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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第29主日 (2016/10/16 ルカ18章1-8節)  


教会暦と聖書の流れ


 ルカ福音書の中の、長いエルサレムへの旅の段落(9章51節~19章44節)は終わりに近づいています。きょうの福音の話もルカ福音書だけが伝えるものです。
 この箇所の直前、17章20節で「神の国はいつ来るのか」という問いかけがあり、イエスは「神の国は、見える形では来ない」「神の国はあなたがたの間にあるのだ」(20,21節)とお答えになりました。と同時に「稲妻がひらめいて、大空の端(はし)から端へと輝くように、人の子もその日に現れる」(24節)とも言っておられます。その日その時は神の裁きが下される時です(22-37節)。この文脈から考えると、きょうの箇所は、その決定的な裁きの時に向かう心構えについての教えとして受け取ることもできるでしょう。


福音のヒント


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  (1) 「気を落とさずに」と言いますが、そこにはどんな状況が考えられるでしょうか。17章の終わりで語られていたのは、イエスの再臨の時=神の裁きの時に起こる苦難と破滅でした。その中で「もうダメだ」と気を落としてしまうということでしょうか。しかし、それはある将来のことというよりも、わたしたちが生きている今の現実のことでもあるかもしれません。この世界は、テロと戦争、暴力と犯罪、欲望とエゴイズム、弱い立場にいる人々の苦しみなどに満ちています。そんな中で、わたしたちは「気を落として」しまうことがあるのではないでしょうか。イエスはそのときにも絶えず祈ることを呼びかけています。きょうの箇所を読む上で、この苦難という状況は無視できないでしょう。

  (2) 旧約聖書の中でやもめは自分を守ってくれる人がいない社会的弱者の代表でした。彼女が助けを求めたのは、誰かが彼女から亡き夫の財産を不正に奪おうとする、というような状況があったからだと想像できます。3節の「相手を裁いて、わたしを守ってください」という言葉は、直訳では「相手に対してわたしを裁いてください」です。「裁き」には「悪を断罪する」という面だけでなく「善悪をはっきりさせ、弱い人を守る」という意味があります。そういう意味で「わたしを裁いてください」というのです。7-8節の「神の裁き」も同様です。

  (3) このたとえ話は、ルカ11章5-8節の「旅の友人の願い」のたとえとよく似ています。これらのたとえ話は、祈りの大切さを教えていますが、同時に神は誠実でいつくしみ深い方であるから、必ず祈りを聞いてくださる、ということが強調されています。
 しかし、神を「神を畏れず人を人とも思わない」「不正な裁判官」にたとえるのはあまりにも突飛に聞こえます。ただ単にイエスは「不正な裁判官」と「正しくいつくしみ深い裁き主である神」の対比を強調していると言うべきでしょうか。いや、そもそもこのたとえ話が語られたのは、「神に祈っても結局は無駄ではないか」という考えを持っていた人々(弟子たち)に対してだったのでしょう。そうであるならば、イエスは聞いている人を驚かせ、彼らの目を開かせるために、あえて突飛なたとえを語られたのかもしれません。

  (4) 「選ばれた人たち」(7節)という言葉は何を意味しているのでしょうか。マルコ13章20節に、「主がその(=苦難の)期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」(マタイ24章22節も参照)とあります。そこでは確かに、「選ばれた人たち」は救いにあずかる人々のことです。神の救いにあずかるということが、その人たち自身の功績によることではなく、まったく神の恵み(好意)によることだと考えられ、その神のイニシアチブを強調するために「選ばれた人=神が選んだ人」と言われていると考えればよいのでしょう。神の選びは、現代社会のコンテストとは違います。コンテストでは優れたものが選ばれ、選ばれなかったものは捨てられますが、神は誰一人切り捨てず、すべての人を救うために、もっとも貧しく弱い者を選ばれるのです(申命記7章6-8節、Ⅰコリント1章26-31節参照)。そう考えれば、このたとえ話のやもめのような、弱く貧しい人こそが「神の選ばれた人たち」だと言うこともできるでしょう。

  (5) 「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)の「人の子」は本来「人間」を指す言葉でしたが、ダニエル書7章13-14節などから、神が決定的に天から遣わす審判者・統治者を指すようになりました。ここの文脈の中では審判者として再び世に来られるキリストのことが考えられています。きょうの箇所全体から考えれば、ここでいう「信仰」とは「苦難の中にあって絶えず祈り続ける姿勢」のことだと言ったらよいでしょう。このやもめのように、苦しみの中にあって、神以外に頼るものがない人が、必死の思いで神に向かう姿勢そのものを「信仰」と言ってもよいのかもしれません。

  (6) 聖書の終末についての教えには2つの側面があります。1つは、苦難や迫害の中での希望のメッセージという面。本来、終末についてのメッセージは、迫害や苦難の中にいる信仰者を励ますために、悪の支配下にある今の時代は必ず過ぎ去るという希望を語るメッセージでした。もう1つの面は、人がなまぬるい、自分勝手な生き方をしているときの警告のメッセージです。神の判断(裁き)から見たときに何が本当に大切なのかを鋭く問いかけるメッセージにもなるのです。
 きょうの箇所から希望と励ましのメッセージを受け取ることができますが、最後の「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)という言葉には、警告の響きも感じ取ることができるでしょう。
 わたしたちはどうでしょうか? 問われていることは、わたしたちの祈りや願いがどこまで切実なものかということではないでしょうか。さらに言えば、わたしたちの祈りがどこまで切実かということは、わたしたちの祈りがどこまで現実の人間の苦しみとつながっているかにかかっている、とも言えるのではないでしょうか。




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Posted on 2016/10/07 Fri. 09:26 [edit]

category: 2016年(主日C年)

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年間第28主日 (2016/10/9 ルカ17章11-19節)  


教会暦と聖書の流れ


 エルサレムに向かうイエスの旅は十字架に向かう旅、十字架を経て天に上げられる旅でしたが、それはまた神の国を告げ、神のいつくしみをあらわし続ける旅でもありました。ルカ福音書はこの旅の間に、イエスのさまざまな言動の記録を伝えています。きょうの話もその中での出来事であり、ルカ福音書だけが伝える出来事です。


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  (1) 紀元前10世紀、ソロモン王の死後、イスラエルは政治的に分裂しました。北のイスラエル王国は、エルサレムの神殿とは別の聖所をサマリアのゲリジム山に作り、宗教的にも南のユダ王国から分離しました。紀元前8世紀には北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、サマリアの人々はアッシリア人との混血になり、南のユダヤ人とは民族的にも分かれてしまいました。このような経緯で、ユダヤ人とサマリア人は反目し合うようになっていたのです。
 きょうの福音の場面は「サマリアとガリラヤの間」とありますが、正確な場所はよく分かりません。話の中にサマリア人とユダヤ人が一緒に出てくるので、それに合わせた場面設定だとも言えそうです。なお、イエスが育ったガリラヤ地方は、ユダヤから見てサマリアよりもさらに北にありましたが、ある時代に、南のユダヤ人が入植して町や村を作ったので、人種的にも宗教的にもユダヤ人との同一性を保っていました。つまり、ガリラヤの人々はユダヤ人なのです。

  (2) ユダヤ人とサマリア人は、共にモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を正典としていました。その中には次のような規定がありました。
 「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚(けが)れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ記13章45-46節)。
 反目し合っていたユダヤ人とサマリア人が一緒に行動していることは普通ならば考えにくいことです。しかし、重い皮膚病の人々は、それぞれが本来属していた共同体から追放されてしまっていて、その中で苦しむ者同士として支え合い、助け合いながら生活していたのでしょうか。人と人とが同じ苦しみの中で、お互いの違いを超えて連帯する・・・そういうような経験はわたしたちの周りにもあるかもしれません。

  (3) なぜイエスは「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(14節)と言われたのでしょうか。当時の社会では、この病気を宣告するのも、治癒(ちゆ)を宣言するのも、祭司の役割でした。肉体的に病気が治っても、祭司によって「清め」の儀式をしてもらわなければ、社会復帰ができないのです。イエスはその人の神とのつながりを回復するだけでなく、その人がもともと所属していたコミュニティーとの関係を取り戻すことを意図しておられたとも言えるでしょう。なお、ユダヤ人とサマリア人は別々の祭司を持っていたので、彼らは、別の場所へ出かけていったはずです。

  (4) きょうの福音から、「もっと感謝と賛美の心を持たなければならない」という教訓を受け取るのは当然のことでしょう。しかし、「感謝し、賛美する」ということは、義務感から来るものではないはずです。賛美と感謝は、むしろ自然に心の中からわき上がるものでるはずです。どうしたら心から賛美し、感謝することができるかを考えるために、自分をこの福音の場面の中に置いてみて、このサマリア人の立場からこの物語を味わってみてはどうでしょうか。病気が治った人々はもちろん皆、喜んだはずです。しかし、祭司のところに行く前に、「感謝し」(16節)「賛美するために戻ってきた」(18節)のはサマリア人だけでした。それはなぜなのでしょうか。
 この10人は皆「清くされた」(14節)のですが、1人のサマリア人だけが「自分がいやされたのを知って」(15節)と言われています。「知る」は直訳では「見る、分かる」です。この人がはっきりと意識したことは、「自分がいやされた」つまり「神がこの自分をいやしてくださった」ということだったのでしょう。他の人と違って、そのことを明確に知ったからこそ彼は賛美し感謝することができたのだ、と言えるのではないでしょうか。
 もう一つ考えられることは、ユダヤ人であるイエスが民族の壁を超えて、サマリア人である自分にも目をかけてくださった、ということの中に、ほかの人(ユダヤ人)以上の感謝を感じたのではないか、ということです。「この自分にまでも!」という驚きと感動が、彼をあのような行動に駆り立てたのではないでしょうか。
 どちらも、わたしたちの中に似た経験があるかもしれません。わたしたちが、本当に神に感謝し、神を賛美するのはどんなときでしょうか。

  (5) 「あなたの信仰があなたを救った」(19節)という言葉は福音書に何度か出てきますが、考えてみれば不思議な言葉です。「神があなたを救ってくださった」というほうが自然ではないでしょうか。しかしイエスは意外なほど「信仰」の力を強調しています。
 重い皮膚病だったこのサマリア人の「信仰」とは何でしょうか? それは、この人が自分の病気が治ったことを「神がいやしてくださったこと」として受け取ったということではないでしょうか。自分の身に起こった出来事の中に神とのつながりを発見すること、自分の現実の中に神の働きを見ていくこと、それがここでいう信仰だと言えるかもしれません。また、この箇所で、その「信仰があなたを救った」というときの「救い」も、病気がいやされたことより、この人が心から感謝と賛美を生きる者となった、そのこと自体だと言ってもよいのではないでしょうか。
 この個所のすぐ後に「神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17章21節)というイエスの言葉があります。イエスは、きょうの福音の出来事のように、民族の違いを超えて、神の救いの喜びが広がっていく現実の中に、神の国の実現を見ていたのでしょう。今のわたしたちは、どのように信仰と救い、賛美と感謝、神の国の現実を生きているでしょうか。




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Posted on 2016/09/30 Fri. 07:51 [edit]

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年間第27主日 (2016/10/2 ルカ17章5-10節)  


教会暦と聖書の流れ


 エルサレムへの旅の段落の中で、ルカは他の福音書にない独自の伝承(イエスについての言い伝え)を数多く伝えていますが、きょうの箇所の少し前からは、マタイ福音書と共通する話がかなり多くあります(1-2節はマタイ18章6-7節に、3-4節はマタイ18章21-22節に、5-6節はマタイ17章20節によく似ています)。新共同訳聖書がルカ17章の1-10節に「赦し、信仰、奉仕」という小見出しを付けているように、ここにはいくつかのテーマが並んでいますが、本来、1-2節、3-4節、5-6節、7-10節は別々の伝承だったと考えたほうがよいでしょう。イエスの弟子としてふさわしい生き方はどういうものかを教える言葉として、さまざまな場面で語られた言葉が集められたもののようです。


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  (1) からし種は1~2ミリの小さな種で、とても小さなもののたとえです。桑の木が海に生えるというのは大きなことのたとえです。なぜそんな小さな信仰で大きなことが可能になるのでしょうか。ただ頭で考えるよりも、みことばを自分の体験と照らし合わせてみることが大切でしょう。「信仰があれば不可能なことは何もない」と感じたことがありますか。それはどんなときですか。逆に「信じてもうまくいかなかった」という体験もあるでしょうか。それはどんなときでしょうか。

  (2) 「わたしどもの信仰を増してください」と信仰の「量」を問題にした弟子たちに対して、イエスは「からし種」の話をしています。それは「信仰とは量や大きさの問題ではないのだ」と言うことでしょうか。信仰の力とは「信じるとその人に不思議な力が備わる」というようなものではなく、「信じて神にゆだねたときに、神が働いてくださる」ということだと言えるでしょう。だからこそすべてが可能になるのです。
 福音書の中で「神を信じる」というのは「神は存在すると思っている」ということではありません。イエスの出会った人、イエスの周りにいた人は、だれも神の存在を疑っていませんでした。神を信じるとは「神の存在についての考え方」の問題ではなく、「神に信頼を置いて生きるかどうかという生き方」の問題だったのです。

  (3) 信仰の世界は、自分が自分の力でこれだけのことを成し遂げた、という世界ではありません。神が働いていてくださる。そこに自分をゆだねていく、という世界です。だから自分は何もしなくていい、というのではなく、だから自分にできる精一杯のことをしていこう、ということになるのです。本気でそう思えば、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(10節)と言えるのでしょう。
 わたしたちは「自分の力でなんとかしなければならない」という世界に生きています。「能力と努力がすべてを可能にするはずで、うまくいかないのは能力や努力が足りないからだ」と考えるような世界です。しかし、そういう考えはどれほど多くの人を行き詰らせてしまっているでしょうか。人間は、自分の能力と努力で生まれてきたのではありません。生まれた子どもは自分の能力と努力で育っていくのではありません。むしろ、周囲の人々の愛の中で、そしていのちの与え主である神の愛の中で生き、成長していくのです。
 
  (4) 1-10節で、別々の伝承がつなぎ合わされているのだとすると、そもそも、なぜ使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください」(5節)と言ったのかは分からないことになります。しかし、わたしたちも同じような言葉を言いたくなることがあるのではないでしょうか。それはどんなときでしょうか。自分たちの今の状況、自分たちの直面している問題に当てはめながら、この箇所を読んでみることもできるでしょう。
 3-4節の「ゆるし」のテーマとつなげて考えることも一つのヒントになるかもしれません。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦(ゆる)してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、ゆるしてやりなさい」。こう言われても、実際には非常にむずかしいと感じることがあるでしょう。そして、この「ゆるせない」ことを「信仰が足りない」ことだと感じることもあるのではないでしょうか。だとすると、イエスの答えは、大きな信仰があればゆるせるはずだ、というよりも、ゆるしの力は神から来る、その神の力を信頼の心をもって受け取ることが大切なのだ、という意味になるのではないでしょうか。
 さらに「わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです」という言葉も、人が人をゆるす、ということと関連づけて受け取ることができるかもしれません。わたしたちは神にゆるされ、だからこそゆるし合うことができるのだとすれば、人が人をゆるすということは、まさに「しなければならないことをしただけ」ということになります。

  (5) 「人が人をゆるす」ということはどんなときに可能なのでしょうか。いくつかのヒントをあげてみます。思い当たることがありますか。
 (a) 自分に対して罪を犯した人間が、その罪の痛みを本当に感じていると分かったとき。心からの謝罪をしていると感じたとき(逆に言えば、悪いことをした人が、反省も痛みもなく平気で生きていることがゆるしがたいわけですね)。
 (b) 相手の弱さを感じたとき。その人がしたことはとんでもないことだが、その人がなぜそれほど悪いことをしたかを理解できるとき。その人が過去にどんな傷を受けてきたかとか、その中でどんなふうに人格がゆがんで、ああいう行動に走ったのかというようなことが理解できると思えたとき。
 (c) ひどいことをした人に対して、それでもその人との関係を持ち続けたいと願うとき。
 (d) 罪びとである自分自身が本当に神にゆるされていると感じる体験をしたとき。
 他にもあるかもしれません。現実には「ゆるす」ことは難しいに決まっています。でも、「ゆるせない」と嘆いてばかりいるよりも、「ゆるせた」「ゆるしてもらった」という体験を分かち合ったほうが、たぶん何倍も役に立つに違いありません。
 




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Posted on 2016/09/22 Thu. 08:00 [edit]

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年間第26主日 (2016/9/25 ルカ16章19-31節)  


教会暦と聖書の流れ


 イエスのエルサレムへの旅が続いています。この旅の段落の中に、ルカは他の福音書にないイエスの多くの言葉を伝えています。今日の箇所のたとえ話もルカ福音書だけが伝えるものです。なお、お金や富の問題は先週の福音から続いているテーマだとも言えます。


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  (1) この箇所の少し前の14節には「金に執着するファリサイ派の人々」という言葉がありました。ファリサイ派は当時のユダヤ教の一派で、律法と口伝律法(律法学者たちによる律法解釈)を厳格に守ろうとした宗教熱心なグループでした。彼らがなぜ、「金に執着する」と言われるのでしょうか。隣人を愛し、貧しい人のために自分の持っているものを分かち合うという律法に表された神の根本的な要求よりも、自分の生活の豊かさを確保した上で、安息日の義務や清めに関する細かい規定を熱心に守ろうとしていた態度のためなのでしょうか。だとすれば、「金に執着する」という言葉は、わたしたちにとっても他人事ではないかもしれません。

  (2) 19-21節で、この世での金持ちとラザロの生活が対比されます。当時嫌われていた動物だった犬が近づくということもラザロの状態の悲惨さを強調しています。22節以降には、死後の世界についての描写があります。「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」とか「陰府(よみ)でさいなまれ」とか「わたしたちとお前たちの間には大きな淵(ふち)があって」などです。ここにある死後の世界の具体的な描写は当時の人々の考えに基づいたものであり、イエスが死後の世界のありさまについて教えようとしていると考える必要はありません。むしろここでイエスは、死という時・決定的な神の「裁き」という観点から見て、今をどう生きるかを鋭く問いかけているのです。
 なお、このラザロという人は特別に正しい人であったとは言われていませんが、金持ちと貧しいラザロの状況は死後、逆転してしまいます。このような神による逆転は、ルカ福音書の特徴といえるかもしれません(ルカ1章52-53節、6章20-26節参照)。この逆転の根底には、「神は真実な方で、貧しい人の苦しみを決して見過ごされることはない」という考えがあります。

  (3) 「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる」(29節)、「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(31節)と言われますが、それは、貧しい人を助けなければならない、ということについて、旧約聖書をとおしてすでにはっきりと聞いているはずだ、ということです。たとえば、申命記にはこういう箇所があります。
 「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞(どうほう)が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。・・・・彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。このことのために、あなたの神、主はあなたの手の働きすべてを祝福してくださる。この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(申命記15章7-11節)。
イザヤ書にもこうあります。
 「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛(くびき)の結び目をほどいて、虐(しいた)げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすれば、あなたの光は曙(あけぼの)のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。・・・・飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる」(イザヤ58章6-10節)。

  (4) このような言葉を、この金持ちとその兄弟たちは聞いていたはずだ、というのです。この金持ちが聞き逃したのはそういう聖書のメッセージであり、見過ごしたのは目の前の人の苦しみでした。わたしたちにとっても呼びかけは2つあると言えるでしょう。1つは「聖書」からの呼びかけ、神が人間に何を望んでおられ、わたしたち人間は何をすべきか、ということです。もう1つは「現実」からの呼びかけです。自分の家の目の前に、貧しい人が横たわって苦しんでいる、そのような現実はわたしたちに何かを呼びかけているはずです。そして、聖書をとおしての神の呼びかけと、目の前の人間の現実の必要が結びついたときに、わたしたちの具体的な行動への呼びかけになります
 わたしたちはそういう呼びかけを聞いているでしょうか。それに応えているでしょうか。どうしたらその呼びかけに本当に応えることができるでしょうか。

  (5) 「死者の中から生き返る者」(31節)という言葉は、イエスご自身を暗示しているのでしょうか。もちろんここでは、その者を見ても回心しないだろう、と言われるのですが、福音書の言葉を読む時に、イエスご自身の姿を思い浮かべることはいつも大きなヒントになります。イエスは単に言葉による教えを述べたのではなく、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」(Ⅱコリント8章9節。きょうのアレルヤ唱参照)と言われる方です。それは単なる「施し」をはるかに超える姿でした。さらにマタイ25章31-46節で、イエスが、飢え、のどが渇き、旅をしていて、裸であったり、病気であったり、牢にいる人にしたことは「わたしにしてくれたことだ」と言った言葉も思い出すならば、「イエスは死者の中から復活して、貧しい人・もっとも小さな兄弟の中にいる」と言えるかもしれません。わたしたちは、そのイエスの姿に気づくことができるでしょうか。




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Posted on 2016/09/17 Sat. 11:17 [edit]

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年間第25主日 (2016/9/18 ルカ16章1-13節)  


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 イエスのエルサレムへの旅、十字架を経て天に向かう旅(ルカ9章51節~19章44節)が続いています。この旅の段落の中に、ルカは他の福音書にないイエスの多くの言葉を伝えています。きょうの箇所のたとえ話もルカ福音書だけが伝えるものです。



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  (1) 1節~8節前半のたとえは、かなり分かりにくいと感じられるでしょう。主人が人に貸したものを管理人が勝手に減額してしまうというのは、普通ならほめられるはずがないことです。なぜ「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」のでしょうか。ただ単に、この管理人の「抜け目のなさ(賢さ)」だけを評価しているということなのでしょうか。そうだとしても「ほめる」というのは少し無理があるように感じられるのではないでしょうか。
 この管理人の行為については、別の見方もあります。1つは、管理人が放棄したものが実は自分の受け取るはずの手数料だったという解釈。手数料を放棄したのであれば、そのこと自体は不正とは言えないことになります。もう1つは、管理人は利息分を棒引きしてやったという解釈です。利息をとって人に貸すことは律法で禁じられていましたが、実際にはどの時代にも行われていました。50バトス貸したときに100バトス貸した、とか、80コロス貸したときに100コロス貸した、という証文を書いておけば、この差額が実際には利息分ということになります。利息分を棒引きすることは主人の利益に反しますが、本来利息を取ること自体が悪だとされているので、主人は文句を言えないわけです。

  (2) たとえ話の結論は、「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい」(9節)です。「不正にまみれた富」は直訳では「不正なマンモン」。「不正によって得たお金」というよりも「神から離れた、この世のものである富」という意味です。お金とどうかかわるべきか、お金をどう使うか、というのが、10節以下でもテーマになっています。「友達を作る」は富を貧しい人に施すことによって、貧しい人の友となり、神がそのことを顧みて、受け入れてくださる、と取ることができるでしょうか。あるいはそうすることによって「神を友にする」とも取れるでしょうか。

  (3) 10-12節で「富について忠実」であることが求められていますが、それはもちろん「富に忠誠を尽くす」という意味ではなく「富を誠実に、正しく扱う」ということです。「忠実」はギリシア語「ピストスpistos」の訳で、「不忠実」は「アディコスadikos」の訳です。adikosは8節の「不正なadikia」と同じ言葉ですが、内容的には結び付きません。ここから見ても、10節以下の教えは、本来、前のたとえ話とは別の教えだったようであり、切り離して考えたほうが良さそうです。13節の「神と富とに仕えることはできない」という教えは、マタイ6章24節(山上の説教の中)にもあり、これも直接12節までとつながっているというよりも13節だけで独立した教えなのだと考えたほうがよいでしょう。このあたりは、「富」というテーマのつながりで、イエスのいろいろな言葉がつなぎ合わされているようです。
 お金との関わり方というのは確かにわたしたちにとっても大きなテーマです。お金に縛られたり、お金に振り回されている現実はだれにでもあるはずです。しかし、わたしたちは、お金がすべてではなく、お金が神ではないことも知っているはずです。10-12節の言葉で言えば、もし、富が『ごく小さな事、不正にまみれた富、他人のもの』だとすれば、何が『大きな事、本当に価値あるもの、あなたがたのもの(自分自身のもの)』なのでしょうか。それは神とのつながりでしょうか、人と人とのつながりでしょうか、自分自身の生き方でしょうか。お金がそれらのものを妨げてしまうと感じられることもきっとあるでしょう。わたしたちの生活の中で、きょうのイエスの言葉をどのような呼びかけとして受け取ることができるでしょうか?

  (4) 1-9節の別の読み方を紹介します。実はきょうの福音のたとえ話は、15章の3つのたとえ(百匹の羊、十枚の銀貨、放蕩息子の父)に直接続けて語られていますが、ここで突然「富」がテーマになるとしたら不自然ではないでしょうか。本来はこのたとえ話も15章同様、「罪のゆるし」がテーマだったと考えてみてはどうでしょうか。福音書の中で「罪のゆるし」が「借金の帳消し」のたとえで語られることがあります。「主の祈り」もそうですし、ルカ7章41-42節やマタイ18章23-34節もそうです。神は借金が返せずにどうにも行き詰まってしまった人間を見て、憐れに思い(スプランクニゾマイsplanknizomai「はらわたする」マタイ18章27節)、何とか生かそうとする――これが「借金の帳消し」の意味であり、神のゆるしなのです。きょうの箇所の管理人は自分の不正によって行き詰ってしまいましたが、その行き詰まりを打開し、なんとか生き延びるために彼がしたことは、主人に負債のある人の負債を勝手に減免してしまうことでした。それは「罪びとである人間が、他の罪びとをゆるしてしまう」ということを表しているのではないでしょうか。さらに、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」(8節)というのは、「実は、それが神の望みでもあったのだ」ということではないでしょうか。
 ルカ15章1-2節で、イエスは徴税人や罪びとを迎え、一緒に食事をしていると非難されました。非難したファリサイ派や律法学者からすれば、その人々は神が絶対にゆるさないはずの人々でした。だから自分たちがゆるす必要もないのです。しかし、イエスにとっては、人が「罪びと」をゆるし、受け入れることこそが神の心にかなうことだったのです。このように考えると、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」(9節)という結論は、「人が人をゆるし、人と人とが友として和解すること」を勧めていることになります(このように考えると、このたとえ話は10節以下の富についての教えとは関係がないことになりますが)。
 どのような解釈を取るにせよ、わたしたちも本当はどこかで行き詰っていて、絶体絶命のピンチにあると言えるのかもしれません。もしそうならば「その時、この不正な管理人はどうしたか」は何かのヒントになるのではないでしょうか。





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Posted on 2016/09/09 Fri. 16:08 [edit]

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