福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

主の公現 (2017/1/8 マタイ2章1-12節)  


教会暦と聖書の流れ


  本来は1月6日が公現の祭日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では1月2日から8日までの間の日曜日に移して祝われます。「公現」はギリシア語では「エピファネイアepiphaneia」で「輝き出ること」です。イエスにおいて神の栄光の輝きが現れたこと、イエスが神の子キリストとして現されたこと、それは待降節・降誕節全体の大きなテーマだと言えます。福音は毎年同じ箇所で、マタイ福音書の話が読まれます。マタイはルカとはまったく違うイエスの幼年時代の物語を伝えています。無理やり1つの物語にしてしまうより、それぞれの物語を通して神が語りかけているものを受け取るとよいでしょう。


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  (1) 「占星術の学者」について、キリスト教の伝統の中では「3人の博士」や「3人の王」のイメージが強くあります(3人という数は聖書には書かれていません。贈り物の数からいつの間にか3人ということになったようです)。この「占星術の学者」と訳されたことばはギリシア語では「マゴスmagos」です。メディア(今のイラン)の一部族であり、祭司階級でもあった「マギ」に属する人、の意味です。彼らは占星術や魔術にすぐれていたと言われています。この人たちについては2つの見方があることを考慮しておくとよいでしょう。1つは、天文学を究めた当時最高の知識人という見方。もう1つには、ユダヤ人にとっては、怪しげな異教徒で、まことの神を知らない人々という見方です。もちろんどう見るかによってこの箇所全体のイメージが変わってきます。どちらが正しいか、というよりも、2つの見方の両方でそれぞれに味わってみると聖書の読み方が豊かになるのではないでしょうか。

  (2) ベツレヘムはエルサレムの南7kmほどのところにある町です。マタイ福音書はイエスがベツレヘムでお生まれになったことを、旧約の預言の成就と見ています。ベツレヘムはダビデ王の出身地であり、「ダビデの子孫である理想的な王=メシア」はベツレヘムで生まれるという伝承がありました。6節で引用されているミカ書もそのひとつです。ヘブライ語原文からの訳である新共同訳聖書のミカ5章1節は次のようになっています。
 「エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
 お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る」
 ミカは紀元前8世紀の南ユダ王国で活動した預言者です。ミカは当時さびれていたベツレヘムの町(いと小さき者)から救い主が誕生すると預言し、人間の思いを超えた神のすばらしい計画を見ていますが、マタイはこの町の重要性を考えて「いちばん小さいものではない」と変えているようです。

  (3) ヘロデは紀元前37~前4年、王としてパレスチナを支配しました。ローマ帝国からユダヤの王として認められていたヘロデですが、純粋なユダヤ人ではなくイドマヤ人の血を引いていたので、ユダヤ人からは正統な王と認められませんでした。そこで「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」の知らせを聞いたときに自分の地位を脅かす存在と感じて不安になったのです。この箇所の後に、この幼子を抹殺しようとしてベツレヘム周辺の幼児を大量虐殺した話があります(マタイ2章16-17節)。
 「メシア=キリスト=油注がれた者」という言葉には、いつもこのように「王」のイメージがあります。ただ、「イエスが王である」ということの本当の意味は、降誕物語だけでなく、その生涯全体を見つめなければ見えてきません

  (4) 学者たちが幼子を訪問したこの出来事は、イエスによってもたらされた救いが民族の壁を越えてすべての人にもたらされる、ということを示しています。この物語の中に、救いの大きな広がりを感じることができるでしょう。2000年前にユダヤやガリラヤに始まった救いの知らせは、今の極東のわたしたちにも届けられています。どうやってわたしたちのところまでこの知らせが届いたかを頭の中で思い巡らせてみたらよいかもしれません。このわたしはどうやって(だれから)この福音を受け取ったのか、そこからさかのぼっていくと2000年の歴史の中でどのようにこの福音が広がってきたかが見えてきて、そこに神の大きな救いの計画を見いだすことができるのではないでしょうか。
 
  (5) 「拝む」という日本語はほとんど死語になっているかもしれません。ギリシア語の「プロスキュノーproskyno」には本来「~に対してキスする」という意味があります。人間に対しても用いられることがあります(使徒言行録10章25節)が、原則としては神または超越的存在に対する礼拝の意味で用いられる言葉です。「黄金、乳香、没薬」それぞれにシンボリックな意味を見ることもできますが、単に敬意を表す贈り物と考えれてもよいのでしょう。彼らは精一杯の敬意と賛美と喜びをこの幼子に示したのです。
 学者たちは「星の導き」によって救い主に出会いました。また「夢のお告げ」(12節)でヘロデ王の危険な考えを察知しました。人はいろいろな仕方で神を知り、神と出会うことができます。ふだん信仰心など持っていないようにみえる多くの日本人が、正月には初詣に行ったり、初日の出を拝んだりするのは、そこに何かしら超越的なものを感じているからでしょう。それらを「間違った信仰心」と言えるでしょうか。自分たちは何かしら大きな力に守られていると感じ、そのことに感謝し、今年一年の幸いを願う、という心はすべての人の中にある共通のものでしょう。そういう意味で、キリストを信じるわたしたちはキリスト信者ではない多くの人々との連帯を感じることができるのではないでしょうか。




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Posted on 2016/12/29 Thu. 17:23 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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神の母聖マリア (2017/1/1 ルカ2章16-21節)  


教会暦と聖書の流れ


 1月1日は「神の母聖マリア」の祭日ですが、福音の箇所は主の降誕・夜半のミサの続きです。日本の社会ではクリスマスのデコレーションが取り払われ、お正月飾りになっていますが、教会ではクリスマスの祝いが続いているのです。大きな祝日は8日間かけて祝う伝統があり、きょうは降誕祭を締めくくる「降誕八日目」に当たります。教会はお生まれになったイエスの光の中で新年を迎えると言うこともできるでしょう。
なお、パウロ6世教皇はこの日を「世界平和の日」と定めました。年の初めにあたって人にはそれぞれの願いがあります。しかし、人類共通の願いとしてすべての人の平和を祈るよう教会は呼びかけています。


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  (1) 羊飼いたちが天使から聞いた救い主のしるしは「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」(ルカ2章12節)というものでした。ベツレヘムの村には他にも赤ちゃんがいたでしょう。しかし、「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」はイエス以外にいなかったはずです。イエスの時代の羊飼いは、町の人々から罪びと同様に見られ、蔑まれていました(主の降誕・夜半のミサの「福音のヒント」参照)。もし、お生まれになった救い主が、金のベッドに寝かされ、立派な宮殿のような場所にいたら羊飼いたちは近づくこともできなかったでしょう。この幼子が飼い葉桶の置かれた家畜小屋のようなところにいたからこそ近づくことができたのです。羊飼いたちの喜びは、天使のお告げどおり救い主が誕生した、というだけでなく、その救い主がこれほど自分たちの近くに来てくださった、ということだったのではないでしょうか。

  (2) 17-18節には羊飼いたちが人々にこのことを話し、人々が「不思議に思った」とあります。この人々の反応は19節のマリアの姿と対比されているようです。「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と言われていて、マリアはただ不思議に思っていただけではなかったのです。「心に納める」は少年イエスがエルサレムで迷子になり、神殿で見つかる、という話の結び(ルカ2章51節)でも使われている言葉です。「記憶の中にしっかり留めておく」ことを意味します。「思い巡らす」は「しっかりとよく考える」の意味です。
 マリアは幼子イエスの誕生にまつわる出来事のすべてをしっかり記憶の中に留めました。聖霊によって宿り、ダビデの王座を受け継ぐはずの子が、家畜小屋のようなところで貧しく生まれたこと。そして最初に訪ねてきたのが当時の人々から蔑まれていた羊飼いたちだったこと。それはマリアにとっても確かに不思議なことだったでしょう。しかし、マリアはそれについて熟考し、そこに神の働きを見つけていくのです。
 エリサベトを訪問したとき、マリアは神の働きをこう賛美しました。
 「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、
 権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、
 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカ1章51-53節)。すべての人を救う神の働きが、人間の目からは不思議に見える仕方で実現し始めていることをマリアは深く味わっていたのでしょう。
 わたしたちも過ぎた1年のことを「心に納めて、思い巡らし」ます。良かったこと、悪かったこと。予想していたこと、予想外のこと。さまざまな出来事の中に(たとえ悲惨なことが多かったとしても)、神がおられることを感じることができるでしょうか。

  (3) 羊飼いたちが探し当てた幼子は、病気をいやしたり、パンを増やしたり、立派な説教をしてくれるわけではありませんでした。羊飼いたちの辛く厳しい現実は何も変わりません。それでも「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)のです。この羊飼いたちの喜びは、わたしたちのこの現実の中に救い主が来てくださった、という喜びではないでしょうか。問題や困難な状況はなくならないかもしれません。しかし、わたしたちは神から見捨てられているのではなく、神はわたしたちとともにいてくださるのだ、という喜び。わたしの人生はただの無意味な出来事の連続ではなく、キリストがともにいてくださる人生だと感じられる喜び。マリアとヨセフと羊飼いたちを包んでいたこの小さな喜びの光が、全世界に広がり、今のわたしたちにまで届けられています。
 
  (4) 「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」(21節)。割礼はアブラハムとの契約のしるし(創世記17章10-11節)であり、神の民の一員となるしるしです。「イエス」という名は旧約聖書では「ヨシュア」にあたり、「主は救い」「主は救う」という意味があります。
 イエスは成人してからさまざまなことをしたと伝えられています。しかし、キリスト教はイエスが力強く語り、行動した姿よりも、何もできない無力なイエスの姿を最も大切にしてきました。それが「飼い葉桶の幼子」の姿であり、「十字架のイエス」の姿なのです。その姿は、2000年にわたって、貧しく無力で苦しみに満ちた人生を送るすべての人を励まし続けてきたのです。「君は一人ぼっちじゃない。ぼくがいるよ。ぼくは君たちみんなの喜び、苦しみ、悲しみを一緒に担うために生まれてきたんだ。だから、だれでも安心してぼくのところに来ていいよ」・・・わたしたちも、飼い葉桶の幼子イエスの、このような呼びかけを聞き取ることができるでしょうか。




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Posted on 2016/12/23 Fri. 15:48 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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主の降誕・夜半のミサ(2016/12/25 ルカ2章1-14節)  


教会暦と聖書の流れ


 今年は12月25日が日曜日にあたり、主日に降誕祭を祝うことになります。主の降誕の祭日のミサには早朝や日中のミサもありますが、ここでは「夜半のミサ」の福音を取り上げます。ルカ福音書だけが伝える、イエスが誕生した夜の物語です。
 この箇所の前半(1-7節)はローマ帝国の支配に翻弄された貧しい家族の中で1人の男の子が誕生する物語で、後半(8-14節)でその幼子の誕生の意味が解き明かされます。


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  (1) 1-2節で、ルカは歴史家のように皇帝や総督のことを述べますが、同時にこれは、当時の世界で圧倒的な力を持っていたローマ帝国の支配地域の片隅に生まれたこの赤ん坊こそが、実は「すべての人のメシア(王)である」という対比を印象づけようとしているのでしょう。紀元前63年ローマのポンペイウス将軍がパレスチナを占領して以来、ユダヤ、サマリア、ガリラヤなどの地方はローマ帝国の植民地になっていました。ローマ帝国は傀儡(かいらい)政権であるヘロデ王家を立て、ユダヤ人の宗教的な自由を認めつつ、住民に税金をかけることによって植民地支配の利益を得ていました。この税を徴収するために行なわれたのが「住民登録」でした。身重のマリアを連れたヨセフは、このローマ帝国の支配力に振り回されて、苦しい旅を強いられることになったのです。

  (2) 「ベツレヘム」(4節)はダビデ王の出身地で、こう預言されていた町。「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(ミカ5章1節)。
 7節の「初めての子」という言葉は、後にも子どもが生まれたことを意味しているわけではありません。「長子(ちょうし)」という特別な立場を持った子どもとしてイエスが生まれたことを表しています。「飼い葉桶」はイザヤ1章3節「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない」を背景にしているとも言われます。「宿屋」と訳された言葉は「宿をとるところ」の意味で、大きな家の客間も指す言葉です。「彼らの泊まる場所がなかったからである」は、直訳では「彼らのために場所がなかったからである」です。

  (3) 「羊飼い」はイスラエルの人々にとって馴染み深い職業でした。先祖は皆、羊飼いでした。ダビデ王も若いとき羊飼いであり(サムエル上16章11節)、さらに神ご自身が羊飼いにたとえられました(詩編23など)。そういう意味で「羊飼い」をプラス・イメージで捉えることもできるでしょう。しかし、逆にマイナス・イメージもあります。イエスの時代、多くのユダヤ人は町や村に定住するようになっていました。その人々から見れば、羊飼いというのは「流れ者、野宿者」であり、罪びとと大差のない連中と思われていました。彼らも「自分のために場所がない」と感じていた人々といえるかもしれません。
 「自分のために場所がない」と感じることはとてもつらいことです。身近にそう感じている人はいるでしょうか。わたしたち自身もそう感じることがあるでしょうか。
 この羊飼いたちに、救い主誕生の知らせがもたらされます。彼らに示されたしるしは、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」というものでした。きょうの箇所を特徴づける「貧しさ」は、「貧しい人は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6章20節)という福音のメッセージにつながっています。

  (4) 「主の天使」「主の栄光」(9節)は神がそこにおられ、人間に語りかけることを表しています。羊飼いたちに告げられた天使の言葉(10-12節)のうち、「民全体」は直接には「イスラエルの民」を指す言葉ですが、ここにルカは「神の民となるすべての人」の意味を込めているようです。「大きな喜びを告げる」の「告げる」は「福音を告げる」という言葉が使われています。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」の「今日」は、ルカ福音書では特別に、「救いが実現している時である今」を意味しています(4章21節, 19章5,9節, 23章43節など参照)。

(5) 14節「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」の「御心に適う」はギリシア語では「エウドキアeudokia」という言葉です。「エウ」は「良い」という意味で、「ドキア」は「思う」という意味の動詞から来ています。「良く思うこと=好意」が元の意味ですが、聖書の中では特別に「神がお喜びになること」を意味します。「神がお喜びになる人」「御心に適う人」とは誰のことでしょうか? 「神はすべての人に好意を向けているはずだ」と考えれば、誰かを排除する言葉ではなく、すべての人を指していると受け取ることもできるでしょう。なお「御心に適う人」は「善意の」と訳されたこともありましたが、その場合「神のよい思い」ではなく「人間のよい思い」の意味になってしまいます。「平和」は単に争いのない状態ではなく、神の恵みに欠けることのない(それゆえ争いがない)状態を指します。ルカ19章38節では「祝福、平和、栄光」がセットになっていますが、これらは別々のことではなく、密接につながっていると考えたらよいでしょう。降誕の夜は、そのすべてに満たされる時なのです。
 貧しく無力な人々に近づくために、イエスは貧しく無力な幼子の姿で世に来られました。救い主が誕生しても、この人々の現実が変わるわけではありません。しかし、マリアとヨセフと羊飼いたちは、この幼子の中に神の救いの約束の実現を見て、喜びに満たされました。わたしたちはこの幼子の中にどんな喜びを見つけることができるでしょうか。




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Posted on 2016/12/16 Fri. 07:00 [edit]

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待降節第4主日 (2016/12/18 マタイ1章18-24節)  


教会暦と聖書の流れ


 クリスマスの直前の主日には、イエスの誕生に直接関係する福音書の箇所が読まれます。今年(A年)の箇所はマタイ福音書で、幼子の誕生がヨセフに告げられる場面です。
 マタイ福音書は「イエス・キリストの系図」として、アブラハムからヨセフまでの系図を伝えます(1章1-17節)が、16節は「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」となっています。ヨセフとイエスの間に血のつながりはありません。それでもヨセフはきょうの箇所を通して、信仰によってイエスの父としての役割を引き受けていくことになります。


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  (1) 19節にある「ヨセフは正しい人であったので」ということと「ひそかに縁を切ろうと決心した」ということはどのようにつながっているのでしょうか? 2つの見方があるようです。
 1つは、マリアへの思いやりに満ちた態度の中にヨセフの「正しさ」を見る見方です。自分とは無関係にマリアが妊娠していることを知ったら、ヨセフとしては縁を切るしかない、しかし、ヨセフはマリアを辱めないように「ひそかに」縁を切ろうとした、ということ。
 もう1つは、神への畏敬の念をヨセフの「正しさ」と見る見方です。ヨセフはマリアを信頼していたので、この妊娠に神の介入を感じた、そこで自分はこのことに関わるのにふさわしくないと感じて身を引こうとした、ということ。この考えは、20節の「恐れずに」ともよく合います。

  (2) 「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい」(21節)。「イエス」は旧約聖書で言えば「ヨシュア」という名にあたります。ユダヤ人の間ではよくある名前ですが、マタイ福音書はこの「イエス」という名の中に意味を見いだしています。「ヨシュア(=イエス)」は「主は救い」あるいは「主は救う」という意味なのです。
 上の21節の言葉は、23節で引用されるイザヤ7章14節「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」によく似ています。この預言の言葉がイエスにおいて実現したとマタイは見ています。ここで「おとめ」と訳された言葉は、ギリシャ語(マタイ)では「パルテノスparthenos」ですが、元のヘブライ語(イザヤ書)は「アルマー」です。パルテノスは「処女」を意味しますが、「アルマー」は単に「若い女」を意味する言葉です。もちろん、イエスの誕生物語を伝えるマタイも、ルカも「パルテノス」を「処女」の意味で受け取っています。
 マリアが処女でイエスを身ごもった(いわゆる「処女懐胎」)ということにはどんな意味があるのでしょうか。そこにマリアの「清らかさ」を見てきた伝統があります。しかし、ルカもマタイも共通して強調しているのは、その受胎が「聖霊による」ということです(マタイ1章18,20節、ルカ1章35節)。処女であるマリアは人間的には子どもを産むことができないはずですが、そのマリアから子どもが生まれる。そこに、人間の無力さと、その中に働く神の力の対比があざやかに示され、その子どもの誕生(救い主の到来)が人間の力によるのではなく、神の力(聖霊)によるのだということが強調されているのです。

  (3) イエスは新約聖書の他の箇所で一度も「インマヌエル」と呼ばれたことはありません。マタイは「インマヌエル」をイエスの「呼び名」ではなく、イエスの「本質を表す名」だと言っているのです。「インマヌエル」はヘブライ語で「神は我々と共におられる」あるいは「我々と共にいる神」の意味です。マタイ福音書はこの「インマヌエル」の物語から始まり、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28章20節)というイエスの約束で結ばれています。「神が共にいる」、「イエスが共にいる」ということがこの福音書全体のテーマだと言ってよいかもしれません。
 わたしたちはクリスマスを2000年前の一人の男の子の誕生日として祝うのではありません。イエスの誕生(到来)という出来事の意味が今も生きていることを祝うのです。神のひとり子が人類の一員となり、この方において神は「わたしたちと共にいてくださる神」になってくださった、それはどれほど力強い支え・励ましでしょうか。

  (4) この「インマヌエルであるイエス」をわたしたちはどこで見いだすことができるでしょうか。マタイ福音書の中からヒントを探してみましょう。
1. 18章20節「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」
 キリストが信じる者の集いの中にいるという約束です。特に日本のような、周囲を見回してもキリスト信者がほとんどいない社会の中で、同じ信仰を持った人が一緒にいてくれる、キリストの弟子の道をともに歩んでくれる仲間がいる、ということは大きな励ましでしょう。この集いの中にキリストご自身がいてくださるというのです。
2. 26章26-28節「取って食べなさい。これはわたしの体である」「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」
 パンとぶどう酒の形の聖体の中にいるという約束、これも2000年にわたって数多くのキリスト信者を支え、励ましてきたことでした。それは特に困難や苦しみの中で感じられる支え・励ましかもしれません。キリストの死と復活を思い起こし、それに深く結ばれる。キリストと一つになり、キリストを中心として人と人とが一つになる。聖体の前で一人静かに祈る中でイエスに出会う。そのような体験がわたしたちの中にあるはずです。
3. 25章40節「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
 日々出会う人々、特に助けを必要としている人の中にイエスはいる、これもとりわけ現代世界の中で大切なことでしょう。マザーテレサのように、もっとも貧しく、小さい人との出会いの中にキリストとの出会いがある、という体験はわたしたちの中にもあるのではないでしょうか。




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Posted on 2016/12/08 Thu. 15:49 [edit]

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待降節第3主日 (2016/12/11 マタイ11章2-11節)  


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 先週に引き続き、きょうの福音にも洗礼者ヨハネが登場しますが、本当の主役はもちろんイエスご自身です。きょうの箇所では、イエスによって実現したことが何だったのか、ということが示されています。「待降節第3主日」は「喜びの主日」と言われてきました。待降節は、英語でアドベントAdvent (「到来」の意味)ですが、イエスの到来によってもたらされた喜びとは何なのかを味わう箇所としてきょうの福音を読むと良いでしょう。


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  (1) イエスがヨルダン川で洗礼を受けたとき、すでに洗礼者ヨハネはイエスを「来(きた)るべき方」だと認めていたはずです(マタイ3章14節参照)。それなのになぜ、きょうのこの箇所で「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と自分の弟子たちに質問させたのでしょうか。
 一つの考えはこうです。洗礼者ヨハネは捕らえられ、自分が死を迎えることを予感していたので、自分の弟子たちの目をイエスに向けさせ、彼らをイエスのもとへ導くために、こういう指示をした。つまり、洗礼者ヨハネ自身はイエスが「来るべき方」だということを疑っていたのではない、という考えです。
 もう一つの考えはこうです。やはり洗礼者ヨハネは疑問に思った。それはヨハネが思い描いていた「来るべき方」のイメージと、実際に到来したイエスの姿が大きく異なっていたからではないか。洗礼者ヨハネは「来るべき方」について告げ知らせましたが、ヨハネが思い描いていたのは「神の怒りと裁きをもたらす方」でした。ヨハネは実際のイエスの活動を見聞きして、それが自分の考えるメシア(=キリスト)のイメージと違うことに戸惑ったのではないでしょうか。

  (2) 2節の「キリストのなさったこと」という言葉は「キリストの業(わざ)」とも訳せます。これはただ単に「イエスがしていた行為」というだけでなく、「イエスがキリスト(救い主)として行なっていた行為」という意味に取ることもできる言葉です。イエスの答えは、イエスの周りで実際に何が起こっているかに目を向けさせるものでした。それは旧約聖書の救いの到来に関する預言の成就と言えることです。 特に次の箇所が思い浮かびます。
 「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍(おど)り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ35章5-6節)
 「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(イザヤ61章1節)

  (3) 「貧しい人」というのは「さまざまな事情で圧迫され小さくなっている人」のことです。「目の見えない人」「足の不自由な人」などは皆、「貧しい人」と別の人のことではないでしょう。苦しみの中にあって神の救いを待ち望んでいるすべての人が「貧しい人」と呼ばれている、と考えたらよいのではないでしょうか。「神の救いに飢え渇く人」と言ったほうが分かりやすいかもしれません。それは「神なしで満ち足りている」というのとは正反対の状態だと言えます。
 ルカ4章16-21節でも、イエスは「貧しい人に福音を告げ知らせる」という言葉をご自分に当てはめています。この言葉は、イエスの使命、イエスがもたらしたものを実に簡潔明瞭に表す言葉だと言えます。
 では、わたしたちの「貧しさ」とは何でしょうか。わたしたちにとっての「福音」とは何でしょうか

  (4) わたしの中の「貧しい部分」「飢え渇いている部分」は何でしょうか。わたしたちの周りの家庭や社会、この世界の中で「貧しい部分」「飢え渇いている部分」は何でしょうか。このようにわたしたち自身の「貧しさ」を見つめることは、実は待降節の大切なテーマです。ルカ福音書の伝えるイエスの誕生の物語は、旅をしている貧しい夫婦、飼い葉桶の中の貧しい幼子、そして最初にこの幼子を訪れた貧しい羊飼いの姿を伝えています。イエスの誕生が貧しい人々にもたらした救いの喜びを深く味わうのがクリスマスの祝いの意味なのです。
 イエスによって実現したこと(=キリストの業)は、単なる病気のいやしではありません。イエスが2000年前の貧しい人々に何をもたらしたのか、今の貧しいわたしたちに何をもたらしてくれるのか、いくつかのヒントを挙げてみます。
 1. この貧しさや苦しみの中で、自分はまったく独りぼっちではないと気づくこと!
 2. この世界は神がともにいてくださる世界であると気づくこと!
 3. だから、わたしたちの心に信頼と希望と愛が生まれること!
 そういう体験がわたしたちにもあるのではないでしょうか。だとしたら、それがわたしたちにとっての「到来(アドベント)」であり「降誕」なのではないでしょうか。

  (5) 11節の「天の国」はマタイ福音書特有の言い方で、「神の国」と同じ意味です。「国」はギリシア語では「バシレイアbasileia」です。この言葉は「王(バシレウスbasileus)」から来た言葉で「王であること、王としての支配、王が治める国(=王国)」を意味します。
 イエスは洗礼者ヨハネを預言者として、人間として最大限に評価していますが、同時に「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言っています。それは、ヨハネが神のバシレイアの「準備の時代」の人であったのに、イエスの救いを受け取った人は、その「実現の時代」にいる、ということを意味しているのでしょう。イエスと共にまったく新しい救いの時代が始まっているのです。
 わたしたちはこの「もうすでに始まっている神のバシレイア(国、支配)」に生きているはずです。そしてイエスによって始められた神のバシレイアをもうすでに生き始めているからこそ、わたしたちは、世の終わりの(あるいは、人生の終わりの)ときの「救いの完成」に向けての確かな希望を持つことができるのです。




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Posted on 2016/12/01 Thu. 08:00 [edit]

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