福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
王であるキリスト(2017/11/26 マタイ25章31-46節) 
教会暦と聖書の流れ
この福音の箇所はマタイ24章4節から始まった、終末についての長い説教の結びであるとともに、マタイ福音書におけるイエスの最後の説教でもあります(26章からは受難の物語になっていきます)。いわゆる「最後の審判」についての話ですが、世の終わりの裁きの様子を描くための話ではなく、神の目から見て何が決定的に大切なのかをはっきりと示すための話です。「王であるキリスト」という祭日の名称よりも、この福音そのものを深く受け取ることが大切だと言えるでしょう。
福音のヒント
(1) 31節では「人の子」が主語ですが、34節でそれが突然「王」に変わっているので、31-33節と34節以降は、本来別の話だったものをマタイが結びつけたとも考えられます。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る」(31節)は、申命記33章2節(のギリシア語訳)やゼカリヤ14章5節から採られた表現であり、「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(32-33節)の背景にはエゼキエル34章17節があります。神の現れと裁きに関する伝統的な表現であり、この31-33節は世の終わりのあり様そのものを伝えようとしているというよりも、裁きの中身(神によって決定的に問われることは何か、ということ)を語るための舞台装置のような役割を果たしていると考えたらよいでしょう。
(2) 神の判断(裁き)で何が決定的に問われるか、ということについて、この箇所は疑問の余地のないほど明快な基準を示しています。ただし、この箇所をめぐって以下のような考えもありますので一応、紹介しておきましょう。
一つは「誰がここで裁かれているか」ということについてです。実はわたしたちは「主よ、いつわたしたちは、・・・したでしょうか」と言うことはできません。この箇所を読んでいるわたしたちは、このように裁かれることを知っているので、わたしたちにとってイエスの言葉は意外であるはずはないのです。だとするとこの箇所は、「聖書やキリストを知らない人々がどのような基準で裁かれるか」を語る話だと考えるべきではないか、という解釈があります。
また、これと関連して「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人」とは誰のことか、という問題もあります。マタイ10章40,42節にこういう言葉があります。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」確かによく似ているので、ここでも「この最も小さい者」は一般的に助けを必要としている人ではなく、イエスの弟子(特に迫害されている弟子)のことだ、という考えもあります。
このように考えると、「キリスト信者でない人は、迫害されているキリスト信者に対してどのようにふるまったか、によって裁かれる」という話だということになります。
(3) このような考えは確かに言葉の解釈上は成り立つかもしれませんが、根本的に何か違うと感じられないでしょうか。この箇所全体は、世の終わりの裁きのあり様やその客観的基準を教えるための話ではなく、最終的な神の判断という点から見てわたしたち自身の今の生き方を問いかけている話であるはずで、自分たちとは別の人々がどう裁かれるかということを知識として知って、頭で納得するための話ではないのです。わたしたち自身の生き方への問いかけとして受け取るならば、「この最も小さい者」とは、実際にわたしたちの目の前にいて、助けを必要としているすべての人を指していると受け取るべきでしょう。その人々にどう関わったのか、が最終的に神の前で問われるのです。
(4) 実はこの箇所で、イエスはそれ以上のことを言っています。「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言うのです。このことは一つの疑問を生むかもしれません。「キリスト信者が苦しむ人を助けるのは、相手のためではなく、キリストのためであり、さらに言えば、結局自分が最後の裁きで有利になるためなのではないか? それが本当の愛と言えるか?」このことを考えるとき、「主よ、いつ・・・」という言葉は大切になるでしょう。この人々は本当に目の前の人を助けることに夢中だったのです。決して、神への愛のための手段として隣人を愛したのではないのです。
(5) それにしても、なぜイエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言えたのでしょうか。「飢えていた、のどが渇いていた、旅をしていた、裸であった、病気だった、牢にいた」。イエスご自身が、生涯の終わりにこの人々と同じようになっていった、ということを考えずにそれを理解するのは難しいでしょう。エルサレムの町に入られたとき、イエスは「飢え」ていました(マルコ11章12節参照)。「渇く」はヨハネ福音書が伝える十字架のイエスの言葉です(ヨハネ19章28節)。イエスの受難はエルサレムに「旅をしていた」ときに起こりました。逮捕されたイエスは一晩、大祭司の屋敷の「牢」に入れられました。十字架にかけられるとき、イエスは「裸」にされました。「病気」以上にイエスは十字架刑で苦しめられ、弱り果て、命まで奪われます。イエスの十字架への歩みは苦しむすべての人と1つになる道だったと言えます。だからこそ、イエスはその人々を「わたしの兄弟」と呼び、彼らとご自分が一つであると語るのではないでしょうか。
わたしたちは、目の前の苦しむ人の中に、キリストご自身の姿を見ようとします。それは、この目の前の人が神の子であり、イエスの兄弟姉妹であることを深く受け取り、わたしたちにとってその人がどれほど大切な人であるかを感じ取るためなのです。
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年間第33主日(2017/11/19 マタイ25章14-30節) 
教会暦と聖書の流れ
イエスは地上の活動の終わりに、エルサレムの東にあるオリーブ山の上で、エルサレムの町を見ながら弟子たちに向けて終末についての説教をしました(マタイ24-25章)。24章42節から「目を覚ましていなさい」というテーマがずっと展開されていますが、きょうの箇所は年間第32主日の「10人のおとめ」のたとえに続く箇所です。ここでも、いつか突然訪れる終わり(キリストの再臨)に向かって「目を覚ましている」とはどういうことか、最終的に神の目から見て何が良しとされるのか、ということがテーマになっています。
福音のヒント
(1) この「タラントン」のたとえは明らかに、世の終わりまでわたしたちがどう生きるべきかを問いかけるものです。ルカ福音書19章12-27節にある「ムナ」のたとえによく似ていますが、違う面もあります。「タラントン」のたとえでは、「一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン」が預けられましたが、「ムナ」のたとえでは「十人の僕(しもべ)を呼んで十ムナの金を渡し」とあり、だれもが同じように1ムナずつ預けられたことになっています。「ムナ」のたとえは、神が一人一人に同じものを与えてくださっているということを大切にしているのでしょう。それは一人一人に与えられた「いのち」でしょうか、「神からの愛」でしょうか。同じものを与えられてもどう応えるかは人によって異なり、そこが問われる、という、この「ムナ」のたとえのほうが「タラントン」のたとえよりも分かりやすいかもしれません。
(2) 「タラントン」のたとえで、人それぞれに与えられるものが違っていることを、どう考えたらよいのでしょうか。「それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン」というところを読んで「神様は不公平だ」と感じる人がいるかもしれません。しかし、1タラントンでも実はたいへんな金額です。1タラントンは6,000デナリにあたり、1デナリが1日の日当だと言われますから、1タラントンは、約20年分の賃金ということになります。また「1タラントン」は「1ムナ」の60倍であるということも考えれば、「タラントン」のたとえは、神から与えられたものの大きさ・豊かさを、極端にまで強調していると言えるでしょう。
現実に人が神様から委ねられたものを不公平だと感じることは確かにあります。人間的な目で見れば、一方にはあらゆる面で恵まれている人がいて、一方にはあらゆる面で恵まれない人がいる、と感じることは少なくありません。タラントンのたとえはこの人間的な見方と神の見方の違いを際立たせようとしているのではないでしょうか。
(3) 3番目の僕の態度「穴を掘り、主人の金を隠しておいた」というのは、当時の考えでは最も安全な財産の保管方法だったそうです。一方「銀行に入れておく」のはそれよりもリスクがありました。しかし、主人の望みは、安全にタラントンを保管することではなく、それを生かして用いることだったのです。
1タラントン預けられた僕は委ねられたものの大きさに気づかなかったようです。「あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だ」(24節)というのは、彼が「自分にはたった1タラントンしか預けられなかった」と感じていたことを表しているのでしょう。彼がそう感じたのは、主人との関係の中でどれほど大きなものを預けられているか、というのではなく、前の二人と比較して自分には少しだけだ、と考えてしまったからです。しかし、人との比較は神の前ではどうでもよいのです。自分に預けられたタラントンをどう用いるか、それだけが神の目から見て大切なことです。
(4) この「タラントン」とは何を指しているのでしょうか?「10人のおとめ」のたとえの中の「油」と同じように、この箇所の中にタラントンの説明はありません。一般的には「神から与えられ、預けられたもので、生かして用いることを求められているもの」と考えることができるでしょう。もしここで「10人のおとめ」のたとえ同様、続く31-46節をたとえ話の説明だと考えれば、やはり「タラントン」とは「愛」のことだと言えます。人と比較して自分のほうが愛されていない、と考えても何にもなりません。神から注がれた愛の大きさに気づいて、その神の愛にどう応えたか、それが問われるのです。
「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」の「忠実」(ギリシア語の「ピストスpistos」)という言葉は本当は「お金に忠実」ではなく「主人に忠実」であることだと考えるべきでしょう。「少しのもの」というのは最終的に神から与えられる計り知れない恵みと比較しての表現です。そしてこの計り知れない多くの恵みは大きな金額というよりも「主人と一緒に喜ぶ」(直訳では「主人の喜びに入る」)ことだと言っていいのではないでしょうか。神の喜びがわたしたちの喜びとなる、その世界にわたしたちは招かれているのです。
(5) 主人の望みは、結果的にお金を増やすことなのでしょうか、それとも、結果はどうあれお金を用いること自体が求められているのでしょうか。たとえ話そのものでは、結果的にお金を増やしたことが評価されていますが、商売には必ずリスクが伴いますから、もしお金を損してしまったらどうなのか、という疑問も起こるでしょう。この箇所の中にその答えを求めるのは無理なことです。しかし、たとえ損をしても主人は褒めてくれる、と考える可能性はあるのではないでしょうか。なぜなら、イエスご自身の生き方、その受難と死は、ある意味で、神から与えられたものを全部使い果たしてしまうような生き方だったからです。
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年間第32主日 (2017/11/12 マタイ25章1-13節) 
教会暦と聖書の流れ
年間主日のミサの福音朗読で、今年はマタイ福音書をとおして、イエスの活動の歩みを追ってきました。その結びの3つの主日(年間第32、33、王であるキリスト)に、イエスの最後の説教となる3つの箇所 (25章1-13節、14-30節、31-46節)が順番に読まれていきます。この3つの主日は「終末主日」とも呼ばれますが、福音の内容はちょうど終末についての教えになっています。指導者たちと対決した神殿を後にし、イエスはオリーブ山からエルサレムの町と神殿を見ながら、弟子たちに向けて終末についての説教をします(マタイ24-25章)。マルコ13章では、「目を覚ましていなさい」という警告でこの説教は結ばれますが、マタイはこの部分を拡大し、24章45-51節のたとえと25章全体を伝えています。
福音のヒント
(1) このたとえ話の背景には、当時のユダヤの村の結婚式の習慣があります。結婚式は夜中に行われました。花嫁は、介添えをする友人たちと一緒に自分の家で花婿が迎えに来るのを待ちます。「10人のおとめ」はこの友人たちです。花婿は花嫁を迎えるために花嫁の家に向かいますが、花婿の到着はしばしば遅れたそうです(図A)。花嫁の家で、花婿と花嫁一行は合流して花婿の家に向かいます。ともし火は松明(たいまつ)のようなものの先に油を染み込ませた布が巻いてあるもので、火を灯しても15分ぐらいしか持たなかったようです。5人の油を持っていないおとめたちは、油を買うために店に寄っていったので遅れてしまうのです。ちなみに婚礼は村にとってのお祭のようなものですから、それが行われる晩はお店が夜中まで開いていたと考えてよいでしょう(図B)。婚宴は花婿の家で行われます。遅れた5人はそこに入れてもらえなかった、というのです(図C)。
(2) 「結婚」は神と人とが一つに結ばれる救いのイメージとして聖書にしばしば現れます。ここでも花婿の到着と婚宴は、世の終わりの救いの完成を表しています。
世の終わりについての聖書の教えは、人に恐怖心を植えつけて人をコントロールするようなものではありません。聖書の終末についてのメッセージには2つの面があります。
A) 迫害というような厳しい状況の中で、この悪の時代は過ぎ去り、最終的に神による救いと解放が実現する、という希望のメッセージ。
B) 日常的な生活のさまざまな関心事に埋もれてしまう中で、最終的な神の判断(裁き)を語ることによって、今をどう生きるべきかを示す、回心の呼びかけのメッセージ。
マタイ24-25章の説教にもこの両方の面がありますが、25章にはB)の面が強く表れています。「花婿の到着が遅れた」というところに、初代教会の人々の特別な関心が表れています。最初のキリスト者たちは、遠くない将来のイエスの再臨(イエスが再び来て、救いを完成する)を切望していましたが、その再臨は人々が予想したほど早くには来なかったのです。そこで、再臨までの長い期間、「いつか分からないが突然訪れる」その時に向かってどのように生きるか、というテーマが浮上してきたのではないか、と考えられます。
(3) 13節で「だから目を覚ましていなさい」と言いますが、このたとえ話では10人とも眠ってしまいましたから、言葉の上では少し合いません。「目を覚ましている」というのは「肉体的に目覚めている」という意味ではないのです。24章42節から始まる「目を覚ましていなさい」というテーマは、24章45節から25章46節まで続く長い説教の中で、次第にその意味が明らかにされていきます。ここで「目を覚ましている」ことは、内容的には「油を用意している」ということであるのは明らかです。
この「油」は何を意味しているのでしょうか。きょうの箇所には「油」についての説明がありません。そこでいろいろな想像をすることができます。Ⅰテサロニケ5章19節「“霊”の火を消してはなりません」などをもとに「油とは聖霊のことである」というような解釈もあります。ただし、このたとえ話だけからそう言い切ることには無理があります。
むしろ、このたとえ話には本当は説明部分があると考えてはどうでしょうか。続く「タラントンのたとえ」(14-30節)にも説明部分がありませんが、31-46節には、終末の裁きが語られています。そこでははっきりと「助けを必要としている人に対して手を差し伸べるかどうか」ということが問われています。この31-46節が2つのたとえ話の説明部分なのではないでしょうか? 「油」も「タラントン」も「愛」もそれぞれ必要だ、というのではなく、「油を用意している」とは、「タラントンを生かす」とは、結局、「愛する」ということなのだ。そう受け取ることが一番自然でしょう。
(4) このたとえを読んで、「5人の賢いおとめと、5人の愚かなおとめ」ではなく、「油を人に分けてあげない5人の意地悪なおとめと、分けてもらえなかった5人の可哀想なおとめ」の話だと感じる人もいるようです。もちろん、イエスが油を用意していたほうのおとめたちを評価していることは確かです。「なぜ油を分けてあげないのか?」そこにこのたとえ話を理解するヒントがあるのかもしれません。この油は「人に分けてあげることのできないもの」を意味しているのではないでしょうか。たとえば「その人自身の生き方」。親は子どもに良いものをたくさん与えることはできますが、子どもの生き方は最終的にその子自身が選ぶしかありません。誰もその人の代わりにその人の人生を生きることはできない、そういう意味で人に分けてあげられないものがここで問われているのだと言えるのではないでしょうか。
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年間第31主日 (2017/11/5 マタイ23章1-12節) 
教会暦と聖書の流れ
マタイ福音書は、エルサレムの神殿の境内での宗教的指導者たちとの論争に続き、群集と弟子たちに向けた説教の形で、イエスのファリサイ派・律法学者に対する徹底的な批判の言葉を伝えています。マルコ福音書では短い言葉(12章38-40節)ですが、マタイではこの批判は36節まで続く長いものになっています。ルカ11章37-53節にも同じような言葉がありますが、ルカではエルサレムへの旅の途中で出会ったファリサイ派の人と律法学者に向けて直接語られています。マタイは神殿の境内での論争をとおして、イエスとファリサイ派・律法学者との対立が決定的なものとなったことを印象づけるために、これらの言葉をここに置いているのでしょう。イエスの受難は間近に迫ってきています。
福音のヒント
(1) イエスの律法学者・ファリサイ派に対する批判は、きょうの箇所では次の2点に要約できるでしょう。「言うだけで実行しない」こと(1-4節)と「行いは人に見せるため」ということ(5-7節)です。
安息日の律法についての考え方など、イエスの教えとファリサイ派の教えの間には大きな隔たりがありました(マタイ12章1-14節参照)。しかし、ここでは律法学者・ファリサイ派の教えの内容は問題になっているのではありません。むしろ、彼らが「言うだけで実行しない」ことが問題であり、「背負いきれない重荷を人に負わせるだけ」であることが批判されています。それは人々の重荷を共に荷うイエスの姿と正反対だと言えるでしょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11章28-29節。A年年間第14主日の「福音のヒント」参照)
5-7節で問題にされているのは、人からの尊敬を得ようとする彼らの心です。「聖句の入った小箱」は本来自分の心に律法の言葉を深く刻みつけるために、ユダヤ人が祈りのときに身につけたものです(申命記6章8節参照)。「衣服の房(ふさ)」についても、旧約聖書では「それはあなたたちの房となり、あなたたちがそれを見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである」(民数記15章38節)と言われていました。これらを目立たせるのは、人に対して自分がいかに律法を大切にしているかをアピールするためでしかない、というのです。
(2) 8節からは、直接群集と弟子たちへの戒めとなります。7-8節の「先生(ラッビrabbi)」はヘブライ語・アラム語で教師に対する尊称です。「師(ディダスカロスdidaskalos)」はギリシア語で「教える人」を意味する言葉です。10節の「教師(カテーゲーテース)kathegetes」(先に立って行く人、案内者)もよく似た言葉だと言えるでしょう。その間に9節の「父」についての言葉があります。
「師」と「教師」は重複しているように感じられます。本来のイエスの言葉は8節までで、9節以降は後の教会の中で拡大された部分だとも考えられます。8節までだけを考えてみると、もともと「先生=師」とは神ご自身のことだったのかもしれません。もちろんわたしたちにとっては、先生が神かイエスかということは大きな問題ではありません。わたしたちは皆「弟子仲間・兄弟姉妹」であり、「先生」とか「父」「教師」と呼ばれてはならない、という戒めに変わりはないのです。
(3) イエスの批判は、律法学者・ファリサイ派の人々に向けられています。マタイはこれらの言葉を、当時イエス・キリストを受け入れないことがはっきりしてきたユダヤ教の人々への批判として伝えているのでしょうか。もちろん、そういう面もあるでしょう。しかし、むしろ、自分たちキリスト信者の中にも同じ危険があると感じているのではないでしょうか。だからこそ、これらの言葉は、「律法学者とファリサイ派の人々」にではなく、「群集と弟子たち」に向けて語られた言葉になっているのです。
わたしたちの中に、ここで批判されている「ファリサイ的なもの」がないとは言えません。「自分にできないことを他人(ひと)に要求している」「他人に愛を求めながら、自分には愛がない」「結局、気にしているのは自分が人からどう見られるかばかり」「人生を勝つか負けるかの競争のように感じて、本当に大切な人と人との兄弟姉妹としてのつながりを見失ってしまう」などなど。このような態度は、神と人に対して良くない、というだけでなく、わたしたち自身が良く生きることを妨げているものでもあります。
(4) 「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(23章11-12節)。しかし、福音書に伝えられているイエスの弟子たちの姿はこれとはかけ離れたものでした。彼らは「だれが一番偉いか」と論じ合い、少しでも人の上に立ちたいと願っていたのです(マルコ9章33-34節、10章35-41節)。わたしたちはどのようにしてそこから解放されていくことができるでしょうか。この11-12節とよく似た言葉は福音書の各所に見られます(マタイ20章26-27節、マルコ9章35節、10章43-44節、ルカ9章48節、14章11節、18章14節、22章26節)が、そのほとんどはイエスの受難と関係しています。イエスの弟子たちが競争心や嫉妬心から解放されたのは、イエスの受難と死が現実になった後でした。「仕える者」「へりくだる者」となられたイエスの受難の姿がわたしたちの心に迫ってくるとき、わたしたちも、父である神の前での兄弟姉妹として共に生きること、教師であるイエスの前での弟子としての平等であること、を心から喜ぶことができるようになるのでしょう。
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年間第30主日 (2017/10/29 マタイ22章34-40節) 
教会暦と聖書の流れ
先週の「皇帝への税金」についての問答の後、「復活についての問答」があり、その後、きょうの「最も重要な掟」の話になります。さらにこの後の「ダビデの子についての問答」も含め、マタイ福音書ではイエスと当時の有力者たち(ファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派)との間に交わされる論争・対決の話が続いていきます。
福音のヒント
(1) イエスがファリサイ派の人の質問に答えて引用する律法の言葉は、申命記とレビ記から採られたものです。申命記6章4-5節にはこうあります。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」紀元前13世紀、イスラエルの民はエジプトを脱出し、荒れ野を旅して約束の地に向かいました。申命記の中心部分は、この荒れ野の旅の終わりにモーセが民に向かって、遺言のように語った律法についての説教です。この箇所は「シェマー(聞け)」という言葉で知られ、ユダヤ人が毎日の祈りの中で唱える信仰告白の言葉でした。ユダヤ人にとって間違いなく最も大切な掟です(上のイラストにある文字がヘブライ語の「シェマー・イスラエル」=「聞け、イスラエルよ」です)。
レビ記19章18節にはこうあります。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱(いだ)いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」レビ記の17~26章は「神聖法集」と呼ばれています。レビ記19章2節の「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」は神聖法集の考えを最もよく表す言葉です。「聖」とは「隔絶したもの」を表し、人間とまったく違う神の特性を表す言葉です。イスラエルの民はこの聖なる神に救われた民として、神が聖であるように聖なる者にならなければならないのです。そして、この「聖であること」は祭儀的な意味でだけ語られるのではなく、19章18節が典型的に示すように「神の愛を生きる」ことでもあるのです。
これら2つの掟を最も重要な掟であるとする言葉は、イエス以前には知られていません。ただし、ルカ10章27節では律法学者がこの2つの掟について述べていますので、当時のユダヤ人にとってそれほど意外な内容だと言うこともできないでしょう。
(2) マルコ福音書の並行する箇所(マルコ12章28-34節)と比べると、いくつかの違いがあります。マルコでは相手が「律法学者」となっていて、イエスが最も重要な掟としてこの2つの掟を挙げたことに律法学者は賛同し、イエスも彼に向かって「あなたは神の国から遠くない」と言われます。マタイはイエスの言葉に対する相手の反応を省いています。
また、マルコでは最も重要な掟として、この2つの掟を挙げ、「この二つにまさる掟はほかにない」と言うだけですが、マタイでは「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言われています。
さらに、マルコ福音書になくてマタイにある言葉は、この2つの掟は「同じように重要である」という言葉です。原文ではただ、「ホモイアhomoia(似ている)」という言葉が使われています。新共同訳のように訳すと「重要さの程度が似ている」ということになりますが、「2つの掟の内容が似ている」と受け取ることもできます。神を愛すること、と、隣人を愛することは別のことではなく、1つのことだと言ってもよいのでしょう。
マルコでは、この2つの掟を重視する点でイエスと律法学者の間に対立はありません。マルコ福音書で律法学者が批判されるのは、彼らの生き方のためです(マルコ12章38-40節参照)。一方マタイは、当時のファリサイ派的な律法解釈とイエス(あるいは初代教会)の律法解釈との違いを示そうとしている、と言えるでしょう。神の人間に対する望みは、律法の個々の掟の要求を1つずつ忠実に果たすことである、という考えと、すべての律法の根本にこの2つの掟を見て、さらに、隣人を愛することこそが神の望みであるとする考えです(マタイ5章43-48節、7章12節、12章10-12節、25章31-46節など参照)。
(3) 聖書の語る「愛」は、「好きだ」というような人間的な愛着ではなく、そのものをそのものとして「大切にすること」です(根本にあるのは神の人間に対する「愛」です)。
「神への愛」とはどういうことでしょうか。神は人間に何かをしてもらうことを必要としているわけではありません。神は無条件に人間を愛する方です。その神の愛に気づき、感謝すること、これが神を愛することだと言えるでしょう。この神とのつながりを大切にすること、と言ってもいいかもしれません。そして、このように「神を愛する」ことは、必然的にわたしたちを「隣人を愛する」ことに向かわせるのです。あるいは、神を愛することの具体的な表れが人を愛することだと言うこともできます。
(4) 39節の「自分のように愛しなさい」という言葉に引っかかる人もいるかもしれません。「自己愛(ナルシシズム)」という言葉はあまりいい意味では使われないからです。しかし、「本当の意味で自分を大切にすることができない人は他人を大切にすることもできない」という真実も忘れてはならないでしょう。「隣人」という言葉は本来、「近くにいる人」を表す言葉ですが、ルカ10章の「善いサマリア人」のたとえ話で、イエスはこの隣人愛の掟をどう受け取るべきかをはっきりと示しています。「隣人とは誰か」の範囲を決めてからその隣人を愛する、というのではなく、あのサマリア人のように、愛することによって、相手が誰であれ「隣人になっていく」ことができるのです。
解説はこのくらいにして、わたしたちが日々の生活の中で、この2つの掟をどう生きているかということに目を向けてみましょう。
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