福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
年間第29主日(2020/10/18 マタイ22章15-21節) 
教会暦と聖書の流れ
マタイ福音書では、イエスが当時の指導者たちやファリサイ派を批判した「二人の息子」「ぶどう園と農夫」「婚宴」のたとえ話に続いて、この場面になります。マタイ21章45-46節には、「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとした」という言葉がありました。イエスと彼らの対立はもはや決定的になっていて、ここに登場するファリサイ派の人々は明らかな敵意をもってイエスに近づいて来ます。
福音のヒント
(1) 紀元前63年にローマの将軍ポンペイウスがエルサレムを占領して以来、パレスチナはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国はユダヤ人の宗教的自由を認めながら、税を徴収することによって支配地域からの利益を得ようとしていました。しかし、ユダヤ人にとって徴税の問題はただ単に経済的な圧迫という問題ではなく、宗教的な信念の問題でした。「神が王である」と信じるなら、ローマ皇帝を王と認めることはできないし、そのローマ皇帝の徴税も認められないという考えが当時のユダヤ人にはありました。実際、イエスが生まれた頃、この問題のためにローマ帝国に対するユダヤ人の反乱も起きています。
(2) 「ファリサイ派」は律法を厳格に守ろうとしていた宗教熱心な人たちでしたから、皇帝への納税を原則的に認めるわけにはいきませんでした。しかしもちろん、現実には納税せざるをえなかったのです。一方の「ヘロデ派」は宗教的なグループではなく、政治的な一派です。ローマによって立てられたヘロデ王家を支持する人たちですから、ローマ帝国への納税を当然のことと考えていました。本来、ファリサイ派とヘロデ派は相容れない立場でしたが、ここではその両者が一緒にイエスのもとに来ます。イエスが皇帝への納税を認めれば、ファリサイ派が「神に背く者」という理由でイエスを追及することができ、イエスが納税を認めなければ、ヘロデ派が「ローマ皇帝への反逆者」として訴えることができるのです(ルカ23章2節参照)。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです」(16節)。これは言葉遣いとしてはていねいですが、実際には「いい加減な答はゆるさないぞ」という脅(おど)しです。
(3) イエスは納税のためのローマの銀貨を持ってこさせます。「デナリオン銀貨」にはローマ皇帝の肖像と銘(めい)が刻まれていました。その銘は「ティベリウス・カエサル・神聖なるアウグストゥスの子」で、ローマ皇帝を神格化していました。ちなみに「カエサルCaesar」は古代ローマの共和政を終わらせ、独裁支配を実現した人物で、その後継者がローマ帝国の初代皇帝となるアウグストゥスです。ティベリウスはアウグストゥスの子で第2代皇帝ですが、「カエサル」は「皇帝」の称号になっていたのです。
さて、イスラエルの宗教は偶像崇拝禁止という点で徹底していましたから、このデナリオン銀貨は本来なら神殿に持ち込むことが許されないものでした。しかし、実際には誰もがその硬貨を使わざるを得なかったし、神殿の中にも持ち込まれていました。実際にデナリオン銀貨を持ち、使っていながら、納税の是非を議論している彼らの矛盾を指摘し、イエスは罠(わな)を巧みにすり抜けた、と言うこともできるでしょう。そもそも相手の議論はイエスをおとしいれるための議論なので、まともに答える必要はないのだとも言えます。
(4) 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とはどういう意味でしょうか。このイエスの言葉はあまりに短いので、さまざまな解釈の可能性がありえます。「イエスは政治と宗教の領域を分け、政治問題には関わらないようにされた」というのもその一つですが、このような考えはあまりにも近代的な考えで、古代にはおよそ考えられないことです。近代になってから「政治の領域」と「宗教の領域」を分ける考えが現れますが、それ以前は、人間の現実すべてが神との関係の中にあるというのが当然でした。なお、人間の現実には何一つわたしたちの信仰と関係ないものはない、ということは現代の、第2ヴァティカン公会議以降のカトリック教会の姿勢でもあります(「現代世界憲章」第1項参照)。これは特定の政治権力と特定の宗教団体が結びつかないという意味での「政教分離の原則」とはまったく別の問題です。
(5) 皇帝の像が刻まれたデナリオン銀貨は、皇帝のものと考えられていました。では神の像はどこに刻まれているか、それは一人一人の「人間」だと考えることができるかもしれません。創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された」とあるからです。つまり、イエスは「皇帝の像が刻まれた硬貨は皇帝に返せばよい。しかし、神の像が刻まれた人間は神に帰属するものであり、神以外の何者にも冒(おか)されてはならない」と言っているのではないか。興味深い解釈ですが、残念ながら、これが唯一の正しい解釈だという根拠はそれほど強くありません。
(6) もしイエスが「皇帝のものは皇帝に」とだけ言ったのであれば、単純に皇帝への納税を認めただけのことです。しかし「神のものは神に」と付け加えることによって、イエスがもっと根本的なことに人々の目を向けさせているということは確かなのではないでしょうか。
ファリサイ派が問題にしたのは、人間の現実とは無関係な「神学的問題」でした。彼らは自分たちも解決できない神学上の問題を持ち出してイエスを陥(おとしい)れようとしたのです。しかし、イエスは現実の人間の苦しみを忘れてそのような神学論争に没頭していたファリサイ派の姿勢を批判してきました。「納税問題が神の問題なのか? 神の目から見て、本当に大切な問題はなんなのか」イエスはそう問いかけているのではないでしょうか。「神のものは神に」=「あなたは何が本当に神のもので、何を神に返すべきものだと思っているか」それは、わたしたち一人ひとりに向けられた問いでもあるはずです。
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年間第28主日 (2020/10/11 マタイ22章1-14節) 
教会暦と聖書の流れ
年間第26主日の「二人の息子」のたとえ(マタイ21・28-32)や第27主日の「ぶどう園と農夫」のたとえ(マタイ21・33-43)同様、これも神殿の境内で、当時のユダヤ人の指導者やファリサイ派の人々を前にして語られたたとえ話です。前の2つのたとえ話と同じように、神の国への招きを受け入れなかった人々が批判されています。
福音のヒント
(1) ルカ14章15-24節によく似たたとえ話がありますが、ルカでは、エルサレムへの旅の途中、イエスがファリサイ派の人の家に招かれたときの話になっています。ルカの内容のほうがイエスの生前の状況に合っていると言えるでしょう。マタイでは、後の時代の展開に合わせてさまざまな要素が付け加えられているようです。マタイの特徴は次の点です。
(a) ルカでは「ある人が盛大な宴会を催す」というだけですが、マタイでは「ある王が王子のために婚宴を催す」という話になっています。「婚宴」は聖書の中で、神と人とが一つに結ばれる終末的な救いのイメージであり、マタイはこの点を強調しています。「ある人」が「王」となっているのも、最後の裁き(11-14節)のイメージとつなげるためでしょう。
(b) ルカでは「招いておいた人々」のもとに僕(しもべ・単数形)が1回だけ遣わされますが、マタイでは複数の僕が2回遣わされています。ここでマタイは、旧約の預言者たちとキリストを信じる教会による2つの呼びかけを考えているようです。
(c) ルカでは、招いておいた人々が拒否したのを知って、怒った主人はすぐに他の人々を招きますが、マタイでは、人々はただ拒否するだけでなく遣わされた「家来を捕まえて乱暴し、殺して」しまいます。そして、怒った王は「軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」という過激な展開になっています。これは前のたとえ話(先週の福音)の展開とよく似ています(マタイ21章35,41節)。マタイは、紀元70年に起こったエルサレムの滅亡を、キリストを受け入れなかったユダヤ人に対する神の罰のように見ているのでしょうか。だとすると、ここでも先週の話同様、マタイはたとえ話の中に現実の歴史的出来事を読み込んでいることになります。
(d) ルカではその後、2回の招きがあります。まず貧しい人や障害者が招かれますが、それでもまだ席があるので、主人は「無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言います。これはイエスによる神の国への招きを連想させます。一方、マタイでは1回だけで「善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった」となっています。マタイは教会に招かれた人々のことを考えているようです。
(e) 11-14節はルカにはありません。これについては後ほど考えましょう。
(2) このたとえ話の中で、なぜ招かれた人々は来ようとしなかったのでしょうか。マタイでは5節に「一人は畑に、一人は商売に出かけ」とあるだけですが、ルカ14章18-20節では、「最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った」というように、詳しい理由が語られています。彼らは嫌だとは言っていません。でもそれ以上に優先することがあると考えたようです(断る口実を見つけることはいくらでもできるのです)。彼らは結局、招かれたことの素晴らしさ・ありがたさを本当には感じていなかったのだと言わざるをえないでしょう。今のわたしたちは神の招きをどう感じているでしょうか。
(3) ルカでは貧しい人や障害者が招かれるところに特徴がありますが、マタイは「『見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来た」(9-10節)と言います。ここには、マタイの教会についての見方が反映しているのでしょう。教会とは「良い麦と毒麦」が共存している場(マタイ13章24-30節)なのです。18章でも「迷った羊」である罪びとをいかに取り戻すか、罪を犯した兄弟をいかにゆるすか、ということが大きなテーマでした。マタイ福音書の著者が、徴税人マタイであったということを現代の学者は疑問視しますが、この福音書の著者自身が「自分はゆるされた罪びとである」という意識を持っていたと考えると分かりやすいかもしれません。
(4) 11節以下で、町の大通りからたまたま連れてこられた人が「礼服を着ていない」といって主人に責められるのはどう考えても不自然です。この礼服のたとえは本来、10節までのたとえとは別の話だったものをマタイが結び合わせたのでしょう。マタイにとって「罪びとも招かれている」ということの素晴らしさは確かです。しかし同時に「この素晴らしい招きにふさわしく応えるか、否か」ということも、決して忘れてはならないもう一つの大きなテーマなのです。
それはただ単に倫理的に立派な生き方をするというようなことでしょうか。むしろ、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5章44-45節)とあるように、罪びとをも愛する神の心に応えて生きることなのではないでしょうか。つまり、ここで言う「礼服」とは、神の愛を受けて人を愛することだと言えるでしょう。マタイ福音書はイエスの最後の説教の中でそのことを明確に示しています。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章35-36, 40節)。
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年間第27主日 (2020/10/4 マタイ21章33-43節) 
教会暦と聖書の流れ
先週の「二人の息子」のたとえに続き、イエスは神殿の境内で、祭司長や民の長老といった当時のユダヤ人の指導者たちに向けて、この「ぶどう園と農夫」のたとえを語っています。ぶどう園で働いていた農夫たちが、収穫を受け取りに来る主人の僕(しもべ)にひどいことをし、主人の息子を殺してしまう、というこのたとえ話は、迫り来るイエスの受難を予感させるものだとも言えるでしょう。
福音のヒント
(1) このたとえ話はマルコ12章1-11節、ルカ20章9-18節にもありますが、細部は少しずつ異なっています。マルコやルカと比べてみると、マタイの特徴がいくつかあります。マルコ・ルカでは主人は3人の僕(しもべ)を3回に分けて送っていますが、マタイでは複数の僕たちが2回に分けて送られています。マタイは旧約の預言者たちを前期(ヨシュア記〜列王記上下)と後期(イザヤ書以下)に二分しているのではないかとも考えられます。また、最後に送られる息子について、マルコやルカでは「愛する息子」という特別に神の子イエスを思わせる言葉が使われていますが、マタイはただ「わたしの息子」と言います。もちろんマタイでもこの「息子」はイエスを表し、それが当然過ぎるのであえて強調しなかっただけかもしれません。なお、どの福音書でもこの息子が「ぶどう園の外」で殺されているのは、イエスが当時エルサレムの城壁の外にあったゴルゴタの丘で処刑されたことを反映しているようです(ヘブライ13章12節参照)。
43節の「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」はマタイだけが伝える言葉で、明らかに「あなたたち」はユダヤ民族を、「ふさわしい実を結ぶ民族」は異邦人を指しています。しかし、これは福音書の文脈には合いません。福音書ではイエスが批判しているのはユダヤの指導者たちだからです。マタイは伝承に手を加えて、新しい意味を見いだしているのだと言わざるをえないでしょう。
(2) 42節の旧約聖書の引用は、詩編118編22-23節からのものです。マルコ福音書では、イエスを拒否したユダヤの指導者たちに代わり、貧しい民衆が神の国を継ぐようになった、ということを表しているように読めます。しかし、この詩編の句は、新約聖書の他の箇所で復活したイエスに当てはめられています(使徒言行録4章11節、Ⅰペトロ2章7節参照)。初代教会の中で、イエスこそ「人に捨てられ、神に選ばれた石」と考えられたのは当然でしょう。マタイもここでイエスの死と復活を考えているようです。
なお、文脈を抜きにしてこの詩編の言葉を味わうこともできるでしょう。「人に捨てられ、神に選ばれる」ということはわたしたちの体験の中にもあることではないでしょうか?
(3) 実は、きょうの箇所に続いて44節には「この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」という言葉があります。写本によってはこの言葉のないものも多いので、本来マタイにはなく、ルカ20章18節から転用された可能性もあります。とにかく、これは終末における裁きを表す言葉でしょう。
以上すべてのことから、マタイは(44節も含めて)、このたとえ話の中に「救いの歴史」全体を見ていると考えることができます。神は旧約時代に預言者たちを遣わしたが、イスラエルの民は彼らを受け入れなかった(34-36節)。最後に神はご自分の子を遣わしたが、このイエスも迫害され、殺された(37-39節)。しかし、神はイエスを復活させ、救い主として立てられた(42節)。そして神の救いはユダヤ人ではなく異邦人に与えられるようになった(43節)。イエスは最後にすべての人を裁くために来られる(44節)。これがマタイの見ている「救いの歴史」の内容だと言えるでしょう。
(4) 冒頭33節の「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」は、イザヤ5章(この日のミサの第一朗読)を思い起こさせます。
「1 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒(さか)ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。3 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。4 わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか・・・」
この言葉は、主人(神)がすべてを配慮し、はじめから整えてくださっていたのだ、ということを印象付けています。
(5) それなのに、なぜ農夫たちはこれほど残虐な行為に走ってしまったのでしょうか。彼らは主人がずっと不在だったことから、いつの間にか、主人から与えられたものを、自分の力で得たもののように思い込み、主人からゆだねられ、管理をまかされたものを、自分の所有物だと勘違いしてしまったのではないでしょうか。そして、「自分のものに指一本触れさせてなるものか」と感じるようになり、収穫の分け前を受け取りに来る主人の僕や息子のことを、自分たちの物を奪いに来る泥棒としか思えなくなっていったのかもしれません。イエスが戦ったのは、人々のこのような考えに対してでした。そして、この人々の姿は、実際にイエスを死に追いやった人々の姿と重なります。
それはわたしたちにとっても他人事ではないでしょう。わたしたちが「神から貸し与えられたもの」「管理をゆだねられたもの」とは何でしょうか。地球の資源や環境? 自分のお金や持ち物? 力や才能? 地位や立場、さまざまな特権? それらは皆、神がわたしたちにゆだねたものなのではないでしょうか。それをわたしたち人間は、いつの間にか、自分勝手に使ってよいものと思い込んでしまっていることがあるのではないでしょうか。
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年間第26主日(2020/9/27 マタイ21章28-32節) 
教会暦と聖書の流れ
マタイ福音書では、21章からイエスのエルサレムでの活動が始まります。神殿の境内で、イエスは祭司長や民の長老という当時の指導者たちと論争しています。この「二人の息子」のたとえ話はマタイだけが伝えていますが、マタイは、直前の箇所(23-27節)の権威についての論争で洗礼者ヨハネを「信じなかった」当時の指導者たちの姿が現れるのを受け、同じテーマの話として、このたとえ話を伝えていると考えることができるでしょう。
福音のヒント
(1) このたとえ話は、さまざまな写本を比べてみると、細かいところが微妙に食い違っています。大きく分けると2種類になりますが、1つは (a)新共同訳のように、最初に父に頼まれた息子が言葉では拒否しながら後で従い、次に頼まれた息子は言葉で承知しながら従わなかった、という順序のもので、もう1つは逆に、(b)最初の息子は言葉では承知しながら父に従わなかったが、別の息子は承知しなかったのに結局は父に従った、という順序になっています。(b)のように最初の息子が父の願いに従わなかったので、別の息子に頼んだ、というほうが論理的には自然でしょう。しかしだからこそ、写本が書き写されるときに(a)が(b)のように変わっていったとも考えられます。なお、(b)の順序は、ユダヤ人がイエスをキリストとして遣わした神のみこころを受け入れなかったので、救いが異邦人に及ぶようになった、という初代教会の理解にも合います。結局、どちらの順序が本来のものか、確実なことはわかりません。
(2) 28節から31節の「『兄の方です』と言うと」までの部分(この箇所の前半部分)だけを取り出してみると、このたとえ話は「言葉でどう応えるかではなく、行動で神に従うことが大切である」ということを教えるたとえ話だ、と感じられるのではないでしょうか。しかし、たとえ話から導き出される教えの部分(31節の「イエスは言われた」以下)によれば、このたとえ話は洗礼者ヨハネのメッセージを受け入れた「徴税人や娼婦」と、受け入れなかった「祭司長や民の長老」たちのことを表していて、行動の問題というよりも、「回心の呼びかけを受け入れるかどうか」ということがポイントになっています。このように、たとえ話自体とその後の教えが完全に一致しないと感じられるため、前半と後半は本来、別々の話だったのではないかと考える人もいます。
(3) きょうの箇所全体を一つのメッセージとして受け取るならば、注目すべきなのは、29節と32節に出てくる「後で考え直して」という言葉でしょう。「考え直す」はギリシア語では「メタメロマイmetamelomai」で、「考え(関心)を変える」という意味の言葉です。一般的には「メタノエオーmetanoeo(悔い改める)」のほうがより根本的な「回心」を表しますが、ここでは洗礼者ヨハネのメッセージとの関連で「メタメロマイ」が使われていますので、「メタノエオー」と同じような意味で使われていると言ってもいいでしょう。本当に神の呼びかけを深く受け取るかどうか、そして、自分を変えることができるかどうか、がここで問われているのです。
(4) 「子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい」(28節)という言葉は、先週の「ぶどう園の労働者」のたとえ話(マタイ20章1-16節)を連想させるかもしれません。あのたとえ話で夕方まで誰からも雇ってもらえなかった人々の姿を思い出すならば、ここで父が願っているのは、息子たちに辛い労働をさせて苦しめることではなく、父のもとで生きる喜びにすべての人を招きたいということだと言えるのではないでしょうか。
徴税人と娼婦は当時のユダヤ人社会の中で、罪びとの代表とされていました。周囲の人々から神の救いに程遠い人間と考えられ、自分自身でも救われる可能性はないと思っていたような人々でした。洗礼者ヨハネのメッセージは、このような人々に希望を与えました。「すべての人は今回心しなければならない」ということは「どんな人でも今回心すれば救いにあずかることができる」ということでもあるからです。洗礼者ヨハネが示した「義の道」(32節)とは回心して、洗礼を受ける道でした。正しい行いをするという以前に、何よりも自分の罪深さを認め、神に立ち返る道です。イエスもこれこそが神との正しい関係のあり方だと言うのです。
(5) 一方、当時の社会・宗教の指導者たちはヨハネのメッセージに心を動かされませんでした。彼らは洗礼者ヨハネの回心のメッセージを悪いものだとは思わなかったでしょう。しかし「自分たちはちゃんとやっている」と考えた人々は、洗礼者ヨハネの回心の呼びかけを自分たちに向けられたものとして真剣には受け取らなかったのです。「回心すべきなのは自分たちではなく、他の連中だ」と考えたとき、彼らは自己満足と優越感の世界に陥り、生ける神との関係も、人と人とのつながりも見失ってしまったと言わざるをえません。
このたとえ話の中で、弟は「承知しました」と言いながら、なぜ出かけなかったのでしょう。理由はどこにも書いてありませんが、やはり、父親の呼びかけをまともに受け取らず、本気で父親とともに生きようとはしていなかったからなのかもしれません。
(6) 「あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(32節)の「それ」は「徴税人や娼婦たちは信じた」ということです。ここから考えると、当時の指導者たちには2つの回心のチャンスがあったということになるでしょう。1つは洗礼者ヨハネが回心を呼びかけたこと。もう1つは罪びとのレッテルを貼られ、神から断ち切られたようになっていた人々が洗礼者ヨハネのメッセージに応え、神に対する信頼と希望を取り戻していった姿を見たことです。
わたしたちにとっても神からの呼びかけはいろいろな形で来ているはずです。聖書の神のことばを通して神はわたしたちに呼びかけています。と同時に、今この世界に起こるさまざまな出来事も神からわたしたちへの呼びかけなのではないでしょうか。
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年間第25主日(2020/9/20 マタイ20章1-16節) 
教会暦と聖書の流れ
このぶどう園の労働者のたとえ話はマタイ福音書だけが伝えるものです。この箇所の直前19章30節と結びの20章16節には、「先の者は後になり、後の者は先になる」という同じ言葉があり、これがこのたとえ話のテーマを示す枠のようになっています。
福音のヒント
(1) マタイ19章27節で、ペトロはイエスに向かってこう言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」。これに対してイエスは弟子たちに大きな報いを約束しますが、同時に語られるのが30節の「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という言葉です。そこから考えると、今日の福音のたとえ話は弟子たちの間の問題(最初からよく働いた弟子とそうでない弟子の話)に聞こえますし、マタイ福音書がそういう意味でこの話を伝えているのも事実でしょう。
ただし、イエスがたとえ話を語った本来の状況は必ずしも福音書どおりとは言えません(A年年間第15主日の「福音のヒント」参照)。本来は、ファリサイ派の人や律法学者に向けて語ったと考えることもできるでしょう。だとすれば「自分たちは神に忠実に生きてきた」と考えるファリサイ派は朝早くから働いた人で、イエスのメッセージを聞いて回心した徴税人や娼婦、病人や貧しい人が最後の一時間しか働かなかった人ということになります。
(2) 多くの人はこのたとえ話を読むと、主人のやり方は不正だ、と感じるのではないでしょうか。残業手当のつかない長時間労働や不当な賃金格差というような問題がこの社会にはありますが、労働に対してはそれに見合う正当な賃金が支払われるべきです。その観点からすれば、この主人のやり方は確かに不当だと言わざるをえないでしょう。
しかし、現実の社会の中にもそれとは違う面もあります。たとえば、企業の都合で正社員が減らされ、非正規雇用が増えているというような現実。その中で短時間しか働けず、低賃金に甘んじている人も大勢います。いろいろな事情でまったく仕事のない人もいます。「だれも雇ってくれないのです」(7節)という叫びは、わたしたちの身近にもあるのではないでしょうか。マザーテレサは「現代の最大の不幸は、病気や貧しさではなく、いらない人扱いされること、自分はだれからも必要とされていないと感じることだ」と言いました。「だれも雇ってくれない、だれからも必要とされていなかった」という人の立場からこのたとえ話を読めば、これはまさに「福音=良い知らせ」そのものです。「1デナリオン」は当時の1日の日当であると言われますが、それは同時に「人が1日生きていくために必要なもの」だとも言えます。この主人は、1時間しか働かなかった人にも「同じように払ってやりたい」というのです。神はすべての人が生きることを望まれ、すべての人をいつも招いてくださる方だからです。
(3) 夕方になって賃金を支払う際、主人は最後の人から順番に賃金を渡すようにします。これは19章30節、20章16節の「後の者は先に」という「枠」のような言葉に対応しますが、「先」「後」という順序が本当の問題ではなく、もらう額のほうがもちろん本当は問題であるはずです。
ただ、このたとえ話では、朝早くから働いた人が他の人に1デナリオンずつ渡されるのを見ていたことが話の展開上、重要になっています。もし朝から働いた人が先に賃金をもらえば、彼らは初めから1日1デナリオンの約束だったのですから、それをもらって満足して帰ったことでしょう。しかし、彼らは、たった1時間しか働かない人が1デナリオンもらったのを知ってしまいました。そこで自分たちは当然もっと多くもらえるだろうという期待を抱くことになり、不平を抱くようになったのです。
主人は、最初からずっと自分のために働いたこの人々に何かを伝えたいがために、わざとこのようにしたのだとも言えるでしょう。実際、イエスはファリサイ派であれ、自分に忠実な弟子たちであれ、「自分はこんなに苦労して働いてきた」と思っている人に向けてこのたとえを語ったはずです。一生懸命働いてきたことが問題であるはずはありません。ただ「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」という主人(神)の心を分かってほしい、と語りかけているのではないでしょうか。
ルカ15章の放蕩息子のたとえで、父親が帰ってきた弟息子のために宴会を催したのを見て、兄のほうが不平を言ったとき、その兄息子に向かって父が言う言葉も良く似ています。
(4) 「神は人の働きに応じて報いを与える」という考え方(応報思想)をイエスは100%否定してはいません。しかし、きょうのたとえ話のように「神はどんな人にも必要な恵みを与えてくださる」ということをイエスが強調しているのも事実です。そのことを表す典型的な言葉は「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5章45節)でしょう。当時の人々が常識的に持っていた応報思想の問題点をイエスは見抜いていました。第一の問題は、人間の働きばかりに目が行ってしまい、人を生かす神の大きな愛を見失うことです。もう一つの問題は、人と人との比較にばかり目が行ってしまい、人をさげすんだり、逆に人に嫉妬する世界に落ち込む、ということです。きょうの箇所で朝早くから働いた人の陥った問題はまさにこれでした。
わたしたちは、「人と人とを比較することはあたりまえ」「競争原理はよいことだ」という社会に生きています。そして、他人と自分を比較して「自分のほうがよくやっているのに認められない」とか、「あの人は自分より怠けているのにいい思いをしている」というようなことをいつも気にしています。逆に、ある場合は「自分は(人に比べて)何もできないからダメだ」と落ち込んでしまうこともあります。きょうの福音は、そういうところからわたしたちを解放し、もっと豊かな生き方へとわたしたちを招いているのではないでしょうか。
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