福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

主の昇天 (2016/5/8 ルカ24章46-53節)  


教会暦と聖書の流れ


 使徒言行録によると、復活したイエスは40日にわたって弟子たちに姿を現した後、天に上げられました(1章3-11節、第一朗読)。そこから、主の昇天の祭日は復活祭後40日目の復活節6木曜日に祝われることになりました。ただし、日本のようにキリスト教国でない国では日曜日(復活節第7主日)に移して祝われています。
 きょうの福音の箇所はルカ福音書の結びにあたります。福音書を書いたルカは、その続編として使徒言行録を書きました。この2つの書を結ぶのが昇天の出来事であり、この出来事を境にしてイエスの活動は使徒たちの活動へと受け継がれていくことになります。


福音のヒント


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 (1) ルカ24章では、エマオの弟子たちが復活したイエスに出会った話(13-35節)に続き、エルサレムで集まっていた弟子たちにイエスが姿を現わします(36節以降)。弟子たちはイエスの復活をなかなか信じられません(37,41節)。イエスは彼らの目の前で食事をし、そして言葉を語ります。こうして弟子たちは信じる者に変えられていきます。
 きょうの箇所の直前の45節に「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」という言葉があります。46節で「次のように書いてある」と言いますが、続く言葉は旧約聖書の特定の箇所の引用ではありません。旧約聖書全体がこのことを告げているということでしょう。「(聖書に)書いてある」というのはそれが神の救いの計画であることを表す表現でもあります。このことを悟るためには、イエスが「彼らの心の目を開」いてくださることが必要なのです。イエスによって心の目が開かれ、聖書の言葉を悟ることができるようになるという体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか?

 (2)「罪の赦(ゆる)しを得させる悔い改め」は、別の写本では「悔い改めと罪の赦し」となっていますが、意味に大差はないでしょう。「悔い改め」はギリシア語では「メタノイアmetanoia」で、「回心」とも訳される語です。この「悔い改め」と「罪のゆるし」はいつも密接に結びついています(ルカ3章3節、使徒言行録2章38節参照)。
 創世記2章7節に「主なる神は、土の塵(ちり)で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。ここに聖書の根本的な人間観・生命観があります。人のいのちは神によって生かされたものであり、神とのつながりを失えば人は滅びるしかありません。人間が勝手に神とのつながりを断ってしまうこと、それが「罪」です(創世記3章のアダムとエバの物語)。「罪のゆるし」とは神がご自分とのつながりを見失った人間とのつながりを取り戻してくださることです。その神のゆるしに応える人間の側の態度が「悔い改め」なのです。このことが復活したイエス(いのちの主)の「名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。これこそが、神の救いの計画です。

 (3) ルカ福音書では、イエスの活動はガリラヤから始まり、エルサレムでの死と復活によって完成します(これが福音書の内容)。そして使徒たちの活動はそのエルサレムから始まって全世界へと広がっていくことになります(これが使徒言行録の内容)。
 弟子たちはもちろんイエスの死と復活の証人ですが、その後、悔い改めと罪のゆるしが全世界に宣べ伝えられていくことの証人でもあります。「弟子たちが告げ知らせる」のではなく、「告げ知らされる…ことの証人となる」(47,48節)というのは面白い表現です。もちろん、弟子たちが福音のメッセージを伝えていくのですが、むしろ、弟子たちをとおして、時間と空間を超えた復活のイエスがあらゆる場所の、あらゆる時代の人々に福音を伝えていくという意味に受け取ることができるでしょう。「父が約束されたもの」「高い所からの力」はどちらも聖霊のことです。弟子たちは聖霊という神の力に支えられて、「証人となる」という使命を果たしていくことになります。なおこの約束は、使徒言行録2章に伝えられるように、聖霊降臨の日(ペンテコステ)に実現します。
 聖霊が、あるいは目に見えないが今も生きておられる復活のイエスが、福音を告げ知らせる働きの本当の主人公だと言ってもよいのでしょう。わたしたちの使命は、自分の力で頑張って福音を伝えるというよりも、人々の中に働いている聖霊(あるいは復活したイエス)の働きを見いだし、あかしすることだと考えてみてはどうでしょうか。

 (4) 天に上げられるイエスを見て、弟子たちは「イエスを伏し拝」みます。この「伏し拝む」は「礼拝する」ことを表す言葉で、ルカ福音書の中で弟子たちがイエスを礼拝したと言われているのはここだけです。つまり、ここで初めて弟子たちはイエスとはどういう方であるかを本当に悟ることになったわけです。こうして、イエスが弟子たちに特別な形で姿を現す期間は終わり、目に見えない形で彼らとともに生き続ける時代が始まります。
 ルカは、「復活→昇天→聖霊降臨」を時間的な流れの中で起きた出来事として伝えていますが、他の福音書はそうではありません。この3つは別々の出来事というよりも、イエスの死の後に実現したこと全体のいろいろな側面を表しているとも言えるのではないでしょうか。「復活」という言葉は、イエスが死に打ち勝ち、今も生きている、という面を表します。「昇天」(あるいは「高く上げられる」)という言葉は、イエスが単に地上の生に舞い戻ってきたのではなく、神のもとに行き、そこで神とともに永遠のいのちを生きる方となったという面を表します。そして「聖霊降臨」はイエスが目に見えないけれどもわたしたちのうちに今も働いていてくださることを表していると言ったらよいでしょう。
 この主の昇天の出来事はわたしたちの希望でもあります。きょうのミサの集会祈願の中に、「主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています」という言葉があります。わたしたちの歩みは肉体の死で終わる歩みではなく、死を通って最終的に神のもとに(天に)至る歩みなのです。そのことを本気で感じ、受け取ったときに、今のわたしたちにとって目の前の喜びや楽しみ、苦しみや悲しみがどのような意味を持っているかが見えてくるのではないでしょうか。




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Posted on 2016/04/29 Fri. 09:10 [edit]

category: 2016年(主日C年)

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復活節第6主日 (2016/5/1 ヨハネ17章20-26節)  


教会暦と聖書の流れ


 実はこの箇所は復活節第7主日の福音の箇所です。来週の「主の昇天」の祭日は本来、復活祭後40日目の木曜日に祝われるはずですが、キリスト教国ではない日本のような国では第7主日に移して祝われます。そのため、日本では普通、復活節第7主日の朗読箇所(ヨハネ17章)は読まれません。そこで、この箇所を第6主日に移して読むことができます。
 今年は聖霊降臨の主日の福音箇所(ヨハネ14章15-16,23b-26節)が、復活節第6主日の箇所(ヨハネ14章23-29節)とかなり重なっているので、あえてこの第7主日の箇所で「聖書の集い」を行なうことを提案したいと思います。一読すれば、主日のミサで読まれないのはあまりにも惜しい箇所だということが分かるでしょう。


福音のヒント


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(1) ヨハネ福音書は、最後の晩さんの席で起こったことを13~17章までの長い記録として伝えています。13~16章は主に「告別説教」と呼ばれるイエスの遺言のような言葉です。そして17章でイエスは父である神に向かって祈ります。6節以降でイエスは弟子たちと信じるすべての人々のために祈りますので、「大祭司としての祈り」と呼ばれることがあります。「ヘブライ人への手紙」はイエスを「大祭司」と呼びますが、ヨハネ福音書がここでイエスを大祭司として示そうとしているとまで考える必要はなさそうです。
 17章は次のように始まります。「イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください』」(1節)。1-5節の祈りの中で、イエスはまず、父である神とご自分との深い一致を確認するのです。

(2) 6-20節の弟子たちのための祈りの中には次のような言葉があります。
 「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださったみ名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(11節)。
 「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたのみ言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです」(17-19節)。なお、この「聖なる者とする」と「ささげる」はギリシア語では同じ「ハギアゾーhagiazo」です。これは「聖なる」と訳されるギリシア語の「ハギオスhagios」という形容詞を動詞にした言葉ですので、3箇所とも「聖別する」「聖別される」と訳したほうがよいかもしれません。新共同訳が「ささげる」と訳すのは、この言葉の中に「完全に神のものとなる」という意味だけでなく、「自分のすべてをいけにえとして神にささげる」という意味を受け取っているからでしょう。

(3) これに続くのがきょうの箇所ですが、ここでは「彼ら(=弟子たち)の言葉によってわたしを信じる人々のために」イエスは祈ります。まさに後の時代のわたしたちのための祈りだと言えます。それは生前のイエスの最後の日の祈りというよりも、むしろ、目に見えないが今もわたしたちのうちに生きているイエスの取り次ぎの祈りと言うべきかもしれません。「すべての人を一つにしてください」とイエスは祈りますが、この「すべての人」は全人類のことでしょうか?文脈を見ると「キリストを信じるすべての人」と採ったほうが良さそうです。21,23,25節に「世」という言葉があり、ここでは「キリストを信じる人々」と「キリストを知らない世」とが対比して語られているからです。

(4) この信じる人々の一致は、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」(21節)と言われる一致です。互いが互いのうちに住むという、イエスと父との深い一致にあずかることなのです。23節で「(あなたが)わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられた」とあり、26節では「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいる」と言われているように、「一つになる」ことは「愛する」ことと結ばれています。ヨハネ13章34節、15章12,17節に「互いに愛し合いなさい」というイエスの新しい掟がありました。一つになるということは画一的になるということではなく、むしろ互いに深く結ばれ、互いに大切にし合い、そこに調和が生まれている、ということです。わたしたちキリスト信者の一致を考えるとき、このことは大切です。
 ミサを「一致の秘跡」ということがあります。ミサはキリストとわたしたち、キリストに結ばれたわたしたち同士の深い一致のしるしです。一つの食卓を囲み、一つのパンと一つの杯に共にあずかり、神からいただく恵みを皆が分かち合うところにある一致を表すものなのです。これも「一つになる」ということを考えるときのヒントになるでしょう。

(5) キリスト者が一つであることによって、「世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)と言われ、また、「世が知るようになります」(23節)とも言われます。このことは大切です。
 25節では「世はあなたを知りません。…この人々は…知っています」と言われています。「知る」はヨハネ10章の羊と羊飼いのたとえの中で何度も使われた言葉ですが、知識の問題というよりも、両者の深い交わりを表す言葉です。ヨハネの時代の教会には、キリストを受け入れない「世」との厳しい対立がありました。ここでもその状況が反映していることは確かです。しかし、世は決して救われないと決めつけているのではないのです。むしろイエスも弟子たちもこの「世」に「遣わされた者」です。神の望みはすべての人が愛と平和のうちに生きることです。そのためにイエスの弟子は世に派遣され、神の愛とイエスの愛をあかしするのです。キリスト者の一致が大切なのは、それが神の愛をあかしすることであり、最終的には全人類の一致のためだからだと言えるでしょう。




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Posted on 2016/04/22 Fri. 19:53 [edit]

category: 2016年(主日C年)

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復活節第5主日(2016/4/24ヨハネ13章31-33a,34-35節)  


教会暦と聖書の流れ


 復活節第5、第6主日には毎年、ヨハネ福音書から、最後の晩さんの席でのイエスの言葉が読まれます。イエスは世を去るにあたって、弟子たちに向けて遺言のような長い説教をしました。その中で一貫して語られるのは「わたしは去っていくが何かが残る」という約束です。それは十字架と復活の後の弟子たち(わたしたちも含めて)にとっては、単なる将来への約束ではなく、自分たちの中ですでに今、実現している約束であるはずです。
 「何かが残る」といって、いったい何が残るのか? そのことを味わうことによって、復活したイエスが今もわたしたちとともにいてくださるとはどういうことかを受け取っていきます(これが復活節後半の大きなテーマです)。


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(1) 31節で「ユダが出て行く」ことと「栄光を受ける」ことがつながっています。ヨハネ福音書では、イエスの「受難」と「栄光」はほとんど一つのこととして結びついています。しかし、日本語の「栄光」の持つ華やかな成功のイメージだけでは、受難の時が栄光の時だということは理解できないでしょう。
 「栄光」はヘブライ語で「カボード」、ギリシア語で「ドクサdoxa」と言います。「カボード」の元の意味は「重さ」です。本来のニュアンスは「そのものの本当の価値」ということのようです。「ドクサ」のほうはむしろ「外に現れた輝き」と言ったらよいでしょうか。「太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との輝きにも違いがあります」(Ⅰコリント15章41節)というパウロの言葉がありますが、ここで「輝き」と訳されているギリシア語が「ドクサ」です。ヨハネ福音書は、「ドクサ」という言葉をヘブライ語とギリシア語の両方のニュアンスを込めて、「そのものの本当の素晴らしさが輝き出ること」という意味で使っているようです。「栄光を与える」と訳された言葉は「ドクサゾーdoxazo」という動詞の形で、「栄光を受ける」はその受動態の形が使われています。「そのものの本当の素晴らしさを現す」「そのものの本当の素晴らしさが現される」という意味です。
 
(2) なぜ、ヨハネにとって、受難の時が栄光の時なのでしょうか。それはヨハネがイエスの受難の中に「愛の極限の姿」を見ているからでしょう。受難の物語を始めるヨハネ福音書の言葉はこうでした。13章1節「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。受難と死においてイエスは「愛そのものである神」と完全に1つになり、神が愛であることを現し、神もまたイエスとはどういう方かを現しました。だからこそヨハネにとって、受難の時は、「イエスが神の本当の価値を輝かせる」栄光の時であり、同時に「父である神がイエスの本当の価値を輝かす」栄光の時なのです。

(3) イエスが世を去り、残るのは「愛の掟」です。「互いに愛し合いなさい」という言葉はヨハネ15章12節にもありますが、そこではこの掟が「わたしの掟」と呼ばれています。「善いサマリア人のたとえ」(ルカ10章30-36節)で見られるように、愛とは心から自然に沸き起こるものであるとするならば、愛が「掟」であるというのはおかしいかもしれません。この「掟」は単なる命令や義務というよりも、むしろ生き方の根本原理だと言ったらよいのではないでしょうか。これから弟子たちの生き方の中心になるのは「互いに愛し合う」ことなのだ、という大きな約束をイエスは残してくださったのです。

(4) 「互いに愛し合う」というと教会の中で、キリスト信者同士が大切にし合う、言葉を代えて言えば「排他的な愛」だと受け取られてしまうかもしれません。ヨハネ福音書が書かれた状況では、「イエスを信じる人々」と「イエスを受け入れない世」との間に厳しい対立がありましたから、「せめて自分たちの中では愛し合おう」ということを強調しているのかもしれません。しかし、イエスの教えは本来、ウチとソトを区別するようなものではなかったはずです。あまりこのことにこだわらないほうがよいでしょう。
 「互いに愛し合う」の「互いに」には別のニュアンスもあるかもしれません。これは、「自分がこれだけ愛した」という自己満足的な愛から、わたしたちをもっと豊かな人と人とのかかわりに招く言葉だと考えることもできるのではないでしょうか。愛は一方通行ではなく、人と人との間にある、深い心のつながりを表すものだからです。

(5) 旧約聖書にも「隣人を愛しなさい」という掟がありました(レビ記19章18節)。ここでこの「掟」が「新しい掟」と呼ばれるのはなぜでしょうか。この掟の「新しさ」を二つの面から考えることができます。一つの新しさは、「愛する」だけでなく「互いに愛し合う」という点ですが、これについては上に述べました。もう一つの新しさは「わたしがあなたがたを愛したように」という点です。「わたしがあなたがたを愛したように」の「ように」は単なる模範ではありません。「イエスが2000年前の誰かを愛した、それを模範としてわたしたちも愛さなければならない」というのではありません。「イエスがわたしたちを愛してくださった、だからその愛を受けたわたしたちは愛し合いたいし、愛そうとするのだ」という意味なのです。
 わたしたちが愛し合うとき、わたしたちがイエスの「弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)ということも大切です。わたしたちがイエスの弟子であること(キリストが今も生きていてわたしたちを導いていてくださること)は、根本的にわたしたちキリスト信者の生き方をとおして表されるのです。本屋にいくら聖書が積んであっても、わたしたちキリスト信者がいくら聖書を学んでいても、わたしたちがそれに基づいて生きていなければ何にもなりません。ヨハネの第一の手紙にはこういう言葉もあります。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内でまっとうされているのです」(4章12節)。




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Posted on 2016/04/14 Thu. 23:58 [edit]

category: 2016年(主日C年)

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「聖書の集い」について  

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はじめに

フランシスコ教皇は2013年11月、使徒的勧告『福音の喜びEvangelii Gaudium』を発表されました。この使徒的勧告は2012年10月に「新しい福音宣教」をテーマとして開催されたシノドス(世界代表司教会議)の議論を受けて書かれたものです。フランシスコ教皇によれば「新しい福音宣教」とは、キリストを知らない人だけでなく、キリスト信者を含めたすべての人に福音を告げ知らせることです。そのために神のことばである聖書は欠かせないものです。

「福音宣教全体は、神のことばに根ざし、それを聞き、黙想し、それを生き、祝い、あかしします。聖書は福音宣教の源泉です。神のことばを『ますますあらゆる教会活動の中心に置く』ことが絶対に必要です。聴いて祝うみことばがー何よりも感謝の祭儀の中でー、キリスト者を養い、内的に強め、日々の生活の中で福音を真にあかしすることができるようにしてくれます。」(174)

「聖書の学び(study)は、すべての信者に開かれていなければなりません。重要なことは、啓示されたみことばが、わたしたちのカテケージスと、信仰を伝えるわたしたちのあらゆる努力を、徹底的に豊かにしてくださることです。福音化には、みことばに親しむことが必要です。また、教区や小教区、その他カトリックの諸団体には、聖書の学びに真剣に粘り強く取り組むこと、さらに個人や共同での霊的読書を促すことが求められています。」(175)

わたしたちが一緒に聖書を読もうとするのは、信仰養成あるいは霊的成長のためにそれが必要不可欠だからです。
ここでは、実際に何人かの信徒(もちろん、司祭・修道者でもかまいません)が、集まって一緒に聖書を読み、祈り、霊的に成長していこうとするための1つの方法を提案します。
もちろん、すでにあるさまざまなプログラムも役に立ちます。「聖書100週間」や「7ステップス」などは、定評のあるプログラムです。

ここでは、日曜日のミサの福音を用いた、分かち合いと祈りの集いの方法を紹介します。そのような集いを「聖書の集い」と呼ぶことにしています。一つの提案ですが、実際に始めてみて、ご意見をお聞かせいただければ幸いです。司祭が定住しておらず信仰養成講座がほとんど開かれていない共同体などに、特にお勧めしたいと思います。



「聖書の集い」について

「聖書の集い」は、福音を一緒に読み、一緒に味わい、共に祈る集まりです。聖書の集いは次のことを目指しています。

(1) わたしたちの現実の中で神がともにいてくださることを発見する
(2) ともに信仰の道を歩む仲間作り
(3) 霊的成長

誰かがこれをやってみよう、と思って、別の誰かが賛同したところから、すべては始まります。
参加者は、誰でも参加できるオープンなものでも、逆に、ある共通点をもった人に限ってもかまいません。年代、置かれている状況、抱えている悩みなど、共通のものを持った人でなければ、分かち合いにくいことがあるからです。
人数は多すぎないほうがよいでしょう。10人を超えたら別のグループを作るとよいでしょう。
場所は家庭でも、教会の一室でも可能です。教会内で呼びかけるときは、主任司祭と相談して、主任司祭の了解のもとに始めてください。


「聖書の集い」の進め方

毎回、次のような流れで行ないます。

(1) 短い自己紹介(皆が知り合っている場合には必要ありません)
(2) はじめの祈り(司会者が唱えます)
(3) 次の日曜日のミサの福音の箇所をゆっくり読む。
(4) 「福音のヒント」を読む。
(5) もう一度、福音の同じ箇所を読む。
(5) 5分ぐらい、各自が沈黙のうちに福音の言葉を味わう。
(6) 心に響いたことを分かち合う。
(7) 神が今日のわたしたちに何を呼びかけておられるかを受け取るために、 しばらく沈黙のうちに祈る。
(8) 参加者が自由に自分のことばで祈りをささげる。(最後に一緒に主の祈りを唱える)
(9) 結びのことば(司会者が読む)

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『聖書の集い』ガイド ダウンロード用PDF
【 参加者用 】 【 司会者用 】
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※「『聖書の集い』ガイド(司会者用)」を使えば、どなたでも聖書の集いが始められるようになっています。


気をつけるべきこと

「安心」ということは分かち合いが成り立つための前提条件です。参加者が安心して分かち合いをすることができるために、次の点に注意します。

1.集いの場で聞いたことを他の場で話さない

そこで話されたことが、他の場所で他の人に伝わるならば、だれも安心して話すことはできません。「分かち合い」で聞いたことはわたしたち一人一人の胸の中に収めることを約束します。言った本人に対しても、別の場で「あの時あなたはこう言いましたけれど…」というような言い方はすべきではありません。秘密を守ることができないグループは簡単に崩壊してしまいます。

2.支配するのは神の霊

人が集まるところに「人を支配したい」という誘惑が生まれます。「教えたい」「コントロールしたい」「自分が一番になりたい」その誘惑に打ち勝つことが必要です。限られた人だけが長時間話すのも禁物です。司会者やグループの代表は、奉仕者であるという意識を徹底しなければなりません。

誰かが聖書の箇所について質問をしたとき、それについて知識を持っている人が教えることは簡単です。しかし解説を始めた瞬間に「分かち合い」は終わってしまいます。この点に注意が必要です。何もすべてを理解する必要はないのです。話が途切れたとき、沈黙を埋めようとして話す必要もありません。その時は、神が沈黙のうちにわたしたちに語っていることを聞けばよいのです。なお、終了時間を守ることも大切です。
聖書の集いは、だれか人間が支配する場ではなく、すべての参加者が一人一人の心に働きかける聖霊の導きに従おうとする場なのです。

3.相手を批判しない、議論しない

自分の発言が人から批判されると、ある場合には非常に傷つき、もう二度と話すまい、と思うようになります。安心のためには「批判しない」という原則も大切です。大切なのは、人の言葉に耳を傾け、人の思いをそのまま受け取ろうとすることです。わたしたちは議論するために集まっているのではなく、霊的に成長するために集まっているのです。


「福音のヒント」について

「福音のヒント」は毎週日曜日のミサの福音を味わうためのヒントです。「聖書の集い」では、誰かが教える人ではありません。かと言って、ただ個人個人の感じ方だけで福音について語り合うことにも不安があるかもしれません。ここでは必要最小限の解説と、生活の中で聖書からの光を受け取るためのヒントが述べられています。一緒に聖書を読むときに役に立つのではないか、と思って作成しています。

なお、ミサの準備のために個人的に用いることもできますし、ミサに行けないときに聖書の箇所を味わうためにも役立てていただければ幸いです。

もう一つの使い方として、ミサがないときの「集会祭儀」で用いることも考えられます。説教がない場合に少しでも豊かに聖書からメッセージをいただくためです。3つの使い方があるでしょう。

(1) 前もって「福音の集い」でその箇所を分かち合った人の誰かが福音朗読後に話をする。
(2) 集会祭儀の福音朗読後に読んで、各自が沈黙のうちに味わう。
(3) 集会祭儀の福音朗読後に読んで、参加者で分かち合いをする(少人数の場合)。
いずれにせよ、集会祭儀でこれを用いる場合は、必ず主任司祭とよく相談してから用いてください。

   2014.4.14

幸田和生  



補:教皇フランシスコ『福音の喜び』からの抜粋
(新しい福音宣教における信仰養成や信仰の成長に関する『福音の喜び』の中の言葉を抜き書きしてみました。是非お読みください)

「宣教しなさいという主の命令は、信仰を成長させなさいという呼びかけも含んでいます。『あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい』(マタイ28・20)。したがって最初の告知は、確かに、養成と成熟にもつながるはずです。」(160)
「成長しなさいというこの呼びかけを、もっぱら第一に教理に関する養成だと受け止めることは正しくありません。主の愛(his love)に対する応答として、主がわたしたちに示されたことを『守る』ことです。・・・『わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である』(ヨハネ15・12)。」(161)
「こうした成長のために、教育やカテケージスが役に立ちます。」(163)
「カテケージスにおいても、最初の福音の告知、ケリュグマが重要な位置を占めることをわたしたちは再発見しました。・・・『イエス・キリストはあなたを愛し、あなたを救うためにいのちをささげました。キリストは今なお生きておられ、日々あなたのそばであなたを照らし、力づけ、解放してくださいます』。この最初の告知が『最初』と呼ばれるのは、その後忘れられて、それよりも大切な別のことに取って変わられるような最初のものという意味ではありません。質的な意味で第一だということです。」(164)
「一見『確実な』養成のために、ケリュグマについてのカテケージスを放棄しようと考えてはなりません。この告知よりも強く、深く、確実で、密で、知恵あるものはありません。キリスト教の養成はすべて、肉となり、よりよいものとなるまでケリュグマを深めていくことです。」(165)

Posted on 2016/04/14 Thu. 23:45 [edit]

category: 「聖書の集い」について

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復活節第4主日 (2016/4/17 ヨハネ10章27-30節)  


教会暦と聖書の流れ


復活節第4主日には毎年、ヨハネ福音書10章の羊と羊飼いのたとえが読まれます(「良い牧者の主日」と呼ばれるのはそのためです)。たとえは3つの部分に分けられて3年周期で読まれますが、今年(C年)は3番目の箇所です。22-23節に「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた」という言葉がありますので、前のたとえと場面は変わっていますが、内容的にはつながっています。どのたとえにも共通しているのは、「羊と羊飼い」の間にある深いつながりです。復活して今も生きているイエスとわたしたちの間にある深いつながりを味わうためにこれらの箇所が選ばれています。


福音のヒント



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(1) 短い箇所ですが、羊飼いであるイエスとわたしたち(羊)との深いつながりを感じることができるでしょう。1つのキーワードは「聞く」という言葉です。27節では「聞き分ける」と訳されていますが、ギリシア語では「アクオーakuo」で、普通はただ「聞く」と訳される言葉です(ここでは他の人の声と違うものとして聞き分けるという意味で受け取られています)。この「聞く」という言葉は、ヨハネ10章に何度も出てきます。3節「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。8節「わたしより前に来た者は皆、盗人(ぬすびと)であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった」。16節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」。いずれも「アクオー」という動詞が使われています。
 8節のように、「聞く」には「聞き従う」の意味もあります。日本語でも「聞く」は、ただ単に「耳で聞く」だけではありません。「お母さんの言うことを聞く」は「聞いてそのとおりにする」=「聞き従う」の意味があります。「神の声を聞く」というのは、単に言葉として聞くのではなく、その言葉を自分に向けて語られた神の呼びかけとして聞き、それに応えていくことです。きょうの27節も「聞き従う」の意味で受け取ることができます。わたしたちがイエスの声を聞く、というのはどのような体験でしょうか。


(2) もう一つのキーワードは「知る」です。27節「わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。この「知る」はただ単に知識として知っているというのではありません。むしろ、両者の深いつながりを表す言葉なのです。これも日本語で「○○さんを知っていますか」というときの知るに似ています。この質問は、「知識として知っているか」という意味だけでなく「かかわりがあるか、会って話したことがあるか」という関係を問う問いなのです。聖書の中での「知る」も、いつも「かかわりをとおして知ること」を意味しています。
 10章4節には「羊はその(羊飼いの)声を知っている」という表現があります。14節でも「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」とあります。「互いが互いを知っている」というのは本当に深く結ばれた関係であることを表しています。何よりもイエスがわたしたちを知っていてくださるということはどれほど大きな恵みでしょうか!


(3) 10章のたとえは、9章でイエスが生まれつき目の見えない人をいやした物語から直接続けて語られています。羊のために命を差し出す良い羊飼いの姿は、安息日であっても目の前の苦しむ人に救いの手を差し伸べたイエスの姿そのものだと言えます。

 9章の盲人の話を思い出しましょう。彼はイエスによって目に土を塗られ、シロアムの池に行っていやされました。つまり、彼はイエスの姿さえ知らずにいやされたことになります。彼はイエスという方が自分をいやしてくれたことを知っていますが、イエスについて、それ以外の知識は何もありません。「その人はどこにいるのか」と問われた彼は「知りません」と答えます(12節)。さらにファリサイ派の人々に問い詰められて、とうとうこう言います。「あの方が罪人(つみびと)かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)。最終的に35節以下で、彼は再びイエスに出会い、「主よ、信じます」と告白します。しかし、この人のイエスに対する根本的な「知り方」は、出会いをとおして自分が変えられたという体験だったのです。わたしたちはどのようにイエスを「知っている」でしょうか。


(4) イエスの復活によって実現したことは、次の2つのことだと言えるでしょう。
 1つはイエスと父である神とのつながりの完成。父である神は、イエスを死の滅びの中に見捨てることなく、ご自分のもとに引き上げ、永遠に父である神とともに生きるものとしてくださった。「わたしと父とは一つである」(30節)ということはイエスの復活においてはっきりと示されるのです。
 もう1つは、イエスとわたしたち、父である神とわたしたちとのつながりの完成です。復活したイエスは、目に見えないが今も生きていて、わたしたちとともにいてくださる。このイエスとわたしたちの絆(きずな)は決して絶たれることがない。また、イエスをとおして父である神と結ばれたわたしたちと神との絆も決して絶たれることはない。「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(28節)、「だれも父の手から奪うことはできない」(29節)と、この箇所で約束されているとおりです。なお、29節の「わたしの父がわたしにくださったもの」はイエスに従う羊(信じる人々)のことでしょう。ただし、この箇所を「わたしに(彼らを)くださった父は、すべてのものより偉大」と読む写本もあります。
 イエスを死の滅びの中に見捨てなかった神は、決してわたしたちをも見捨てない。イエスは今もわたしたちとともにいて、わたしたちを決して見捨てることはない。これが福音の約束です。厳しい現実や死に直面したときにこそ、この約束はわたしたちに大きな力を与えてくれるのではないでしょうか?




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Posted on 2016/04/08 Fri. 04:33 [edit]

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