福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
王であるキリスト(2018/11/25 ヨハネ18章33b-37節) 
教会暦と聖書の流れ
教会の暦では、来週の待降節第1主日から新しい1年が始まりますので、きょうの「王であるキリストの祭日」が年間最後の主日ということになります。「王」という言葉は現代のわたしたちにとって馴染みにくい言葉ですが、この祭日のテーマは、神の国の終末的な完成を祝うことです。この日のミサの朗読箇所は3年周期の各年でずいぶん異なっています。今年(B年)は、イエスが逮捕され、ローマ総督ピラトから尋問される場面です。
福音のヒント
(1) イエスは最終的にはローマ総督ピラトによって十字架刑に処せられることに決まりましたが、その罪状は「ユダヤ人の王」というものでした。この罪状は「ローマ帝国に対する反逆者」を意味しています。イエスが誕生したとき、すでにパレスチナはローマ帝国の支配下にありましたが、いちおうはヘロデ大王と呼ばれる王がいて、ローマ帝国を後ろ盾としてパレスチナを支配していました。イエスが成人して活動した時代には、ガリラヤ地方にはヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスという領主がいましたが、ユダヤ地方はローマ帝国の直轄領になっていました。つまり「ユダヤ人の王」はいてはならないわけであり、もし誰かが自分を「ユダヤ人の王」だと主張すれば、ローマの支配に対する反逆者ということになるのです。
(2) 「王」という言葉はギリシア語で「バシレウスbasileus」と言います。この言葉から「国=バシレイアbasileia」という言葉が生まれました。これは英語で言えば「King」と「Kingdom」の関係ですので、「バシレイア」は「王国」と訳したほうが正確だとも言えます。またバシレイアには、「王としての支配、王であること、王になること」という意味もあります。現代では「共和国」という王様のいない国がありますが、古代では王なしに国は考えられませんでした。ピラトはイエスが「わたしの国(=バシレイア)」(36節)と言ったのを聞いたので、「それでは、やはり王(=バシレウス)なのか」(37節)と問い詰めるのです。
(3) 「この世には属していない」(36節に2回)と訳されている箇所は、直訳では「わたしの国はこの世の中からのものではない」です。「~の中から」というところには「エックek」という前置詞が使われています。新共同訳のように「この世に属していない」ととることもできますが、むしろ「この世に根拠をおいていない」という意味にとったほうがよいでしょう。イエスのバシレイア(王国)は、この世のバシレイアと違います。それは宗教的領域と世俗的領域というような領域の違いというよりも、因(よ)って立つ根本原理の違いです。イエスの身を守るために弟子たちが戦うというのは、この世の原理でしょう。これは力の原理です。一方イエスは「真理について証しする」のであり、イエスのバシレイアは、人間の力ではないものに根拠を置いているのです。
(4) 「真理」と訳された言葉はギリシア語の「アレーテイアaletheia」ですが、この言葉にはもともと「隠されていないこと」という意味があります。ギリシア人にとって真理とは、「そのものの外見の覆いを取り去った本質」というようなニュアンスがあります。一方、「真理」と訳されるヘブライ語は「エメト」です。これは「アーメン」という言葉と同じ語根で「確かなもの、頼りになるもの」を表します。
ヨハネ福音書には「真理」という言葉がよく使われていますが、この両方のニュアンスがあるようです。ヨハネ福音書の「真理」は、決して抽象的・哲学的な真理ではなく、「何よりも確かで、頼りになる神ご自身をイエスが言葉と生き方をとおして現す」ということを示している言葉なのです。きょうの箇所の続きで、ギリシア・ローマ文化の中に生きるピラトは「真理とは何か」(38節)と問いかけますが、イエスは何も答えません。この対話はここで終わっています。イエスの語る「真理」は抽象的な哲学論議の問題ではないのです。この真理とは、イエスの生涯、特に十字架と復活の中に現されるものなのです。
(5) 「真理」という言葉は人間によって悪用されてきた面もあります。ある人々が、自分たちは「真理」を持っていると主張し、その「真理」を振りかざすところから、生きている人間の喜びや苦しみを無視した残虐な行為に走ることができるとしたら、真理とは非常に危険なものではないでしょうか(たとえば「○○○真理教」!)。
イエスの真理は違います。イエスがあかしする「真理」とはなんでしょうか。それはヨハネ福音書の内容に即して言えば、「神が愛であること」だと言ってもよいでしょう。
1章17-18節「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
13章1節「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
15章9-10節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」
(6) 「神が愛であること」、この真理はイエスの生涯全体をとおして示されました。そして、最終的に、いつかそのことが誰の目にも明らかになる、と信じるのが終末についてのキリスト者の信仰です。きょうの「王であるキリスト」の祭日に祝う「イエスが王となる」ということは、「神の愛・イエスの愛がすべてにおいてすべてとなる」ことだと言うことができます。そしてこの終末における愛の完成を信じるからこそ、今のわたしたちが何を大切にして生きるのか、ということが問われてくるのです。
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年間第33主日 (2018/11/18 マルコ 13 章 24-32 節) 
教会暦と聖書の流れ
教会暦で年間最後の3つの主日(第32、33主日と王であるキリストの祭日)は「終末主日」と呼ばれます。聖書朗読は、世の終わりの救いの完成に目を向ける内容になっています。今年・B年では、きょうの第33主日にもっともはっきりと「終末主日」の性格が表れています。ちなみに、来週の「王であるキリスト」の福音はヨハネ福音書が読まれますので、今年主に読まれてきたマルコ福音書の朗読は、きょうが最後ということになります。
福音のヒント
(1) きょうの箇所は、マルコ13章5節に始まり37節(13章の終わり)まで続く長い説教の一部です。13章のはじめにこの説教が語られた状況が記されています。「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。』イエスは言われた。『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。』イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。『おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴(しるし)があるのですか。』イエスは話し始められた・・・」(13章1-5節)。
ガリラヤから出てきた弟子たちはエルサレムの都の壮麗な神殿の建物を見て圧倒されます。彼らはこれこそ確かなものだと思ったのでしょう。それに対して、イエスは「これは滅びていくものだ」ということを語り、神殿を見ながら弟子たちに向けてこの遺言のような説教を語りました。イエスはこの中で、偽(にせ)キリストの出現、戦争や天災、弟子たちへの迫害、神殿の崩壊などという、これから起こることを語ります。そしてその後、最後に起こることを語るのがきょうの箇所です。
(2) 24-27節には、旧約聖書から採られたさまざまな表現が用いられています。「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(24-25節)は、イザヤ13章10節などに見られる表現で、決定的な神の裁きの日の到来を表すしるしです。
「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」(26節)という表現は、ダニエル書に基づいています。「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」(ダニエル7章13-14節)。本来、「人の子」という言葉は人間一般を指す言葉でしたが、ダニエル書のこの箇所から特別な意味を持つようになりました。それは「神が最終的に遣わす審判者」という意味です。この箇所でマルコは、栄光のうちに再び来られるキリスト(=再臨のキリスト)を「人の子」と呼んでいるのです。
(3) そもそも聖書の中で「世の終わり」についてのメッセージが語られる背景には「迫害」という状況がありました。紀元前2世紀に書かれたダニエル書はその典型です。この時代はギリシアから起こったヘレニズム王朝がパレスチナを支配していました。特にセレウコス朝シリアのアンティオコス4世エピファネス王の時代に、ユダヤ人に対する厳しい宗教迫害が起こりました。神殿にはギリシアの神々の像が持ち込まれ、ユダヤ人は先祖伝来の律法に従って生活することを禁じられました。熱心なユダヤ人の中には殉教する人もいました。それは神に忠実であればあるほどこの世で苦しみを受けるという時代でした。その中で「この悪の世は過ぎ去る。神の支配が到来し、正しい者は救われる」と語り、迫害の中にいる信仰者を励まそうとしたのがダニエル書です。迫害の最中ですから、直接的な表現は許されません。そこで時代を紀元前6世紀という過去に設定し、捕囚の地バビロンでダニエルという人が見た幻として、今起こっていることと将来起こることを描くのです。
(4) ですから基本的に終末のメッセージは希望のメッセージなのです。たとえ現実がどんなに不条理で悲惨であっても、この時代は過ぎ去り、最終的に神のみ心が実現する!
23節までの説教でイエスが予告した「偽キリストの出現、戦争や天災、弟子たちへの迫害、神殿の崩壊」などという出来事は、マルコ福音書が書かれた時代(紀元後70年ぐらい)には、すでに実際に起こっていることでした。その中で、実は救いの日は近づいているのだ、と語るのです。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(マルコ13章28-29節)。
一方、32節には、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」という言葉があり、続く33節には「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」とあります。ここでは終末がいつであるかは分からないという面が強調されていて、むしろ警告のメッセージになっています。世の終わりはまだ先のことだと思い、生き方がなまぬるくなり、自分の利益や目先の快楽に振り回されているとき、「そうではない。神の決定的な裁きは突然やってくる」と語ることによって、神の心にかなう生き方をするように、と警告するのです。
わたしたちの現実はどうでしょうか? わたしたちの中には両面があると言えるかもしれません。苦しみの中で必死に生きている現実と目に見えるものに振り回されている現実。そんなわたしたちにとってきょうの福音はどのように響いてくるでしょうか。
(5) イエスはこの中で「わたしの言葉は決して滅びない」(31節)と語ります。13章のはじめで弟子たちは、目に見える神殿こそが確かなものだと思い、そこに信頼を置こうとしました。しかしイエスは、それはいつか滅び去るもので頼りにならないと説きます。そして、だからこそ決して滅びないものに弟子たちの目を向けさせているのです。「愛は決して滅びない」(Ⅰコリント13章8節)というパウロの言葉も思い出されます。わたしたちにとって、「決して滅びないもの」とは、本当に頼りにすべきものとは何でしょうか?
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年間第32主日 (2018/11/11 マルコ12章38-44節) 
教会暦と聖書の流れ
マルコ福音書では11章のはじめでイエスはエルサレムの町に入り、神殿の境内でさまざまな人と出会いました。商売をしている人、祭司長・民の長老・律法学者、ファリサイ派やヘロデ派、サドカイ派という人々です。彼らは当時の社会の中で富や権威を持っている人々でしたが、彼らとイエスとの対立は深まるばかりでした。唯一イエスが評価したのが、最後に出会った一人の貧しい「やもめ」の姿です。イエスはこの後、13章で神殿を出て行き、その東にあるオリーブ山から神殿を眺めながら、弟子たちに向けて神殿の崩壊を予告し、「決して滅びない」(13章31節)ものへの信頼を説いていくことになります。
福音のヒント
(1) イエスの時代のエルサレムの神殿には多くの富が集まっていました。そこには祭司やサドカイ派など神殿と結びついた裕福な人々がいました。サドカイ派の中にも律法学者はいましたが、律法学者の多くはファリサイ派に属していました(マルコ2章16節参照)。ファリサイ派は律法とそれを何世代もの学者が細かく解釈していった「口伝(くでん)律法」を大切にし、厳密に守ろうとした派です。中でも律法に精通していた律法学者は、律法によって民衆を指導していたので、人々の尊敬を集めていました。
(2) イエスの律法学者やファリサイ派の人々に対する数々の批判は、マタイ23章1-36節やルカ11章39-52節にも伝えられています。マルコのこの箇所で、イエスは何を批判しているのでしょうか。それは結局のところ、彼らの行動のすべてが「人に見せるため」(マタイ23章5節参照)だということでしょう。彼らは祈りまでも人に見せびらかし、自分が他の人々より優位に立つための手段にしてしまっているというのです。
福音書の中でこのような律法学者への批判が語られるとき、それは教会の指導者への警告でもあります。いや、特別な指導者だけでなく、この律法学者の姿は、わたしたち皆の生き方への警告だとも言えるでしょう。自分は人からどう評価されているか、少しでも人から評価されるためにはどうしたらいいか? わたしたちもそのような思いから完全に自由だとは言えないでしょう。しかし、そこにとどまっている限り本当の意味での神とのつながり、人とのつながりを生きることにはならないのです。
この批判の中には「やもめの家を食い物にする」(40節)という言葉が出てきます。これは41節以下のやもめの話との関連でマルコが別の伝承から挿入した言葉でしょうか。やもめにとって夫の遺産の相続問題は死活問題だったでしょう。このような遺産相続などのもめごとの裁定も律法学者の役割でした。やもめの弱い立場に付け込んで当時の律法学者たちは自分の利益を上げていたということなのでしょう。
(3) この律法学者と正反対の立場にいたのが「やもめ=寡婦(かふ)」でした。聖書の中で、寡婦は、寄留の他国人や孤児と並んで、いつも社会的弱者の代表です。
「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く」(出エジプト記22章20-22節参照)。
寄留者とは、周囲に自分を守ってくれる同胞のいない人々です。孤児は自分を守ってくれる親がいない子どもであり、寡婦は古代の男性中心の社会の中で自分を守ってくれる夫を失った人でした。彼らの後ろ盾は神しかいないのです。そしてだからこそ、この人々を大切にすることを律法は要求していたのです。
(4) 当時の神殿の境内には、神殿の建物から一番遠いところに「女性の庭」と呼ばれる部分があって、女性はそれより奥には入れませんでした。この女性の庭にあった賽銭箱(さいせんばこ)は、13個のラッパ型をした雄牛の角(つの)が並んでいたものだったそうです。今回のイラストはその想像図ですが、正確な形はよく分かりません。レプトン銅貨はユダヤの最も小額の貨幣で、その価値は1デナリオンの128分の1でした。1デナリオンは1日の日当と言われていて、その128分の1ですから、今でいえば、せいぜい50円玉1枚ぐらいの価値でしょうか。なお、クァドランスはローマの青銅貨で、1デナリオンの64分の1(1レプトンの倍)にあたります。イエスが賽銭を入れる様子を見ていたというのは、不思議な感じがしますし、なぜ、このやもめの献金が彼女の生活費の全部だと分かったかというのも不思議です。しかし、もちろん、この箇所ではそういうことは問題ではなく、神の前での人間の真実のあり方が問われているのです。
(5) 彼女が賽銭箱に入れたものは「生活費のすべて」(44節)と言われていますが、「生活費」と訳されたギリシア語の「ビオスbios」には「人生」「生活」の意味もあります。「生活のすべてを神に差し出した」と受け取ることもできるでしょう。
全財産を差し出してしまえば、残るものは何もありません。このやもめの献金はやはり無謀でしょうか? この日のミサの第一朗読で読まれる列王記上17章の物語も似ています。干ばつの中で預言者エリヤからパン一切れを差し出すように求められたサレプタのやもめは、最後の一握りの小麦粉でパンを作り、それを差し出します。すると「主が地の面(おもて)に雨を降らせる日まで/壺(つぼ)の粉は尽きることなく/瓶(かめ)の油はなくならない」(列王記上17章14節)という神の言葉が実現した、というのです。すべてを差し出したところに神の救いの力が働くという体験がわたしたちの中にもあるでしょうか。いや、そもそもイエスの受難・死・復活の道こそが、まさにそういう道だったとも言えます。
神殿で出会った商人や金持ち、社会的・宗教的指導者たちの姿にイエスは心を動かされませんでした。彼らの生き方とイエスの生き方はあまりにもかけ離れていました。イエスが最後に出会ったのがこの貧しい女性です。そしてイエスはこの人の姿以外に、神殿に真実なものは何もなかった、と言うかのように、神殿を後にしていきます(マルコ13章1節)。
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年間第31主日 (2018/11/4 マルコ12章28b-34節) 
教会暦と聖書の流れ
先週の福音(マルコ10章46-52節)の舞台はエリコでしたが、きょうの箇所はかなり飛んでいて、エルサレムの神殿の境内での場面になっています。その間に、イエスはエルサレムに入り、当時の宗教的・社会的指導者たちとの間でさまざまな対話をしました。これらの対話は、3年周期の主日のミサの朗読配分の中で、A、B、C年に割り振られていて、今年(B年・マルコの年)は、それらの対話の結びにあたるこの箇所だけが読まれます。
福音のヒント
(1) イエスがエルサレムの神殿の境内で対話した相手は、祭司長・律法学者・長老(11章27節以下)、ファリサイ派・ヘロデ派(12章13節以下)、サドカイ派(12章18節以下)などで、皆、当時のユダヤ人社会の宗教的・社会的な指導者たちでした。多くの対話はイエスに対して攻撃的な内容なので「論争物語」とも言われますが、きょうの箇所は論争とは言えません。イエスとここに登場する律法学者の意見は一致しているからです。
(2) 29-30節の「イスラエルよ、聞け・・・」は、申命記6章4-5節の引用です。申命記ではこれに続いて次の言葉があります。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額(ひたい)に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(申命記6章6-9節)。この箇所がいかに大切にされていたかが分かります。今回のイラストに描かれているのは、この申命記6章4-9節などの聖句を記した小さな羊皮紙の入った小箱を額と腕につけたユダヤ人の姿です。このような習慣はイエス時代にすでにあり、福音書の中で「聖句の入った小箱」(マタイ23章5節)と言われているものがこれにあたります。この申命記6章4-5節が最も大切な掟であることは、ユダヤ人の誰もが認めていたことでしょう。
神を愛するとはどういうことでしょうか。キリシタン時代の人は「神の愛(ラテン語のカリタスcaritas)」のことを「御大切(ごたいせつ)」と訳したと言われます。「愛」とは「大切にすること」だといえば、日本語としてはもっとも分かりやすいかもしれません。
(3) もう1つの掟「隣人を自分のように愛しなさい」はレビ記19章18節にあります。新共同訳聖書では、レビ記17-26章のはじめに「神聖法集」という見出しが付けられていて、この部分が大きな1つの律法集であることが分かります。19章はその中心ともいえる箇所です。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(19章2節)という言葉にこの神聖法集の根本的な考え方が表れています。「聖」であることとは、単に祭儀的な意味での「聖」ではなく、むしろ対人関係において神のように「貧しく弱い立場にいる人を大切にすること」が求められています。その中にこの隣人愛の掟があります。
「隣人」という言葉は確かに近い人々を表す言葉です。ルカ10章では「隣人とは誰か」が問題になり、イエスは有名な「善いサマリア人」のたとえを語ることになりました。
(4) レビ記も決して同胞だけを愛すればいいと教えてはいません。「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ記19章33-34節)。
ここで大切なのは、「寄留者を愛せ」という掟の根拠は、神がエジプトに寄留していたイスラエルの民の苦しみを見、叫び声を聞き、痛みを知り、救ってくださった神の救いのわざ(出エジプト記3・7参照)だということです。つまり、あなたがたには寄留者の苦しみが分かるはずだから、寄留者を大切にしなさい、ということであり、同時にまた、神が愛してくださったように、あなたがたも愛すべきだ、ということでもあります。
イエスの時代のファリサイ派や律法学者の問題は、掟を守ることによって神の救いにあずかることができると考え、自分の力で救いを勝ち取ろうとしたことでした。掟の前提にすべての人を救ってくださる神の愛があることを忘れ、自分の力に頼ろうとした結果、彼らは神との生きた関係を見失い、また、貧しく律法を知らない人々を「罪びと」として切り捨てることになってしまったのです。イエスが批判したのはまさにこの点でした。
(5) 律法学者は「第一の掟」についてたずねますが、イエスは2つの掟を語りました。この2つの掟を結び付けたことは確かにイエスの考えをよく表しているでしょう。ただし、この2つを最も大切な掟だとする考えはイエスだけのものとも言えないようです。実際、ルカ10章でこの2つの掟を語るのはイエスではなく、律法学者のほうです。
この箇所でも最も重要な掟について、イエスと律法学者の意見は一致しています。イエスの言う「あなたは神の国から遠くない」(34節)という言葉は、律法学者の答えを評価するものですが、神の国を明確に約束しているとも言えません。問題は掟をどう考えるかではなく、その掟をどう生きるか、です。マルコ福音書の中で神の国が明確に約束されるのは「幼子」でした(10章14-15節)。イエスが指し示しているのは、神の愛に対する幼子のような信頼を持ったとき、神と人への愛が沸き起こってくるという世界なのでしょう。
マルコはこの対話で、11章27節から始まった当時の宗教的指導者たちとイエスとの対話を締めくくります。「もはや、あえて質問する者はなかった」(34節)。誰もイエスに反論できませんでした。しかし、彼らの多くがイエスに対して抱いていた反感は変わりません。本当の対立は、議論の中身ではないのです。律法の基準に基づく自分たちの地位や名誉を守ろうとした当時の社会的・宗教的指導者たちと、すべての人の父(アッバ)である神に信頼し、貧しく小さな人々とともに歩むイエスの生き方が対立しているのです。
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年間第30主日 (2018/10/28 マルコ10章46-52節) 
教会暦と聖書の流れ
イエスのエルサレムへの旅は、ガリラヤに始まり、ヨルダン川を下ってきて、エリコの町に到着しています。ここまでは130kmほどで、エリコからエルサレムまでは残り30km足らずです。マルコ福音書では、この話の後(11章)はもうエルサレム入りの場面ですので、エルサレムへの旅も終わりに近づいていることになります。イエスに従うことのできなかった金持ちの男(10章17-22節)やイエスの受難の道を理解していなかった弟子たち(10章35-45節)の姿と対照的に、イエスに従っていったバルティマイの姿が伝えられています。
福音のヒント
(1) 47節でバルティマイは、イエスのことを「ダビデの子」と呼びますが、これは彼自身がそう考えたというよりも、彼が聞いていた周りの人々の噂だったのでしょう。ダビデは紀元前1000年ごろのイスラエルの王で、「ダビデの子」というメシア(救い主)の呼び名には、ダビデ王の再来である理想的な王のイメージがあります。ローマ帝国の支配下にあった当時のユダヤでは、ローマの支配を打ち破り、ユダヤ人を解放してくれる王を意味していました。イエスに対するこのような期待は、イエスがエルサレムに近づくに従って膨れ上がっていたようです(マルコ11章10節参照)。
「わたしを憐れんでください」は物乞いをするときにいつもバルティマイが使っていた言葉なのでしょうか。イエスの周りにいた人々はこのバルティマイを黙らせようとします。王・メシアかもしれないイエスは重要人物で、何の役にも立たない「盲人の物乞い」など用がないと人々は考えたのです。しかし、イエスは彼の叫びを聞きます。
(2) 49節の「安心しなさい」はむしろ「勇気を出しなさい」と訳したほうが原文のニュアンスに近いでしょう。「お呼びだ」と訳された言葉は、直訳では「彼があなたを呼んでいる」です。
50節「上着を脱ぎ捨て、躍り上がって」はバルティマイが「盲人の物乞い」であったことを思えば、たいへんなことでしょう。この上着はおそらく彼の唯一の財産でした。そして、彼は目が見えないのですから、ふだんはそれを肌身離さず持ち歩き、歩くときは事故のないように細心の注意を払いながら歩いていたはずです。それなのに彼は、自分の持ち物も自分の安全も手放すかのようにイエスのもとに向かいます。
それは「イエスが自分を呼んでいる」と知ったからです。この方は自分を邪魔者扱いしない。すべての人に邪魔者扱いされる中で、イエスという方だけは自分に目を留め、自分を呼んでくださる! バルティマイのこの喜びを感じとることができるでしょうか。
(3) イエスはバルティマイに「何をしてほしいのか」と問いかけます。10章36節でイエスが弟子のヤコブとヨハネに聞いたのと同じ問いです。自分たちに高い地位を約束してほしい、というヤコブとヨハネの願いにイエスは答えませんでした。しかし、バルティマイの願いには答えます。バルティマイの願いは「先生、目が見えるようになりたいのです」というものでした。これも自分の利益を求める願いではないでしょうか。二人の弟子の願いとバルティマイの願いは、どこが違うのでしょうか。確かに言えるのは、バルティマイの願いは単なる願望以上のもの、苦しみの中からの必死の叫びだったということです。イエスは受難と死に向かう旅の最後まで、このような叫びに耳を閉ざすことはないのです。
(4) 「あなたの信仰があなたを救った」は、マルコ福音書では、5章34節で出血の止まらない病気がいやされた女性に向かって言われた言葉でした。この「信仰」は、「イエスはダビデの子である」と信じるような頭の中の信仰ではありません。「この方ならなんとかしてくださる」という必死の思いでイエスに向かっていった態度そのものです。自分の希望と信頼のすべてを神とイエスにかける、と言ってもいいかもしれません。
52節の「なお道を進まれるイエスに従った」は、直訳では「その道の中でイエスに従った」です。この道はもちろんイエスのエルサレムへの道、受難と死に向かう道です。バルティマイは「行きなさい」と言われたにもかかわらず、イエスに従うことを選びました。 このバルティマイの姿は、結局のところ財産を頼りにしてイエスに従うことのできなかった金持ちの男や、自分たちの栄誉を求めていた弟子たちの姿とはっきりと対比されています。マルコ福音書はバルティマイの中に「十字架への道を歩むイエスに従う弟子」の典型的な姿を見ていると言えるでしょう。
ただし、イエスに従っていた弟子たちはイエスが逮捕されたとき、皆逃げてしまっています(マルコ14章50節)からバルティマイはその時どうしたのか、と考えたくなるかもしれません。マルコ福音書はこれについて何も語っていません。ただマルコは、今日の箇所でこの人をはっきりと「バルティマイ」という名で紹介しています。マタイやルカにもこの話は伝えられていますが、いやされた人の名前はありませんし、そもそもイエスによっていやされた人の名前が伝えられていることはめずらしいことです。もしかしたら、バルティマイは、マルコのいた教会の中で知られていた人物だったのではないでしょうか。だとしたら、彼はこの出会いをきっかけに、生涯イエスに従い続けたと想像することができるでしょう。
(5) バルティマイはイエスに出会って救われた、という喜びと感謝の心からイエスに従いました。十字架への道を歩むイエスに従うということは、おそらく能力や努力の問題ではないのです。イエスの弟子たちは最後までイエスに従うことができませんでしたが、それで終わりになったのではなく、復活したイエスとの出会いによって、再び弟子として歩み始め、そして多くの弟子が殉教していくことになりました。彼らを突き動かしていたものも、復活したイエスが自分たちに姿を現し、声をかけ、再びご自分の弟子として受け入れてくださった、という喜びと感謝ではないでしょうか。
もしも、わたしたちの中にもそういう経験があったとすれば、バルティマイの物語は、今のわたしたち自身の物語になるに違いありません。
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