福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第32主日 (2016/11/6 ルカ20章27-38節)  


教会暦と聖書の流れ


 教会の暦ではもう「年間」の終わりに近づいています。きょうの年間第32主日、来週の年間第33主日、そして再来週の「王であるキリスト」の祭日(年間最後の主日)の3つの主日は「終末主日」と呼ばれています。「終わり」(世の終わり、あるいは、個人の終わりである死)ということに思いを馳せるときです。
 福音の内容は、復活についてのサドカイ派との問答です。ルカ福音書19章45節から、イエスはエルサレムの神殿で活動を始め、当時の宗教的指導者たちと論争しました。イエスと彼らとの対立は深まるばかりで、イエスご自身の受難と死の時が迫ってきています。


福音のヒント


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 (1) サドカイ派は、ファリサイ派と並ぶイエス時代のユダヤ教の一派です。彼らの名「サドカイ」は祭司の名から来ています。彼らは当時のエルサレムの神殿の権威や富と結びついていた裕福なグループでした。ファリサイ派がモーセ五書(律法の書、創世記~申命記)以外の預言書や口伝(くでん)律法を大切にしていたのと異なり、サドカイ派はモーセ五書のみを正典と考えました。モーセ五書には「復活」について明確に述べている箇所はありません。イスラエル民族はもともと、人は死ぬと先祖の列に加えられる、そこは「シェオール=陰府(よみ)」と呼ばれるところで、そこでは生きている人との関わりも神との関わりもなくなってしまう、と考えていたようです。

  (2) 旧約聖書の中で「復活」ということがはっきりと語られるようになるのは、ダニエル書の12章とマカバイ記二の7章です(マカバイ記はヘブライ語聖書には含まれていませんが、カトリック教会では「第二正典」とされています。なお、このマカバイ記の箇所はきょうの第一朗読で読まれます)。
 これらの箇所が書かれた時代は、紀元前2世紀の迫害と殉教の時代でした。紀元前4世紀、ギリシアのアレクサンドロス大王が築いた広大な支配地域には、4つのヘレニズム帝国(ギリシア人の帝国)ができました。パレスチナは初め、エジプトのプトレマイオス王朝の支配を受けましたが、後にシリアのセレウコス王朝に支配されるようになりました。そして、そのセレウコス王朝のアンティオコス4世エピファネスという王のとき、ユダヤ人に対する激しい宗教的迫害が起こりました。エルサレムの神殿にはギリシアの神々の像が持ち込まれ、ユダヤ人は先祖伝来の律法に従って生きることを禁じられました。「神に忠実に生きようとすればするほど、この世では苦しみを受け、中には殺されていく人もいる」という厳しい状況の中で、「死を越えて神が救いを与えてくださるという希望=復活の希望」が語られ始めるのです。

  (3) サドカイ派が復活を認めなかったのは、彼らが「モーセ五書」のみを正典と考えていたから、というだけではないでしょう。サドカイ派はこの世で満ち足りていた人々の集まりでした。たとえローマ帝国の支配下であろうとも、神殿の権威や富に結びついていたサドカイ派にとって今の生活は悪くなかったのです。彼らにとって神との関係は、神殿の祭儀の中で正しいいけにえをささげているだけで十分で、死を越えて神に期待するものなど何もなかったのでしょう。だからサドカイ派はここで「復活」という考えの矛盾を指摘して復活を否定しようとしたのです。
 一方のイエスは、貧しい人々・苦しむ人々とともに生きてきました。彼らの苦しみと希望はイエスのものでもあったのです。そしてご自分の身にも危険が迫っていることをイエスは感じ取っていました。そのイエスにとって、復活とは死後の世界に対する興味や、宗教家の議論の問題ではなかったのです。それは、「この世において、今の苦しみと絶望的な未来しかないと感じられるとき、それでもなお神に信頼し、人を愛し、希望を持って生きることができるかどうか」というギリギリの決断の問題なのです。

  (4) 34-36節でイエスは、この世の有り様と復活の有り様はまったく違うということを語ります。復活のいのちとはこの世のいのちの延長線上にあるものではなく、まったく違うレベルのいのちなのだ、ということでしょう。復活とは100パーセント、「神によって生きる」(38節)ことなのです。
 37-38節の「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」だから「死者は復活する」というのはどういうことでしょうか。あえて説明すれば、「神は『生きている者の神』であり、モーセに現れた神がご自分を先祖の神だ、と言うのだとすれば、先祖たちは今も何らかの形で生きていることになる」ということでしょう。イエスはサドカイ派も認めているモーセ五書を使って彼らに反論していますが、ただこれをもって復活の論証と考えるとあまり説得力がないようにも思えます。

  (5) 37節の「柴」の箇所とは、出エジプト記3章を指します。神がシナイ山で初めてモーセに声をかけ、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から脱出させるために、モーセを民の指導者として選び出す箇所です。そこで神がモーセに向かって語る自己紹介の言葉が「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト記3章6節)というものでした。イスラエルの先祖とともにいて、いつも彼らを守り導いた神は、今エジプトの奴隷状態にある民を決して見捨てていないのです。この神は、いつも人とともにいて、人を導き、どんな苦しみの中でも人が希望を置くことのできる神です。ここに復活の希望の根拠があると言えるのではないでしょうか。
 38節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」の「生きている者の神」とは、生きている人間の支えとなり、希望となり、力となる神だとも言えるでしょう。逆に、現実の人間の苦しみや喜びと関係なく、人が儀式をとおして出会うだけの神は「死んだ者の神」と言ってもよいかもしれません。
 きょうの箇所は、わたしたちの神との関わりについての鋭い問いかけでもあります。それは、「わたしたちは神にどのような希望を置いているのか、そして、わたしたちは本当に神によって生きているか?」という問いかけです。




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Posted on 2016/10/27 Thu. 08:30 [edit]

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年間第31主日 (2016/10/30 ルカ19章1-10節)  


教会暦と聖書の流れ


 ルカ福音書9章51節から始まったイエスのエルサレムへの旅も終わりに近づきました。きょうの福音の舞台は、エルサレムまであと20キロほどのエリコという町です。このザアカイの物語もルカ福音書だけが伝える話ですが、これは、イエスの旅が最後まで神の愛とゆるしを告げる旅だったということを、強く印象づける物語です。


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  (1) イエスの時代のパレスチナはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国は被征服民族であるユダヤ人にある程度の自治や宗教的自由を認める一方で、税を徴収することによって植民地支配の利益を得ていました。ローマ帝国に税を納めることはローマ帝国の支配を認めることであり、自分たちは神の民だと考えていたユダヤ人にとっては耐え難いことでした。
 徴税人はユダヤ人でありながら、このローマ帝国の徴税という仕事を引き受けていた人たちです。彼らはそもそも、ローマに仕える民族の裏切り者として忌(い)み嫌われていました。徴税人は、ローマ帝国から給与をもらっていたのではなく、ローマに納める税金に自分の取り分を上乗せしたものを人々から徴収し、それによって財を蓄えていたので、不正な取り立ても多かったようです。このような事情で「徴税人」は、当時のユダヤ社会の中で明らかに「罪びとというレッテル」を貼られた職業になっていたのです。ザアカイは「徴税人の頭(かしら)で、金持ちであった」と紹介されています。彼は経済的には恵まれていましたが、ユダヤ人社会の中では「神から程遠く、社会のクズであり、生きるに値しない最低の人間だ」という烙印(らくいん)を押されていたのです。もちろんザアカイ自身、自分の生き方は神に背くものだと感じていたことでしょう。

  (2) ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集にさえぎられて見ることができなかった。それで・・・、いちじく桑の木に登った」(3-4節) とあります。ザアカイはなぜイエスを見ようとしたのでしょうか。単なる好奇心でしょうか。しかし、木に登ってまでイエスを見たいというザアカイの姿には、何かしらもっと切実な思いが感じられます。また、背が低くて見えなければ、群集をかきわけて前に出ればよいはずですが、彼はそうしませんでした。ザアカイは周囲の人々の目を気にしていたのかもしれません。あるいは、それ以上に、自分のような罪びとがイエスに近づいて行く資格はない、と感じていたのでしょうか。
 それでもザアカイはイエスを一目見たいと思って木に登るのです。彼はイエスという方が「罪びとを招いて、一緒に食事までしている」(ルカ15章2節)といううわさを聞いていたのかもしれません。そして、この人だったら、自分のどうにもならない思いを受け止め、理解してくれて、自分をこの行き詰まりから解放してくれるのではないか、という期待を持ったのかもしれません。

  (3) 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」この言葉を聞いてザアカイはどう感じたでしょうか。周囲にはおおぜいの人がいます。その中でイエスは自分にだけ声をかけてくれたのです。しかも「一緒に食事をする」だけでなく「あなたの家に泊まる」と言うのです。どれほど大きな喜びを彼は感じたでしょうか。
 なお、この「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)は、「今日、わたしはどうしてもあなたの家に泊まらなければならない」とか「今日、わたしはあなたの家に泊まることになっている」とも訳すことができます。これは、そのことが神の救いの計画の中にあることだから必ず実現するはずだということを示す表現なのです。

  (4) ヨハネ福音書4章7節で、イエスはサマリアの女に「水を飲ませてください」と声をかけました。ここでもイエスはザアカイに対して「わたしがあなたに何かをしてあげよう」というのではなく「あなたの家に泊めてくれ」、つまり「あなたにはわたしのためにできることがある」と言ってザアカイに近づきます。どんなに罪びとのレッテルを貼られた人であっても、あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある、とイエスは見ているのです。そういう眼差しに出会ったとき、人は本当に新たに生きる力を与えられるのではないでしょうか。イエスの言う、「この人もアブラハムの子なのだ」(9節)という言葉は、「この人も神が祝福を約束してくださった人間なのだ」という意味です。ザアカイはイエスとの出会いによって、自分が生きるに値しない呪われた罪びとではなく、自分もアブラハムの子なのだ、ということに気づいていきます。そして、新しい神とのつながり、人とのつながりに生き始めようとするのです。イエスに出会ったことは、ザアカイの人生を根本から変えてしまいました。もちろん、彼はこれからも罪びとのレッテルを貼られたまま生きていかなくてはならないでしょう。でも彼はもはや「神に見捨てられた罪びと」ではなく、「神に愛された罪びと」なのです。

  (5) 別の徴税人の物語を思い出してみましょう。マルコ2章14節にはこういう話がありました。「(イエスは)通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」
 このレビの場合と異なり、イエスはザアカイには「わたしに従え」と要求しませんでした。ザアカイもすべてを捨ててイエスに従う、とは言いません。ザアカイは徴税人であることをやめませんただ自分の置かれた場で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にして生きようと決意するのです。イエスはその決意を受け入れ、「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言しています。
 きょうの福音の箇所には「今日」という言葉が2回出てきます(5,9節)。この「今日」という言葉は、ルカ福音書の中では特別な重みのある言葉です(ルカ2章11節、4章21節、23章43節など参照)。「今日」とは、今まさに人が神の愛とゆるしに出会うその時であり、今まさに神の救いが実現しているその時なのです! わたしたちも、神の救いが実現している「今日」を感じることがあるでしょうか?




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Posted on 2016/10/21 Fri. 07:00 [edit]

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年間第30主日(2016/10/23 ルカ18章9-14節)  


教会暦と聖書の流れ


 エルサレムへの旅の段落の中にあるたとえ話で、この話もルカ福音書だけが伝えているものです。先週の箇所(やもめと裁判官のたとえ話。ルカ18章1-8節)との関連を考えれば、祈りについての教えが継続していると言うこともできるでしょう。


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  (1) ファリサイ派はイエス時代のユダヤ教の一派で、律法と口伝(くでん)律法を重んじ、忠実にそれを守ろうとしていたグループでした。「口伝律法」とは、聖書の律法を現実の生活に適用するために律法学者たちが作り上げた多くの解釈のことです。「ファリサイ」という言葉は「分離する」という意味の言葉から来たと言われます。彼らは自分たちを「律法を知らない汚(けが)れた民衆から分離した者」と考えていました。
 一方の徴税人は、ユダヤ人でありながら、ローマ帝国の税金徴収という仕事を引き受け、その仕事によって富を得ていた人たちです。彼らは福音書の中で罪びとの代表のように言われていますが、それは彼らが税の取り立てに関して不正を働いていたと考えられたからです。また、そもそも民族の裏切り者として忌み嫌われていた面もあります。当時のユダヤ社会の中ではどちらが「正しい人」でどちらが「罪びと」であるかは明白でした。

  (2) 14節にある「義とされる」という言葉は、パウロの手紙の中によく見られる言葉ですが、福音書の中ではあまり多く使われていません。「義とする」はギリシア語の「ディカイオオーdikaioo」という言葉の直訳ですが、聖書の中で語られる「義」(ギリシア語では「ディカイオシュネーdikaiosyne」)は「人間的な正しさ」という以前に、根本には「神の義」という考えがあります。「人が義とされる」は「人が神の義にあずかる」こと、もっと分かりやすく言えば「神に受け入れられる」ということです。人間的な見方ではなく、神との関係という点では、この徴税人のほうが正しいあり方なのだとイエスは言うのです。それはなぜでしょうか。
 ファリサイ派の人の「うぬぼれ」の根拠は、結局のところ他人との比較でした。普通の人よりも自分はちゃんとやっている、ましてこの徴税人なんかとは比べ物にならないほど正しい人間だ、ということです。しかし、人と比較して神の前に自分を誇っても何の意味もありません。そのような姿勢は神との関わりを妨げてしまうだけです。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下して」いるとき、人との関係も絶たれてしまいます。人間は互いに助け合い、支えあって生きる者であるはずなのに、周りの人は競争相手になってしまい、弱い人への共感を見失うからです。

  (3) イエスの言葉は、わたしたちの自己評価に挑戦してきます。わたしたちが、「自分はチャンとやっている」と感じているとするならば、それは他の人と比べてのことではないでしょうか。「自分はぜんぜんダメだ」と感じているならば、それも人と比較してのことではないでしょうか。わたしたちはあまりにも「比較と競争」の世界に毒されているのかもしれません。
 この社会は、人を果てしない競争へと駆り立てる社会です。その中でわたしたちはどれほどストレスを抱えていることでしょうか、そしてどれほど多くの人が行き詰ってしまっているでしょうか。確かに「社会は競争なのだから、生きていくためにこの競争を降りることはできない」という人は多いでしょう。かと言って、人生が競争だけになれば、人生はまったく悲惨なものになってしまうでしょう。「競争よりももっと大切なものがある、それを見失わないこと」きょうの福音はそう呼びかけているのではないでしょうか。
 わたしは神の前に立つ。どうしようもなく限界や弱さを抱えているけれども、神がそのわたしを愛し、生かしてくださっているのを感じる。そのとき、優越感と劣等感の間でもがき苦しむところから解放されていく。わたしたちの中にそういう体験があるでしょうか。

  (4) 祈りとはありのままの自分を神の前に差し出すことです。そこでは人との比較は役に立ちません。「あの人もしていたから、わたしもこうしました」とか「この人にはかなわないけれど、別の人よりはましです」そういうことは何の意味もない世界なのです。「自分の小ささを認めて神の前にへりくだるとき、神は本当に自分を受け入れ、愛してくださる」。そういう祈りの体験がありますか。
 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」の「へりくだる」は、直訳では「自分を低くする」です。「自分を低くする」とはどういうことでしょうか。それは表面的に謙遜を装うということではないでしょう。また、「自分なんか何の価値もない。生きるに値しないダメな人間だ」と思い込むことでもないでしょう。むしろ、自分のありのままの姿を見つめるということではないでしょうか。それは決して簡単なことではありません。わたしたちの中に、本当の自分以上に自分のことをよく思いたいという部分がありますが、それは幻想の中を生きることです。逆に本当の自分以下にしか、自分の価値を見いだせず、自尊心を見失い、極度に低い自己評価を持っているとしたら、それも幻想です。自分自身のありのままを認めることは、わたしたちが、神の前に自分を置いてみるときに初めて可能になるのではないでしょうか。

  (5) 「罪人(びと)であるわたし」という言葉にどんな現実感があるでしょうか。もちろん、自分に特別大きな罪があると思っているならば、自然にそう感じられるかもしれません。この徴税人にはそういう罪意識がありましたが、わたしたちは自分がそれほど悪いことをしているという意識がない場合も多いのです。そのわたしを罪びとだと感じるのは難しいでしょうか。「罪」とは、神から離れることです。神から遠く離れてしまっている自分を感じること、神の前に立つのにふさわしくないという感覚、それが「罪の感覚」だと言えるかもしれません。そして、それは漫然と生活しているだけでなく、本気で神に近づこう、キリストに従っていこうとした時にこそ感じることだとも言えるでしょう。




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Posted on 2016/10/13 Thu. 16:58 [edit]

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年間第29主日 (2016/10/16 ルカ18章1-8節)  


教会暦と聖書の流れ


 ルカ福音書の中の、長いエルサレムへの旅の段落(9章51節~19章44節)は終わりに近づいています。きょうの福音の話もルカ福音書だけが伝えるものです。
 この箇所の直前、17章20節で「神の国はいつ来るのか」という問いかけがあり、イエスは「神の国は、見える形では来ない」「神の国はあなたがたの間にあるのだ」(20,21節)とお答えになりました。と同時に「稲妻がひらめいて、大空の端(はし)から端へと輝くように、人の子もその日に現れる」(24節)とも言っておられます。その日その時は神の裁きが下される時です(22-37節)。この文脈から考えると、きょうの箇所は、その決定的な裁きの時に向かう心構えについての教えとして受け取ることもできるでしょう。


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  (1) 「気を落とさずに」と言いますが、そこにはどんな状況が考えられるでしょうか。17章の終わりで語られていたのは、イエスの再臨の時=神の裁きの時に起こる苦難と破滅でした。その中で「もうダメだ」と気を落としてしまうということでしょうか。しかし、それはある将来のことというよりも、わたしたちが生きている今の現実のことでもあるかもしれません。この世界は、テロと戦争、暴力と犯罪、欲望とエゴイズム、弱い立場にいる人々の苦しみなどに満ちています。そんな中で、わたしたちは「気を落として」しまうことがあるのではないでしょうか。イエスはそのときにも絶えず祈ることを呼びかけています。きょうの箇所を読む上で、この苦難という状況は無視できないでしょう。

  (2) 旧約聖書の中でやもめは自分を守ってくれる人がいない社会的弱者の代表でした。彼女が助けを求めたのは、誰かが彼女から亡き夫の財産を不正に奪おうとする、というような状況があったからだと想像できます。3節の「相手を裁いて、わたしを守ってください」という言葉は、直訳では「相手に対してわたしを裁いてください」です。「裁き」には「悪を断罪する」という面だけでなく「善悪をはっきりさせ、弱い人を守る」という意味があります。そういう意味で「わたしを裁いてください」というのです。7-8節の「神の裁き」も同様です。

  (3) このたとえ話は、ルカ11章5-8節の「旅の友人の願い」のたとえとよく似ています。これらのたとえ話は、祈りの大切さを教えていますが、同時に神は誠実でいつくしみ深い方であるから、必ず祈りを聞いてくださる、ということが強調されています。
 しかし、神を「神を畏れず人を人とも思わない」「不正な裁判官」にたとえるのはあまりにも突飛に聞こえます。ただ単にイエスは「不正な裁判官」と「正しくいつくしみ深い裁き主である神」の対比を強調していると言うべきでしょうか。いや、そもそもこのたとえ話が語られたのは、「神に祈っても結局は無駄ではないか」という考えを持っていた人々(弟子たち)に対してだったのでしょう。そうであるならば、イエスは聞いている人を驚かせ、彼らの目を開かせるために、あえて突飛なたとえを語られたのかもしれません。

  (4) 「選ばれた人たち」(7節)という言葉は何を意味しているのでしょうか。マルコ13章20節に、「主がその(=苦難の)期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである」(マタイ24章22節も参照)とあります。そこでは確かに、「選ばれた人たち」は救いにあずかる人々のことです。神の救いにあずかるということが、その人たち自身の功績によることではなく、まったく神の恵み(好意)によることだと考えられ、その神のイニシアチブを強調するために「選ばれた人=神が選んだ人」と言われていると考えればよいのでしょう。神の選びは、現代社会のコンテストとは違います。コンテストでは優れたものが選ばれ、選ばれなかったものは捨てられますが、神は誰一人切り捨てず、すべての人を救うために、もっとも貧しく弱い者を選ばれるのです(申命記7章6-8節、Ⅰコリント1章26-31節参照)。そう考えれば、このたとえ話のやもめのような、弱く貧しい人こそが「神の選ばれた人たち」だと言うこともできるでしょう。

  (5) 「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)の「人の子」は本来「人間」を指す言葉でしたが、ダニエル書7章13-14節などから、神が決定的に天から遣わす審判者・統治者を指すようになりました。ここの文脈の中では審判者として再び世に来られるキリストのことが考えられています。きょうの箇所全体から考えれば、ここでいう「信仰」とは「苦難の中にあって絶えず祈り続ける姿勢」のことだと言ったらよいでしょう。このやもめのように、苦しみの中にあって、神以外に頼るものがない人が、必死の思いで神に向かう姿勢そのものを「信仰」と言ってもよいのかもしれません。

  (6) 聖書の終末についての教えには2つの側面があります。1つは、苦難や迫害の中での希望のメッセージという面。本来、終末についてのメッセージは、迫害や苦難の中にいる信仰者を励ますために、悪の支配下にある今の時代は必ず過ぎ去るという希望を語るメッセージでした。もう1つの面は、人がなまぬるい、自分勝手な生き方をしているときの警告のメッセージです。神の判断(裁き)から見たときに何が本当に大切なのかを鋭く問いかけるメッセージにもなるのです。
 きょうの箇所から希望と励ましのメッセージを受け取ることができますが、最後の「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか」(8節)という言葉には、警告の響きも感じ取ることができるでしょう。
 わたしたちはどうでしょうか? 問われていることは、わたしたちの祈りや願いがどこまで切実なものかということではないでしょうか。さらに言えば、わたしたちの祈りがどこまで切実かということは、わたしたちの祈りがどこまで現実の人間の苦しみとつながっているかにかかっている、とも言えるのではないでしょうか。




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Posted on 2016/10/07 Fri. 09:26 [edit]

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