福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

復活節第3主日(2016/4/10 ヨハネ21章1-19節)  


教会暦と聖書の流れ


 毎年、復活節第2、第3主日の福音では復活したイエスと弟子たちとの出会いの場面が読まれます。ヨハネ福音書は本来20章(先週の福音の箇所)で終わっていたと考えられますので、21章は後に付け加えられた部分ということになります。先週の福音もそうでしたが、復活したイエスと出会った弟子たちの物語は、遠い昔の過ぎ去った出来事ではなく、今もわたしたちの中で繰り返される出来事として読むことができます。


福音のヒント


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(1) 「ティベリアス湖」はペトロたちがイエスの弟子になる前に漁師をしていたガリラヤ湖の別名です。復活したイエスと出会った弟子たちは、20章21節で「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われていたのに、ここでまた漁師の仕事に戻っているのは不自然な感もあります。登場する弟子たちの名前からするとほとんど同じ弟子たちのようですが、先週の箇所とつなげて読むよりも、復活したイエスとの出会いを伝える別の物語として読んだほうが良いかもしれません(14節の「3度目」という言葉にもかかわらず、これが弟子たちにとって初めての出会いであるようにも感じられます)。イエスが十字架で死んでしまった後、失望し、故郷に帰り、以前の生活と仕事に戻っていった弟子たちがいたのでしょうか。イエスに希望をかけていたが、結局ダメだった。その上、漁をしてもうまくいかない。ここには彼らの大きな失意を感じることができるでしょう。
 「不思議な大漁」の話は今年の年間第5主日に読まれたルカ福音書5章1-11節にもありました。それはイエスの活動の初期の話で、ガリラヤ湖の漁師であったペトロたちがイエスの弟子になっていくきっかけとなった出来事でした。きょうのヨハネの箇所はもちろん、復活後の出会いの物語です。この2つの記事がどのように関連しているかはよく分かりません。ただ、失望と落胆の中でイエスに出会い、喜びと希望を取り戻していったという体験は、イエスの生前にも、そして復活後にも何度もあったことなのでしょう。


(2) 4節にあるように、復活したイエスは一目見ただけではそれと分からない姿だったようです。「イエスが生きている、わたしたちと共にいてくださる」ということはいつも心の目が開かれなければ悟れないことなのです。イエスの愛しておられた弟子(おそらくヨハネ)が「主だ」と気づいたのはなぜでしょうか。ルカ5章にあるような不思議な大漁の出来事をかつて体験していたのだとすれば、イエスの生前に起こった出来事と目の前で起きている出来事が結びついたから「主だ」と悟ったと言えるかもしれません。「主だ」は「主がおられる」とも訳すことができます。福音書の伝える出来事が今の自分たちの現実と結びつく時に「ここに主がいてくださる」と気づくという体験は、わたしたちにもあるのではないでしょうか? (なお、8節の「二百ぺキス」は約100メートルです)


(3) 9節に「陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった」とあります。結局、イエスがすべてを前もって用意していたわけです。同時にイエスは弟子たちの働きも無駄にはしていません(10節「今とった魚を何匹か持って来なさい」)。こういう体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか?自分が一生懸命やったつもりだったのに、実はイエス(あるいは神)のほうがすべてを整えていてくれたという体験です。その中で、「自分たちの働きも決して無駄ではなかった」と感じさせられることがあったかもしれません。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」という言葉でイエスは弟子たちを食卓に招きます。13節のパンと魚は、「5つのパン」の出来事を思い出させます(ヨハネ6章参照)。聖体ともつながるイメージでしょう。


(4) 15節以下で、イエスが3度ペトロに「わたしを愛するか」と問いかけた話の背景には、イエスが逮捕されたときにペトロが3度イエスを知らないと言ったことがあります(ヨハネ18章17,25,27節参照)。
 3回のやり取りの中で「愛する」と訳された言葉は、原文のギリシア語では「アガパオーagapao」と「フィレオーphileo」という2種類の言葉です。一般的に「アガパオー」は、「神の愛」というときに使われる「本当に相手を大切にする愛」であるのに対して、「フィレオー」はどちらかというと「人間的な愛着」を表すときに使う言葉です。この箇所で厳密に区別があるかどうかは断言できませんが…。
 ここでは最初、イエスは「アガパオー」で問いかけますが、ペトロは「フィレオー」で答えます。2回目のやり取りも同じです。イエスを否認したペトロが「アガパオー」での問い(「あなたはわたしを大切にしているか」という問い)に対して、「フィレオー」(「わたしはあなたが好きです」というような意味の言葉)でしか答えられない気持ちはよく分かります。そして3度目に、イエスのほうが「フィレオー」で問いかけるのです。「あなたを大切にしています」と言い切ることができず、ただ「あなたのことが好きです」としか言うことのできないペトロを見て、イエスはペトロのところまで降りてくると言えるでしょうか。このように考えると、この対話は罪の重荷に苦しむペトロにとって、イエスの愛とゆるしを受け取る大きな体験だったと言うことができるでしょう。


(5) 「わたしの羊を飼いなさい(わたしの羊の世話をしなさい)」は、ペトロに与えられた特別な使命と見ることができるでしょう。18節の言葉、「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」はペトロの将来を暗示していますが、実際にペトロは紀元64年ごろローマで殉教したと伝えられています。もしかしたらこの言葉もわたしたちの中にある1つの実感ではないでしょうか。若い時は自分の思い通りになったことがだんだんそうは行かなくなる。望まない地位に着かされたり、病気や高齢で思うことができなくなったり、という経験は多くの人にあることでしょう。その中に「神の栄光」(19節)が現れると感じることができれば、それは幸いなことです。




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Posted on 2016/03/31 Thu. 22:24 [edit]

category: 2016年(主日C年)

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復活節第2主日 (2016/4/3 ヨハネ20章19-31節)  


教会暦と聖書の流れ


復活節各主日の福音のテーマは次のように捉えることができるでしょう。復活の主日は復活の朝の「空(から)の墓」の物語、第2、第3主日は「復活したイエスと弟子たちとの出会い」の物語、第4~第6主日は「復活したイエスは目に見ることはできないが、今もわたしたちとともにいてくださる」とはどういうことかを示すヨハネ福音書の箇所。
 復活節第2主日の福音は毎年同じで、「週の初めの日の夕方」と「八日の後」にイエスが弟子たちに姿を現したヨハネ福音書20章の箇所です(なお、この「福音のヒント」も毎年ほとんど同じです)。このような箇所は2000年程前のある日の出来事であると同時に、今のわたしたちのイエスとの出会いの物語として読むことができるでしょう。



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(1) 「弟子たちはユダヤ人を恐れて」(19節)とあります。先生であるイエスが捕らえられ、殺されていった、自分たちにもどんな迫害が及ぶか分からない、町にはイエスの残党を探して捕らえようとしている人々がいるかもしれない。弟子たちは恐怖におびえ、1つの家に閉じこもり、中から鍵をかけて災いが過ぎ去るのを待っていました。
 そこへイエスが来て、弟子たちの集いの「真ん中に」立ちます(26節もそうです)。復活したイエスは時間と空間を超越した方ですから、戸をすり抜けてきたと考える必要はありません。イエスは「あなたがたに平和」と言います。これは普通のあいさつの言葉(ヘブライ語なら「シャローム」)でもありますが、21、26節で繰り返されるところを見ると、よほど印象的な言葉だったのでしょう。
 弟子たちが求めていたのは自分たちの身の安全でした。しかし、本当の平和は鍵をかけて閉じこもるところにはありません。いくら鍵をかけていても心は恐怖でいっぱいなのです。本当の平和はイエスがともにいてくださるところから来ます。イエスが共にいてくださる、だから何も恐れることはない、これがキリストの平和です。この平和に満たされたとき、扉を内側から開いて出て行くことができるのです。ミサの最後に「行きましょう、主の平和のうちに」と言われるとき、いつも思い出したい場面です。


(2) 復活したイエスとの出会いは、弟子たちにとってゆるしの体験でもありました。「ゆるし」とは「和解、関係回復」の出来事です。父との縁を自ら断ち切ってしまった放蕩息子を、父親が再び子として受け入れること(ルカ15章11-32節)、これがイエスの語るゆるしのもっとも明快なイメージです。イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちはイエスの弟子であることにおいて失格者でした。しかし、復活したイエスは、弟子たちを責めるのではなく、再び弟子として受け入れ、新たに派遣していきます。


(3) 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)。これまで父である神から派遣された者としてイエスが地上で行なってきたことを、今度は弟子たちが行なっていくことになります。そして弱い人間である弟子たちが、この使命を果たすことができるように「聖霊」という神からの力が与えられるのです。
 弟子たちの使命の中心は「ゆるし」ですが、この使命は「互いに愛し合うこと」(ヨハネ13章34-35節、15章12節参照)と無縁ではないはずです。「ゆるし」は「愛」の典型だと言えるからです。23節の「だれの罪でも、あなたがたがゆるせば、その罪はゆるされる。だれの罪でも、あなたがたがゆるさなければ、ゆるされないまま残る」は、ゆるすもゆるさないも弟子たちの好きにしてよいという意味ではなく、だからゆるしなさい、あなたがたが人をゆるすことによって、神のゆるしがその人の上に実現するのだ、と受け取るべきでしょう。人から愛され、ゆるされることをとおして神の愛とゆるしを実感することができた、という体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。


(4) 「トマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった」(24節)。ルカ24章のエマオの弟子たちも他の弟子たちから離れていきましたが、イエスの死という出来事は、弟子たちのコミュニティーをバラバラにしてしまう出来事でもあったようです。トマスは、最後までイエスに従うという覚悟(ヨハネ11章16節参照)を果たせなかった自分に失望し、他の弟子たちにも失望して、弟子の集いから離れていたのかもしれません。しかし、このトマスにイエスが生きているという知らせが届きます。トマスにとって「主を見た」というほかの弟子の言葉は、とても信じられない言葉であったと同時に、信じれば自分の人生のすべてが変わる、という言葉でもありました。トマスは、もしそれが本当ならば自分で確かめたかったのです。だからこそ、「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」のではないでしょうか。そしてイエスはトマスを信じる者に変えてくださいました。
 トマスは弟子たちの集いの中で、弟子たちの集いの真ん中にいるイエスに出会いました。わたしたちはどこで復活のイエスに出会うことができるでしょうか。


(5) 「見ないのに信じる人は、幸いである」(29節)は、わたしたちキリスト信者すべてに向けられた祝福の言葉だと言えるでしょう。使徒たちの後の時代のすべてのキリスト信者は、「見ないで信じている者」だからです。イエスの復活を信じるとは「イエスと神とのつながりは死によって断ち切られなかった、イエスとわたしたちとのつながりも死によって断ち切られない」と信じることです。イエスの復活を信じるということは「愛を信じる」というのと似ています。人は「目に見えないものは信じない」と言い張ることもできるでしょう。愛も目に見えません。ならば愛も信じられない? しかし、「愛を信じる」こと同様、「復活を信じること」は単なる知的興味の問題ではなく、わたしたちの生き方の根幹にかかわることなのです(トマスにとってはまさにそうでした)。
 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」(31節)の原文は「信じていない人が信じるようになるため」とも「信じている人が信じ続けるため」とも取ることができます。ヨハネ福音書はいつも、すでに信じているわたしたちをイエスとのより確かな交わりへと導いてくれる書なのです。




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Posted on 2016/03/23 Wed. 22:23 [edit]

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