福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第14主日 (2016/7/3 ルカ10章1-12, 17-20節)  


教会暦と聖書の流れ


 ルカ福音書では、ガリラヤからエルサレムへ向かうイエスの旅は、9章51節に始まり、19章44節まで続く大きな部分になっています。この部分でルカは、マルコ福音書にはないさまざまな出来事やイエスの言葉を伝えています。きょうの箇所は先週の箇所(ルカ9章51-62節)の続きで、72人の弟子が派遣される場面です。


福音のヒント


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 (1) ルカ9章1-6節には12人の弟子が派遣される話があります。この72人の派遣にあたっての言葉は、エルサレムへの旅との関連は薄いようですし、12人ではなく72人であることの特徴もあまり感じられません。弟子たちを派遣するにあたってイエスが語った言葉は、いろいろな形で伝えられていたようです。福音書には、弟子たちを派遣するにあたってイエスの言葉が、合計4箇所に伝えられています。マタイ10章5-42節、マルコ6章7-12節とルカのこの2箇所です。それらを比較すると、共通する部分と多少異なる部分があります。マタイは複数の伝承を一つの長い派遣説教としてまとめていますが、ルカはそれを2回の派遣に分けたと考えたら良さそうです。
 この派遣にあたっての指示は、ルカにとっては過去の弟子たちの派遣というよりも、今復活のイエスによって派遣されている自分たちの問題だと言えるでしょう。「御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とありますから、人々がイエスに出会うための準備としてわたしたちは遣わされていると言うこともできるのでしょう。

 (2) 「七十二人」というところが70人になっている写本もあります。レビ記11章には、モーセの時代に70人の長老が選ばれる話がありますからその影響でしょうか。70人だとすると「民の指導者」というニュアンスがあるかもしれません。一方72という数は、12の6倍で、12人の弟子を拡大した「より多くの弟子たち」ということなのでしょう。
 なお、1節で「二人ずつ」派遣されることの意味はいくつか考えられます。(a)旧約時代から、「一人の証言は不確かだが、二人の証言ならば確かである」という考えがあったから。(b)単純に二人が支えあいながら活動していけば心強いということ。(c)二人が「愛し合う」姿をとおして、イエスの弟子であることが皆に分かるようになるから(ヨハネ13章35節参照)。

 (3) 「収穫は多いが、働き手は少ない」(2節)と言うイエスは、多くの人が神の国の呼びかけに応えるということを期待し、信じています。そして、その呼びかけに応える人々を「収穫」にたとえています。派遣される人自身ももちろん「収穫のための働き手」ですから、彼らが祈るのは「自分たち以外の誰かが働き手になりますように」ではなく、「自分たちだけでは足りないから、一緒に働いてくれる人を与えてください」という祈りであるはずです。召命を求める祈りはいつもそういう祈りであるはずです。「狼の中に羊を送り込む」(3節)は、もちろんこの派遣に伴う危険を指摘しています。いつも人々に受け入れられるとは限りません。弟子たちは拒否され、攻撃される可能性もあるのです。

  (4) 4節の「履物も持っていくな」は少し極端かもしれません。マルコ6章9節では、はっきりと履物は履くように命じられています。袋はもらった喜捨(きしゃ)を入れるための袋でしょう。要は「何も持たず、空(から)の手で」行くということです。なぜなら、後にあるように、必要なものは出かけた先で与えられるからです。「その家に泊まって、そこで出されるものを食べ、また飲みなさい。働く者がその報酬を受けるのは当然である」(7節)。「自分の面倒は自分で見て、できるだけ人の世話になりたくない」というのが、現代のわたしたちの普通の感覚かもしれません。イエスの弟子の道はそうではないのです。自分の力ではなく神と人々の好意に頼って生きていく道。それはわたしたちにとっても、本当は大切な生き方を指し示しているのではないでしょうか

 (5) 派遣される弟子が第一にすることは「この家に平和があるように」と言うことです。これは4節で禁じられたような儀礼的な長々としたあいさつではありませんが、やはり、ほとんどあいさつの言葉だと言っても良さそうです。「平和」(ヘブライ語で「シャローム」)は日常的なあいさつの言葉だからです。弟子たちは、戦いや論争や挑発のために出かけるのではなく、出会う人々との間に平和を作ることが求められています。
 ただし、いつでも良い関係が作れるとは限りません(わたしたちも同じでしょう)。それはこちらが平和を願っていても、相手のほうが拒否するということがあるからです。そんなとき、相手を責める気持ちにもなりがちです。でもここでは、そんなことに振り回されない、という生き方が求められているようです。「平和があなたがたに戻ってくる」(6節)というのは、「その人を恨んで、仕返ししようとするな、相手がどうであれ、あなたが相手のために平和を願うことはあなたにとってよいことなのだ」ということではないでしょうか。なお、11節の「足の埃を払い落とす」は確かに絶縁を意味する動作ですが、そこにも「恨まない、復讐心を抱かない」という意味があるでしょう。
 「家から家へと渡り歩くな」(7節)も面白い指示です。渡り歩くのは、歓待されるのを期待してのことでしょうか。あるいは、もっと良い待遇を期待するからでしょうか。

 (6) 弟子たちの使命の中心は、病人をいやし、「神の国はあなたがたに近づいた」と宣言すること(9節)です。それは、これまでイエスご自身がしてきたことと同じことをしていくということです。今のわたしたちにとっては、どういうことでしょうか
 17節以下の「悪霊」「蛇やさそり」「敵」は神に敵対し、人を害するものです。「サタン」はその力の根源にあるものでしょう。イエスは悪の支配が終わり、決定的に神のバシレイア(支配、国、王であること)が始まっているのを見ています。「名が天に書き記されている」は、この神のバシレイアにあずかる者となった、という意味なのです!




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Posted on 2016/06/24 Fri. 22:22 [edit]

category: 2016年(主日C年)

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年間第13主日 (2016/6/26 ルカ9章51-62節)  


教会暦と聖書の流れ


 きょうの箇所は、ルカ福音書でイエスがエルサレムに向かう旅を始める箇所です。マルコ福音書ではイエスが旅に出ようとされたところ(マルコ10章17節)から、エルサレムに入る(11章11節)までの箇所はそれほど長くありませんが、ルカ福音書はきょうの箇所から19章44節までがこの旅の間の出来事とされています。ルカはこの大きな部分に、マルコ福音書にはない数多くのエピソードやイエスの言葉を伝えています。
 ルカ福音書によれば、エルサレムへと向かうイエスの旅は、十字架に向かう旅であると同時に、「天」に向かう旅でもあります(51節)。その中でイエスに従う人々には、他者への寛大さと、自分自身への厳しさ(覚悟)が求められます。


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  (1) イエスの時代、サマリア人とユダヤ人は対立していました。もともとは同じ民族でしたが、紀元前10世紀、ソロモン王の死後にイスラエルの王国は南北に分裂しました。北王国はサマリアに独自の聖所を置くようになり、エルサレムの神殿を中心とする南王国から宗教的にも分離してしまいました。さらに紀元前8世紀に北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、サマリアの人々はアッシリア人との混血になってしまったと言われています。この宗教間・民族間の対立という問題は、現代のわたしたちにも通じるものがあります。
 54節の弟子たちの言葉、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」は、かつて預言者エリヤが自分を捕らえに来た兵士たちを焼き滅ぼした故事に基づいています(列王記下1章)。弟子たちにはもちろんそんな力はありません。自分たちの恨みをイエスの力で晴らしてもらおうと考え、「主よ、そうしてください」と言っているようなものです。イエスはこれをはっきり拒否しています。エルサレムへの旅の最初に置かれたこのエピソードは、イエスの旅が軍事的な戦いの旅ではなく、神の愛を告げ、神の愛を生きる旅であることを表しています。

  (2) 57-58節は、このイエスの旅に同行するとはどういうことかを示しています。「人の子には枕するところもない」の「人の子」は、ここでは「わたしのような人間」の意味です。わたしたちの今の現実の中で、「巣穴のない、枕するところのない」というような状況があるでしょうか。
 59節「父を葬る」は、当時の考えでは人間として何よりも大切な義務でしたが、イエスはそれさえも許しません。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」。ここで「自分たちの死者」は実際の死人のことですが、「死んでいる者」は「霊的な意味で死んでいる人」のことでしょう。イエスが指し示している「アッバ(お父さん)」である神とのつながりの中にあるいのちを生きていない人の意味です。

  (3) 列王記上19章20節で預言者エリヤが自分の弟子としてエリシャを召し出した物語(きょうの第一朗読)では、家族と別れのあいさつをすることが許されていますが、きょうの福音の62節のイエスの言葉は、家族へのいとまごいも許しません。「鋤(すき)」は畑をたがやすための農具です。イラストのように、牛やロバに引かせて土をたがやしていくものですが、通常、右手にムチを持ち、左手だけで操作するので、まっすぐ進むためには注意が必要です。「後ろを顧みる」ならば、たちまち曲がった畝(うね)ができてしまいます。
 父の埋葬や家族へのいとまごいは、一般的に言えば悪いはずのないことです。しかし、イエスの言葉は「何をおいても今すぐ従う」ことを要求しています。ルカ福音書の文脈の中でこの緊急性は、イエスがエルサレムに向かう最後の、命懸けの旅を始めることと関連していると言えるでしょう。葬儀の義務や家族へのあいさつが本当の問題なのでしょうか。むしろ、わたしたちに問われていることは、イエスの告げる「神の国」(60、62節)への招きをどこまで本気で受け取るか、ということではないでしょうか。

  (4) 「神の国」の「国」はギリシア語で「バシレイアbasileia」と言いますが、この言葉の元には「バシレウスbasileus=王」という言葉があります。「バシレイア」は本来、「王であること、王となること」を意味する言葉です。英語のkingに対する kingdomと同じだと考えたらよいでしょう。「王としての統治・支配」を意味することもあり、「王が王として支配している国=王国」の意味にもなります。「神が王であること、神が王となること」これがイエスの告げ知らせた福音(=良い知らせ)の中心でした。
 わたしたち現代人は、王がいなくても国は成り立つと考えますので、「神が王となる」と言われてもピンとこないかもしれません。しかし、人間の王の不正な支配によって苦しめられていたイエスの時代のパレスチナの人々にとって、「神が王となる」という神の国のメッセージはすべての不当な圧迫から自由になる「解放のメッセージ」だったのです。
 わたしたちは何によって支配され、圧迫され、不当に抑圧されているでしょうか。お金、市場経済、競争原理、欲望、暴力、エゴイズム・・・? わたしたちがほんとうの豊かないのちを生きることを妨げているすべてのものからの解放、それこそが「神の国」の表しているものなのです。

  (5) 「神の国」とは別の言葉で言えば、「神の愛がすべてにおいてすべてとなること」だと言ったらよいかもしれません。この「神の国」には、まだ来ていない(=いつか完成する)という面と、すでに来ている(=もう始まっている)という面があります。ルカ福音書にはイエスの次のような言葉が伝えられています。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(ルカ11章20節)。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17章20-21節)。
 すでに始まっている神の国とは、わたしたちの間にある神の国とは、どのようなことでしょうか。




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Posted on 2016/06/17 Fri. 22:12 [edit]

category: 2016年(主日C年)

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年間第12主日 (2016/6/19 ルカ9章18-24節)  


教会暦と聖書の流れ


 この箇所は、いわゆる「ペトロの信仰告白」と「最初の受難予告」の箇所です。B年年間第24主日に読まれるマルコ8章27-35節やA年年間第21、22主日に読まれるマタイ16章13-27節に並行した箇所です。ルカ福音書とマタイ福音書は、マルコ福音書を基にしながら、少しずつ違う仕方で自分の福音書を書きました。ここでは、マルコやマタイの福音書との違いに注目しながら、ルカの特徴を見ていきましょう。


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  (1) 18節「イエスがひとりで祈っておられた」と伝えているのは、ルカ福音書の特徴です。ルカはさまざまな場面、特に重大な場面でイエスの祈る姿を伝えています(3章21節、5章16節、6章12節、9章28節、11章1節、22章41節など)。ここでもご自分が誰であるかを弟子たちに問いかけ、これからのご自分の歩みを弟子たちに予告するという非常に大切なことを行なう前にイエスは祈ります。祈りの中で神のみ旨(望み)を確認しようとしているかのようです。
 イエスについてのうわさのことは少し前の7-9節にもほとんど同じ言葉で伝えられています。そこでもイエスは、「ヨハネ」「エリヤ」「だれか昔の預言者」の再来ではないか、と言われていました。「ヨハネ」は洗礼者ヨハネのこと、「エリヤ」は紀元前9世紀に北イスラエルで活動した預言者です。さまざまな奇跡物語などによって民衆に親しまれていた預言者ですが、生涯の終わりに火の車に乗って天に上げられたと伝えられています(列王記下2章)。そこから、エリヤは決定的な神の裁きの時に再び天から遣わされると信じられるようになりました(マラキ3章23節参照)。

  (2) ほとんど同じ言葉で伝えられているイエスについてのうわさの話、この2つの箇所の間に、5つのパンと2匹の魚を5,000人の人に分けた出来事があります(9章10-17節。なお、この箇所はC年の「キリストの聖体」の祭日のミサの福音でもあります)。そのように見ると、5つのパンと2匹の魚の出来事とは、「イエスとは本当にどういう方か」を示す出来事だったとも言えるでしょう。この出来事を通して、イエスこそが人々に豊かないのちを与える救い主なのだということが明らかにされるのです。
 食事をとおして、イエスがどのような方が明らかにされるということは、復活後にエマオの弟子たちと共にした食事でも起こることです。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった・・・」(ルカ24章30-31節)

  (3) ペトロの答えは「あなたは、神からのメシアです」というものでした。「メシア」はアラム語で、この箇所のギリシア語原文は「クリストスchristos(=キリスト)」です。新共同訳聖書では、この「クリストス」が称号として使われている場合は「メシア」と訳しています。どちらも「油注がれた者」の意味で、神が決定的に世に遣わされる救い主を意味する言葉です。
 また、「神からのメシア」と訳されている言葉は「神のメシア」と訳すこともできます。ルカは「神から油を注がれた救い主」という意味で、こう言っているのでしょう。なお、マルコ8章29節(この箇所の並行箇所)では、ただ単に「あなたはクリストスです」と言われているだけです。またマタイ16章16節では、「あなたはクリストス、生ける神の子です」と言われていて、その後にペトロに向けた特別な言葉が続いています。有名なペトロの信仰告白の言葉ですが、3つの福音書の間にはこのように微妙な違いがあります。

  (4) 22節の「人の子」はもともと「人間一般」を指す言葉でしたが、ダニエル7章13節から、神が遣わす決定的な「ある方」を指すようになりました。福音書の中では、この箇所のようにイエスがご自分のことを指して「人の子」と言っている箇所があります。
 「~ことになっている」と訳された言葉は、ギリシア語では「デイdei」という非人称動詞で、「~ねばならない」とも訳されます。これは神の計画の中で定められたことを意味しています。マルコ8章32-34節やマタイ16章22-23節には、受難を予告するイエスをペトロがいさめ、イエスに叱られる話がありますが、ルカ福音書にはありません。また、マルコやマタイでは、三度目の受難予告の後で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ(あるいはその母)がイエスに高い地位を願った話がありますが、ルカはそれも省いています。ルカは、イエスの弟子たち(すなわち、初代教会の指導者たち)に対する尊敬の気持ちからこれらの話を省いたのでしょうか。

  (5) 23節の「日々」はルカの特徴で、マルコやマタイにはありません。十字架を背負ってイエスに従うことは、一生に一度のことではなく、毎日のことであることが強調されています。「自分を捨て」「十字架を背負って」「従う」はそれぞれ別々のことではなく、すべて同じことを指しています。そのどれもがイエスの生き方に結ばれて生きることなのです。わたしたちにとって「日々十字架を背負う」とはどういうことでしょうか。
 24節では、同じ「命」という言葉が、「この世の命(滅びゆく運命にある肉体的な生命)」と「終わりのときに神から与えられえる永遠の命」という2つ意味で使われています。くわしく言えばこういうことになります。「自分の(この世の)命を救いたいと思う者は、それ(=本当の自分の命=永遠の命)を失うが、わたしのために自分の(この世の)命を失う者は、それ(=本当の自分の命)を救うのである(つまり、永遠の命を得ることになる)」。




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Posted on 2016/06/10 Fri. 07:00 [edit]

category: 2016年(主日C年)

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年間第11主日(2016/6/12 ルカ7章36節~8章3節)  


教会暦と聖書の流れ


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 C年年間主日のミサの福音では、ルカ福音書を用いてイエスの活動を追っています。きょうの箇所はガリラヤでの活動中の出来事ですが、この話はルカ福音書だけが伝えています。直前の7章34-35節に、「(あなたがたは)人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人(つみびと)の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」という言葉がありますが、この出来事はその具体例とも言えるでしょう。なお、朗読箇所には短い形(ルカ7章36-50節)もあります。


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  (1) ファリサイ派は、律法と律法学者によるその解釈(=口伝律法)を重んじ、それらを守ることに熱心だったグループです。「ファリサイ」という言葉は「分離する」という言葉から来ているようです。彼らは自分たちを、律法を知らず、守ってもいない一般民衆から分離した者と考えていました。当時のユダヤ人社会の中での宗教的なエリートだったと言えるでしょう。そのファリサイ派のシモンがイエスを招待したのは、イエスのことを「この人は預言者かもしれない」と思っていたからのようです(39節参照)。彼はそのイエスと親しく接したいと願ったのでしょう。イエスがファリサイ派の人から招待を受けた例は他にもあります。ファリサイ派の人々は次第にイエスに敵意を抱くようになりますが、イエスの側(がわ)から誰かを拒絶することはありませんでした。

  (2) 37節「この町に一人の罪深い女がいた」。何の説明もなく「罪深い女」と呼ばれていて、彼女が罪びとであることは町中の人が知っていたようですから、この女性は娼婦のような女性だったのでしょうか。その彼女が、ファリサイ派の家で行なわれた会食の席に入って行き、イエスに近づくというのはどれほど大胆な行動だったことでしょう。彼女はイエスの説教を聞いたことがあったのでしょうか。ただイエスについてのうわさを聞いていたのでしょうか。とにかく自分のどうしようもない状態を救ってくれるのはこの方しかいないと感じていたのでしょう。37-38節「香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」。彼女はイエスに対して精一杯の尊敬と愛情を表します。彼女の涙はもちろん、自分の罪深さに対する痛悔の心の表れです。ここでイエスは何もしていません。彼女の思いと彼女の行為をそのまま受け入れて、彼女のするままにさせています。ファリサイ派のシモンにはそれが理解できません。預言者なら、こんな罪深い女性を受け入れるはずがない、と彼は考えたのです。

  (3) 41-42節の短いたとえは、なぜイエスが彼女の行為を受け入れているかを示しています。罪のゆるしが借金の帳消しにたとえられる箇所は他にもあります。マタイ18章23-35節には、主人から莫大な負債を免除されながら、仲間のわずかな負債をゆるさない僕(しもべ)のたとえがあります。主の祈りの中で「わたしたちの罪をおゆるしください」というときの「罪」と訳された言葉も、本来「負債」を意味する言葉です(マタイ6章12節)。
 人は罪を犯したとき、それを神に対する負債のように感じます。なんとかそれを自分の力で清算したいと願いますが、実はそれは不可能です。罪のゆるしとは、どうにも返すことができない借金を帳消しにしてもらうようなことです。なぜ神は人の借金を帳消しにするのか、その理由はここではただ一つ、「返す金がなかった」(ルカ7章42節)からです。罪のゆるしとは、借金で首がまわらず、そのままでは生きていけない人間をそれでも神が生かそうとすることだと言うことができるでしょう。
 
  (4) ファリサイ派の考えでは、借金はきちんと返すべきであり、罪は償うべきものでした。自分たちも罪を犯すが、それは償いのわざによってちゃんと清算している、と思っていたのです。しかし、イエスの目の前にいた多くの民衆にとって償いをきちんと果たすことは不可能でした。この女性はなおさら負債を返すあてなどありませんでした。そこで彼女は最後の希望をイエスに賭けたのでしょう。人は神に対する借金を返すことはできません。そして、それでも神はその罪びとを拒否するのではなく、その人を愛し、受け入れ、生きることができるようにしてくださる、これがイエスのもたらした罪のゆるしのメッセージでした。人が神とのきずなを取り戻し、人と人とが互いに兄弟姉妹としてのきずなを取り戻すことこそが父である神の望み。シモンにそれは伝わったでしょうか?

  (5) 新共同訳聖書は47節を「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」と訳していますが、直訳では「この人はわたしに大きな愛を示したから、その多くの罪はゆるされている」です。文脈から言えば、新共同訳のようにとるのが自然でしょう。イエスはこの後48節で「あなたの罪は赦された」と宣言します。物語の流れでは、女性の愛の行為が先にあり、最後にイエスのゆるしがあるというように見受けられますが、本当は彼女の行為を受け入れたイエスの姿の中に、すでにゆるしが存在していたと言うべきでしょう。わたしたちはこの神の(イエスの)ゆるしをどのように受け取っているでしょうか、そしてどのようにそれに応えようとしているでしょうか?
 なお、8章2節の「七つの悪霊」とは、マグダラのマリアが多くの病気を抱えていたことを表す表現のようです。7章の「罪深い女」と8章の女性たちの誰かを同じ人だと考える根拠はありません。ただ、イエスの時代の女性たちは心と体にさまざまな苦しみを抱えていました。彼女たちにとって、イエスの存在と行動は大きな救いとなったに違いありません。




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Posted on 2016/06/03 Fri. 21:30 [edit]

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