福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

王であるキリスト (2016/11/20 ルカ23章35-43節)  


教会暦と聖書の流れ


 教会の暦には、クリスマスの前後に待降節と降誕節、復活祭の前後に四旬節と復活節という特別な期間(=「季節」)があり、それ以外の期間を「年間」と呼んでいます。王であるキリストの祭日は年間最後の主日にあたります。「王」というのは現代日本のわたしたちには馴染みにくいイメージですが、この祭日の本当のテーマは、キリストがすべてにおいてすべてになる、終末における救いの完成ということです。
 王であるキリストのミサの聖書朗読の箇所は年によってずいぶん違っています。いずれもただ単に「キリストが王である」ということよりも、キリストが「普通の人間の王とどのように異なる王であるか」を表す箇所が選ばれています。「王」という言葉にあまりこだわらずに、福音の箇所そのものを味わうようにしたらよいでしょう。


福音のヒント


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  (1) イエスが十字架にかけられる場面です。ルカ福音書の受難物語はマルコ福音書の受難物語をもとにして、ルカ独自の資料・伝承を挿入する形で書かれています。マルコ、マタイでは、イエスとともに十字架につけられた犯罪人が二人ともイエスをののしった、となっていますが、ルカは別の伝承を採用しています。ルカだけは、二人のうちの一人が回心し、イエスに救いを願った、という話を伝えているのです。
 「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40-41節)。ここにはルカ福音書の受難物語の1つの特徴が表れています。それは、イエスが罪なき方であることを強調することです。ユダヤの最高法院でイエスは「自分を神の子とした」という冒瀆(ぼうとく)の罪(22章70-71節)を着せられ、ローマ総督に対して「民衆を扇動し、皇帝への納税を禁じた」と訴えられました。しかし本当のところ、イエスは無罪なのです(ルカ23章4、14-15、22、47節参照)。ルカは「彼は不法を働かず、その口には偽りもなかったのに・・・」(イザヤ53章9節)という苦しむ主のしもべの姿をわたしたちに思い出させようとしているのかもしれません。

  (2) 「議員たち」はユダヤ人の最高法院の議員たち、「兵士たち」は処刑を担当したローマ人の兵士です。2人の「犯罪人」は十字架刑を受けるほど重大な犯罪を犯した人なのでしょう。35-39節で、彼らがイエスに向かって言ったことはすべて「自分を救ってみろ」ということでした。イエスはそれに何一つ答えません。イエスは自分を救うことができなかったのでしょうか? イエスが神の子キリストとして、人々の救いのためにご自分の命を差し出されたと考えれば、イエスは自分を救うことができたのにあえて自分を救わなかったのだと考えるべきでしょう。もちろん、これが伝統的なキリスト教の見方です。
 しかし、現代のわたしたちが直面している暴力(戦争・テロから身近なところでの暴力に至るまで)の問題から、イエスの受難を見るならば、違う見方が必要になるかもしれません。「自分を救えるのに救わない」ということは、暴力を容認し、被害者が耐え忍ぶことを良しとし、暴力を繰り返させる危険さえあるのではないかという問いもありうるからです。「罪人をゆるすこと」と「暴力を許すこと」とは別の問題です。神の望みは人が暴力から解放され、平和のうちに生きることであるはずです。イエスがご自分に振りかかる暴力をどう受け止めたのか、これは今のわたしたちにとって切実な問いではないでしょうか?

  (3) 「自分を救わない」あるいは「救えない」イエスの姿の中に、「暴力によって苦しむすべての人」との連帯の姿を見ることはできないでしょうか。暴力は人を肉体的に傷つけるだけではありません。暴力は人を孤立無援の状態に追い込みます。イエスも表面的には神から見捨てられ、人からも見捨てられたような姿になりました。暴力のもう1つの作用は、人から力を奪ってしまうことです。確かに十字架のイエスはあらゆる力を奪われて何もできなくなってしまったかのようでした。そういう意味で、イエスはすべての暴力被害者と同じ体験をされたのだといえるでしょう。
 しかし、イエスには特別なことがありました。特にルカ福音書は、イエスが最後まで神への信頼と人への愛を持ち続けた姿を伝えています。イエスは絶望や憎しみに支配されることなく、出会ったすべての人、自分を十字架につけた人々をも愛し抜かれるのです。無力な十字架のイエスの中にこそ、愛と連帯によって本当の意味で暴力に打ち勝ち、暴力の連鎖を断ち切る道を見つけることができるのではないでしょうか。

  (4) 「ユダヤ人の王」(38節)はイエスをローマ帝国に対する反逆者とする罪状です。しかし、福音書はそこにもイエスが「真の王」であることが暗示されていると考えているのでしょう。ところで、きょうの箇所の中で、「王」というテーマはむしろ42-43節の犯罪人とイエスとの対話の中に表れてきます。「あなたの御国においでになるとき」という箇所は、写本によっては「あなたが王権をもって来られるとき」と読むこともできます。「国、王権」と訳された言葉はギリシア語の「バシレイアbasileia」です。この言葉は「王(バシレウスbasileus)」という言葉から来ていて、「王であること、王としての統治、王が治める国」の意味になります。この犯罪人は、自分もイエスも十字架で死を迎えることを知っていますから、このイエスの王国が死を超えて実現すると考えていることになります。その中で「わたしを思い出してください」と願うのです。
 43節「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」の「楽園」は、ギリシア語で「パラデイソスparadeisos」です。70人訳聖書(古代のギリシア語訳旧約聖書)の創世記2章8節では、エデンの園がこう呼ばれています。神と人、人と人との調和に満ちた世界、人が神と共にいる状態(Ⅱコリント12章4節参照)だと言ってもいいでしょう。そして、イエスがそれを約束するのは「今日」なのです! 苦しみのどん底の中で、イエスが共にいてくださることに気づいたとき、そこにもう「バシレイア」が実現している、そこが「パラダイス」になる、と言ったらいいかもしれません。




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Posted on 2016/11/11 Fri. 07:00 [edit]

category: 2016年(主日C年)

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年間第33主日 (2016/11/13 ルカ21章5-19節)  


教会暦と聖書の流れ


 教会の暦で「年間」の終わりにあたる3つの日曜日(年間第32、33主日、王であるキリストの祭日)は「終末主日」と呼ばれています。これらの主日の典礼は「終わり」(世の終わり、あるいは、個人の終わりである死)ということにわたしたちの心を向けさせます。
 マタイ、マルコ、ルカ、3つの福音書では、イエスの活動の最後に終末についての説教が置かれています。マルコとマタイでは、終末についての説教はイエスが神殿を去った後、オリーブ山で語られたことになっていますが、きょう読まれるルカ福音書では神殿の境内で語られたことになっています。ルカ福音書にとって神殿は、イエスの「父の家」(ルカ2章49節)、「祈りの家」(19章46節)であり、最後までイエスの活動の中心的な場だったと言えるでしょう(写真は現在のエルサレム。イエスの時代に神殿があった場所です)。


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  (1) 8節の「わたしの名を名乗る者」とは、「わたしがキリスト(救い主)だ」と主張する「偽(にせ)キリスト」のことでしょう。人々の不安や怖れにつけこんで「ここに救いがある、これこそが真の救いだ」と主張するような偽りの情報が現代のわたしたちの周りにもたくさんあるのではないでしょうか。人々の危機意識を煽(あお)り立てて、信者を集めようとする怪しげな宗教もあるかもしれません。世の終わりについての聖書の教えは、そういうものとは無縁です。イエスは人々の恐怖心を煽るためにこれらの言葉を語られたのではありません。イエスが語るのは、たとえどんなことが起こっても「惑わされないように」(8節)ということです。
 きょうの箇所は、世の終わりそのものというより、それに先立つ混乱の時代について語る箇所です。イエスは世を去る前に、将来起こるはずのことについて語りました。戦争、暴動、民族紛争、大地震、飢饉、疫病、などです。それらは、福音書が書かれた1世紀後半にはすでに現実になっていたことでした。そして、21世紀に生きているわたしたちにとって、これらの現象はさらに切実で、深刻な現実だと感じられるかもしれません。その現実の中で、きょうのわたしたちにイエスが語りかけていることを聞き取ろうとします。

  (2) 聖書の終末論(終わりについての教え)には、2つの面があります。
 1つは、厳しい迫害や大きな苦難の中にあっても神に信頼するように、と促す励ましのメッセージという面です。きょうの箇所では、特に迫害の中でのイエスの助けと神の守りが約束されています。「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授ける」(15節)、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」(18節)。身の安全が保障されるというわけではありません。約束されるのは、裁きの場に引き出されてもそれを「証しをする機会」にする力が与えられること、たとえ殺されても「命をかち取る」ことができるということです。
 「髪の毛の一本」(18節)はごくわずかなもの、ほんの小さなもののたとえです。神のわたしたちに対する愛が確かなもので、大きく、また細やかであることを強調しています。しかしそれは、危害がなくなるというよりも、どんなに危害を加えられても本当に大切なものを奪われることはない、という意味のようです。19節の「命をかち取る」の「命」はギリシア語では「プシュケーpsyche」です。「プシュケー」は「たましい」とも訳される言葉です。ある辞書には、「なまの人間の人格生命の本質的部分」という説明がありました。決して奪われることのない本当に大切なものは、この「本質的な部分」だと言えるでしょうか。なお、「忍耐」と訳された言葉の元の意味は「下に留まること」です。ただじっと我慢するというよりも、「神のもとに踏み留まること」と言ったらよいでしょうか。この神とのつながりこそが、決して傷つけられることのない「本質的な部分」だと言うこともできるでしょう。

  (3) 終末論のもう1つの面は、警告のメッセージという面です。きょうの福音の箇所の冒頭にある「ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話している」という場面を思い浮かべてみるとよいでしょう。人は目に見えるものの立派さに心を奪われてしまうことが多いのです。現代の消費社会は、そのように人の心を奪う魅力的なものに満ちあふれていると言っても過言ではありません。テレビやインターネットを通して、美しいもの・派手なもの・欲しいものの情報がわたしたちのもとに飛び込んできます。そして、本当に大切なものを見失ってしまう危険があるのです。聖書の終末論は、目に見えるすべてのものは「過ぎ去るもの」「滅びゆくもの」であることに気づかせ、何が本当に永遠のものであり、滅びないものであるかに気づかせるのです。
 「世の終わりはどうなるのか」といくら頭で考えても役に立ちません。聖書の終末論のこの2つの面が、わたしたち自身の現実の体験とどう結びつくかを考えてみましょう。

  (4) 末期ガンなどのターミナル・ケア(終末医療)への取り組みが盛んになる中で、「QOL=クオリティ・オブ・ライフquality of life」ということがよく言われるようになりました。迫り来る死を前にした時、いかに命の長さを伸ばすか、という「生命の量」の問題よりも、残された日々をいかに充実したものとして生きるか、という「いのちの質」が問われる、という考えです。
 キリスト信者にとって「クオリティ・オブ・ライフ」の根源的なモデルは、イエスご自身の地上での最後の日々でしょう(きょうの箇所の後、すぐに受難の物語が始まります)。イエスは死を目前にして最後までどう生きたか、そのイエスのいのちの輝きを見つめたときに、人はパウロとともにこう確信することができるようになるのです。
 「愛は決して滅びない。…信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリント13章8、13節)
 わたしたちの人生にも必ず「終わり」が待ち受けています。その終わりに向かってどう生きるかをきょうの福音は、そしてイエスの生き方はわたしたちに問いかけているのです。




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Posted on 2016/11/03 Thu. 09:44 [edit]

category: 2016年(主日C年)

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年間第32主日 (2016/11/6 ルカ20章27-38節)  


教会暦と聖書の流れ


 教会の暦ではもう「年間」の終わりに近づいています。きょうの年間第32主日、来週の年間第33主日、そして再来週の「王であるキリスト」の祭日(年間最後の主日)の3つの主日は「終末主日」と呼ばれています。「終わり」(世の終わり、あるいは、個人の終わりである死)ということに思いを馳せるときです。
 福音の内容は、復活についてのサドカイ派との問答です。ルカ福音書19章45節から、イエスはエルサレムの神殿で活動を始め、当時の宗教的指導者たちと論争しました。イエスと彼らとの対立は深まるばかりで、イエスご自身の受難と死の時が迫ってきています。


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 (1) サドカイ派は、ファリサイ派と並ぶイエス時代のユダヤ教の一派です。彼らの名「サドカイ」は祭司の名から来ています。彼らは当時のエルサレムの神殿の権威や富と結びついていた裕福なグループでした。ファリサイ派がモーセ五書(律法の書、創世記~申命記)以外の預言書や口伝(くでん)律法を大切にしていたのと異なり、サドカイ派はモーセ五書のみを正典と考えました。モーセ五書には「復活」について明確に述べている箇所はありません。イスラエル民族はもともと、人は死ぬと先祖の列に加えられる、そこは「シェオール=陰府(よみ)」と呼ばれるところで、そこでは生きている人との関わりも神との関わりもなくなってしまう、と考えていたようです。

  (2) 旧約聖書の中で「復活」ということがはっきりと語られるようになるのは、ダニエル書の12章とマカバイ記二の7章です(マカバイ記はヘブライ語聖書には含まれていませんが、カトリック教会では「第二正典」とされています。なお、このマカバイ記の箇所はきょうの第一朗読で読まれます)。
 これらの箇所が書かれた時代は、紀元前2世紀の迫害と殉教の時代でした。紀元前4世紀、ギリシアのアレクサンドロス大王が築いた広大な支配地域には、4つのヘレニズム帝国(ギリシア人の帝国)ができました。パレスチナは初め、エジプトのプトレマイオス王朝の支配を受けましたが、後にシリアのセレウコス王朝に支配されるようになりました。そして、そのセレウコス王朝のアンティオコス4世エピファネスという王のとき、ユダヤ人に対する激しい宗教的迫害が起こりました。エルサレムの神殿にはギリシアの神々の像が持ち込まれ、ユダヤ人は先祖伝来の律法に従って生きることを禁じられました。「神に忠実に生きようとすればするほど、この世では苦しみを受け、中には殺されていく人もいる」という厳しい状況の中で、「死を越えて神が救いを与えてくださるという希望=復活の希望」が語られ始めるのです。

  (3) サドカイ派が復活を認めなかったのは、彼らが「モーセ五書」のみを正典と考えていたから、というだけではないでしょう。サドカイ派はこの世で満ち足りていた人々の集まりでした。たとえローマ帝国の支配下であろうとも、神殿の権威や富に結びついていたサドカイ派にとって今の生活は悪くなかったのです。彼らにとって神との関係は、神殿の祭儀の中で正しいいけにえをささげているだけで十分で、死を越えて神に期待するものなど何もなかったのでしょう。だからサドカイ派はここで「復活」という考えの矛盾を指摘して復活を否定しようとしたのです。
 一方のイエスは、貧しい人々・苦しむ人々とともに生きてきました。彼らの苦しみと希望はイエスのものでもあったのです。そしてご自分の身にも危険が迫っていることをイエスは感じ取っていました。そのイエスにとって、復活とは死後の世界に対する興味や、宗教家の議論の問題ではなかったのです。それは、「この世において、今の苦しみと絶望的な未来しかないと感じられるとき、それでもなお神に信頼し、人を愛し、希望を持って生きることができるかどうか」というギリギリの決断の問題なのです。

  (4) 34-36節でイエスは、この世の有り様と復活の有り様はまったく違うということを語ります。復活のいのちとはこの世のいのちの延長線上にあるものではなく、まったく違うレベルのいのちなのだ、ということでしょう。復活とは100パーセント、「神によって生きる」(38節)ことなのです。
 37-38節の「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」だから「死者は復活する」というのはどういうことでしょうか。あえて説明すれば、「神は『生きている者の神』であり、モーセに現れた神がご自分を先祖の神だ、と言うのだとすれば、先祖たちは今も何らかの形で生きていることになる」ということでしょう。イエスはサドカイ派も認めているモーセ五書を使って彼らに反論していますが、ただこれをもって復活の論証と考えるとあまり説得力がないようにも思えます。

  (5) 37節の「柴」の箇所とは、出エジプト記3章を指します。神がシナイ山で初めてモーセに声をかけ、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から脱出させるために、モーセを民の指導者として選び出す箇所です。そこで神がモーセに向かって語る自己紹介の言葉が「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト記3章6節)というものでした。イスラエルの先祖とともにいて、いつも彼らを守り導いた神は、今エジプトの奴隷状態にある民を決して見捨てていないのです。この神は、いつも人とともにいて、人を導き、どんな苦しみの中でも人が希望を置くことのできる神です。ここに復活の希望の根拠があると言えるのではないでしょうか。
 38節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」の「生きている者の神」とは、生きている人間の支えとなり、希望となり、力となる神だとも言えるでしょう。逆に、現実の人間の苦しみや喜びと関係なく、人が儀式をとおして出会うだけの神は「死んだ者の神」と言ってもよいかもしれません。
 きょうの箇所は、わたしたちの神との関わりについての鋭い問いかけでもあります。それは、「わたしたちは神にどのような希望を置いているのか、そして、わたしたちは本当に神によって生きているか?」という問いかけです。




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Posted on 2016/10/27 Thu. 08:30 [edit]

category: 2016年(主日C年)

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年間第31主日 (2016/10/30 ルカ19章1-10節)  


教会暦と聖書の流れ


 ルカ福音書9章51節から始まったイエスのエルサレムへの旅も終わりに近づきました。きょうの福音の舞台は、エルサレムまであと20キロほどのエリコという町です。このザアカイの物語もルカ福音書だけが伝える話ですが、これは、イエスの旅が最後まで神の愛とゆるしを告げる旅だったということを、強く印象づける物語です。


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  (1) イエスの時代のパレスチナはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国は被征服民族であるユダヤ人にある程度の自治や宗教的自由を認める一方で、税を徴収することによって植民地支配の利益を得ていました。ローマ帝国に税を納めることはローマ帝国の支配を認めることであり、自分たちは神の民だと考えていたユダヤ人にとっては耐え難いことでした。
 徴税人はユダヤ人でありながら、このローマ帝国の徴税という仕事を引き受けていた人たちです。彼らはそもそも、ローマに仕える民族の裏切り者として忌(い)み嫌われていました。徴税人は、ローマ帝国から給与をもらっていたのではなく、ローマに納める税金に自分の取り分を上乗せしたものを人々から徴収し、それによって財を蓄えていたので、不正な取り立ても多かったようです。このような事情で「徴税人」は、当時のユダヤ社会の中で明らかに「罪びとというレッテル」を貼られた職業になっていたのです。ザアカイは「徴税人の頭(かしら)で、金持ちであった」と紹介されています。彼は経済的には恵まれていましたが、ユダヤ人社会の中では「神から程遠く、社会のクズであり、生きるに値しない最低の人間だ」という烙印(らくいん)を押されていたのです。もちろんザアカイ自身、自分の生き方は神に背くものだと感じていたことでしょう。

  (2) ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集にさえぎられて見ることができなかった。それで・・・、いちじく桑の木に登った」(3-4節) とあります。ザアカイはなぜイエスを見ようとしたのでしょうか。単なる好奇心でしょうか。しかし、木に登ってまでイエスを見たいというザアカイの姿には、何かしらもっと切実な思いが感じられます。また、背が低くて見えなければ、群集をかきわけて前に出ればよいはずですが、彼はそうしませんでした。ザアカイは周囲の人々の目を気にしていたのかもしれません。あるいは、それ以上に、自分のような罪びとがイエスに近づいて行く資格はない、と感じていたのでしょうか。
 それでもザアカイはイエスを一目見たいと思って木に登るのです。彼はイエスという方が「罪びとを招いて、一緒に食事までしている」(ルカ15章2節)といううわさを聞いていたのかもしれません。そして、この人だったら、自分のどうにもならない思いを受け止め、理解してくれて、自分をこの行き詰まりから解放してくれるのではないか、という期待を持ったのかもしれません。

  (3) 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」この言葉を聞いてザアカイはどう感じたでしょうか。周囲にはおおぜいの人がいます。その中でイエスは自分にだけ声をかけてくれたのです。しかも「一緒に食事をする」だけでなく「あなたの家に泊まる」と言うのです。どれほど大きな喜びを彼は感じたでしょうか。
 なお、この「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)は、「今日、わたしはどうしてもあなたの家に泊まらなければならない」とか「今日、わたしはあなたの家に泊まることになっている」とも訳すことができます。これは、そのことが神の救いの計画の中にあることだから必ず実現するはずだということを示す表現なのです。

  (4) ヨハネ福音書4章7節で、イエスはサマリアの女に「水を飲ませてください」と声をかけました。ここでもイエスはザアカイに対して「わたしがあなたに何かをしてあげよう」というのではなく「あなたの家に泊めてくれ」、つまり「あなたにはわたしのためにできることがある」と言ってザアカイに近づきます。どんなに罪びとのレッテルを貼られた人であっても、あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある、とイエスは見ているのです。そういう眼差しに出会ったとき、人は本当に新たに生きる力を与えられるのではないでしょうか。イエスの言う、「この人もアブラハムの子なのだ」(9節)という言葉は、「この人も神が祝福を約束してくださった人間なのだ」という意味です。ザアカイはイエスとの出会いによって、自分が生きるに値しない呪われた罪びとではなく、自分もアブラハムの子なのだ、ということに気づいていきます。そして、新しい神とのつながり、人とのつながりに生き始めようとするのです。イエスに出会ったことは、ザアカイの人生を根本から変えてしまいました。もちろん、彼はこれからも罪びとのレッテルを貼られたまま生きていかなくてはならないでしょう。でも彼はもはや「神に見捨てられた罪びと」ではなく、「神に愛された罪びと」なのです。

  (5) 別の徴税人の物語を思い出してみましょう。マルコ2章14節にはこういう話がありました。「(イエスは)通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」
 このレビの場合と異なり、イエスはザアカイには「わたしに従え」と要求しませんでした。ザアカイもすべてを捨ててイエスに従う、とは言いません。ザアカイは徴税人であることをやめませんただ自分の置かれた場で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にして生きようと決意するのです。イエスはその決意を受け入れ、「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言しています。
 きょうの福音の箇所には「今日」という言葉が2回出てきます(5,9節)。この「今日」という言葉は、ルカ福音書の中では特別な重みのある言葉です(ルカ2章11節、4章21節、23章43節など参照)。「今日」とは、今まさに人が神の愛とゆるしに出会うその時であり、今まさに神の救いが実現しているその時なのです! わたしたちも、神の救いが実現している「今日」を感じることがあるでしょうか?




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Posted on 2016/10/21 Fri. 07:00 [edit]

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年間第30主日(2016/10/23 ルカ18章9-14節)  


教会暦と聖書の流れ


 エルサレムへの旅の段落の中にあるたとえ話で、この話もルカ福音書だけが伝えているものです。先週の箇所(やもめと裁判官のたとえ話。ルカ18章1-8節)との関連を考えれば、祈りについての教えが継続していると言うこともできるでしょう。


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  (1) ファリサイ派はイエス時代のユダヤ教の一派で、律法と口伝(くでん)律法を重んじ、忠実にそれを守ろうとしていたグループでした。「口伝律法」とは、聖書の律法を現実の生活に適用するために律法学者たちが作り上げた多くの解釈のことです。「ファリサイ」という言葉は「分離する」という意味の言葉から来たと言われます。彼らは自分たちを「律法を知らない汚(けが)れた民衆から分離した者」と考えていました。
 一方の徴税人は、ユダヤ人でありながら、ローマ帝国の税金徴収という仕事を引き受け、その仕事によって富を得ていた人たちです。彼らは福音書の中で罪びとの代表のように言われていますが、それは彼らが税の取り立てに関して不正を働いていたと考えられたからです。また、そもそも民族の裏切り者として忌み嫌われていた面もあります。当時のユダヤ社会の中ではどちらが「正しい人」でどちらが「罪びと」であるかは明白でした。

  (2) 14節にある「義とされる」という言葉は、パウロの手紙の中によく見られる言葉ですが、福音書の中ではあまり多く使われていません。「義とする」はギリシア語の「ディカイオオーdikaioo」という言葉の直訳ですが、聖書の中で語られる「義」(ギリシア語では「ディカイオシュネーdikaiosyne」)は「人間的な正しさ」という以前に、根本には「神の義」という考えがあります。「人が義とされる」は「人が神の義にあずかる」こと、もっと分かりやすく言えば「神に受け入れられる」ということです。人間的な見方ではなく、神との関係という点では、この徴税人のほうが正しいあり方なのだとイエスは言うのです。それはなぜでしょうか。
 ファリサイ派の人の「うぬぼれ」の根拠は、結局のところ他人との比較でした。普通の人よりも自分はちゃんとやっている、ましてこの徴税人なんかとは比べ物にならないほど正しい人間だ、ということです。しかし、人と比較して神の前に自分を誇っても何の意味もありません。そのような姿勢は神との関わりを妨げてしまうだけです。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下して」いるとき、人との関係も絶たれてしまいます。人間は互いに助け合い、支えあって生きる者であるはずなのに、周りの人は競争相手になってしまい、弱い人への共感を見失うからです。

  (3) イエスの言葉は、わたしたちの自己評価に挑戦してきます。わたしたちが、「自分はチャンとやっている」と感じているとするならば、それは他の人と比べてのことではないでしょうか。「自分はぜんぜんダメだ」と感じているならば、それも人と比較してのことではないでしょうか。わたしたちはあまりにも「比較と競争」の世界に毒されているのかもしれません。
 この社会は、人を果てしない競争へと駆り立てる社会です。その中でわたしたちはどれほどストレスを抱えていることでしょうか、そしてどれほど多くの人が行き詰ってしまっているでしょうか。確かに「社会は競争なのだから、生きていくためにこの競争を降りることはできない」という人は多いでしょう。かと言って、人生が競争だけになれば、人生はまったく悲惨なものになってしまうでしょう。「競争よりももっと大切なものがある、それを見失わないこと」きょうの福音はそう呼びかけているのではないでしょうか。
 わたしは神の前に立つ。どうしようもなく限界や弱さを抱えているけれども、神がそのわたしを愛し、生かしてくださっているのを感じる。そのとき、優越感と劣等感の間でもがき苦しむところから解放されていく。わたしたちの中にそういう体験があるでしょうか。

  (4) 祈りとはありのままの自分を神の前に差し出すことです。そこでは人との比較は役に立ちません。「あの人もしていたから、わたしもこうしました」とか「この人にはかなわないけれど、別の人よりはましです」そういうことは何の意味もない世界なのです。「自分の小ささを認めて神の前にへりくだるとき、神は本当に自分を受け入れ、愛してくださる」。そういう祈りの体験がありますか。
 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」の「へりくだる」は、直訳では「自分を低くする」です。「自分を低くする」とはどういうことでしょうか。それは表面的に謙遜を装うということではないでしょう。また、「自分なんか何の価値もない。生きるに値しないダメな人間だ」と思い込むことでもないでしょう。むしろ、自分のありのままの姿を見つめるということではないでしょうか。それは決して簡単なことではありません。わたしたちの中に、本当の自分以上に自分のことをよく思いたいという部分がありますが、それは幻想の中を生きることです。逆に本当の自分以下にしか、自分の価値を見いだせず、自尊心を見失い、極度に低い自己評価を持っているとしたら、それも幻想です。自分自身のありのままを認めることは、わたしたちが、神の前に自分を置いてみるときに初めて可能になるのではないでしょうか。

  (5) 「罪人(びと)であるわたし」という言葉にどんな現実感があるでしょうか。もちろん、自分に特別大きな罪があると思っているならば、自然にそう感じられるかもしれません。この徴税人にはそういう罪意識がありましたが、わたしたちは自分がそれほど悪いことをしているという意識がない場合も多いのです。そのわたしを罪びとだと感じるのは難しいでしょうか。「罪」とは、神から離れることです。神から遠く離れてしまっている自分を感じること、神の前に立つのにふさわしくないという感覚、それが「罪の感覚」だと言えるかもしれません。そして、それは漫然と生活しているだけでなく、本気で神に近づこう、キリストに従っていこうとした時にこそ感じることだとも言えるでしょう。




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Posted on 2016/10/13 Thu. 16:58 [edit]

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