福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第5主日 (2017/2/5 マタイ5章13-16節)  


教会暦と聖書の流れ


 マタイ福音書5~7章のいわゆる「山上の説教」の中で、冒頭の「八つの幸い」に続く言葉です。イエスはガリラヤの丘の上で、群集と弟子たちに向けてこれらの言葉を語られました。もちろん特定の弟子だけでなく、「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(マタイ4章24節)であった群集もこの言葉を聞いていたのです(7章28節参照)。



福音のヒント


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  (1) イエスは決して「地の塩になれ」「世の光になれ」とは言っていません。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」とイエスは断言しているのです。塩でない者に向かって無理して塩味を出せとか、光でない者に向かって無理して輝けというのではありません。むしろ、塩なのだから塩味を出すのは当然であり、光なのだから周囲を照らすのは当然だということでしょう。
 2000年前にガリラヤの丘の上でイエスの話を聞いていた人々にとって、この言葉は信じられないような言葉だったにちがいありません。イエスの弟子と言ってもみな漁師で、「無学な普通の人」(使徒言行録4章13節)でした。周りにいた群衆は「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(マタイ4章23節)だったのです。社会的に見ればたいして立派ではなく、多くは何の役に立たない、律法の基準からすれば罪びとに近いような人々、いてもいなくてもいいと思われていたような人々。その人々にイエスは「あなたがたは地の塩、世の光である」と言うのです。イエスは何の根拠も示しません。あなたは何ができるからとか、他の人よりもどこが優れているから、ではないのです。父である神から見れば、無条件に、あなたがたの一人一人がかけがえのない大切な塩であり、すばらしい光なのだ。これが「福音=Good News」です!

  (2) は食べ物に味付けをするだけでなく、腐敗を防ぐ役割も持つ大切なものだと受け取ればよいでしょう。「塩に塩気がなくなる」とはどういうことでしょうか。当時の塩は精製が不十分で、腐敗してダメになってしまうことがあった、とも言われます。しかしやはり本来、塩が塩でなくなることはありえない、と考えたらよいのでしょう。13節のイエスの言葉は「塩が塩味を失うことはないはずだ」ということを強調しているようです。
 「山の上にある町」(14節)は、天のエルサレム、終末的な神の都のイメージかもしれません(黙示録21章1節~22章5節参照)。「エルサレム」と言っても、現実のある地名のことではなく、救いの完成の状態を表す象徴的な表現です。それは、神と人とが一つに結ばれ、人と人とが愛によって結ばれる状態です。それはわたしたちの社会の現実とはあまりにも程遠いと感じられるでしょうか。確かに、現実にはどこにもそんな町は見えません。今は信仰の目をとおしてしか見えないと言ってもよいでしょう。しかし、「山の上にある町は隠れることができない」いつか必ず現れる、それが聖書の希望です。旧約では、イザヤ2章1-5節でこのような希望が語られています。

  (3) 16節の「立派な」は元のギリシア語では「カロスkalos」で、普通は「良い」と訳される言葉です。これは「美しい」とか「役に立つ」という意味での実際的な「良さ」を表す言葉です。ちなみにヨハネ10章11,14節の「わたしは良い羊飼いである」の「良い」も同じ言葉です。「あなたがたは光だ」というメッセージを本気で受け取ったときから、わたしたちの人生は輝き始めます。わたしたちの言葉と行動が、何かしら違ったものになります。これが「良い行い」です。神がわたしたちを光としてくださったからこそ、それが可能になります。だから、「良い行い」で「あがめられる」(直訳では「栄光を与えられる」)のは、その行いをした人間ではなく、「天の父」なのです。こんなふうに、自分にではなく神に栄光が帰される喜びを感じる体験がわたしたちにもあるでしょうか。

  (4) 山上の説教にはたくさんの命令があります。イエスは神のみ心にかなうことがなんであるかをはっきりと示しています。その中には非常に厳しく、人間には実行困難と感じられるようなものも少なくありません。敵を愛しなさい、情欲をもって女を見てはいけない、一切誓ってはならない、などなど。しかし、だからこそ、そのすべてに先立って「福音」があることは大切です。この福音は「八つの幸い」の中では「天の国(バシレイアbasileia)はあなたがたのものである」ということ、すなわち「神は決してあなたがたを見捨ててはいない。神は王(バシレウスbasileus)としてあなたがたを救ってくださる」ということでした。きょうの箇所もまさに「福音」として受け取るべき箇所です。
 山上の説教を読むとき、あらゆる掟や命令の前に、次の言葉を補って読んでみるとよいでしょう。「神はあなたを愛してくださっている。だから~」「神はあなたを地の塩、世の光と見ていてくださる。だから~」「あなたはもうゆるされて、神の子とされているのだ。だから~

  (5) わたしたちは「あなたがたは地の塩である」「世の光である」というイエスの福音を本気で受け取ることができるでしょうか。
 「おまえはダメだ」「おまえなんかいてもいなくてもいい」「おまえがどうなろうが知らない」そういうメッセージが、わたしたちの社会の中で、職場や学校で、もしかしたら夫婦や親子の間でさえ飛び交っている現実があります。そんな現実の中、わたしたちの周りの、どれほど多くの人が「あなたがたは地の塩、世の光である」というメッセージを必要としているでしょうか。
 イエスは2000年前の人々にどうやってこのメッセージを伝えたのでしょうか。一人一人の人間に共感の目を注いで近寄り、その貧しさや苦しみを共に荷ない、その人の中に素晴らしい輝きと立ち上がる力があることを信じ、あなたは本当に神の子であり、わたしの兄弟姉妹だと語りかけていったイエスの姿を、わたしたちは福音書をとおして知っています。では、わたしたちはどうやってイエスの福音を誰かに伝えることができるでしょうか。




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Posted on 2017/01/27 Fri. 13:19 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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年間第4主日 (2017/1/29 マタイ5章1-12a節)  


教会暦と聖書の流れ


 この箇所の直前、マタイ4章24節に次の言葉があります。「人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風(ちゅうぶ)の者など、あらゆる病人を連れてきたので、これらの人々をいやされた。」きょうの箇所はこの「群集」を見て、イエスが語った長い説教のはじめの部分です。特定の「弟子」だけでなく、群集も聞いていたことは、この説教の結びの箇所(7章28節)からも分かります。


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  (1) マタイ福音書5~7章の長い説教は、以前はよく「山上の垂訓」と言われていましたが、今では「山上の説教」と呼ばれることが多いようです。イエスがある時、実際に語った長い説教が記録されていたと考えるよりも、さまざまな場面でイエスの語られた言葉がつなぎ合わされて今の形になったと考えたほうが良さそうです。何のために初代教会の人々は、これらのイエスの言葉を集めたのでしょうか。
 内容から考えて、これらの言葉は、新しくキリスト信者になった人々に、キリスト信者としての新しい生き方を指し示す言葉として集められている、と考える学者がいます。だとしたら、まず第一に「幸い」と言われているのも納得できるでしょう。

  (2) きょうの箇所は「八つの幸い(真福八端)」と呼ばれています。この「八つの幸い」の前半とよく似ているルカ福音書の「3つの幸い」を比べてみましょう。
マタイ5章3節 心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。
     4節 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。
     5節 柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。
     6節 義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる。
ルカ6章20節   貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。
    21節前半 今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。
    21節後半 今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる。
 マタイの3節とルカの20節、マタイ6節とルカ21節前半は多くの言葉が共通しています。マタイ4節とルカ21節後半も内容的にはよく似ています。もともと1つのイエスの言葉が伝えられていくうちに2つの形になった、と考えることができるでしょう。そしてさらに言えることは、単純なルカの形のほうが元の形に近いだろうということです。
 マタイの5節「柔和な人々は」の句はルカにはありませんが、この言葉は、詩編37編11節の引用と言ってもよい言葉です。新共同訳聖書でこの箇所は「貧しい人は地を継ぎ」と訳されていますが、「貧しい」と「柔和な」はどちらもヘブライ語では同じ「アナウ」という言葉(もともと、身をかがめて小さくなっている様子を表す言葉)です。古代の写本の中には、4節と5節を入れ替え、「心の貧しい人々は」の句の次に「柔和な人々は」の句を置いている写本があります。「柔和な」の句はおそらくイエスの言葉が伝えられていく途中の段階で、「心の貧しい人々は」の句を説明するために挿入されたものでしょう。

  (3) 「貧しい人は幸いである」というと1つの叙述文ですが、原文の語順どおりに訳せば、「幸い、貧しい人々。なぜなら、あなたがたのものだから、神の国は」(ルカ)となります。これは目の前の人に向かって語りかける祝福の言葉なのです(マタイは三人称になっていますが、同じように受け取ることができます)。イエスは、病人やその家族という、他に頼るところもなくイエスのもとに集まって来たボロボロの群集に向かって、「幸い」と語りかけたのです。
 「貧しい人」「飢えている人」「泣いている人」がなぜ幸いなのか。それは「神の国はあなたがたのもの」だからです。「国」はギリシア語で「バシレイアbasileia」で、「王(バシレウスbasileus)であること、王となること」を意味します。神は決してあなたがたを見捨ててはいない、神が王となってあなたがたを救ってくださる、だから幸いなのです。「満たされる」「慰められる」という受動形は、「神が満たしてくださる」「神が慰めてくださる」の言い換えです。これも同じことで、これこそがイエスの福音=よい知らせなのです。
 この言葉をわたしたち自身に向けられた「福音=よい知らせ」として聞くこと、これが「幸い」の言葉を受け取るためのもっとも大切なヒントです。

  (4) 「心の貧しい」は明治以降の伝統的な日本語訳ですが、ほとんど誤訳と言わざるをえません。「心が貧しい」という日本語は「精神的貧困」を意味しますが、ここではそういう意味ではないからです。直訳は「霊に貧しい」で、「神の前に貧しい」という意味に受け取るのがよいと考えられます。マタイは決して物質的な貧しさを無視しているのではなく、物質的な面だけでなく、神の前にどうしようもなく欠乏し、飢え渇いている人間の姿を示そうとしているのです。なお、フランシスコ会訳聖書は「自分の貧しさを知る人」と訳し、新共同訳ができる前の共同訳聖書は「ただ神により頼む人」と訳しています。どちらもかなり大胆な意訳ですが、参考になります。
 なお、ルカがただ「飢えている人」というところを、マタイは「義に飢え渇く人」と言います。ここでもマタイは神との関係を強調していると言えるでしょう。

  (5) マタイの後半の4つの幸いは、貧しいだけでなく、その中でもっと前向きに生きようとする人々の姿を表しています。それは「憐れみ深い」「心の清い」「平和を実現する」「義のために迫害される」という生き方です。「八つの幸い」というマタイの形はもはや単なる祝福ではなく、その祝福の中を生きるとは具体的にどういうことかということをも示しているのです。そういう観点から「八つの幸い」全体が整えられていったと考えることができるでしょうし、「八つの幸い」全体を受け取ることは、わたしたちにとっても大切なことです。なお、ルカ福音書では別の発展がみられますが、今回は触れることができません(C年年間第6主日の「福音のヒント」参照)。




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Posted on 2017/01/19 Thu. 20:43 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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年間第3主日 (2017/1/22 マタイ4章12-23節)  


教会暦と聖書の流れ


 きょうの箇所はマタイ福音書の中の、いわゆる「宣教開始」の場面です。ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で悪魔の誘惑を退けたイエスが、いよいよご自分の活動を始めていきます。今年(A年)の年間主日のミサの中では、四旬節・復活節の長い中断(約3ヶ月)をはさんで11月まで、マタイ福音書をとおして、イエスの活動の歩みを思い起こしていくことになります。
 きょうの福音でマタイが引用しているイザヤ8章23節~9章1節は、実は「主の降誕・夜半のミサ」で読まれた箇所です。降誕節のテーマであった「闇に輝く光、神の栄光の現れ(エピファニア)」というテーマは、イエスの活動全体を貫くテーマでもあります。


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  (1) 「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」(12節)。ヨハネが洗礼活動をしていたのはヨルダン川の下流、ユダヤに近い地方だと考えられています。洗礼者ヨハネが捕らえられて、イエスご自身も身の危険を感じたのでしょうか、ヨハネの活動の限界を感じたのでしょうか、イエスはご自分の故郷とも言えるガリラヤに戻ってきます。そして、これを契機にイエス独自の活動が始まることになりました。
 「ガリラヤ」について。紀元前10世紀にイスラエルの王国は、エルサレムを中心とする南のユダ王国とサマリアを中心とする北のイスラエル王国に分裂しました。イザヤは紀元前8世紀、北王国がアッシリアに滅ぼされていった時代の、ユダ王国の預言者です。ガリラヤ地方はサマリアのさらに北にあります。イザヤの時代のユダヤ人から見れば、まさに「異邦人のガリラヤ」と呼ぶべき暗闇の地でした(なお、「ゼブルンとナフタリ」は、エジプトを脱出したイスラエルの民が約束の地に入ったとき、ガリラヤ地方を割り当てられた部族の名です)。イエスの時代のガリラヤ地方は、南のユダヤ人が入植して町を作っていたので、民族的にも宗教的にも南のユダヤ人と結びついていましたが、ユダヤの人々からは軽んじられていました(「ガリラヤから預言者は出ない」ヨハネ7章52節)。マタイはイエスがこのガリラヤで活動を始めたことを神の計画と見ています。復活したイエスが弟子たちに姿をあらわす場所もガリラヤの山です(マタイ28章16節)。見捨てられ、暗闇に覆われた場所、しかし、その中でこそ神の救いの計画が実現し、イエスと出会うことができる場所。わたしたちにとっても「ガリラヤ」と言える場所があるでしょうか。

  (2) 17節の「天の国」はマタイ福音書によく出てくる表現で「神の国」の言い換えです。マタイ福音書は洗礼者ヨハネとイエスのメッセージを「悔い改めよ、天の国は近づいた」(3章2節参照)というまったく同じ言葉で紹介し、2人が唯一の神の同じ1つの計画の中にいることを示しているようです。この「近づいた」(完了形)には「近づいているけれどまだ来ていない」というニュアンスだけでなく、「近づいてもうここに来ている」というニュアンスがあります。2人の違いは、ヨハネが「天の国(=神の国)」の準備の時代の人であったのに対して、イエスが神の国の実現の時代の人だという点です(マタイ11章11節「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」参照)。わたしたちは「み国が来ますように」と祈りますが、イエスによって神の国は何らかの意味でもう始まっているのです。わたしたちにとって、すでに始まっている神の国とはどのようなものでしょうか。

  (3) イエスが最初になさったことは弟子を作るということでした。これもマタイ福音書の結びと対応しているようです。復活したイエスの弟子たちへの命令の中心は「すべての民をわたしの弟子にしなさい・・・」(28章19節)というものでした。イエスの弟子を作るという活動がまさにイエスの活動の中心であったからこそ、同じことがイエスの復活後の弟子たちの活動の中心になるのだと言ったらよいでしょう。
 「わたしについて来なさい」は「わたしの後に」という意味の言葉が使われています。一方「従う」と訳された「アコリュテオーakolytheo」というギリシア語は、ただ「後を歩む」だけでなく「同行する、仲間になる」という意味もあります。もちろん、それは司祭や修道者だけの問題ではありません。キリスト信者は皆、イエスに弟子として呼ばれた者なのです。わたしたち一人一人が弟子として呼ばれていることを感じられますか。イエスの弟子として歩むということはわたしたちにとってどういうことでしょうか。

  (4) きょうの箇所は、イエスが突然誰かに声をかけ、呼ばれた人たちがすぐにすべてを捨ててついていく物語ですが、常識的に考えると少し不自然ではないでしょうか。イエスの弟子とは、イエスの言葉と行動に触れて、イエスに従うことを自分で決断した人たちだと考えるほうが自然でしょう。マタイ福音書がマルコ福音書から受け取った、この最初の弟子の物語はいささか理想化(あるいはパターン化)されていると言わざるをえません(ルカやヨハネは別の形でこの弟子たちとイエスとの出会いを伝えています。ルカ5章1-11節、ヨハネ1章35-42節参照)。普通の師弟関係なら、弟子のほうが「これぞ」と思う先生を見つけて弟子入りを願うものです。しかし福音書の中では、先生であるイエスのほうが弟子を選ぶということが目立っています。「イエスが弟子を選ぶ」ということは、神の選びの根拠は人間の側にない、という聖書特有の考え方に基づいています。人間が神を選ぶのなら、人間の側の選択能力が優れているということにもなりますが、神が人間を選ぶというのは、選ばれた人間が優れているからではないのです。神の選びとは、もっとも弱く、貧しい人を選ぶことによって、すべての人を救おうとするものです。つまり選ばれた側は何も誇ることができないのです(Ⅰコリント1章26‐31節参照)。ペトロやヨハネも後々まで「無学な普通の人」(使徒言行録4章13節)と言われていました。
 ここでは「すぐに」ということと「何もかも捨てて」ということが弟子の理想の姿として描かれています。自分自身のことを考えると戸惑いを感じるかもしれませんが、わたしたちの中にもそんな経験がまったくないとは言えないのではないでしょうか。




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Posted on 2017/01/13 Fri. 07:40 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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年間第2主日 (2017/1/15 ヨハネ1章29-34節)  


教会暦と聖書の流れ


  「年間主日」のミサの福音は、福音を告げるイエスの活動の歩みを追っていきます。3年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書が読まれ、ヨハネ福音書は主に四旬節や復活節に読まれるようになっています。ところで、ヨハネ福音書でイエスの最初期の活動を伝える部分は他に読む日がないので、年間第2主日に読まれることになっているのです。
 もちろん、成人したイエスの話ですが、ここに「神の子の栄光の現れ」という降誕節のテーマの余韻を感じ取ることもできるでしょう。なお、日本語で「公現」と訳されているラテン語の「エピファニアepiphania」(元のギリシア語では「エピファネイアepiphaneia」)は、もともと「現れること」、特に「神の現れ」を表す言葉です。


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   (1)  ヨハネ福音書は主の降誕・日中のミサで読まれた序文(1章1-18節)の後、イエスの活動のはじまりを最初の6日間の出来事として伝えています(1章19節~2章11節)。それは創造の6日間(創世記1章)を思い起こさせるものだとも言えます。イエスによって「新しい創造」とも言える神の画期的な業(わざ)が始まったのです。きょうの箇所は「その翌日」という言葉から始まる第2日目の出来事です。ヨハネ福音書はイエスについての多くのエピソードを伝えていますが、それはただの出来事の報告ではありません。ヨハネはいつも1つ1つの出来事の中にイエスとはどういう方であるかが示されている、と考え、そういうものとして1つ1つのエピソードを書き記しています。洗礼者ヨハネとイエスの出会いを伝えるきょうの箇所も、「イエスとはどういう方か」ということをわたしたちに教え、そのイエスとの出会いにわたしたちを招いていると受け取ったらよいでしょう。

  (2) 「世の罪を取り除く神の小羊」はミサの中でお馴染みの言葉ですが、分かりやすいとは言えないでしょう。「神の小羊」には旧約聖書の背景がいくつか考えられます。
 (a) 過越(すぎこし)の小羊 出エジプト記12章にあるエジプト脱出の晩の物語から、小羊は神の救いのシンボルとなり、イスラエルの民は毎年、過越祭に小羊を屠(ほふ)ってこの救いの業を記念しました。イエスはこの過越祭のころに十字架刑に処せられました。
 (b) 主のしもべの比喩としての小羊 イザヤ53章7節には「屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」という言葉があります。これは苦しみをとおして多くの人の罪をあがなう有名な「主のしもべ」について語られている箇所です。この箇所は、旧約聖書の中で最も強くイエスの受難を思い浮かべさせる箇所だと言えるでしょう。
 (c) 犠牲動物としての小羊 また、旧約聖書では神殿にささげられる動物としての羊があります。このいけにえは、特に罪のあがないと関連しています。
 ヨハネ福音書はこれらすべてを背景として、イエスこそが神の救いをもたらす方だという意味で、イエスを象徴的に「神の小羊」と呼んでいると受け取ったらよいでしょう。
 ただこの箇所では「神の小羊」という言葉の意味よりも、洗礼者ヨハネが「見よ!」と弟子たちの注意をイエスに向けさせていることが大切だとも言えます(ヨハネの弟子にとってもこの時点では「神の小羊」は意味不明の言葉だったはずです)。イエスについて言葉で説明して頭で理解することよりも、イエスご自身の姿をしっかりと見つめることのほうが、ある意味ではもっと大切なことなのです。

  (3) 「わたしよりも先におられた」(30節)という表現も分かりにくいでしょう。1つのヒントとして「永遠」ということを考えてみるとよいかもしれません。「神が永遠である」という時の「永遠」とは、時間を過去と未来に果てしなく延長したものというよりも、時間を超えたものです。「天」が「地」(われわれの生活空間)を超えたものであるから、神はどこにでもいると言えるように、「永遠」はわれわれの経験している時間を超えたものですから、「神はいつもおられる」と言えるのです。「天」とはもともと大空のことを指した言葉(空間的な表現)ですが、古代の人はその言葉を用いて日常生活の空間を超えた世界を表そうとしました。「先」「後」という表現もわれわれの経験している時間内の表現ですが、ここではむしろイエスが永遠の方であることを言おうとしているのだと考えたらよいでしょう。ヨハネ1章18節で「父のふところにいる独り子(ひとりご)である神」と言われるように、永遠の神とともにいることがイエスの本質だと言うのです。
 わたしたちの信仰は、人のいのちを「目に見える世界だけの、今という時だけのいのち」ではなく、もっと豊かな「時間を超えた永遠とのつながりの中にあるいのち」として受け取ります。そのことがもっとも強く感じられるのは、病気や死に直面したときでしょう。もちろん、それ以外の場面でも感じることがあるかもしれません。

  (4) ヨハネ福音書は、イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたという事実を報告しようとはしていません。むしろ、そのことの意味をはっきりと示そうとしています。
 「"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」(33節)。洗礼の元のギリシア語は「バプティスマbaptisma(水に沈めること)」であることをいつも思い起こすとよいでしょう。ヨハネは回心のしるしとして、人を水の中に沈めました。イエスは聖霊の中に人を沈める、というのです。ここにはイエスこそが聖霊(神のいのち・神とのつながり)を人にもたらす方だということが表されています。
 「洗礼を授ける(バプティゾーbaptizo)」を「漬ける」と訳した人がいます。「聖霊によって洗礼を授ける」は「聖霊漬けにする」と言ってもよいかもしれません。「福神漬け」というのは、七福神のようにさまざまな野菜が1つの漬物になっているからそういう名前になったそうです。福神漬けの中に入っている野菜が、それぞれの個性を失わず、それぞれの野菜のままでありながら、すべての野菜が福神漬けになっている、というイメージを思い浮かべてみてはどうでしょうか。「一人一人が聖霊の香りを放つ者になる」と言ってもよいかもしれません。わたしたちが「聖霊漬け」になるというのは・・・?




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Posted on 2017/01/06 Fri. 07:30 [edit]

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