福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第13主日 (2017/7/2 マタイ10章37-42節)  


教会暦と聖書の流れ


  マタイ福音書10章は、弟子たちを派遣するにあたってのイエスの長い説教という形になっています。今日の箇所はその結びの部分です。16節から始まった、弟子たちに対する迫害の予告という雰囲気は最後まで続いているようです。


福音のヒント


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  (1) 「家族を大切にしなければならない」「家族は仲良くしなければならない」ということは、多くの人にとって当然のことでしょう。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(37節)というイエスの言葉はこのわたしたちの常識を揺さぶります。この直前にはこういう言葉もあります。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」(10章34-36節)イエスの言葉は明らかに「イエスか肉親か」の二者択一を迫っています。カルト宗教のような危険性さえ感じさせるこれらの言葉をどう受け取ったらよいのでしょうか。マタイ福音書の文脈では、イエスのメッセージのゆえに対立や迫害が起こることは避けられない、しかし、その中にあってもイエスの福音に踏みとどまるようにという教えだと考えることができるでしょう。

  (2) しかし、なぜイエスのメッセージゆえに家族との対立が起こるのでしょうか。それはイエスのメッセージが家族の持つある種の「狭さ」を越える性格のものだからです。
 「『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である』」(マタイ12章48-50節)「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ10章29-30節)。イエスは「自分の家族さえ良ければ」という閉鎖的な考えを乗り越え、父である神のもとですべての人が家族であるという大きな連帯の世界に生きるよう、人々を招いています。イエスの時代、誰からも顧みられない孤独な人、家族からも厄介者扱いされているような人にとってそれはまさに「福音(よい知らせ)」だったでしょう。家族も捨ててイエスに従っていた弟子たちにとっても「福音」だったにちがいありません。わたしたちにとってこれは「福音」になりうるでしょうか。

  (3) わたしたち一人ひとりの家族についての思いは違います。「やっぱりわたしにとっては家族が一番大切」という人は多いでしょう。「家族が悲しみ、家族を傷つけても教会に行くべきだ」という考えは常識的には正しいと思えません。
 ただし、次のようなことも考えてみてはどうでしょうか。子どもは成長する中で「親離れ」をしなければなりません。親離れは一生絶縁してしまうことではありません。庇護し庇護されるだけの関係をいったん断ち切って、別な形で親と子が出会うためです。子どもが成長して、自分の生き方を確立するようになり、一人前の人間として親を愛するようになるとき、家族は新たな絆を生き始めることになります。もしかしたら、家族の絆よりももっと大切なものを見つけたときに、本当に家族を愛せるようになる、ということもあるのではないでしょうか。

  (4) 40節は使徒たちの働きの重要性と、それを受け入れる人への祝福を語りますが、マルコ9章37節、マタイ18章5節などに似た言葉があります。マルコではこうなっています。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。本来は子どもについて言われた言葉が、神の子どもとなったキリスト者にも当てはめられるようになったのかもしれません。ここでは、弟子たちに対する態度が、弟子たちを派遣したイエスと神に対する態度と同じことだということになっています。
 「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(42節) この言葉から、マザー・テレサやヨハネ・パウロ二世教皇が亡くなったとき、哀悼の心を表し、祈りをささげた日本の非キリスト者の姿を思い浮かべることもできるでしょう。わたしたちがもしキリストのメッセージに忠実に生きるならば必ず、理解し、支えてくれる善意の人々と出会えるはずです。

  (5) 38-39節の言葉は、最初の受難予告の後のマタイ16章24-25節でもほとんど同じ形で繰り返されます。きょうの箇所全体の背景にも、迫害という状況があるのかもしれません。42節の「水一杯飲ませる」は、普通の状況ではたいしたことではありませんが、もし迫害されているキリスト者に対してそうするのであれば、水をあげた人自身もその仲間だと思われる覚悟が必要かもしれないのです。またここで「わたしの弟子=小さな者」と言われていますが、これも迫害されているキリスト者の姿を連想させます。
 もちろん迫害という状況に限らず、「水一杯」はマタイ25章の次の言葉とのつながりの中で味わうこともできます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(35-36節)「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(40節)




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Posted on 2017/06/23 Fri. 08:30 [edit]

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年間第12主日 (2017/6/25 マタイ10章26-33節)  


教会暦と聖書の流れ


 四旬節・復活節とその余韻のような2つの祭日(三位一体とキリストの聖体)という長い中断の後、今日から年間主日のマタイ福音書のサイクルに戻ります。今日の箇所は12使徒を派遣するにあたってのイエスの言葉です。天の国の福音を告げ、悪霊を追い出し、病人をいやす使徒たちの活動は必ずしも好意的に受け入れられるとは限らず(マタイ10章14節)、むしろ、迫害を受けることが避けられない(10章17-23節)ことをイエスは予告します。そして、その中でどういう態度を取るべきかが今日の箇所で語られるのです。


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  (1) 今日の箇所はルカ12章3-9節とよく似ていますが、ルカの箇所がファリサイ派の偽善に警戒せよ、という文脈の中に置かれているのに対し、マタイでは迫害を予告するという文脈の中で伝えられています。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」(マタイ10章26節)は、マルコ4章22節にもよく似た言葉があります。短いイエスの言葉が伝えられていくうちに、次第に長くまとまった形になり、それをマタイやルカがそれぞれ違った文脈の中で、自分の福音書に取り入れている、と考えることもできるでしょう。だとすると、26-27節、28節、29-31節の3つの部分を無理に関連づけずに、本来はそれぞれが独立したイエスの言葉だと受け取ることもできることになります。共通するのは26節、28節、31節の「恐れるな」という命令です(原文の語形は26節だけ違います)。「恐れるな」という言葉が、キーワードのようにこの3つの部分をつなぎ合わせていると考えることができるのです。

  (2) 「覆われているもの、隠されているもの」とは何を指しているのでしょうか。本来イエスが語った状況の中では意味がはっきりしていたのでしょうが、今となってはその本来の状況は分かりません。マタイの文脈では、前の25節との関係を見ると「隠されているもの」は「彼らがイエスの弟子・僕(しもべ)であること」と言えるでしょうか。27節とのつながりでは「イエスの告げる天の国の福音」が「隠されているもの」だということになります。福音の言葉は、文脈によっていろいろな受け取り方ができることはよくあります。今のわたしたちの状況の中で、この言葉から思い浮ぶことはどんなことでしょうか。

  (3) 「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(28節)。日本語では「恐れ」と「畏れ」を書き分けますが、聖書では同じ言葉です。人間は神の前で自分の小ささ・至らなさを感じるとき、それを「畏敬の念」と言ったりしますが、これはもちろん神が恐ろしい方だという意味ではありません。出エジプト記にこういう話があります。
 「エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。・・・『お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。』助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」(1章15-17節)。
 ここで神を恐れる(=畏れる)というのは、たとえそれが強大な権力者であっても神以外のものに対する恐怖に打ち勝つこと、そして神のみ旨と信じることを実行できる(魂に忠実に生きる)ようになることでした。

  (4) 「雀」は小さな鳥の総称と考えられますが、このような小鳥は、重い皮膚病の人の清めの儀式に使われた(レビ記14章)ようですし、食用にもなったそうです。「アサリオン」はローマの小額貨幣で、今で言えば約500円相当です。「2羽の雀が1アサリオン」というのは1羽では売り物にならないほど価値が低い、ということです。この雀も神に守られているというのです。雀のたとえの中に入り込んでいる髪の毛のたとえも、神の細かい配慮を強調するものです。この2つのたとえを通して、わたしたちに対する神のいつくしみは決してなくならないことが強調されます。
 32-33節は地上で弟子たちが受ける人間の裁きと、天上で神の前で受ける裁きがつながっていることを表しています。「イエスの仲間であると言う、イエスを知っている」とはどういうことでしょうか。マタイ7章21-23節、25章31-46節を見ると、ただ口先で「イエスを信じます」と言うことではなく、イエスの心に忠実に従う生き方を含むと言えます。ただしこの箇所は、裁きに対する警告だけでなく、どんな苦境の中でもわたしたちは決して孤立無援ではないという力強い励ましとして受け取ることが大切でしょう。

  (5) 迫害という状況でなくとも、「恐れ」ということはあります。病気、失業、犯罪、暴力、人からの裏切りなど、わたしたちに恐れを引き起こさせるものはいろいろあるでしょう。「恐れ」は必ずしも悪いことだとはいえません。病気や犯罪から身を守るために役に立つこともあるのです。
 恐れが問題になるのは、恐れのために、日々の生活と人生が振り回されて、本来やるべきことができなくなってしまうときです。「恐れるな」というイエスの言葉はそういう状況の中で受け取ればよいのではないでしょうか。マタイ10章23節では「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」とも言われます。イエスは闇雲に迫害に耐えろ、とはおっしゃいません。わたしたち一人一人に「本当になすべきこと、いのちをかけても譲れないことは何か」と問いかけているのではないでしょうか。
 「恐れ」の問題は他にもあります。戦争をひき起こそうとする人は、人々の恐怖心を煽(あお)ります。「何をされるか分からない。やられる前にやりかえさなければ」という思いは、人を簡単に戦争や暴力に走らせます。恐れが人の心から平安を奪い去り、富や権力、武力にしがみつくようにさせるのです。そういう状況の中で「恐れてはならない」は、冷静な心を持つように、という戒めにも聞こえます。「恐れ」に振り回されずに、今、本当に何が起こっているのか、自分にできることは何か、を見つめることが大切です。




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Posted on 2017/06/16 Fri. 10:28 [edit]

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キリストの聖体 (2017/6/18 ヨハネ6章51-58節)  


教会暦と聖書の流れ


 キリストの聖体の祭日は本来、聖霊降臨後の第二木曜日ですが、日本のような非キリスト教国では日曜日に移して祝われます。教会暦の流れから言えば、この祭日は、三位一体の主日と並んで四旬節・復活節の「余韻」と言ってよいでしょう。聖体は、「キリストの死からいのちへの過越(すぎこし)」にわたしたちが結ばれることを意味しているのです。なお、聖体の制定を特別に記念するミサは聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」です。「聖体」という同じテーマを、復活節が終わった今、もう一度味わい直すことになります。
 A年の福音の箇所は、ヨハネ6章から採られています。イエスが5つのパンと2匹の魚を5千人以上の群集に分け与えたという出来事をきっかけにして、パンをめぐるイエスと人々の対話が始まりますが、そのイエスの言葉の頂点と言うべき箇所がきょうの箇所です。


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  (1) 51節と58節にはほとんど同じような表現「天から降(くだ)って来たパン」「このパンを食べるならば永遠に生きる」が繰り返され、きょうの箇所の枠組みのようになっていますが、ここにこの箇所全体のテーマが指し示されていると考えたらよいでしょう。
「天から降って来た」という表現は、イエスが「父である神のふところにおられ、神から遣わされた」方であることを暗示しますが、一方では旧約聖書の「マナ」との関連を思わせる表現でもあります。31節で引用されている詩編78編23-25節に「神は上から雲に命じ 天の扉を開き 彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。神は天からの穀物をお与えになり 人は力ある方のパンを食べた」とあります。「マナ」はイスラエルの民を荒れ野の旅の中で養った不思議な食べ物でした(出エジプト記16章、民数記11章参照)。荒れ野という必要な食べ物に事欠く状況の中で、民は神が自分たちを生かしてくださっていることを体験しました。そのシンボルが「マナ」なのです。イエスが荒れ野の誘惑のときに引用した申命記8章3節も「マナ」についての言葉です。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」人は食べ物によって生きるのではなく、神によって生きる。これがマナの意味していたことだったのです。

  (2) ヨハネ6章でイエスがパンについて語ってきたことは、35節以降一貫して「わたしはパンである」ということでした。もちろんそれは「イエスが人のいのちを真に生かす方である」ということを意味しています。そして「このパン(=イエス)を食べる」ということは、「イエスのもとに来て、イエスを信じる」ということを意味しています。きょうの箇所の始めにある「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(51節前半)はその典型であり、頂点だと言えます。
 一方、51節の終わりには「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われ、ここでは「イエス=パン」ではなく「イエスが与えるもの=パン」になっています。微妙な変化ですが、ここから直接的に「聖体のパン」のことが語られていると考えることができるでしょう。なお、58節の「これは天から降って来たパンである」は「イエス=パン」と「イエスの与えるパン=聖体」の両方の意味を含む、全体のまとめの文章だと考えられます。

  (3) 53~56節では「わたしの肉を食べ」と「血を飲む」というなまなましい表現が使われています。ここでは、聖体のパンとぶどう酒を実際にいただくことが強調されているのでしょうか。あるいは、イエスの「むさぼられ、食い尽くされる体、流される血」という受難のイメージとのつながりがあるのでしょうか。
 いずれにせよ、ヨハネ福音書にとって「イエスを信じること」と「聖体をいただくこと(イエスの肉を食べ、血を飲むこと)」は別々のことではなく、1つのことと考えられているのでしょう。続く56-57節でもそのことがはっきりと示されています。「56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」ヨハネ福音書は、聖体を「食べれば何かよい効果がある魔法のお薬」のように考えているのではありません。「コムニオcommunio(聖体拝領を意味するラテン語)」によって実現するのは、「人がキリストのうちにいて、また、キリストがその人のうちにいる」ようになること、そして「人がキリストによって生きるものとなること」なのです。
 
  (4) わたしたちは何によって生かされているのか。きょうの福音はそのことを問いかけてきます。この問いかけは、「わたしたちがイエスによって、聖体によって生かされるとは本当のところどういうことか」と言い換えてもよいかもしれません。
 「わたしはいのちのパンである」というような宣言は、ヘタをすると単なる言葉による自己主張のように聞こえてしまうかもしれませんが、その背景にはいつもイエスの実際の行動・生き方があります。その意味で、6章のはじめの5つのパンと2匹の魚の話を思い出すことは大切でしょう。イエスがなさったことは、ただ単にパンを増やしたということでしょうか? パンを分けたときのイエスの動作に注目してみましょう。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」(6章11節)。このイエスの動作が表していることは、5つのパンを物理的に5千分の1にするということではなく、このパンを与えてくださった神とのつながりを確認し、同時に、共にパンを分かち合う人と人とのつながりを確認することでした。イエスのいのちとは、十字架の死と復活にいたるまで、このような神とのつながり、人とのつながりによって生かされたいのちだったと言えるでしょう。わたしたちはそういういのちを生きているでしょうか。どんなときにわたしたちはそのようないのちを感じることができるでしょうか。




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Posted on 2017/06/09 Fri. 10:29 [edit]

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三位一体の主日 (2017/6/11 ヨハネ3章16-18節)  


教会暦と聖書の流れ


 聖霊降臨の主日で復活節は終わりましたが、次の日曜日は「三位一体の主日」という特別な祭日になっています。教会の暦は、四旬節から復活節という約3ヶ月間をかけて、イエスの受難、死、復活、昇天、聖霊降臨を記念してきました。その余韻のようなこの祝日は、「三位一体」という神学的な教えを考える日というよりも、イエスの受難・死を見つめ、その復活を知り、聖霊降臨を祝ったわたしたちが、神の大きな救いの出来事を振り返り、父と子と聖霊の働き全体を味わう日だと考えればよいでしょう。


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  (1) 福音の箇所は、非常に短い箇所です。ヨハネ福音書3章1節から始まったイエスとニコデモというファリサイ派の議員との対話の中で語られる言葉です。ギリシア語原文には、会話文を示す「 」(かぎカッコ)のような記号はありませんから、10節から始まったイエスのニコデモに対する言葉がどこまで続いているかは、内容から判断するしかありません。新共同訳聖書は21節までをイエスの言葉として全体を「 」の中に入れていますが、16節からは福音記者の文章(地の文)と考えることもできます。朗読聖書に「そのとき、イエスは言われた」という冒頭の言葉がないのは、こちらの考えからです。

  (2) 14-15節と16節は以下のように対応しています(ここでは、比較のために少し直訳的な表現にしてあります)。
 14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
 15   それは、信じる者が皆、彼によって永遠の命を得るためである。
 16a 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
 16b   彼を信じる者が皆滅びないで、永遠の命を得るためである。
 15と16bはほとんど同じですので、14と16aも関連がありそうです。「人の子が上げられる」には「天に上げられる」と同時に「十字架の木の上に上げられる」という意味が含まれています。だとしたら「与える」はただ「イエスを世に遣わした」ということよりも「十字架の死に至るまで与え尽くされた」と受け取ることができるでしょう。
 「世」という言葉は、ヨハネ福音書では特別に「神を知らず、神から離れたこの世界」を指します。しかし、だからと言って、この世は救われない世ではなく、神がイエスをとおして大きな愛をもって救おうとなさった世なのです。

  (3) 18節の「裁き」は「断罪する」の意味です。「信じない者は既に裁かれている」という言葉は厳しく響きますが、この箇所の続きに現れる「光と闇」のイメージをヒントに考えてみてはどうでしょうか。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(3章19-21節)。神がもたらすものは決して裁き(断罪)ではありません。神は圧倒的な光としてイエスを与え、闇の世を照らそうとされたのです。その光を受け入れたときに人は救いの中に入っていき、その光を拒否するならば闇の中に留まることになる・・・ヨハネは「闇の中に留まること」が「裁き=断罪されること(救いから外れること)」であると考えているわけです。このようにヨハネが感じているのは、ヨハネ自身が闇の中でイエスの光を見いだしたという体験、神の愛を感じたという体験を持っているからでしょう。わたしたちはどうでしょうか?

  (4) 何をあげることが、人を愛することでしょうか。どんなプレゼントよりも、その人のために時間を使うこと、その人と一緒にいて共に時間を過ごすことが最高の愛だと感じたことがわたしたちの体験の中にあるのではないでしょうか。それは「モノではなく、自分自身を与えること」だからです。「父とそのひとり子イエスは一つである」という信仰は、きょうの福音の「神がひとり子をお与えになった」ということを、「神がイエスという方において、ご自分のすべてを与えてくださった」ことだと受け取る光を与えてくれます。イエスのなさったすべてのこと、イエスの生涯のすべては、神がわたしたちとともにいてくださり、わたしたちにご自分のすべてを与えてくださったことの表れなのです。

  (5) イエスの弟子たちが体験したことは、神の人間に対する決定的な救いの働きが、「イエスの派遣」「聖霊の派遣」という二通りの仕方でなされた、ということでした。イエスという具体的なひとりの人間の言葉と生き方をもって、神は人に語りかけ、人が神に近づく道を示されました。弟子たちは、イエスをとおして、神の愛と神の救いを知ることができたのです。一方イエスが世を去って神のもとに行かれた後、弟子たちは自分たちのうちに働き、自分たちを導く内面的な力を感じ、それを聖霊と呼ぶようになりました。それはどの時代のどんな人の中にも直接働きかける神の力だといってよいでしょう。イエスの父である神が、子であるイエス聖霊を通してわたしたちに決定的な救いの働きかけをしてくださった。ここに「救いの三位一体的な構造」が現れてきます。
 また、わたしたちが神に向かって歩んでいこうとするときにも、この三位一体的構造が大切になります。わたしたちキリスト者は「キリストの言葉と生き方」を見つめ、「聖霊という内面に働きかける神からの力」に支えられながら、父である神への道を歩んでいきます。このような「三位一体的構造」は教会の祈りの中にも現れています。「聖霊に支えられ、御子キリストをとおして、父に向かう」のが、ミサをはじめとする教会の祈りの基本的な姿勢なのです。
 「父と子と聖霊」とはわたしたちの生き方と関係ない神学的で抽象的な教えだと考えるよりも、このようにわたしたちと神との関わりのダイナミズムとして捉えることが大切でしょう。わたしたちは日々どのように神からの働きかけを受け取り、どのようにその働きかけに応えようとしているでしょうか。




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Posted on 2017/06/02 Fri. 08:30 [edit]

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