福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

四旬節第1主日 (2017/3/5 マタイ4章1-11節)  


教会暦と聖書の流れ


 洗礼は、キリストの死と復活にあずかり、新たないのちに生き始めることを表す秘跡なので、古代の教会では復活祭に行われていました。また、復活祭に洗礼を受ける人の最終的な準備のための期間が徐々に形作られていきました。これが四旬節の起こりです。その後、次第に、四旬節はただ単に洗礼志願者のための季節というだけでなく、キリスト者全体がキリストの死と復活にふさわしくあずかるための期間になりました。
 「四旬節」という言葉は40日間を意味します。これはもともと断食の日数でした(伝統的に日曜日を除いて復活祭前の40日を数えるので、灰の水曜日からが四旬節となります)。四旬節には、断食に象徴される回心(主に立ち返ること)、もっと具体的に言えば「祈り、節制、愛の行い」が強く勧められています。
 この日の福音では、四旬節の原型である、イエスの荒れ野での40日の場面が読まれます。今年はマタイですが、先週までの年間主日の流れから離れて、もう一度、イエスの活動の出発点に立ち戻ります。ヨルダン川で洗礼を受け、聖霊に満たされ、「神の子」として示されたイエスは、同じ聖霊によって荒れ野に導かれ、悪魔と対決しますが、その中で「イエスの神の子としての道」が明らかにされていくのです。


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  (1) 「40」という数は聖書の中では、苦しみや試練を表す象徴的な数字です。何よりもまず、紀元前13世紀、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放され、約束の地に入るまでの「40年間の荒れ野の旅」が思い出されます。きょうの福音の箇所全体は、この40年の荒れ野の旅の体験をもとにしています。
 荒れ野は水や食べ物が欠乏している場所で、一般的に言えば生きるのに厳しい場所です。しかし、イスラエルの民の荒れ野の旅の中で、神は岩から水を湧き出させ、天から「マナ」と呼ばれる不思議な食べ物を降らせて、民を養い導き続けました。荒れ野は、ぎりぎりの生活の中で、神から与えられたわずかなものを、皆で分かち合って生きる場でした。約束の地に入り、定住して農耕生活を始めると、人は倉を建てて作物を貯えるようになります。すると、自分の貯えに頼り、神を忘れる危険が生じます。また、豊かな者はますます豊かになり、貧しい者はさらに貧しくなる、ということも起こります。そこから振り返ったときに、あの荒れ野の中にこそ、神との生き生きとした交わりがあり、人と人とが分かち合い、助け合う生活があったことに気づくのです。

  (2) 「悪魔がイエスを誘惑する」というのは分かりにくいかもしれません。聖書の中で「悪」とは神から離れることであり、人間を神から引き離そうとする力の根源にあるものが、人格化されて「悪魔」と呼ばれるようになったのだと考えればよいでしょう。
 「石をパンにしてみろ」は物質的なものによって満たされようとする誘惑だと言えるでしょうか。「神殿の屋根から飛び降りよ」は自分の身の安全を確保しようとする誘惑だと言ってもよいでしょう。この言葉は、イエスが生涯の最後に十字架の上で受けた誘惑、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ27章40節)によく似ています。「国と繁栄を与える」は、この世の富と権力を手に入れようとする誘惑でしょう。「サタン、引き下がれ」は受難を予告したイエスをとがめたペトロに向かって言われた言葉(マタイ16章23節)と同じです。ここでもイエスの受難の道との関連が暗示されています。これらの誘惑を退けることを通して、イエスの道とはどのような道であるかが示されるのです。
 ただし、モノや安全を手に入れようとすることのすべてが悪の誘惑とは言えないかもしれません。イエスは5つのパンでおおぜいの群集を満たし、多くの病人をいやしたと伝えられています。わたしたちにもパンが必要ですし、健康や安全が必要です。富や力もある程度は必要でしょう。そういう意味では、これらを悪と決め付けることはできません。問題は、神との関係を見失ってそれらを求めること、それらを求めるあまり、神との交わり、隣人との親しい交わりを失ってしまうことだと言ったらよいでしょうか。

  (3) 悪魔の誘惑に対するイエスの答えは、すべて申命記の引用です。申命記の中心部分は、荒れ野の旅の終わりに、約束の地を目前にして、モーセが民に遺言のように語る「告別説教」という形を取っています(モーセ自身は約束の地に入ることなく、そこで世を去りました。申命記34章)。
 イエスの答え「人はパンだけでなく・・・」は申命記8章3節の引用です。荒れ野の旅の途中、イスラエルの民に与えられた「マナ」という不思議な食べ物について語る言葉です。マナが与えられたのは、人がマナによって生きることを教えるためでなく、神によって生きるものであることを教えるためであった、と言うのです。
 7節の「あなたの神である主を試してはならない」は申命記6章16節の引用です。ここでは出エジプト記17章のマサ(メリバ)での出来事が思い起こされます。イスラエルの民が、荒れ野でのどが渇き、神とモーセに不平を言った場面です。
 10節の「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」は申命記6章13節の引用です。これは、民が約束の地で定住生活を始め、家を建て、豊かな食物で満腹となり、周辺民族の他の神々に惹かれるようなことがあってはならない、という警告の中で語られる言葉です。

  (4) 四旬節の時を過ごす心構えは、ある意味で、自分を「荒れ野」に置いてみることだ、と言えるのではないでしょうか。そこからもう一度、神とのつながり、人とのつながりを見つめなおしてみるのです。生きるのに苦しい、ぎりぎりのところだからこそ、この自分を生かしてくださる神を思い、同時に苦しい状況の中で生きている兄弟姉妹との連帯を思うことができる。四旬節に勧められている「祈り、節制、愛の行い」という回心の行為が目指していることは、すべてそういうことだとも言えます。このように考えると、「荒れ野」は遠くにではなく、実はわたしたちの身近なところにあるとも言えるのではないでしょうか。




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Posted on 2017/02/23 Thu. 19:45 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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年間第8主日 (2017/2/26 マタイ6章24-34節)  


教会暦と聖書の流れ



 主日のミサの聖書朗読配分は3年周期になっていて、今年はA・B・C年のうちA年にあたります。A年年間第4~第9主日のミサの福音で、マタイ5~7章の「山上の説教」が読まれることになっていますが、実は年間主日の流れは、四旬節・復活節で中断され、さらに三位一体の主日やキリストの聖体の祭日と重なるため、このあたりの年間主日は祝われることのない年も多いのです。復活祭の日付は年によって異なります。今年は比較的、復活祭が遅いので、年間第8主日まで祝うことができます。



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  (1)  先週の箇所はマタイ5章48節まででしたので、その後、きょうの箇所まで少し飛んでいます。6章1-6,16-18節は「施し、祈り、断食」についての教えで、毎年灰の水曜日のミサで読まれる箇所です。9-13節には祈りの代表として「主の祈り」が伝えられています。この「施し、祈り、断食」についての教えは、6章1節「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」という言葉から始まっています。それらの善行を熱心に行うようにと勧めるのではなく、むしろ、それらの行いをするときに心がどこを向いているかを問いかけるのです。そしてその結論のように、「地上に富を積んではならない。・・・富は、天に積みなさい」(6章19-20節)という教えが続きます。自分を誇るためではなく、神に対して、人に対して、まごころをもって行う行為が天に富を積むことになるということでしょう。
 ここにも山上の説教の教えの特徴、すなわち「神が人間に求めていることを愛という一点に集中させる」、「神への信頼のうちに神のみ旨を果たす」という特徴が見られます。

  (2) 24節「だれも、二人の主人に仕えることはできない・・・」は、ルカ16章13節にほとんど同じ言葉があります。ルカの文脈では、「富」に対する態度についてのさまざまな教えの中にこの言葉が置かれています。マタイでは「富は、天に積みなさい」(6章20節)という教えの後にこの言葉があり、その結論のようになっています。つまり、地上に富を積むことと天に富を積むことが両立しないように、神に仕えることと、富に仕えることは両立しないのです。なお、「富」と訳された言葉は「マモン」ですが、これはアラム語で「富」を表す言葉です。ギリシア語で書かれた新約聖書の中で、この言葉がアラム語のまま記されているのは、「マモン=富」を神に対立する存在として、擬人的に考えているからです。なお、ここでは「神と富とに仕えてはならない」ではなく、「仕えることはできない」と言われています。それは禁止命令ではなく、事実としてそうなのだということです。

  (3) 25-33節「空の鳥、野の花」の話は、ルカ12章22-31節に平行箇所があります。内容はよく似ています。しかしここでも文脈が違います。ルカでは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」(12章21節)に対する警告に続いていて、結論としては「ただ、神の国を求めなさい」「富を天に積みなさい」「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(ルカ12章31、33、34節)となっていきます。つまり、ルカでは、地上の富(金銭)のことを心配するよりも、もっと大切な神の国や天のことに心を向けなさい、という教えになっています。「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(32節)の「神の国」は、終末的な救いの意味合いが強いと言えるでしょう。
 一方マタイでは、最後に「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(34節)という結論のような言葉が続いています。今日わたしたちに必要なものすべてを与え、わたしたちを生かしてくださる神への信頼を求める教えだと言えるでしょう。ですから「神の国と神の義を求めなさい」という言葉も、終末的な意味というよりも、「今、神のみ心にかなう生き方をするように」という勧告の意味だと考えられます。

  (4) いろいろ解説してきましたが、きょうの箇所はそれほど説明が必要な箇所でもないでしょう。素直にイエスの言葉を受け取ればよいのです。しかし、このように言われても、わたしたちがなかなか「思い悩み」から解放されないのも事実ではないでしょうか。この「思い悩み」はイエスの時代よりも、現代のほうが大きな問題かもしれません。
 現代は人間の力が非常に大きくなった時代であり、現代人はすべてを自分の力で行うことができるかのように錯覚しがちです。そして成功するのは自分の努力の結果で、うまくいかないのは自分の怠慢の結果(「自己責任」!)だというような考えが強くあります。そんな中では、神がすべてを与え、養っていてくださるとはなかなか感じにくいでしょう。
 また、最近は特に、多くの人々の間に将来に対する不安が広がっているようです。少子高齢化や経済的な行き詰まりという日本の現実は、将来を悲観的に思い浮かべざるをえないところに、人を追い込んでいます。「明日のことは分からないから、明日を思い悩んでもしかたない」というのが福音の教えであっても、「明日のことが分からないから、不安でならない」というのが現実の多くの人々の叫びなのです。
 
  (5) イエスは、「空の鳥をよく見なさい」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」と語りかけます。どうしたら思い悩みから解放されるのか、と考え、自分の中で堂々巡りして、さらに思い悩み続けるという悪循環に陥りそうになったなら、思い切ってこのイエスの言葉に従い、自然の中でいのちの営みに目を向け、この福音のイメージの中に自分を置いてみてはどうでしょうか。そうすると、人間を超えた大きな力が自分を包んでいることを少しずつ感じ始めることができるのではないでしょうか。わたしたちは、自分の力で思い悩みから解放されるのではありません。わたしたちを思い悩みから解放してくださるのは神なのです。きょうを神に生かされた者として精一杯生きる。ここに信仰に生きることの本当の醍醐味があります。





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Posted on 2017/02/17 Fri. 16:19 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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年間第7主日 (2017/2/19 マタイ5章38‐48節)  


教会暦と聖書の流れ


 山上の説教(マタイ5~7章)の朗読が続いていますが、きょうの箇所も、「幸いである」と祝福され、「地の塩、世の光」とされた人々の新しい生き方を指し示す箇所です。ここでもまた旧約の律法と対比された、キリスト者の新しい生き方が示されています。それは5章17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われる「律法を完成させる道」であり、20節で「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われる「義の道」なのです。


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  (1) 「目には目を、歯には歯を」という言葉は、旧約聖書の中に何回か述べられています。これは「同害復讐法」と言われ、復讐を認めたというよりも、むしろ同じ害を与える以上の過剰な復讐を禁じているのだと言われています。イエスはこれを否定し、「悪人に手向かってはならない」と言い、さらに「右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われます。40節の「下着」と「上着」は、現代の上着・下着とは違います。ここでいう「下着」は普通の日常生活で身に着ける一枚の布でできた服のことで、「上着」は旅をしたり、野宿をしたりするときに使う外套のようなものです。ルカの並行箇所では順序が入れ替わっていて、「上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない」(ルカ6章29節)となっています。ルカは追いはぎに襲われたような場面を考えていますが、マタイのほうは訴訟の場面が考えられているのでしょう。上着は下着よりも高価なものです。「ミリオン」はラテン語で「1,000」を意味する言葉です。ローマの距離の単位で、2歩(右足と左足1歩ずつ)を1単位として、その1,000倍、すなわち2,000歩の距離です。「1ミリオン」は約1,500メートルにあたります。「頬を打たれるのを耐えなさい。下着を奪われても我慢しなさい。強いられるままに1ミリオン行きなさい」という以上の積極的な何かがここにはあります。

  (2) 強いられて2,000歩歩くという状況は想像しにくいですが、自分の意思ではどうすることもできない2,000歩なのですから、そこにはまったく自由がありません。しかし、2,001歩目からは自分がまったく自由に歩んでいく歩みです。それは相手への愛のために進んで歩くということになるではないでしょうか。
 先週の福音のヒントで、イエスが山上の説教の中で示した律法を完成する道は「愛によって律法を完成する道」であり、同時に「神によって完成する道」でもある、と述べました。左の頬をも向け、上着をも取らせ、2ミリオン一緒に歩いていく、という姿勢には、この「愛によって律法を完成する道」が示されていると言えるしょう。「掟だから仕方なくそれを守る」とか、「掟を守りさえすればよい」というのではなく、まったく自由に愛によって生きることが父である神の求める人の生き方なのです。この生き方はイエスの十字架に向かう歩みと重なっています。
 
  (3) 43節の「隣人を愛せ」という律法は、レビ記19章18節にありますが、「敵を憎め」という言葉は旧約聖書には見当たりません。ただし、「隣人」という言葉の本来の意味は「隣の人」であって、すべての人を指してはいません。きょうのミサの第一朗読にはこうあります。「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章17,18節)。これを文字通り受け取って、「兄弟、同胞、民の人々、隣人」だけを愛すれば律法の要求を満たしたことになるのであり、それ以外の人は憎んでもかまわない、という理解があったのでしょう。イエスの受け取り方はまったく違いました。それはルカ福音書10章の「善いサマリア人のたとえ話」にはっきりと示されています。相手が誰であれ、苦しむ人に手を差し伸べること、これが隣人愛の掟の意味であり、神の望みなのです。なお、聖書の言う「愛」はギリシア語で「アガペーagape」で、単なる好き嫌いの感情を表す言葉ではありません。ラテン語では「カリタスcaritas」と訳され、さらにキリシタン時代の辞書には「ゴタイセツ」と訳されています。「愛」とはそのものをそのものとして大切にすることなのです。

  (4) 人間は多くの場合、神とは正しいことをすれば良い報いを与え、悪いことをすれば罰を与える方だと考えます。聖書の中にもこのような神の姿は多くの箇所で語られています。正しく生きることを教えるためには、こういう神の姿も必要なのです。しかし、イエスが語る神の姿の根本は違いました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(45節)。この言葉ほど明確に父である神の特徴を語る言葉は、福音書の中に他にありません。この無条件の神の愛が人間を根本において支えるものなのです。
 なお、ここに「徴税人」「異邦人」という言葉が出てきます。差別発言のように聞こえるかもしれませんが、ここでイエスは、「あなたがたが軽蔑している徴税人、異邦人でさえ」というような言い方で、ユダヤ人である聴衆の心を揺さぶろうとしているのでしょう。

  (5) 人間が自分の力で敵を愛することができるというのではありません。神の無限の愛がわたしたちに注がれ、わたしたちがそれを受け取ったときに、わたしたちは神と同じように愛するものに変えられていくのです。ここに「神による律法の完成の道」が示されています。「完全な者になりなさい」という言葉にも戸惑うかもしれませんが、平行箇所のルカ6章36節では「あなたがたの父が憐(あわ)れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」とあります。レビ記19章2節には、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者(だから)である」という言葉もあります。神がこういう方だから、その神に出会ったら、わたしたちも神に似たものに変えられる。これもまた「神による完成」と言ったらよいのではないでしょうか。




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Posted on 2017/02/09 Thu. 13:00 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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年間第6主日 (2017/2/12 マタイ5章17‐37節)  


教会暦と聖書の流れ


 山上の説教(マタイ5~7章)は、2つの祝福の言葉(「八つの幸い」、「地の塩、世の光」)から始まりますが、その後は、その祝福を受けた人々に求められる生き方についての教えが続きます。これはイエスがあるときに話した長い説教というよりも、さまざまな場面で語られた教えを集めたもののようです。ある聖書学者は、初代教会の中で新しくキリスト者になった人々に対して、キリスト者としての新しい生き方を指し示すという意図の下で集められたのではないかと述べています。


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  (1) 「律法」は、神がモーセを通して、エジプトの奴隷状態から救われたイスラエルの民に与えた掟です。律法の前提には神のこの救いのわざがあり、律法の中に示されるのは、神によって救われた民が神に対して、また人に対してどのように生きるべきか、ということです。「預言者」はその時代、その社会の中で神からのメッセージを告げるために選ばれた人々でした。「律法や預言者」は旧約聖書全体を指す言葉でもあります。そこに神の意思・望み・み旨が示されているとイエスの時代のユダヤ人は信じていました。特にファリサイ派やその派の律法学者は熱心に律法を学び、守ることこそ、神に従う道であると確信していました。イエスも律法や預言者を否定しません。しかし、イエスの律法に対する態度は、律法学者やファリサイ派の態度とは明らかに違っていました。イエスが律法を完成させるために来た(17節)とはどういうことでしょうか? 律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義(20節)とは何でしょうか? イエスは1つ1つの掟を忠実に守るというよりも、そこに示されている神のみ旨を本当に行う道を示しているのです。イエスによる律法の完成には、2つの面があります。山上の説教全体を見れば、それは神が望まれる人間の生き方を愛という一点に集中させる「愛による完成の道」であり、また、人間の力ではなく、神への信頼のうちに神のみ旨を果たす「神による完成の道」だと言えるでしょう。

 (2) 21節「殺すな」は律法の核心とも言うべき「十戒」の中にある言葉で、出エジプト記20章13節や申命記5章17節に見られる言葉です。「人を殺したものは裁きを受ける」に似た言葉としては、出エジプト記21章12節やレビ記24章17節の「人を打って死なせた者は必ず死刑に処せられる」が挙げられます。ところで、イエスはただ殺すだけでなく、人に向かって腹を立てたり、悪口を言うことも同じ罪だと言っています。「最高法院」や「火の地獄」は誇張された表現ですが、イエスはここで「『殺すな』が掟だから、殺しさえしなければ神の掟を果たしていることになる」というような考えに真っ向から反対しています。23節では「兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したら」と言います。自分が人に反感を抱いているのはよくないというだけでなく、人が自分に反感を抱いているのなら、自分のほうから和解のために相手のところへ行きなさい、というのです。なお「1クァドランス」はローマの少額貨幣で、今で言えば100円ぐらいの価値になります。
 ここでは、人間の間の悪口や不和のすべてが神の意思に反するものだ、と明確に述べられています。ここには上記の「愛による完成の道」という面が示されています。

  (3) 「姦淫するな」も十戒の言葉で、出典箇所は、出エジプト記20章14節、申命記5章18節です。「姦淫」と訳された言葉は、男性にとっては他人の妻と性的関係を結ぶことを意味していました。女性にとっては自分の夫以外の男性と性的関係を結ぶことでした。イエスは実際の行為を行わなくとも「みだらな思い」で女性を見るならば同じことだと言います。実はこの箇所の「他人の妻」と訳された言葉はギリシア語では「ギュネーgyne」で、本来は女性一般を指す言葉です。ここでわざわざ「他人の妻」と訳すのは、姦通の相手であるから「他人の妻」であるはずだ、という解釈に基づいています。しかし、イエスが教えているのは、他人の妻をどう見るかというのではなく、すべての女性(未婚の女性であれ、自分の妻であれ)に対してどのような見方をするかということではないでしょうか。イエスは「みだらな思い」を越えて、男性が女性を本当に人として尊重する目で見るように求め、男女の新しい関係を指し示しているのではないでしょうか。ここでもイエスは、「愛による完成の道」を示していると言えるでしょう。

  (4) 「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」は申命記24章1節の引用です。申命記では「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」となっています。この規定は、夫が正当に妻を追い出すためには、妻の側の明らかな落ち度(=何か恥ずべきこと)がなければならず、また、追い出された女性に再婚の可能性を保障しなければならない(=離縁状を渡す)というものです。これは圧倒的に男性優位だった当時(紀元前7世紀頃)のイスラエル社会では、女性の立場を少しでも守ろうとする規定だったと言えます。32節の「不法な結婚」と訳された言葉はギリシア語の「ポルネイアporneia」で、本来は、男性が娼婦(ポルネーporne)と関係することを意味しましたが、不道徳な性関係全般を指すようになった言葉です。しかしここでは近親婚などに限定されるという教会の伝統的解釈に基づいて、「不法な結婚」という訳になっています(レビ記18章6-18節参照)。
 なお、離縁を禁じる同様のイエスの言葉は、この箇所以外に、マタイ19章7節やマルコ10章4節にもあります。イエスは、妻というものを「自分の都合でどのようにでもできるもの」と考えていた当時の男性の常識に反して、妻を「神が結び合わせてくださったもの」(マルコ10章9節)=神から与えられたかけがえのないパートナーとして見ることを求めています。これも律法を「愛によって完成させる」教えだと言えるでしょう。
 「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という律法は、レビ記19章12節、民数記30章3節、申命記23章22-24節などに見られます。なぜ「一切誓いを立ててはならない」のか、分かりにくいのですが、ここには、まったく単純に神に向かうことが求められているのでしょう。だとすればこれは「神による完成の道」を指し示していると考えたら良いかもしれません。




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Posted on 2017/02/03 Fri. 21:00 [edit]

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