福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第10主日 (2016/6/5 ルカ7章11-17節)  


教会暦と聖書の流れ


 年間主日のミサの福音朗読は3年周期で、今年(C年)はルカ福音書をとおしてイエスの活動の歩みを追っていきます。今日の箇所は、カファルナウムで「病気で死にかかっていた」百人隊長の僕(しもべ)をいやした話(7章1−10節)に続いています。今日の話はルカ福音書だけが伝えるもので、瀕死の病人のいやしよりも、さらに大きな奇跡として、この死者のよみがえりの奇跡が伝えられているのでしょう。
 そして今日の箇所の後、「来るべき方はあなたですか」という洗礼者ヨハネの問いを伝えに来たヨハネの弟子たちに対してイエスは語ります。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(ルカ7章24節)。今日の福音の出来事は、今まさに神の国が始まっていることのしるしなのです。


福音のヒント


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  (1) ナインは、ガリラヤ地方の南部、ナザレの南東約6キロメートルのところに位置する町です。ルカ福音書では、イエスは4章14節からガリラヤでの活動を始め、9章51節でエルサレムに向かう旅を始めるまで、ずっとガリラヤ地方を中心に活動しています。
 イエスは息子を失った一人の女性と出会います。息子は彼女の「一人息子」で、彼女は「やもめ」だったと紹介されています。「やもめ(寡婦)」は当時、「みなしご(孤児)」や「寄留者」と並んで社会的弱者の代表でした。ユダヤ社会は男性中心の社会で、女性や子どもは、夫であり父親である成人男性に守られていなければ生きていくのが困難でした。「やもめ」「みなしご」は自分を守ってくれる夫や父親を持たないので、社会の中で本当に弱い立場の人々だったのです。また、人は自分の生まれ育った国に生きていれば、周囲の人々の支えが得られますが、外国に住む人は周囲の支えが得られないので、「寄留者=寄留の他国人」も弱い立場の人の代表でした。
 このように見てくると、このやもめにとって一人息子は唯一の希望だったと考えられるでしょう。彼女が頼るべき相手は息子しかいないのに、その息子が死んでしまい、彼女は絶望のどん底に突き落とされていたはずです。
 なお「棺」とありますが、貧しいやもめの息子のことですから、立派な棺ではなく、亡くなった人を運ぶ担架のようなものを指しているとも考えられます。

  (2) 13−14節「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、…」。下線を引いた3つの言葉、「見る」「憐れに思う」「近づく」は、ルカ福音書ではセットのように他の箇所でも見られます。
 ルカ10章の「善いサマリア人」のたとえにはこうありました。「旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」(33−34節)。
 ルカ15章の「放蕩息子」のたとえの中にはこうあります。「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。
 「近寄る」「近づく」と「走り寄る」は言葉が違いますが、内容的にはほぼ同じです。

  (3) ここで「憐れに思う」と訳されている言葉は、ギリシア語で「スプランクニゾマイsplanknizomai」という動詞です。この言葉は「スプランクナ=内臓、はらわた」という名詞に動詞の語尾をつけたもので、目の前の人の苦しみを見たときに、自分のはらわたが揺さぶられる、ということを表す言葉です。ある人はこれを「はらわたする」と訳しました。普通の日本語では「胸を痛める」と訳すのがよいでしょうか。胸よりも内臓のイメージですから、「肝苦りさ(チムグリサ)」という沖縄の言葉が一番近いかもしれません。目の前の人の痛みを自分の体で感じてしまう、そのような深い共感を表す言葉なのです。
 見て、はらわたするので、放っておけず、近づいていき、自分にできる精一杯のことをする。ルカ福音書は、愛するとはこういうことだと言おうとしているようです。その愛は何よりもまず、放蕩息子のたとえに示された父である神の愛であり、今日のナインの物語に示されたイエスの愛であり、そして、善いサマリア人のたとえで示されているような、わたしたち一人一人に求められている愛なのです。

  (4) 今日の福音の出来事は、第一朗読で読まれる列王記上17章にある預言者エリヤの物語とよく似ています。紀元前9世紀、エリヤはシドンのサレプタという町に住むやもめの死んだ息子をよみがえらせました。イエスのなさったことを見て、人々が「大預言者が我々の間に現れた」(16節)というのはこの故事を思い出したためでしょう。「神はその民を心にかけてくださった」という箇所で使われている動詞は「顧みる」とか「訪れる」とも訳される言葉です。ルカ1章68節以降のザカリヤの歌では「主はその民を訪れて解放し」と訳されています。なお、この前にある「恐れ」はただの恐怖ではなく、神の威光に触れた人間の自然な感情を表す言葉です。だから「賛美」につながっていくのです。
 
  (5) 13節でイエスは「」と呼ばれています。使徒言行録2章36節に、「イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」とあります。イエスが「主」と呼ばれるのは、おもに復活後のことですが、ルカ福音書では地上で活動していたイエスについても「主」という言葉が使われています。これは、イエスが神と等しい権威と力を持っていることを表していて、今日の箇所でもまさにそういう意味で「主」と言われています。
 この物語は、「貧しい人は福音を告げ知らされ」(ルカ7章22節)、イエスの愛に触れた人が絶望と死の暗闇から立ち上がるという、メシアの時代の始まりを示しています。わたしたちも、イエスによって始まったこの新しい時代を生きるよう招かれているのです。




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Posted on 2016/05/26 Thu. 21:28 [edit]

category: 2016年(主日C年)

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キリストの聖体 (2016/5/29 ルカ9章11b-17節)  


教会暦と聖書の流れ


 灰の水曜日から聖霊降臨の主日まで3ヶ月以上にわたって過ごしてきた四旬節・復活節の余韻として、「三位一体の主日」「キリストの聖体」「イエスのみ心」という3つの大きな祝日があります。キリストの聖体の祭日は本来、聖霊降臨後第2木曜日ですが、日本では日曜日に移されています。なお、「イエスのみ心」のほうは本来のまま、聖霊降臨後第3金曜日に祝われます。キリストの聖体をこの時期に特に祝うのは、聖週間中の「聖木曜日・主の晩さんの夕べのミサ」だけでは祝い足りなかったからだとも言えますが、むしろ聖体が、四旬節から復活節にかけて祝ってきたキリストの死と復活の神秘を記念し、そのキリストの愛といのちにわたしたちが結ばれることを表す最高のしるしだからです。


福音のヒント


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 (1) ルカ福音書は、マルコ福音書を基にしていて、12人の弟子の派遣の後、彼らが帰ってくるところからこの物語を始めています。「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた。群衆はそのことを知ってイエスの後を追った」(ルカ9章10-11節前半)。そして、「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」(11節後半)ときょうの箇所が始まります。神の国について語り、人々をいやすというのは、イエスのこれまでの活動の要約のような言葉だと言えます。イエスの活動全体とこの5つのパンの出来事は密接につながっているのです。
 なお、ルカ福音書では、12使徒の派遣ときょうの箇所の間に、ガリラヤの領主ヘロデがイエスについて「いったい、何者だろう」と言う箇所があります(9章9節)。そして、この出来事の後、ルカ福音書はすぐにペトロの信仰告白の場面を続けています。「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『神からのメシアです』」(9章20節)。ルカ福音書の中でイエスとは何者かという問いに挟まれたこの出来事は、イエスとはどういう方かをはっきりと表す出来事だとも言えるようです。

 (2) 5つのパンと2匹の魚で5,000人以上の人が満腹したというような奇跡の物語を読むとき、福音書に書かれているとおりの出来事が実際に起こったと信じられるでしょうか。素直に信じられるという人も、ちょっと信じがたいという人もいるでしょう。もちろん、この出来事が実際にどのように起こったかということは、今となっては確かめようがありません。最初にこの出来事を記録したマルコ福音書でも実際の出来事が起きてから、40年ほどたってから書かれました。それまでイエスのなさったことはおもに口伝えで伝えられていきました。この物語は決して誰かが作り出したフィクションではありません。少なくとも、「わずかな食物をイエスが人々とともに分け合い、大勢の人が満たされた」というような弟子たちの体験が基にあったと考えるのが自然でしょう。そして、彼らがその体験をとおして感じ取ったのは、イエスのもとにこそ、本当の豊かさがあり、本物のいのちがある、ということだったのです。

 (3) 16節「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」。
 最後の晩さんのときの動作とよく似ています。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』」(ルカ22章19節)
 「賛美の祈りを唱え」はギリシア語では「エウロゲオーeulogeo」です。「エウロゲオー」には「賛美する」と「祝福する」の意味がありますが、ここでは食事を前にして神の祝福を求めて祈ることを意味しているようです。祈りの内容としては「感謝の祈りを唱え(エウカリステオーeucharisteo)」と同じだと考えられます。また、「弟子たちに渡して」と「使徒たちに与えて」というところには、原文では同じ動詞が使われています。
 ルカ福音書で、イエスの死後、エマオに向かった弟子たちが、一緒に歩いていた旅人を復活したイエスだと気づくのも、その人がこの動作をしたときでした。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった…」(ルカ24章30-31節)。

 (4) この食事の前の行為にはイエスの食事の特徴が非常によく表れています。「パンを取り、天を仰いで、感謝(賛美)の祈りを唱え」はほとんど1つの動作です。パンを取り、天を仰ぐのは、感謝(賛美)の祈りを唱えるためなのです。「このパンがたまたまここにあるからラッキー!」というのではなく、「このパンは神から与えられたものだ」ということを深く受け止める行為だと言えるでしょう。「裂いて、弟子たちに与える」もほとんど1つの動作です。裂くのはパンを1人で食べずに皆と分かち合うためだからです。イエスにとって「共に食事する」ことは、神とのつながりを深く味わい、人と人とのつながりを深く味わうことでした。わたしたちは日々の食事の中でそのことを感じているでしょうか?
 最後の晩さんという、イエスが弟子たちと共にした最後の食事は、地上でイエスが行なっていたイエスの食事の頂点でした。そこでイエスは、この神とのつながり、人と人とのつながり、そしてご自分と弟子たちのつながりを永続するものにしようとされたのです。きょうわたしたちは、特別に聖体をとおして神・イエスとのつながり、人と人とのつながりを味わうように招かれていると言えるのではないでしょうか。
 なお、17節で「パンの屑(くず)」と訳されているギリシア語は「クラスマklasma」で、その意味は「裂かれたもの」です。これはもちろんイエスが裂いたパンの断片を指しますから、むしろ「パン切れ」と訳したほうが良さそうです。残ったパン切れが12カゴにもなった、ということにも、イエスのもとにある豊かさが表わされています。12という数が使徒の数と同じであることに意味があるのでしょうか。もし意味があるとすれば、使徒たちが1つずつカゴを持って、この場にいない人々にもパンを届けに行く使命をいただいている、ということを暗示しているのかもしれません。




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Posted on 2016/05/20 Fri. 19:34 [edit]

category: 2016年(主日C年)

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三位一体の主日 (2016/5/22 ヨハネ16章12-15節)  


教会暦と聖書の流れ


 毎年、聖霊降臨の主日の次の日曜日に「三位一体」の主日が祝われます。「三位一体」というと難しい神学概念のようですが、この主日はむしろ、イエスの生涯、受難、死、復活、昇天、聖霊降臨をとおして示された神の大きな救いのわざを振り返り、その神とわたしたちのつながりを深く味わう日だと考えたほうが良いでしょう。福音の箇所は、復活節に何度か読まれてきたヨハネ福音書の最後の晩さんの席でのイエスの説教から採られています。なお、この箇所はB年の聖霊降臨の主日にも読まれています。


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 (1) ヨハネ13章から始まった最後の晩さんの席でのイエスの説教の主な内容は、イエスが世を去り、目に見える形ではいなくなるが、違う形で居続ける、という大きな約束です。その中で聖霊を送る約束が4箇所あります(14章16-17節、14章26節、15章26節、16章7-15節)。きょうの箇所はその最後の部分から採られています。この約束はイエスの復活後に実現します。「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。・・・』」(ヨハネ20章22節)。
 「真理の霊」の「真理」はギリシア語では「アレーテイアaletheia」と言います。元の意味は「隠されていないこと」です。ギリシア人にとって、真理とは、ふつうは見えないが覆いを取られて現れてくるそのものの本当の姿だと言えるでしょう。一方、真理と訳されるヘブライ語は「エメト」です。この言葉は「アーメン(確かに)」という言葉と同じ語根で「確かなもの、頼りになるもの」を表します。ヨハネ福音書の「真理」には「隠れていた神の本質が現されること」というギリシア語的なニュアンスと「本当に確かで、頼りになるもの」というヘブライ語的なニュアンスの両面があると考えられます。
 「ヨハネ福音書における真理とはイエスご自身のことである」と言った人がいます。イエスこそ、神の本当の姿を明らかにした方であり、わたしたちの救いのために本当に確かで頼りになる方なのです。「真理の霊」と言われる聖霊の働きは、何よりも真理であるイエスにわたしたちを結びつけることだと言えるでしょう。人間の力を超える何かしら大きな力を感じたとしても、それを聖霊の働きだと言うことはできません。大切なのは、その力がわたしたちをイエスとその生き方(=愛)に結びつけるかどうかなのです。

 (2) 16章13節で「その方」と訳されている言葉はギリシア語では男性形の指示代名詞ですが、もちろん聖霊のことを指しています。「霊(プネウマpneuma)」はギリシア語では中性名詞なので、中性形の指示代名詞(訳せば「それ」)が使われてもおかしくないのですが、ヨハネはあえて男性形で書いています。これはヨハネ14章16節などで聖霊が男性名詞の「弁護者(パラクレートスparakletos)」と呼ばれているからでしょうか。聖霊とは、素朴に言えば「神の(あるいは復活したイエスの)目に見えない働き」と言うことができます。しかし、ヨハネ福音書は、単なる「働き」ではなく、弟子たちのうちにとどまり、いつも弟子たちとともにいてくださる「方」という面を強調して、聖霊のことを人格を持つもののように語っているのだとも考えられます。
 ここでの聖霊の働きは「真理をことごとく悟らせる」ことです。「真理をことごとく」と訳された部分は「真理全体を」とも訳せるような言葉が使われています。「悟らせる」には「道案内する、導く」という意味の言葉が使われています。イエスはこれまで、いろいろな言葉を語ってきました。しかし、これからは聖霊が弟子たちを導くのです。聖霊の導きは、イエスがこれまで語ってきたことと別のことではなく、イエスが語られたことを、わたしたちにもっと深く理解させ、わたしたちがわたしたちの現実の中でイエスの言葉をどう生きるべきかをはっきりと示すことだと言えるでしょう。

 (3) 「唯一の神が父と子と聖霊である」という三位一体の教えは、学者が頭の中で考え出した教えではありません。イエスの弟子たちの救いの体験をもとにして、古代のキリスト教の発展の中で最終的にまとめられた表現なのです。
 イエスは、2000年前に一回限りの地上の生涯を生き、その言葉と生き方をもって、決定的な形で神を現してくださいました。イエスの派遣は人間に対する神からの決定的な救いの働きかけでした。弟子たちはイエスの生涯と死と復活を見て、そのことを確信するに至りました。この確信を弟子たちは「イエスこそがキリストである」という言葉で表現し、人々に伝えていきますが、その福音告知の活動の中で、自分たちがいつも神によって支えられ、大きな力で導かれていることを体験しました。その体験を彼らは「聖霊がわたしたちのうちに働いている」と表現したり、「復活して今も生きておられるイエスがともにいる」(マタイ28章20節参照)と表現したのです。この働きは、そのときから2000年後の今に至るまで、キリスト信者が経験してきていることだとも言えるでしょう。

 (4) つまり、神は二通りの仕方で、人間に対する決定的な働きかけをしてくださったということになります。
 1つは「イエス」=歴史の中で一回限り。明確な言葉と生き方をもって語りかける
 もう1つは「聖霊」=いつの時代のどこの人にも。心の中に直接働きかける
 大切なのは、「三位一体」という言葉よりも、この二通りの神の働きかけをわたしたちがしっかりと受け取ることではないでしょうか。きょうの「福音のヒント」の図が示そうとしているのは、三位一体そのものというよりも、父と子と聖霊とわたしたちの関係です。上から下に向けての線は、上で述べた神の二通りの働きかけを表しています。これに対して、下から上に向かう線は、わたしたちが神に向かうときの姿勢を表しています。わたしたちは、イエスの言葉と生き方を見つめ、わたしたちの内面に直接働きかける神の力(聖霊)に支えられて、御父に向かって歩みます。祈りの体験もそうでしょう。聖霊という内面的に働きかける神の力があるからわたしたちは祈ることができます。そしてわたしたちの祈りは、いつもイエスをとおして(イエスの祈りに結ばれて)、御父にささげられます。
 わたしたちは、このダイナミックな神との関わりを生きるように招かれているのです。




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Posted on 2016/05/13 Fri. 14:56 [edit]

category: 2016年(主日C年)

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聖霊降臨の主日(2016/5/15ヨハネ14章15-16,23b-26節)  


教会暦と聖書の流れ


 復活祭から50日目に聖霊降臨を祝うことは、使徒言行録2章にある五旬祭の日の出来事(今日のミサの第一朗読)に基づいています。日本語では「聖霊降臨」ですが、「50番目(の日)」を意味するギリシア語の「ペンテコステ」という言葉がそのまま使われることもあります。イエスは復活して神のいのちに上げられ、目に見える形ではいなくなりますが、弟子たちに聖霊が注がれます。弟子たちはこの聖霊に駆り立てられて、福音を告げ知らせ始めました。その意味で聖霊降臨は過越(すぎこし)の神秘の完成であり、同時に教会の活動の出発点なのです。なお、聖霊降臨の主日のミサの福音として、毎年同じヨハネ20章19-23節を読むことができますが、ここではC年のための任意の箇所を取り上げます。


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 (1) 聖霊とは何でしょうか。「聖霊」の「聖」は「神の」という意味です。「霊」はギリシア語で「プネウマpneuma」、ヘブライ語で「ルーアッハ」と言い、どちらも「風」や「息」を意味する言葉です。古代の人々は、目に見えない大きな力(生命力)を感じたときに、それを「霊」と呼んだのでしょうし、それが神からの力であれば「聖霊」と呼んだのです。聖霊の働きは非常に広いものです。すべての命が生きているのは、聖霊という神の働きによることです(創世記2章7節、詩編104編29-30節参照)。この広さは大切です。一方、聖書の中で聖霊の働きが特に意識されることがあります。それは主に2種類の体験の中でのことです。1つは、人が神から与えられたミッション(派遣・使命)を果たそうとするときの体験であり、もう1つは神と人・人と人とが結ばれるという体験です。

 (2) 弱い人間が神から与えられるミッションを生きようとするとき、神が不思議な力で支えてくださる、ということを体験します。旧約聖書では、王や預言者がその使命を受けるとき、聖霊が降(くだ)ったと表現されています(Ⅰサムエル16章13節、イザヤ61章1節参照)。新約聖書の中では、イエスがヨルダン川で洗礼を受けたときがそうでしたし、きょうの使徒言行録の箇所でペンテコステの日に使徒たちが福音を告げ始めたときもそうです。これらのことはわたしたちの洗礼や堅信の秘跡(さらに叙階・結婚・病者の塗油・ゆるしの秘跡)につながっています。もちろん、秘跡を受けるときだけでなく、人が神からのミッションを生きようとするときに繰り返し体験することだ、とも言えるでしょう。
 また、人と人の間にある無理解や対立が乗り越えられて、相互の理解と愛が生まれるとき、それも神の働きとしか言いようがないことでしょう。神の霊が人間の心に働きかけて信頼や愛の心が呼び覚まされるのです。このような神の働きも聖書の中で「聖霊」と表現されています。使徒言行録2章のように、互いに理解し合えないと思われていた言葉の違う人々の間に相互理解が生まれたとき、そこに聖霊という神の力が働いていると強く感じられたのでしょう。パウロはⅠコリント12章で、聖霊の賜物(カリスマ)がいろいろあることを認めながら「わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(31節)と述べて、続く13章で「愛」について語ります。まさに「霊の結ぶ実は愛」(ガラテヤ5章22-23節)なのです。

 (3) きょうの福音の箇所は、最後の晩さんの席でイエスが語られた約束です。16節と25節の「弁護者」はギリシア語で「パラクレートスparakletos」です。「パラpara」は「そばに」、「クレートス」は「カレオーkaleo(呼ぶ)」という動詞から来ていて「そばに呼ばれた者」の意味です。裁判のときにそばにいて弁護してくれる人を「パラクレートス」と言ったので新共同訳聖書は「弁護者」と訳しますが、もっと一般的に「そばにいて助けてくださる方」と受け取って「助け主」や「慰め主」と訳されることもあります。
 ヨハネの第一の手紙2章1節には「御父のもとに弁護者(=パラクレートス)、正しい方、イエス・キリストがおられます」という言葉があります。これは復活して神のもとに上げられたイエスのことですが、イエスこそが第一の「パレクレートス」であるということができます。そこで、ヨハネ福音書14章16節では、聖霊について「別のパラクレートス」という言葉が使われているのでしょう。

 (4) 15節の「わたしの掟」、23節の「わたしの言葉」はどちらも「互いに愛し合いなさい」(13章34節、15章12節)という掟を指しています。15節「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と23節「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」はほとんど同じ内容です。そして、15節に続く16節では「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と言われ、23節では続けて「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」と約束されています。実はこの2つのこと、つまり、聖霊が弟子たちに与えられるということと、父とイエスが弟子たちと共に住む、ということはほとんど同じことだと言うことができます。
 26節では「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と約束されています。聖霊が教えるのですが、その教えはイエスがこれまで教えてきたことと違うのではありません。「イエスの言葉を思い出させる」というのは、ただ単に忘れていた言葉を思い出すという意味ではないでしょう。わたしたちが人生の中でさまざまな体験をしたときに、「そうだ、確かにイエスのおっしゃったあの言葉は真実なのだ」と悟ることを指しているのではないでしょうか。
 ヨハネ福音書14~16章でイエスが約束される聖霊の働きは、一言で言えば、わたしたちを神とイエスに結びつける働きと言うことができます。
「聖霊」を人間の頭の中で抽象的に理解しようとしてもうまくいきません。目に見えない神の働き、復活して目に見えないが今もわたしたちとともにいてくださるイエスの働きが、聖霊の働きなのです。「聖霊」という言葉よりも大切なのは、わたしたちの日々の生活の中に、わたしたちの集いの中に、今も神が、キリストが共にいて、働いてくださっているということです。わたしたちはどのようなときにそう感じることができるでしょうか。




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Posted on 2016/05/05 Thu. 22:32 [edit]

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