福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第19主日 (2016/8/7 ルカ12章32-48節)  

教会暦と聖書の流れ


 ルカ福音書で、イエスのエルサレムに向かう旅の段落(ルカ9章51節~19章44節)が続いていますが、この中で、ルカはイエスのさまざまな教えを伝えています。この旅は十字架を経て神のもとに行く旅ですが、同時に、神の国について語り続ける旅でもあったのです。きょうの箇所は、先週の「おろかな金持ち」の話の後、「思い悩むな、ただ神の国を求めなさい」という教え(22-31節)に続いて語られる言葉です。


福音のヒント


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  (1) 32節「小さな群れよ、恐れるな」。これはもちろんイエスと共にエルサレムへの旅をしていた弟子たちに向けられた言葉です。イエスが今のわたしたちにも同じように呼びかけてくださっていると感じてみてはどうでしょうか。「父は喜んで神の国をくださる」という喜びの雰囲気も感じたいものです。イエスは弟子たちの心を、目先の利害・損得ではなく、もっと大きな、過ぎ去ることのない「神の国」の喜びのほうに向けさせようとしているのです。「持ち物を売り払って施しなさい」「富を天に積みなさい」(33節)も、難しい命令というだけではありません。わたしたちはイエスの言葉を、本当にすばらしい、豊かないのちへの招きとして受け取ることができるのではないでしょうか。

  (2) 「主人が帰ってくる」(36-38節)、「人の子が来る」(40節)というのは終末のイメージです。聖書が語る世の終わり、あるいは個人の終わり(死)についての教えの中ではいつも2つの確信が示されています。1つは「今のこのときは終わる、過ぎ去る」ということ、そしてもう1つは「そこで神(あるいは、キリスト)との決定的な出会いがある」ということです。この終末についての教えは聞く人の状況によって、希望のメッセージにもなれば、警告のメッセージにもなります。
 (a) 希望のメッセージ
 本来、聖書の中で「世の終わり」が語られるようになった背景は、迫害や極度の苦しみという状況でした。「信じれば信じるほど現実には救いが見えなくなる」という状況の中で、「今この世を支配している悪の力がすべてではない」「この悲惨な現実を超えて(死さえも超えて)、神はもっと豊かな救いを(いのちを)与えてくださる」これが終末のメッセージの大切な1つの面です。
 (b) 警告のメッセージ
 他方、迫害や苦しみの中ではなく、「なんとなくいい加減に生きている」というとき、終末のメッセージは厳しい警告のメッセージになります。最終的に神に出会い、神の目から見たときに何が本当に価値あるものなのかが明らかになる(この神の判断を「裁き」と言うのです)。今わたしたちが求めているもの、大切にしているものは、神の目から見たら正しいのかどうか、そのことを強烈に問いかけるのです。
 きょうの福音の中にもこの両方の面があります。わたしたちは自分の状況をどう感じているでしょうか。そこからこのメッセージをどのように受け取ることができるでしょうか。

  (3) 「目を覚ましている」という言葉は、考えてみると少し分かりにくいところがあります。「泥棒に入られないようにいつも警戒している」(39節)と言うたとえは分かりやすいのですが、そうすると、来るべき神の国が「災い」であるかのように聞こえてしまう恐れがあります。むしろ「目を覚ましている」というとき、「主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている」(36節)というイメージが大切でしょう。この僕(しもべ)は、主人が来るのを心から待ち望んでいます。主人のほうにいつも心を向けているのです。ルカ21章36節には、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」という言葉があります。祈りとは何よりも心を神に向けることです。自分の思いや、反省や、願いを自分の心の中でどうどう巡りさせているのが、祈りではありません。それらを突き抜けて心を神に(イエスに)向けていくこと。ルカ福音書の「目を覚ましていること」とはそういうことだといったらよいかもしれません。わたしたちにとって「目を覚ましている」とはどういうことでしょうか。

  (4) 37節の「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」というのは非常に印象的な姿です。常識的には、いくら僕がよくやったからと言って、そこまでする主人はいないでしょう。しかし、イエスの姿はまさにそうだったと言えます。マルコ10章45節に「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」という言葉がありますが、イエスの生き方は、主でありながら人々に仕える生き方そのものでした。僕にとって主人から給仕されることが喜びなのではありません。むしろ、仕えることを喜びとする主人(イエス)の心を、本当に深く受け取ることこそが大切なのだと言えるのではないでしょうか。

  (5) 35-40節がすべての弟子のあるべき態度を語っているのに対して、41節以下は教会の中の特定の人々、責任を負った人々のことを語っているように聞こえるでしょうか。確かに「主人が召し使いたちの上に立て・・・(た)・・・管理人」というのは教会の指導者のことだと考えるのが一般的な解釈です。
 ところで、彼らはなぜ厳しく責任を問われるのでしょうか。立場上、大きな責任を負わされているから、というだけでなく、「彼らは主人の思いを知っているはずだ」という点は大切でしょう。そうだとすれば、ここで語られている管理人のあり方についての教えは特定の指導者だけでなく、「主人の思いを知っている」すべての人にかかわる教えだとも考えられます。「多く与えられた者」「多く任された者」というのも、わたしたち一人一人が自分自身のことだと受け取ってみてはどうでしょうか。




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Posted on 2016/07/29 Fri. 19:10 [edit]

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年間第18主日 (2016/7/31 ルカ12章13-21節)  

教会暦と聖書の流れ


 きょうの箇所も、ルカ福音書の「エルサレムへの旅の段落」(ルカ9章51節~19章44節)の中の箇所です。この旅は十字架を経て神のもとに至る旅ですが、この中でルカ福音書は神の国について語るイエスの多くの言葉を伝えています。
 先週の箇所からは少し飛んでいますが、その間(ルカ11章14節~12章12節)にある話の多くは、マタイやマルコと共通するので、他の年に読まれています。きょうの話はルカ福音書だけが伝えている話です。


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  (1) 「ラビ(先生)」と呼ばれるユダヤ人たちの宗教指導者は、宗教的な教えだけでなく、実際の人々の生活の中での相談に乗ったり、もめごとの裁定にもかかわったようです。遺産分配のことでイエスに訴えた人は、そのようなラビの1人としてイエスを見ていたのでしょう。イエスの言葉の内容についてはほとんど何も説明する必要がないでしょう。できるだけ素直にイエスの語りかけを、問いかけを、呼びかけを聞けばよいのです。たぶん、そこには今のわたしたちの生き方への強烈なチャレンジが感じられるでしょう。わたしたちの多くにとって、「お金」の問題や、人と人とのトラブルの問題は切実だからです。

  (2) 富を蓄えることへの警告という点では、申命記の次の言葉が思い出されます。
「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖(ふ)え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない 乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。」(申命記8章13-18節)
 紀元前13世紀、神によってエジプトの奴隷状態から救い出されたイスラエルの民は、40年の荒れ野の旅を経て、約束の地を目の前にしたヨルダン川東岸にたどり着きました。申命記の中心部分は、指導者であるモーセがそこにあるネボ山の山頂に立ち、約束の地を見渡しながら語る説教です。モーセは民に40年の荒れ野の旅を思い起こさせ、その意味を解き明かし、約束の地に入ってからどう生きるべきかを語ります。そこにある一つの危険が「富を蓄えること」でした。荒れ野では、毎日ぎりぎりの食べ物しかなかった。でもだからこそ一日一日神によって養われていることを感じないわけにはいかなかった。しかし、富や作物を蓄えると「主を忘れる」というのです。
 わたしたちの中にも、本当に苦しいとき、どん底の中でこそ神に支えられたという体験があるかもしれません。そしてそれをいつの間にか忘れているのかもしれません。

  (3) 自分の力でなんとかしよう、人間の力ですべてをうまくやっていこう、とわたしたち現代人は考えます。そのためには、やはりお金が必要だ、ということにもなります。確かにこの世界の中では、金持ちのほうが高度な医療を受けられるし、発展途上国の人には充分な医療が行き届かない、というような現実があります。まさに「人の命は財産によってどうすることもできる」、というような世界もあるのです!
 しかし、もし人間の力やお金の力ですべてがなんとかなると感じているならば、おそらく「神は不要」になるでしょう。人間の無力さや限界を知るということはそういう意味で大切なことです。おそらく、人間にとってもっとも顕著に「無力さ・限界」を感じるのは、死に直面したときです。そして「今夜、お前の命は取り上げられる」・・・いつ自分の死が訪れるか、本当はだれも知らないのです。その時、富は頼りにならない、本当に問われるのは「神の前に豊かになる」ということなのだ、とイエスは語ります。

  (4) 末期ガンの人々のケア(ターミナル・ケア)の中で「生命の質(quality of life)」ということがよく語られるようになりました。迫り来る死を前にしたときに、いのちの「量(長さ)」ではなく、「質(残された時間をどのように充実して生きるか)」が問われるのです。
 「趣味の世界に生きる」とか「大自然の美に触れる」など、人生を豊かにするものはいろいろあります。しかし、突き詰めて言えば、人間を超えたもの・目に見えないものとのつながりを生きること、そして、人と人との愛のつながりを生きることこそが、本当に豊かないのちを生きることであり、そのいのちは肉体の死をも越えるものである、とわたしたちキリスト者は信じています。自分の肉体の中にある孤立した生命のイメージではなく、神とのつながりの中にあるいのち、人との間の愛の交わりの中にあるいのちを感じること、それを「スピリチュアルspiritualな感覚」と言うこともできます。
 イエスご自身が、十字架の死に向かう中で、そのような「いのちの質」を極限まで生き抜かれました。「神の前に豊かになる」いのちとは、イエスの十字架の中にあるいのちだと言ったらいいのかもしれません。

  (5) きょうの箇所の発端は「兄弟との間のもめごと」でした。わたしたちの周囲にもよくある問題でしょう。しかし、ぎりぎりのところで問われるのは、損得ではなく、その人と共に生きることを喜べるかどうかということではないでしょうか。死を前にして、家族や友人との和解を望んだ人、そして実際に和解することのできた人の姿は感動的です。逆に、その和解を妨げるものが「貪欲」だと言っても良いのではないでしょうか。
 わたしたち一人一人の中に、おそらく両方の面があります。
 わたしの中にある「貪欲」とはどんなものでしょうか。
 わたしの中にある「神の前での豊かさ」とはどんなものでしょうか。





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Posted on 2016/07/22 Fri. 15:28 [edit]

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年間第17主日 (2016/7/24 ルカ11章1-13節)  


教会暦と聖書の流れ


 ルカ福音書のエルサレムへの旅(神の国について語り続ける旅、十字架を経て天に向かう旅)の段落の中の箇所です。「祈り」についての教えですが、イエスの時代のユダヤ教の各グループには、それぞれのグループの特徴を表す典型的な祈りがあったようです。ルカはこの「主の祈り」をイエスに従う者の生き方を表す祈りとして考えているようです。


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 (1) 「主の祈り」は新約聖書の中に2つの形で伝えられています。この箇所と、もう1つはマタイ6章9-13節です。イエスが教えた1つの祈りが繰り返し唱えられ、アラム語からギリシャ語へ翻訳されていく中で、2つの形になったと考えられます。
 大切なのは、わたしたちがこの祈りをどのような思いで祈っているか、この祈りがどのようにわたしたちを支え、導いていてくれるかということでしょう。
ただ、主の祈りの言葉はけっして分かりやすいとも言えませんので、ここではいくつかの言葉を簡単に解説しておきます。
この祈りの最大の特徴は、「父よ」という単純な呼びかけです。マタイにある「天におられるわたしたちの」は礼拝の中で唱えられていくうちに付け加えられた言葉でしょう。「父よ」。これはイエスご自身が神に祈ったときの言葉でした。マルコ福音書のゲツセマネでの祈りでは「アッバ、父よ」とアラム語も伝えられています。「アッバ」は子どもが父親を呼ぶときの言葉です。信頼を込めてイエスは神に向かってこのように呼びかけました。ルカ福音書の中では、十字架のイエスの祈りが印象的です(23章34、46節)。

  (2) 「み名が崇(あが)められますように」は直訳では「あなたの名が聖とされますように」です。「名」は単なる「呼び名」ではなくそのものの本質を表します。「神の名」とは「神ご自身」の意味なのです。イザヤ29章23節のように「人々が聖とする」ととれば、「人々が神を神として認めるようになる」という意味になりますが、エゼキエル36章23節のように「神がご自分の名を聖とする」という意味にもとれます。この場合は、「神が救いの力を示すことによって、ご自分が神であることを現す」という意味になります。
 「み国が来ますように」は「神の心がすべてにおいてすべてとなりますように」ということだと言ってもよいでしょう。マタイ福音書は「み心が天に行われるように地にも行われますように」ということばを付け加えていますが、これは「み国が来ますように」を言い換えたものだと考えることができます。

  (3) 「必要な糧」。「糧」は直訳では「パン」ですが、ここで生きるために必要なすべてを願っています。なお、ルカが「毎日」というところをマタイでは「今日」と言います。
 「わたしたちの罪を赦(ゆる)してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」の祈願はマタイと少し違います。マタイのほうを直訳すると「わたしたちも自分に負い目のある人をゆるしましたから」となります。現在カトリック教会で用いられている訳は、後半が「わたしたちも人をゆるします」となっていて、前半とのつながりがはっきりしないかもしれません。これは「ゆるす」と宣言しているのではなく、「ゆるしてください。そうすれば、わたしも人をなんとかゆるしたいし、ゆるすことができるようになるからです」というニュアンスで受け取ればよいのではないでしょうか。
 「わたしたちを誘惑に遭(あ)わせないでください」は切羽詰まった叫びのような終わり方です。マタイはこれに「悪(悪い者)から救ってください」という言い換えを付け加えて、礼拝にふさわしい形を整えています。「誘惑に遭わせないで」という訳も可能ですが、むしろ「誘惑に陥らせないでください」のほうがよいでしょう。誘惑が来ることは避けられない(ルカ17章1節)、ただその中で、神から離れてしまわないように守ってください、という祈りだと受け取るべきではないでしょうか。

  (4) 5-8節のたとえ話は、「しつように頼む」ことを勧めています。マタイの教会はユダヤ人キリスト信者の共同体でしたから、祈ること自体はよく知っていて、その祈りが表面的・偽善的にならないように教える必要があったのに対し、ルカの教会は異邦人の教会ですから祈りの必要性そのものを教える必要があったのでしょう。そこで「とにかく祈りなさい。神は必ず聞いてくださるのだ」ということが強調されています。9節「求めなさい。そうすれば与えられる…」は有名なことばです。ここで「与えられる」は「神が与えてくださる」の意味です。祈りに魔術的な効果があるというよりも、神が必ず祈りを(人間の叫びを)聞いてくださるということが大切なのです。

  (5) わたしたちの中には、「祈ったら自分の思いがかなえられた」という体験もあるかもしれませんが、「祈っても祈っても自分の願いはかなえられなかった」という体験もあるでしょう。でもそれだけでなく、「祈って自分の思い通りにはならなかったけれど、何かが変わった」という体験もあるのではないでしょうか。13節では「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われています。それはどういうことでしょうか。3つのヒントだけ示します。
(a) 聖霊は「神の力」です。祈りの中で与えられるのは神からの力だと言えるかもしれません。その力で困難を乗り越えることができた、という体験があるかもしれません。
(b) 聖霊は「神と人・人と人とをつなぐ力」です。祈りの中で神とつながっていること、人と人とがつながっていることを感じ、励まされたという体験もあるかもしれません。
(c) マタイ7章11節では、「天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」という言葉が伝えられています。自分が思うものとは違っても、結局一番「良い物」が与えられたという体験も、わたしたちの中にあるのではないでしょうか。
 このように「祈りの中で何かが与えられた」「自分が変えられた」という体験を分かち合うことができれば、本当にすばらしいことでしょう。




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Posted on 2016/07/15 Fri. 14:18 [edit]

category: 2016年(主日C年)

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年間第16主日 (2016/7/17 ルカ10章38-42節)  


教会暦と聖書の流れ


 先週の「善いサマリア人のたとえ」同様、エルサレムへ向かう旅の段落に置かれた、ルカ福音書だけが伝える物語です。この旅は十字架を経て天に向かう旅であると同時に、神の国について語り続ける旅でした。ですからきょうの箇所も、福音書の文脈の中では、「イエスの語る神の国の言葉を聞く」というテーマで受け取るとよいかもしれません。
 伝統的にはよく、マリアを「観想型人間」、マルタを「活動型人間」の典型と見るような読み方がされてきました。それは「観想型のほうが優れている」という見方にもつながってきます。「どうせわたしはマルタだからダメよね」という嘆きをよく耳にします。しかし、もっといろいろな読み方ができるのではないでしょうか。今回はこの短い物語のいろいろな味わい方を紹介します。


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  (1) マルタのようにもてなすことよりも、マリアのように主の言葉を聞くことのほうが大切だとイエスは考えているのでしょうか。もちろん、イエスはご馳走を期待しているのではなく、自分の言葉を聞いてほしいと思っていたことでしょう。しかし、イエスはマルタの奉仕そのものを否定しているのではないということも大切です。「もてなす」はギリシア語で「ディアコネオーdiakoneo」ですが、この言葉は「仕える、奉仕する」とも訳される言葉で、イエスとイエスの弟子たちの生き方の中心にあるものを表す言葉です。マルコ10章43-45節「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。また、「マルタ、マルタ」というイエスの呼びかけも親しみを込めた呼びかけです(ルカ22章31節の「シモン、シモン」のように」)。
 もし、マルタの奉仕自体が問題でないとするならば、問題は彼女がイエスに向かって不平不満をいう態度、あるいは妹を評価しない彼女の姿勢なのではないでしょうか。

  (2) 当時の社会では、男女の役割には明確な区別がありました。宗教的な勤めは第一に男性がすべきことであり、女性には聖書を学んだり、礼拝するという義務がありませんでした。女性は自分の時間の主人とは見なされなかったからです。「役割分担」と言うよりも女性はまったく従属的な位置に置かれ、神に仕える男性に奉仕することが要求されたのです。このようなことを考えると、マルタのしていたことは当時の女性として当然の役割を果たしていたということになるでしょう。一方のマリアのように家事もせずに、先生の話を聞くというのは女性としては普通ではないことになります。マルタの不満は当時の社会の常識からすれば当然とも言えます。ここでイエスはそのような男女の役割分担を否定して、マリアの態度を弁護しています。それは「男も女も神の言葉を聞いていいのだ。それはだれにでもできることであり、それがもっとも大切なことなのだ」という画期的な宣言だと言えるのではないでしょうか。

  (3) マルタは当時の常識からマリアを非難しているだけではないでしょう。マルタの心の中にあった思いは、一方で、「自分も本当はイエスの話を聞きたいのに、女だから仕方なく家事をしている」ということであり、他方、「でも家事なら誰にも負けない。わたしは働き者で、マリアは怠け者だ」ということでもあったのでしょう。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」というイエスの言葉は、料理のことだけでなく、このような優越感と劣等感の狭間(はざま)で悶々(もんもん)としているマルタの心の状態を指摘しているのではないでしょうか。イエスの言葉はマルタにとって耳の痛いものであったかもしれません。しかし、固定化された男女の役割分担に縛られ、人と人との比較の中でしか自分や姉妹を見ることのできなかったマルタにとって、そこから解放されるための本当の「福音」だったのではないでしょうか。それはついつい他人との比較の中で自分を見てしまうわたしたちにとっても解放のメッセージなのではないでしょうか。

(4) マルタとマリアという姉妹は、ヨハネ福音書にも登場します。物語自体も場所も違いますが、この姉妹の性格に関しては不思議なほど共通するところがあります。ヨハネ11章20節でも「マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた」とあります。マルタはそこでも不平不満とも取れるような言葉をイエスに向けて発しました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)。マルタはこのように率直にイエスに向かって自分の思いをぶつけていますが、イエスはそれに答えてくれます。このことはわたしたちの祈りについての大きなヒントになるかもしれません。
 ルカ10章40節のマルタの言葉のように、「主よ、こんなに変なことが起こっているのに、あなたはなんともお思いになりませんか?」と言いたくなることがわたしたちにもあるでしょう。ヨハネ11章21節のように「主よ、もしあなたがここにいてくださったら、こんなにひどいことは起こらなかったでしょうに」と訴えたいことだってあるかもしれません。 マルタはそういう思いをストレートにイエスにぶつけるのです。そして、イエスからの答えをいただきます。わたしたちの祈りがあまりに形式的なきれい事になっているとしたら、このマルタの祈りに学んでみてもよいのではないでしょうか。

  (5) 結局のところ、マルタもイエスの言葉を聞いたのです。それどころか、マリアが聞いたはずの多くの言葉ではなく、マルタの聞いた短い言葉が、今のわたしたちに伝えられています。「必要なことはただ一つだけである。」この言葉はマルタにとっては、さまざまな思いから自分を解放してくれる福音だったのでしょう。きょうの福音は、わたしたちがどんな思いに縛られているか、わたしたちにほんとうに必要なことはなんなのか、と問いかけてきます。それは、今のわたしたちにとっても福音だと言えないでしょうか。




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Posted on 2016/07/08 Fri. 09:21 [edit]

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年間第15主日 (2016/7/10 ルカ10章25-37節)  


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 エルサレムへの旅の段落に置かれた、ルカ福音書だけが伝える話です。この旅は十字架を経て天に向かう旅(9章51節)であると同時に、神の国を告げる旅(9章60、62節、10章9節)でした。きょうの箇所の前には、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これはみ心にかなうことでした」(21節)というイエスの言葉があります。ここでは、その「知恵ある者・賢い者」の代表である律法学者が登場してイエスと議論します。この文脈から見れば、たとえ話のサマリア人の姿の中にこそ「神の国」が実現している、とも言えるのではないでしょうか。


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  (1) 律法学者(律法の専門家)は、律法を人々に教え、律法によって民衆を指導していた人々でした。27節で律法学者が引用する「神を愛し、隣人を愛する」ことは、申命記6章5節とレビ記19章18節に記された律法の言葉です。マタイ22章37-39節やマルコ12章29-31節でこの2つの箇所を引用するのはイエスご自身ですが、ここでは律法学者のほうが引用しています。それに対して、イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすればいのちが得られる」と言っています。神への愛と隣人への愛という2つの掟が重要だとする点では、イエスと律法学者との間に意見の違いはありません。
 29節で律法学者は、自分を正当化しようとして(直訳は「自分を義として」)、「わたしの隣人とはだれか」と問います。何が大切な掟かという点でイエスと同意見でも、隣人愛の掟の受け止め方は大きく違います。律法学者は次のように考えたようです。「そもそも『隣人』とはすべての人の意味ではなく『近くにいる人』の意味である。ではどの範囲までが隣人なのか」律法学者がなぜこんなことを考えるかといえば、それは彼らが律法を忠実に守ろうとし、この隣人愛の掟も厳密に実行しようとしたからです。彼らの考えでは隣人を愛するためにはまず「隣人とは誰か」を定義しなければならないのです。確かに「隣人」という言葉自体は、本来身近な人を指しますから、すべての人を含んでいるとは言えないでしょう。そして、この律法学者の考えの中には「罪びとや異邦人は遠ざけるべきもの、排除すべきものであり、まさか隣人愛の掟の対象であるはずはない」ということもあったにちがいありません。

  (2) イエスがいつも見つめていたのは、神の望み・神のこころでした。「律法の字句をいかに正しく解釈するか」というのではなく「そこに表されている神のこころは何か」ということをイエスは問いかけます。「わたしの隣人とはだれですか」という問いに、イエスは「だれが隣人になったと思うか」と問い返されます。神が求めていること、神の望みが、「隣人の範囲を決めて、隣人愛の掟を守る」ことではなく、「目の前の苦しむ人に近づくことによって、隣人になっていく」ことであるのは明白です。
 たとえ話の内容については、それほど説明はいらないでしょう。
 祭司とレビ人は、両方とも神殿に仕えている人であり、真っ先に律法を実行するはずの人でした。彼らは道端に倒れている人を「見ると、道の向こう側を通って行った」とあります。彼らは神殿での務めのために、死体に触れて汚(けが)れることを避けようとしたのでしょうか、一方で、三番目に登場したサマリア人(律法学者の考えでは「隣人」ではありえない人)は「見て憐れに思い、近寄って」手厚く介抱します。この違いはなんでしょうか。

  (3) ここで使われている「憐れに思い」と訳された言葉に注目すべきです。これはギリシア語で「スプランクニゾマイsplanknizomai」という言葉です。この言葉は「スプランクナsplankna(はらわた)」を動詞化したもので、「人の痛みを見たときに、こちらのはらわたが痛む」「はらわたがゆさぶられる」ことを意味する言葉です。日本語の「胸を痛める」に近いかもしれませんが、沖縄には「肝苦りさ(チムグリサ)」と言う言葉があるそうです。ある人はあえて「はらわたする」と訳しました。このサマリア人は「レビ記には『隣人を愛せ』という律法があった。この人は隣人だから助けよう」と思ったわけではありません。「はらわたした」から助けたのです。目の前の人の苦しみを見たときに、その苦しみを体で感じるから、ほうってはおけなくなるのです。イエスは、人間には誰でも(ユダヤ人でもサマリア人でも)こういう心があるはずだ、と考えていて、それが神から見てもっとも大切なことであり、その心と心からの行動があるところに神の意思が実現している(もう神の国が始まっている)と語っておられるのでしょう。

  (4) 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」というレビ記19章18節の律法は、その直前に「兄弟、同胞」などという言葉がありますので、やはり本来はすべての人というよりも、ある範囲の中の人(身近な人)を指しているようです。しかし、同じ19章にはこういう言葉もあります。「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」(19章33-34節)。
 律法の前提には、いつも神の救いのわざがあります。エジプトで寄留者だったイスラエルの民を救ってくださった神の愛を知った民はどう生きるべきか、これがいつも律法の指し示していることです。律法は人間を採点するための掟ではなく、本当に問われていることはいつも、この神の愛にどのように出会い、どのように応えるかということなのです。
 愛について言葉を費やすことはむなしいことでしょう。「行ってあなたも同じようにしなさい」(37節)、これに尽きるのです。わたしたちの現実はどうでしょうか。わたしたちの中にも、「見て、はらわたして、近寄って行く」という体験があるはずです。しかし、いつもそうとは限らず、「見ても、はらわたしない」ということもあるでしょうし、「見て、はらわたしても、近寄っていかない(いけない)」ということだってあるでしょう。そんなわたしたちにきょうの福音のたとえ話はどんな光を与えてくれるでしょうか。




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Posted on 2016/07/01 Fri. 05:30 [edit]

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