福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

聖霊降臨の主日 (2017/6/4 ヨハネ20章19-23節)  


教会暦と聖書の流れ


 日本語では「聖霊降臨」ですが、ラテン語などヨーロッパ諸言語では元のギリシア語のまま「ペンテコステ」(「50番目」の意味)と呼ばれる日です。第一朗読の使徒言行録2章1-11節の記事に基づき、復活祭から50日目の日曜日に、使徒たちの上に聖霊が降(くだ)り、教会の活動が始まったことが祝われます。一方、福音の記事は復活節第2主日にも読まれた箇所で、復活の日の夕方、使徒たちに聖霊が与えられたことを伝えています。日付や場面は異なりますが、イエスの復活後、使徒たちが教会の活動を始めるにあたって、聖霊の働きを強く感じたことが記念されるのです。このヒントでは、ヨハネ福音書と使徒言行録の両方の箇所をとおして、わたしたちに与えられている聖霊の働きを味わうことにします。


福音のヒント


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  (1) 福音の箇所全体については、復活節第2主日の「福音のヒント」を参考にしてください。今回は特に聖霊に注目します。「聖霊」の「聖」は「神の」という意味です。「霊」はギリシア語で「プネウマpneuma」、ヘブライ語で「ルーアッハ」と言い、どちらも本来、「風」や「息」を意味する言葉です。古代の人は、目に見えない大きな力(生命力)を感じたときに、それを「プネウマ」とか「ルーアッハ」と呼んだのです。その力が神からの力であれば、それが「聖霊」だということになります。聖霊は目に見えないので、その働きを感じさせるしるしをもって表現されています。使徒言行録2章では「激しい風が吹いてくるような音」や「炎のような舌」(3節)がそれにあたり、ヨハネ20章では「息を吹きかけ」(22節)がそのしるしです。なお「舌」のギリシア語は「グロッサglossa」で、これは6節の「言葉」と同じ語です。「炎のような舌」は、使徒たちに与えられる聖霊の賜物が、言葉の賜物であることを象徴しているのです。

  (2)  聖霊の働きは非常に広いものです。ヨハネ福音書の「息を吹きかけて」は、創世記2章7節でアダムが創造された場面を思い起こさせます。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。神の働き・神とのつながり(聖霊)なしに人は生きることができないのです。詩編104編29-30節でもすべてのものを造り、生かしてくださる神の働きが次のように歌われています。「御顔(みかお)を隠されれば彼らは恐れ/息吹を取り上げられれば彼らは息絶え/元の塵に返る。あなたは御自分の息を送って彼らを創造し/地の面(おもて)を新たにされる」。聖霊の働きのこの広さは大切です。「風(プネウマ)は思いのままに吹く」(ヨハネ3章8節)と言われるように、聖霊が働く範囲を人間が限定することはできません。聖霊は秘跡の中だけに働く、とか、教会の中だけに働く、とか、ましてわたしの中だけに働くとは誰も言えないのです。人が意識しても意識しなくても、いつも聖霊は働いてくださっているということは本当に大切なことです。
 しかし、人間が特別に聖霊を意識するときがあります。聖書の中でそれは2種類の体験に関係しています。1つは、人が神から与えられたミッション(派遣・使命)を果たそうとするときの体験であり、もう1つは、神と人・人と人とが結ばれるという体験です。

  (3) 人間が神から与えられるミッションを生きようとするとき、自分の弱さ・無力さを痛感します。しかし、それでも何とかこのミッションを果たせたとするならば、そこに不思議な仕方で神が助けてくださった、という実感があるはずです。それは自分のうちに神が働いてくださったとしか言えないような体験です。聖書の中でもこのような神の働きが「聖霊」と呼ばれています。旧約聖書では、王や預言者がその使命を受けるとき、聖霊が降(くだ)ると表現されています(Ⅰサムエル16章13節、イザヤ61章1節参照)。新約聖書の中では、成人したイエスがヨルダン川で洗礼を受け、神の子としての活動を始めるときに聖霊が降りました。また、きょうの使徒言行録2章のペンテコステの出来事でも、弟子たち(最後までイエスについていけなかった弱い弟子たち)が福音を告げ知らせる使命を果たそうとするときに聖霊が降るのです。ヨハネ20章では、神のゆるしを人に伝えていくという大きな使命が弟子たちに与えられることと聖霊の授与が結ばれています。
使命と聖霊との結びつきは、わたしたちの洗礼や堅信の秘跡 (さらに叙階・結婚・病者・ゆるしの秘跡) のテーマでもあります。もちろん、これは秘跡だけでなく、人が神からのミッションを生きようとするとき、繰り返し体験することだと言えるでしょう。

  (4) 絶望のどん底にあった人が神へ信頼を取り戻し、立ち上がっていくとき、あるいは、人と人の間にある無理解や対立が乗り越えられて、相互の理解と愛が生まれるとき、それも神の働きとしか言いようがないような体験でしょう。神の霊が人間の心に働きかけて信頼や愛の心が呼び覚まされるのです。このような神の働きも聖書の中で「聖霊」と表現されています。
 福音で命じられる「ゆるし」(神と人・人と人との関係回復)の実現は、聖霊の働きと切り離せません。また、使徒言行録2章のように、理解し合えないと思われていた、言語の異なる人々の間に相互理解が生まれるとするならば、それも聖霊という神の力によると言えるでしょう。パウロはⅠコリント12章で、聖霊の賜物(カリスマ)がさまざまにあることを認めながら、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(30-31節)と述べて、続く13章で「愛の賛歌」を語ります。また、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5章22-23節)と断言しています。

  (5) 聖霊について人間が頭で理解しようとしても難しいと感じられるかもしれません。聖霊の働きとは、そもそも人間の考えを超えた神の働きなので、頭で理解しづらいのは当然でしょう。大切なのは聖霊を頭で理解することよりも、わたしたちが神の働き・神の助けを自分の中に感じ、他の人の中にもそれを見いだし、共に神の導きに従って歩んでいこうとすることなのです。




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Posted on 2017/05/25 Thu. 08:30 [edit]

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主の昇天 (2017/5/28 マタイ28章16-20節)  


教会暦と聖書の流れ


 使徒言行録によると、復活したイエスは40日にわたって弟子たちに姿を現した後、天に上げられ(1章=きょうの第一朗読)、50日目の五旬祭(ペンテコステ)の日に聖霊が降(くだ)りました(2章)。教会の暦はこれらの記事に基づいて復活節を祝っています(本来、主の昇天の祭日は40日目の復活節第6木曜日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では日曜日に移して祝われています)。
 A年の主の昇天では、マタイ福音書の結びの部分が読まれます。ここには、復活したイエスが神の子としての栄光・権威を受けたことと、目に見えないがいつもわたしたちとともにいてくださるという、復活節全体の二つの大きなテーマがはっきりと示されています。


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  (1) マタイ28章7,10節の空(から)の墓の場面で天使から告げられていた、ガリラヤでのイエスと弟子たちの出会いがここで実現します。「山」は、特別にマタイ福音書にとって啓示の場でした(マタイ5章1節、17章1節など参照)。「疑う者もいた」(17節)という箇所は「弟子たちはひれ伏し、(同時に彼ら=同じ弟子たちは)疑った」とも受け取れます。マタイは、復活を信じることが難しいと感じる後(のち)の時代の人々に、「イエスの弟子たちにも疑う心があった。しかし、イエスの力強い言葉を聞くことによって、信じる者に変えられていったのだ」と語りかけようとしているのかもしれません。

  (2) 19-20節には「行く」「弟子にする」「洗礼を授ける」「教える」という4つの動詞がありますが、このうち、原文ではっきりと命令法で書かれているのは「弟子にしなさい」という言葉だけで、他は分詞の形です。「行く」のは「弟子にする」ためですし、「洗礼を授ける」と「教える」は、「弟子にする」ことのより具体的な内容なのです。マタイ福音書では、4章18節のガリラヤ湖畔に始まるイエスの活動全体を「弟子作り」(人々を弟子として招き、弟子として育てること)だったと言うことができるのではないでしょうか。これまでイエスがしてきた「弟子作り」という活動がここでイエスの弟子に受け継がれ、同じ「ガリラヤ」から始まり「すべての民」に広がっていくのです。もちろん、イエスの弟子たちに求められるのは、自分たちの弟子を作ることではなく「イエスの弟子」を作ることです。
 「父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授ける」はマタイ福音書が書かれた時代(紀元80年頃)の教会で、実際の洗礼式で用いられていた表現だと考えられています。「洗礼を授ける」の元の意味は「(水に)浸す、沈める」です。この箇所は直訳では「父と子と聖霊の名の中に沈める」となります。「名」は単なる呼び名ではなく、そのものの実体を表します。洗礼とは「父と子と聖霊という神のいのちの中に人を招き入れること」だと考えたらよいでしょう。「父と子と聖霊」という表現は、イエスご自身の洗礼(マタイ3章16-17節。聖霊が降り、天から「わたしの愛する子」という声が聞こえた)をも思い出させます。キリスト者の洗礼は、イエスご自身の洗礼にあずかることだとも言えます。

  (3) 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)は、マタイ1章23節を思い出させます。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』と言う意味である」。イエスの誕生に関連してこのように述べたマタイは、最後に「共にいる」というイエスの力強い約束を伝えています。「神が(キリストが)共にいる」というテーマはマタイ福音書全体を貫くものだと言うことができます。今のわたしたちが「共にいてくださるイエス」をどのように感じることができるのか、マタイ福音書の中からヒントを探ってみましょう。

  (4) マタイ18章20節「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」
 キリストを信じる者同士の集いの中にキリストがいてくださる、と感じることができればどんなに素晴らしいことでしょうか。残念ながら、教会の中にも人間関係の問題やトラブルがあります。教会の中で人に傷つけられ、この集まりの中にキリストがいるなんて信じられない、と感じることもあるかもしれません。客観的に教会という組織を観察していても、そこにキリストを見いだすことは難しいかもしれないのです。組織としての教会よりも、人と人が本気でキリストに信頼して集まるということが大切でしょう。それは一緒に聖書を読んだり共に祈ったりする小さな集いかもしれません。わたしたち一人一人がイエスの名において人と出会おうとすることからすべては始まるのではないでしょうか。

  (5) マタイ25章40節「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
 飢え渇き、病気であり、住むところも着るものもないような人々の中にキリストがいるという約束。マザーテレサをはじめ多くの人が、貧しい人との出会いの中でキリストとの出会いを体験しました。それはわたしたちの身近な体験にも通じることではないでしょうか。あるいはまた、わたしたち自身が自分の貧しさや苦しみの中にあって、兄弟であるキリストと深く結ばれていることを感じたという体験もあるのではないでしょうか。

  (6) マタイ26章26-28節「取って食べなさい。これはわたしの体である」「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」
 わたしたちが主の食卓を囲むとき、そこにキリストがいてくださるということは、わたしたちの教会の大きな宝です。聖体(エウカリスティア)は2000年にわたって、喜びの中でも苦しみの中でも、多くのキリスト信者を支え続けてきました。わたしたちはどんなとき、聖体のイエスを親しく感じ、聖体に支えられ、励まされてきたでしょうか。




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Posted on 2017/05/19 Fri. 08:30 [edit]

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復活節第6主日 (2017/5/21 ヨハネ14章15-21節)  


教会暦と聖書の流れ


 先週に引き続き、ヨハネ福音書の最後の晩さんの席でのイエスの言葉です。イエスは、自分は目に見える形ではもういなくなる、しかし、何かが残るということをさまざまな形で約束しますが、その約束の中心は「聖霊の派遣」だと言えるでしょう(14章16-17節、14章26節、15章26-27節、16章7-15節)。イエスが世を去って父のもとに行き、弟子たちに残されるもの・与えられるものは何よりも聖霊なのです。復活節の流れの中では、聖霊降臨の主日を準備するような箇所だとも言えます。


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 (1) この箇所の中心にあるのは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(18節)という力強い約束です。この言葉を中心にして、16-17節に「聖霊」の約束があり、19-20節には「イエスがともにいる」という約束があります。以下のように図解してみると分かりやすいでしょう。
15節    愛する、掟を守る
 16-17節 聖霊が一緒にいる、世は見ない、知らない・あなたがたは知っている
  18節  あなたがたをみなしごにはしておかない
 19-20節 世はわたしを見ない・あなたがたは見る、分かる。あなたがたのうちにいる
21節    掟を守る、愛する
 このように見ると、「聖霊が一緒にいる」ということと「イエスがわたしたちのうちにいる」ということはほとんど同じように考えられていることになります。「聖霊」とはわたしたちのうちに働く神の力ですが、その聖霊の働きと、復活したイエスが目に見えない形でわたしたちのうちにおられ、わたしたちを支え導いてくださるということとは、わたしたちの体験の中でもほとんど区別できないことではないでしょうか。言葉や表現は確かに違いますが、言葉や表現よりも聖霊やイエスに支えられているからわたしたちは決して孤立無援ではないと実感することのほうが大切でしょう。

  (2) この箇所で、聖霊は「別の弁護者」と呼ばれています。「弁護者」はギリシア語で「パラクレートスparakletos」です。「慰め主」とも訳されますが、もともとは「そばに(パラpara)」「呼ばれた者」(呼ぶ=カレオーkaleo)の意味です。裁判の席では、そばにいて助けてくれる人という意味で「弁護者」の意味になります。もっと一般的には、「一緒にいて支えとなってくださる方」と言ったらよいでしょうか。ヨハネの第一の手紙2章1節にあるように、イエスご自身が第一の「パラクレートス」と考えられているので、ここで聖霊が「別の弁護者」と呼ばれているのでしょう。

  (3) この箇所では、「世」と「あなたがた」がはっきりと対比されています。ヨハネ福音書が書かれた1世紀末の状況では、キリスト者が完全にユダヤ教から排斥されたこととローマ帝国がキリスト教を激しく迫害していること、この2つの厳しい状況がありました。その中では、「キリストを受け入れない世」と「イエスの弟子たち」の対立は不可避だと考えられたのでしょう。そこで、この箇所でも「世」は神とキリストに反するものだということが当然のように前提とされているのです。
 一方、そんなヨハネ福音書だからこそ、ヨハネ3章16節の「神は、その独り子(ひとりご)をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉に重みがあります。神は世が良いものだから愛するのではないのです。世は確かにどうしようもなく神から離れ、滅びへと向かっている世かもしれない。しかし「だから世は滅びてもかまわない」というのではなく、「だからこそ、神はひとり子イエスによって世に救いをもたらそうとされた」のだというのです。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」(3章19節)。この光と闇のイメージも大切です。イエスは闇に閉ざされた世界に光として来られました。問題はこの光を受け取るか、光に背を向けて闇の中にとどまるか、なのです。
 わたしたちはこの世界をどのように感じているでしょうか。この世界もなかなか良いものだと感じるときがあるでしょうか。あるいは、この世界には良い面もあれば悪い面もある、と感じているでしょうか。時には、この世界は絶望的に悪い(真っ暗闇だ)と感じてしまうこともあるでしょうか。このような感じ方の違いによって、「世」と「わたしたち」についてのヨハネ福音書の言葉の受け取り方も変わります。
 たとえ大きな問題や闇を感じていても「だから世はダメだ」ではなく、「だからこそキリストの光が必要だ」と見ることが大切なのでしょう。

  (4) 15、21節の「掟」という言葉はギリシア語では「エントレーentole」で、「命じる」という意味の動詞「エンテッロマイentellomai」から来ていて、「掟、命令」の意味があります。ところで、ヨハネ福音書で「新しい掟」(13章34節)、「わたしの掟」(15章12節)と呼ばれているのは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ということだけです。「愛」は心の中から自然に沸き起こるものであると考えると「掟」や「命令」という言葉は馴染まないかもしれません。「掟を守る」と言っても、それは外面的に守るべき規則のようなものではないのです。むしろ、愛の掟を実現するのは、わたしたちのうちにおられるイエス(あるいは聖霊)の働きだと言ったらよいでしょう。イエスの愛がわたしたちの中にとどまり(あるいは、わたしたちがイエスの愛のうちにとどまり=ヨハネ15章9-10節)、聖霊がわたしたちのうちに働くとき、わたしたちの中に「互いに愛し合う」という生き方が実現し始めるのです。
 わたしたちは自分の人生の中で、愛に反する現実をたくさん経験してきています。暴力、裏切り、無関心などなど。しかし、わたしたちの人生はそれらに覆い尽くされているわけではありません。愛の体験も必ずあるはずです。その愛の体験を深く掘り下げてみたとき、「聖霊が一緒にいてくださること」「イエスがわたしたちのうちにおられること」が見えてくるのではないでしょうか。




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Posted on 2017/05/12 Fri. 08:45 [edit]

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復活節第5主日 (2017/5/14 ヨハネ14章1-12節)  


教会暦と聖書の流れ


 ヨハネ福音書では、最後の晩さんという、たった一度の食事の席での出来事に、13章から17章まで(福音書全体の約4分の1)があてられています。この席でイエスは、世に残していく弟子たちに向けて長い遺言のような説教をしました。その内容の多くは、イエスは目に見える形ではもういなくなる。しかし、何かが残る、という「約束」です。もちろん1世紀末に書かれたヨハネ福音書は、それをただ将来起こることについての約束としてではなく、今すでに自分たちの中で実現している約束として伝えているのです。そして今のわたしたちも、そのイエスの約束が、(不完全かもしれませんが)自分たちの中で実現している、と感じたときに、イエスは今も生きている、と確信することができるのです。


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 (1) この箇所の直前でイエスは、ペトロがイエスを知らないと言うだろう、と予告されました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」(13章36節)とイエスが言われたことに動揺した弟子たちに向かって、イエスは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そしてわたしをも信じなさい」と語りかけます。
 「神を信じる」「イエスを信じる」は、ここでは「神は存在すると思う」とか「イエスを神の子であると考えている」というレベルの話ではありません。「その方に信頼を置き、自分を委ねる」という意味での「信じる」です。なお、原文の形は「信じなさい(命令法)」とも「あなたがたは信じている(直説法)」ともとれます。「あなたがたは信じている、だから心を騒がせるな」と受け取るならば、少し違った響きに感じられるでしょう。いずれにせよ、神とイエス以外のものを頼りにしている限り、わたしたちの不安や心の動揺はなくならないはずです。

  (2) 「わたしは道である」とイエスは語ります。現代のわたしたちは、道は道路公団か何かが作るものと考えがちですが、本来の素朴な道は人が歩くことによってできるものでした。イエスは「どこそこに道があるから、その道を行きなさい」と言うのではありません。「わたしが道だ」というときの道は、イエスご自身が歩むことによってできる道だと言ったらよいのではないでしょうか。そして、このイエスの道は十字架の死で終わる道ではなく、死を通って神のもとに行く道なのです。ヘブライ人への手紙にこういう箇所があります。「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」(10章19-20節)。エルサレムの神殿には「聖所(至聖所)」があり、その前には垂れ幕がありました。そこには普通の人は誰も入ることができず、年に一度大祭司だけが入ることができたのです。ヘブライ書は、このような比喩(ひゆ)を用いて、イエスによってわたしたちが神に近づくことができるようになった、ということを示そうとしています。

  (3) 「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)は、イエスへの信仰があるかないか、とか、洗礼を受けたか受けていないか、ということではないはずです。「道」は、動く歩道やエスカレーターではありません。信仰告白や秘跡によって自動的に神のもとに行くことはできません。イエスが命がけで切り開かれた道をわたしたちも歩んでいかなければならないのです。
 「真理」もそうです。ヨハネ福音書は、抽象的・哲学的な真理について語るのではなく、「確かなもの、頼りになるもの(ヘブライ語の「エメト=真理」の元の意味)」であるイエスご自身、そしてイエスにおいて現された神ご自身の姿を真理と言うのです。「真理を行う」(ヨハネ3章21節)という表現もありますが、この真理は頭で理解する真理ではなく、イエスが行った真理であり、わたしたちが行うように招かれている真理なのです。「命」もイエスご自身の生きた「命」であり、この命をわたしたちも生きることになるのです。

  (4) フィリポの言葉、「主よ、わたしたちに御父をお示しください」(8節)はすべての人の心の深いところにある望みを表している言葉だと言えるでしょう。これに対するイエスの答え「わたしを見た者は、父を見たのだ」(9節)は決定的な宣言です。
 ヨハネ福音書は13章1節で、イエスの受難の物語を次のように語り始めました。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。ヨハネ福音書が受難のイエスの中に見ているものはこの極限までの愛です。この愛は、いつもイエスのうちにあり、そして十字架の死の時に完成される愛なのです。イエスは受難と死において「愛そのものである神」(Ⅰヨハネ4章8,16節参照) を完全に現す方となった、だから「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われるのです。

  (5) 「わたしを信じる者は、わたしが行う業(わざ)を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」(12節)は不思議な言葉です。わたしたちがイエスよりももっと大きな業を行うということは常識的には考えにくいことです。この文脈の中では、続いて「わたしが父のもとへ行くからである」と言われています。イエスが父のもとに行くことによって実現するのは、聖霊が弟子たちのところに来て、弟子たちとともにいてくださるということです(14章16-17節、14章26節、15章26-27節、16章7-15節参照)。イエスを「信じる者が行う業」とは、彼ら自身の働きというよりも、信者のうちに、信者を通して働く聖霊の働きだと言うことができるでしょう。そして、それは地上でイエスが行ってきたことよりももっと豊かな働きだと言ってよいのでしょう。この「もっと大きな業」については他にもいろいろな解釈があります。何が正しい解釈かということよりも、わたしたち自身の体験に照らし合わせて考えてみたら良いのでしょう。「信じる者は、イエスの行う業を行う」とわたしたちが感じるような体験があったとすれば、それはどんな体験でしょうか。




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Posted on 2017/05/04 Thu. 09:00 [edit]

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