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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第21主日(2019/8/25 ルカ13章22-30節)  


教会暦と聖書の流れ


 ルカ福音書はガリラヤからエルサレムに上るイエスの旅の途中にさまざまなエピソードを伝えています(ルカ9章51節~19章44節)。この旅は、神の国を告げ知らせる旅であり、十字架を経て神のもとに向かう旅でした。きょうの福音もその旅の段落の一節ですが、ここから神の国についての豊かなイメージを受け取ることができるでしょう。


福音のヒント


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  (1) 「救われる」(23節)というのは、ここでは「神の国に入っている」(28節)、「神の国で宴会の席に着く」(29節)ということを意味しています。「神の国」とは、「神の愛がすべてにおいてすべてとなること」だとも言えますが、それには「すでに始まっている」面と「最終的にいつか完成する」という面があります。ここで問題になっているのは、最終的な神の国の完成にあずかることができるかどうか、ということです。もちろん、それにあずかることができるかどうかは「神の判断=裁き」にかかっています。
 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。この問いを発した人は、なぜこんなことを聞いたのでしょうか。「救われるのが少数ならば、そうとうがんばらなければならない、逆に、多くの人が救われるというのなら、まあまあ人並みにやっていれば大丈夫だろう」そのような考えがあったのかもしれません。「入ろうとしても入れない人が多い」というイエスの言葉は、「救われる人は少ない」と言っているようにも聞こえます。しかし、本当にそうでしょうか。

  (2) 「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」(29節)は非常に多くの人がそこに受け入れられているイメージです。「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」(30節)は、「人間の考えでは先だと思っている人が神の国では後になり、人間の考えで後だと思っている人が神の判断では先になる」ということです。一方ではものすごい広さがあって、予想もしなかった多くの人がそこに招かれていく、という面と、同時に、入れるはずの(つもりの)人が入れないという面があるのです。神の裁き(判断)は、人間の考えや計算を超えている、ということなのでしょう。「救われる人が多いか少ないか」という人間の「取らぬタヌキの皮算用」は通用しない世界なのです。「戸を閉めてしまってからでは」(25節)ダメだというのは、あくまでも今の生き方が問われるということですが、では、神の目から見て何が本当に良しとされることなのか。これについて、きょうの箇所には明白な答えがないようにも感じられます。

  (3) マタイ7章22-23節 にはよく似た言葉が伝えられています。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心(みこころ)を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名(みな)によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』」。
 ここでは、「天の父の御心を行う」という表現が使われていますが、マタイ福音書には、もっと明確な言葉もあります。それは25章31-46節です。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(35-36節)「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)。ここでは、神の裁き=判断の基準は非常に明白です。

  (4) ルカ福音書の中のたとえ話で言えば、やはり「善いサマリア人のたとえ」(ルカ10章25-37節)を思い出すべきでしょう。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」、「わたしの隣人とはだれですか」と問いかけた律法学者に向かってイエスはこのたとえを話されました。律法学者は、神の報いについて人間的な計算をしようとしたのでしょう。しかし、たとえ話の中のサマリア人は、報いを期待して道に倒れていた人を助けたのではありません。彼は「憐(あわ)れに思って」、すなわち「はらわたをゆさぶられた(スプランクニゾマイsplanknizomai)から」助けたのです。
 イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」(37節)と教えましたが、イエスご自身の生き方がまさにこのサマリア人のような生き方だったとも言えます(ルカ7章13節など参照)。古代のある人はイエスを「アウトバシレイアautobasileia(ご自身が神の国である方)」と呼びました。イエスは神の国に入る資格があるというより、イエスの中に神の国がもう実現しているのです。今神の国を生きること、そして最後まで神の国を生き抜くこと。このイエスの生き方は、人間的な計算に基づく生き方ではありませんでした。

  (5) 救われるための計算に基づく行いは、その人の本当の生き方とは言えないでしょう。「自分が救われるために人を愛する」というのも何か変です。わたしたちは、どうしたら今、神の国を生きることができるのでしょうか。
 ルカの今日の箇所では、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と言われています。これは、「多くの人が来るが、その中の少数しか入れないほど狭い戸口」というニュアンスですが、マタイ7章13-14節には「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」という言葉があります。この「狭い門」は多くの人が見過ごしてしまうほど小さな門、という意味でしょう。わたしたちにとって、狭い門、狭い戸口から入るとはどういうことでしょうか。人間的な見方や打算ではなく、わたしたちの心のもっとも深いところに働きかける神の呼びかけに従うことだと言ったらよいかもしれません。それを「聖霊の導き」と言うのですが・・・。




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Posted on 2019/08/16 Fri. 08:30 [edit]

category: 2019年(主日C年)

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年間第20主日 (2019/8/18 ルカ12・49-53)  


教会暦と聖書の流れ


 イエスのエルサレムに向かう旅の段落の中で、ずっと語られているのは「神の国」についての教えです。この神の国には、「今すでに始まっている」という面と、「世の終わりに現れ、完成する」という面があります。終末における完成ということの中には、神に反するすべてのものが滅ぼされる「裁き」の面があります。先週の箇所(ルカ12章32-48節)もその裁きについての警告の言葉でしたが、きょうの箇所にも、非常に厳しい警告の内容を持つイエスの言葉が集められていると考えたらよいようです。なお、51-53節はマタイ10章34-36節に似た言葉があります。


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  この「火」は一方では神に反するものを滅ぼしつくす「裁きの火」です。ただ、この見方だけではルカ12章49節の「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」との結びつきは理解しにくくなります。この「火」は「聖霊」とも結びついています(使徒言行録2章にある「炎のような舌」は聖霊のシンボルです)。ここには「清め」のイメージもあります。「火」は、聖霊によって人に罪のゆるしをもたらし、神との結びつきを確かにする「清めの火」でもあると言えるのです。きょうの50節で「受けねばならない洗礼」のイメージが続いているのはそのためでしょう。

  (2) 「平和」はヘブライ語で「シャローム」と言います。すでにイエスの誕生の場面で、天使たちはこう歌いました。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2章14節)。イエスによってもたらされるものは本来、平和であるはずです。この平和は人と人とが本当に尊重し合って生きるような、神から来る平和だと言うことができるでしょう。これに対して、「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」という時の「平和」は争いが避けられ、表面的に平穏が保たれているだけの状態だということだと言えます。
イエスの到来とそのメッセージは、人々にはっきりとした態度の決断を求めるものでした。それは、イエスによって始まっている神の国を受け入れるか、それを拒否するか、という決断です。そこには表面的な平穏さを保つだけではすまないものがあります。

  (3) 53節はミカ7章6節の引用だと考えられます。「息子は父を侮(あなど)り/娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」。これは人々の中に悪が満ち、もはや親しい者さえも信じることができないという終末の混乱した状況を語る言葉です。これに続くミカ7章7-8節では、その混乱の中で主に信頼する人の生き方が示されます。
 「しかし、わたしは主を仰ぎ/わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光」。
 終末についての聖書の教えは、神が人間の間に混乱や分裂を引き起こすということを語ろうとしているのではありません。現実にどのような混乱や分裂があっても、それを突き抜けて神の救いが実現する、という希望と確信を表すものなのです。

  (4) 「五人」の家族というのは、両親とその息子、娘に、息子の嫁を加えた家族の姿が考えられているのでしょうか。だとするとこの対立は、親の世代と子どもの世代の間の対立であるという見方もできるかもしれません。それは、イエスご自身や弟子たちが経験したことでもあったようです。
 「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。『御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます』と知らされると、イエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とは誰か』と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。』」(マルコ3章31-34節)
 「また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(マルコ1章19-20節)。
 このような場面を思い起こすならば、この対立は、自分の家族の中でうまくやっていけばよいという態度と、神の子どもとして、すべての人と兄弟姉妹としてのつながりを生きようとする態度の間にある対立ということになるでしょう。


  (5) きょうの箇所が語っているのは、いつのことでしょうか。最終的な裁きと神の国の完成の時のようでもあり、イエスが活動している今のことのようでもあります。また、「わたしには受けねばならない洗礼がある」という言葉は、イエスの十字架の時を特に意識させます(マルコ10章38-39節参照)。今が終わりの時である、イエスの到来とともにすでに終わりの時は始まっている、ということはわたしたちにとっても大切でしょう。
 わたしたちの中にも分裂や対立の厳しい現実があるかもしれません。その中で神の救いが見えなくなることもあるかもしれません。それはある意味で終末のような状況です。しかし、「対立して分かれる」(53節)ということがイエスの望みではないし、本当の終わりでもないのです。
 内容的に言えば、きょうの箇所に続くはずの言葉は、「ただ、神の国を求めなさい」(ルカ11章31節)ではないでしょうか。だとすれば、「火」とは「神の国に対する熱い思い」だと考えることもできるでしょう。イエスがわたしたちに求めているのは、「その火がすでに燃えていたら」ということだと受け取ってみてはどうでしょうか。




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Posted on 2019/08/09 Fri. 08:50 [edit]

category: 2019年(主日C年)

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年間第19主日 (2019/8/11 ルカ12章32-48節)  

教会暦と聖書の流れ


 ルカ福音書で、イエスのエルサレムに向かう旅の段落(ルカ9章51節~19章44節)が続いていますが、この中で、ルカはイエスのさまざまな教えを伝えています。この旅は十字架を経て神のもとに行く旅ですが、同時に、神の国について語り続ける旅でもありました。きょうの箇所は、先週の「おろかな金持ち」の話の後、「思い悩むな、ただ神の国を求めなさい」という教え(22-31節)に続いて語られる言葉です。


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  (1) 32節「小さな群れよ、恐れるな」。これはもちろんイエスと共にエルサレムへの旅をしていた弟子たちに向けられた言葉です。イエスが今のわたしたちにも同じように呼びかけてくださっていると感じてみてはどうでしょうか。「父は喜んで神の国をくださる」という喜びの雰囲気も感じたいものです。イエスは弟子たちの心を、目先の利害・損得ではなく、もっと大きな、過ぎ去ることのない「神の国」の喜びのほうに向けさせようとしているのです。「持ち物を売り払って施しなさい」「富を天に積みなさい」(33節)も、難しい命令というだけではありません。わたしたちはイエスの言葉を、本当にすばらしい、豊かないのちへの招きとして受け取ることができるのではないでしょうか。

  (2) 「主人が帰ってくる」(36-38節)、「人の子が来る」(40節)というのは終末のイメージです。聖書が語る世の終わり、あるいは個人の終わり(死)についての教えの中ではいつも2つの確信が示されています。1つは「今のこのときは終わる、過ぎ去る」ということ、そしてもう1つは「そこで神(あるいは、キリスト)との決定的な出会いがある」ということです。この終末についての教えは聞く人の状況によって、希望のメッセージにもなれば、警告のメッセージにもなります。
 (a) 希望のメッセージ
 本来、聖書の中で「世の終わり」が語られるようになった背景は、迫害や極度の苦しみという状況でした。「信じれば信じるほど現実には救いが見えなくなる」という状況の中で、「今この世を支配している悪の力がすべてではない」「この悲惨な現実を超えて(死さえも超えて)、神はもっと豊かな救いを(いのちを)与えてくださる」これが終末のメッセージの大切な1つの面です。
 (b) 警告のメッセージ
 他方、迫害や苦しみの中ではなく、「なんとなくいい加減に生きている」というとき、終末のメッセージは厳しい警告のメッセージになります。最終的に神に出会い、神の目から見たときに何が本当に価値あるものなのかが明らかになる(この神の判断を「裁き」と言うのです)。今わたしたちが求めているもの、大切にしているものは、神の目から見たら正しいのかどうか、そのことを強烈に問いかけるのです。
 きょうの福音の中にもこの両方の面があります。わたしたちは自分の状況をどう感じているでしょうか。そこからこのメッセージをどのように受け取ることができるでしょうか。

  (3) 「目を覚ましている」という言葉は、考えてみると少し分かりにくいところがあります。「泥棒に入られないようにいつも警戒している」(39節)と言うたとえは分かりやすいのですが、そうすると、来るべき神の国が「災い」であるかのように聞こえてしまう恐れがあります。むしろ「目を覚ましている」というとき、「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている」(36節)というイメージが大切でしょう。この僕(しもべ)は、主人が来るのを心から待ち望んでいます。主人のほうにいつも心を向けているのです。ルカ21章36節には、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」という言葉があります。祈りとは何よりも心を神に向けることです。自分の思いや、反省や、願いを自分の心の中でどうどう巡りさせているのが、祈りではありません。それらを突き抜けて心を神に(イエスに)向けていくこと。ルカ福音書の「目を覚ましていること」とはそういうことだといったらよいかもしれません。わたしたちにとって「目を覚ましている」とはどういうことでしょうか。

  (4) 37節の「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」というのは非常に印象的な姿です。常識的には、いくら僕がよくやったからと言って、そこまでする主人はいないでしょう。しかし、イエスの姿はまさにそうだったと言えます。マルコ10章45節に「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」という言葉がありますが、イエスの生き方は、主でありながら人々に仕える生き方そのものでした。僕にとって主人から給仕されることが喜びなのではありません。むしろ、仕えることを喜びとする主人(イエス)の心を、本当に深く受け取ることこそが大切なのだと言えるのではないでしょうか。

  (5) 35-40節がすべての弟子のあるべき態度を語っているのに対して、41節以下は教会の中の特定の人々、責任を負った人々のことを語っているように聞こえるでしょうか。確かに「主人が召し使いたちの上に立て・・・(た)・・・管理人」というのは教会の指導者のことだと考えるのが一般的な解釈です。
 ところで、彼らはなぜ厳しく責任を問われるのでしょうか。立場上、大きな責任を負わされているから、というだけでなく、「彼らは主人の思いを知っているはずだ」という点は大切でしょう。そうだとすれば、ここで語られている管理人のあり方についての教えは特定の指導者だけでなく、「主人の思いを知っている」すべての人にかかわる教えだとも考えられます。「多く与えられた者」「多く任された者」というのも、わたしたち一人一人が自分自身のことだと受け取ってみてはどうでしょうか。




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Posted on 2019/08/02 Fri. 09:30 [edit]

category: 2019年(主日C年)

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年間第18主日 (2019/8/4 ルカ12章13-21節)  

教会暦と聖書の流れ


 きょうの箇所も、ルカ福音書の「エルサレムへの旅の段落」(ルカ9章51節~19章44節)の中の箇所です。この旅は十字架を経て神のもとに至る旅ですが、この中でルカ福音書は神の国について語るイエスの言葉を数多く伝えています。
先週の箇所からは少し飛んでいますが、その間(ルカ11章14節~12章12節)にある話の多くは、マタイやマルコと共通するので、他の年に読まれています。きょうの話はルカ福音書だけが伝えている話です。


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  (1) 「ラビ(先生)」と呼ばれるユダヤ人たちの宗教指導者は、宗教的な教えだけでなく、実際の人々の生活の中での相談に乗ったり、もめごとの裁定にもかかわったようです。遺産分配のことでイエスに訴えた人は、そのようなラビの1人としてイエスを見ていたのでしょう。イエスの言葉の内容についてはほとんど何も説明する必要がないでしょう。できるだけ素直にイエスの語りかけを、問いかけを、呼びかけを聞けばよいのです。たぶん、そこには今のわたしたちの生き方への強烈なチャレンジが感じられるでしょう。わたしたちの多くにとって、「お金」の問題や、人と人とのトラブルの問題は切実だからです。

  (2) 富を蓄えることへの警告という点では、申命記の次の言葉が思い出されます。
「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖(ふ)え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない 乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。」(申命記8章13-18節)
 紀元前13世紀、神によってエジプトの奴隷状態から救い出されたイスラエルの民は、40年の荒れ野の旅を経て、約束の地を目の前にしたヨルダン川東岸にたどり着きました。申命記の中心部分は、指導者であるモーセがそこにあるネボ山の山頂に立ち、約束の地を見渡しながら語る説教です。モーセは民に40年の荒れ野の旅を思い起こさせ、その意味を解き明かし、約束の地に入ってからどう生きるべきかを語ります。そこにある一つの危険が「富を蓄えること」でした。荒れ野では、毎日ぎりぎりの食べ物しかなかった。でもだからこそ一日一日神によって養われていることを感じないわけにはいかなかった。しかし、富や作物を蓄えると「主を忘れる」というのです。
 わたしたちの中にも、本当に苦しいとき、どん底の中でこそ神に支えられたという体験があるかもしれません。そしてそれをいつの間にか忘れているのかもしれません。

  (3) 自分の力でなんとかしよう、人間の力ですべてをうまくやっていこう、とわたしたち現代人は考えます。そのためには、やはりお金が必要だ、ということにもなります。確かにこの世界の中では、金持ちのほうが高度な医療を受けられるし、発展途上国の人には充分な医療が行き届かない、というような現実があります。まさに「人の命は財産によってどうすることもできる」、というような世界もあるのです!
 しかし、もし人間の力やお金の力ですべてがなんとかなると感じているならば、おそらく「神は不要」になるでしょう。人間の無力さや限界を知るということはそういう意味で大切なことです。おそらく、人間にとってもっとも顕著に「無力さ・限界」を感じるのは、死に直面したときです。そして「今夜、お前の命は取り上げられる」・・・いつ自分の死が訪れるか、本当はだれも知らないのです。その時、富は頼りにならない、本当に問われるのは「神の前に豊かになる」ということなのだ、とイエスは語ります。

  (4) 末期ガンの人々のケア(ターミナル・ケア)の中で「生命の質(quality of life)」ということがよく語られるようになりました。迫り来る死を前にしたときに、いのちの「量(長さ)」ではなく、「質(残された時間をどのように充実して生きるか)」が問われるのです。
 「趣味の世界に生きる」とか「大自然の美に触れる」など、人生を豊かにするものはいろいろあります。しかし、突き詰めて言えば、人間を超えたもの・目に見えないものとのつながりを生きること、そして、人と人との愛のつながりを生きることこそが、本当に豊かないのちを生きることであり、そのいのちは肉体の死をも越えるものである、とわたしたちキリスト者は信じています。自分の肉体の中にある孤立した生命のイメージではなく、神とのつながりの中にあるいのち、人との間の愛の交わりの中にあるいのちを感じること、それを「スピリチュアルspiritualな感覚」と言うこともできます。
 イエスご自身が、十字架の死に向かう中で、そのような「いのちの質」を極限まで生き抜かれました。「神の前に豊かになる」いのちとは、イエスの十字架の中にあるいのちだと言ったらいいのかもしれません。

  (5) きょうの箇所の発端は「兄弟との間のもめごと」でした。わたしたちの周囲にもよくある問題でしょう。しかし、ぎりぎりのところで問われるのは、損得ではなく、その人と共に生きることを喜べるかどうかということではないでしょうか。死を前にして、家族や友人との和解を望んだ人、そして実際に和解することのできた人の姿は感動的です。逆に、その和解を妨げるものが「貪欲」だと言っても良いのではないでしょうか。
 わたしたち一人一人の中に、おそらく両方の面があります。
 わたしの中にある「貪欲」とはどんなものでしょうか。
 わたしの中にある「神の前での豊かさ」とはどんなものでしょうか。




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Posted on 2019/07/26 Fri. 08:30 [edit]

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年間第17主日 (2019/7/28 ルカ11章1-13節)  


教会暦と聖書の流れ


 ルカ福音書のエルサレムへの旅(神の国について語り続ける旅、十字架を経て天に向かう旅)の段落の中の箇所です。「祈り」についての教えですが、イエスの時代のユダヤ教の各グループには、それぞれのグループの特徴を表す典型的な祈りがあったようです。ルカはこの「主の祈り」をイエスに従う者の生き方を表す祈りとして考えているようです。


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  (1) 「主の祈り」は新約聖書の中に2つの形で伝えられています。この箇所と、もう1つはマタイ6章9-13節です。イエスが教えた1つの祈りが繰り返し唱えられ、アラム語からギリシャ語へ翻訳されていく中で、2つの形になったと考えられます。
 大切なのは、わたしたちがこの祈りをどのような思いで祈っているか、この祈りがどのようにわたしたちを支え、導いていてくれるかということでしょう。
 ただ、主の祈りの言葉はけっして分かりやすいとも言えませんので、ここではいくつかの言葉を簡単に解説しておきます。
この祈りの最大の特徴は、「父よ」という単純な呼びかけです。マタイにある「天におられるわたしたちの」は礼拝の中で唱えられていくうちに付け加えられた言葉でしょう。「父よ」。これはイエスご自身が神に祈ったときの言葉でした。マルコ福音書のゲツセマネでの祈りでは「アッバ、父よ」とアラム語も伝えられています。「アッバ」は子どもが父親を呼ぶときの言葉です。信頼を込めてイエスは神に向かってこのように呼びかけました。ルカ福音書の中では、十字架のイエスの祈りが印象的です(23章34、46節)。

  (2) 「み名が崇(あが)められますように」は直訳では「あなたの名が聖とされますように」です。「名」は単なる「呼び名」ではなくそのものの本質を表します。「神の名」とは「神ご自身」の意味なのです。イザヤ29章23節のように「人々が聖とする」ととれば、「人々が神を神として認めるようになる」という意味になりますが、エゼキエル36章23節のように「神がご自分の名を聖とする」という意味にもとれます。この場合は、「神が救いの力を示すことによって、ご自分が神であることを現す」という意味になります。
 「み国が来ますように」は「神の心がすべてにおいてすべてとなりますように」ということだと言ってもよいでしょう。マタイ福音書は「み心が天に行われるように地にも行われますように」ということばを付け加えていますが、これは「み国が来ますように」を言い換えたものだと考えることができます。

  (3) 「必要な糧」。「糧」は直訳では「パン」ですが、ここで生きるために必要なすべてを願っています。なお、ルカが「毎日」というところをマタイでは「今日」と言います。
 「わたしたちの罪を赦(ゆる)してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」の祈願はマタイと少し違います。マタイのほうを直訳すると「わたしたちも自分に負い目のある人をゆるしましたから」となります。現在カトリック教会で用いられている訳は、後半が「わたしたちも人をゆるします」となっていて、前半とのつながりがはっきりしないかもしれません。これは「ゆるす」と宣言しているのではなく、「ゆるしてください。そうすれば、わたしも人をなんとかゆるしたいし、ゆるすことができるようになるからです」というニュアンスで受け取ればよいのではないでしょうか。
 「わたしたちを誘惑に遭(あ)わせないでください」は切羽詰まった叫びのような終わり方です。マタイはこれに「悪(悪い者)から救ってください」という言い換えを付け加えて、礼拝にふさわしい形を整えています。「誘惑に遭わせないで」という訳も可能ですが、むしろ「誘惑に陥らせないでください」のほうがよいでしょう。誘惑が来ることは避けられない(ルカ17章1節)、ただその中で、神から離れてしまわないように守ってください、という祈りだと受け取るべきではないでしょうか。

  (4) 5-8節のたとえ話は、「しつように頼む」ことを勧めています。マタイの教会はユダヤ人キリスト信者の共同体でしたから、祈ること自体はよく知っていて、その祈りが表面的・偽善的にならないように教える必要があったのに対し、ルカの教会は異邦人の教会ですから祈りの必要性そのものを教える必要があったのでしょう。そこで「とにかく祈りなさい。神は必ず聞いてくださるのだ」ということが強調されています。9節「求めなさい。そうすれば与えられる…」は有名なことばです。ここで「与えられる」は「神が与えてくださる」の意味です。祈りに魔術的な効果があるというよりも、神が必ず祈りを(人間の叫びを)聞いてくださるということが大切なのです。

  (5) わたしたちの中には、「祈ったら自分の思いがかなえられた」という体験もあるかもしれませんが、「祈っても祈っても自分の願いはかなえられなかった」という体験もあるでしょう。でもそれだけでなく、「祈って自分の思い通りにはならなかったけれど、何かが変わった」という体験もあるのではないでしょうか。13節では「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われています。それはどういうことでしょうか。3つのヒントだけ示します。
(a) 聖霊は「神の力」です。祈りの中で与えられるのは神からの力だと言えるかもしれません。その力で困難を乗り越えることができた、という体験があるかもしれません。
(b) 聖霊は「神と人・人と人とをつなぐ力」です。祈りの中で神とつながっていること、人と人とがつながっていることを感じ、励まされたという体験もあるかもしれません。
(c) マタイ7章11節では、「天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」という言葉が伝えられています。自分が思うものとは違っても、結局一番「良い物」が与えられたという体験も、わたしたちの中にあるのではないでしょうか。
 このように「祈りの中で何かが与えられた」「自分が変えられた」という体験を分かち合うことができれば、本当にすばらしいことでしょう。




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Posted on 2019/07/19 Fri. 09:46 [edit]

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