人同胞から嫌われていました。徴税人は、ローマ帝国の役人ではなく、徴税の権利を金で買い、税に自分の手数料を加えたものを人々から集めていました。そのため、不正に多くのお金を集め、富を蓄えていた徴税人も多かったようです。当時のユダヤ人、特に宗教熱心なファリサイ派の人々や律法学者から見れば、決して救われるはずのない罪びとでした。また、当時のユダヤでは、「一緒に食事をすること」は「救われる人々の共同体を目に見えるかたちで表すもの」でした。それゆえファリサイ派の人々には、イエスがこのような罪びとを迎え入れて一緒に食事までしていることが理解できません。イエスのしていたことは、律法によって人の価値をはかる当時のユダヤ社会の秩序に対する挑戦でした。
 イエスはルカ15章の3つのたとえ話で、なぜ自分が罪びとを迎えて食事を一緒にしているかを語ります。それは、神が見失った一匹の羊を捜し求め、その羊が見つかったことを喜ぶ羊飼いのような方であり、なくした銀貨を見つけて大喜びする女性のような方であり、さらに、この放蕩息子の父のような方だから、ということです。神は罪びとの滅びを望まれるのではなく、罪びとが再び神のもとに立ち返り、神の子として生きることを望んでおられる方だ、だからわたしも罪びとを招き、一緒に食事をしているのだ、というのです。

  (2) 放蕩息子のたとえの中で、弟息子は父親に向かって、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」(12節)と言います。これは本来、父親が死んだら受け継ぐことになっている財産のことです。息子の心の中で父は死んだも同然なのでした。この息子が転落してやっとありついた仕事は「豚の世話」でした。ユダヤ人にとって豚は汚(けが)れた動物で、豚肉を食べることは決してありませんでした。その豚の世話をすることは屈辱的であったはずです。「いなご豆」は貧しい人の食べ物にもなりましたが、それすら食べられないというのも、この弟息子のどん底の状態を表しています。
 
    (3) 「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐(あわ)れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。父親は息子が帰ってくることを知らないはずですから、普通ならば息子のほうが先に父の姿を見つけるはずです。父が息子を見つけるという箇所には、出て行った息子を思う父親の強い心が表れているようです。
「憐れに思い」はギリシア語では「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉が使われています。「スプランクナsplankna=はらわた」という名詞に動詞の語尾を付けたものなので、ある人は「はらわたする」と訳しました。さらにこの「ゾマイzomai」という語尾の形は能動態ではなく中動態という形です。これは「みずからの意志でそうする」のではなく、「自然とそうなってしまう」というようなときに使われる形です。つまり、「目の前の人の苦しみを見て、自分のはらわたがゆさぶられてしまう」ということを表す言葉なのです。普通の日本語で言えば「胸が痛む」というのが一番近いでしょうか。沖縄には同様な意味で使われる「チムグリサ(肝苦さ)」という言葉があるそうですが、このほうがもっと近いかもしれません。

    (4) ボロボロになった人間を「見て、はらわたして(胸が痛み)、走り寄って」、わが子として迎え入れる、父である神とはそのような方だとイエスは語ります。それは、旧約聖書の中でモーセに現れた神の姿と重なります。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは(くだ)って行き…」(出エジプト記3章7,8節)。「痛みを知る」の「知る」はただ単に知識として知るというよりも、体験として知ることを意味します。「ああ痛いだろうな」というような知り方ではなく、「人の痛みを自分の痛みとして感じる」ことだと言ったら良いでしょう。だからこそ神のほうが「降って行き」イスラエルの民を救おうとなさるのです。ここには旧約と新約を結ぶもっとも大切な神のイメージがあります!

    (5) このたとえ話は、弟息子の立場で読めば、ありがたい「福音」以外の何物でもありません。ただしイエスは、このたとえを、ファリサイ派の人々や律法学者に向けて語られました。兄息子の姿は罪びとを切り捨てた彼らの姿そのものだと言えるでしょう。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」(29節)というように、人との比較の中で自分は正しいと誇り、「あなたのあの息子」をゆるす父の心が理解できないのです。父親のほうはそれを「お前のあの弟」(32節)と言い直し、お前にとって彼は兄弟ではないかと諭します。この最後の父親の言葉には、兄息子を責めるのではなく、なんとか自分の心を分かってほしいという父の思いが強く感じられるでしょう。わたしたちはどちらの立場でこのたとえ話を聞くことができるでしょうか。
 




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Posted on 2019/03/22 Fri. 08:30 [edit]

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