福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

主の変容 (2017/8/6 マタイ17章1-9節)  


教会暦と聖書の流れ


  わたしたちは主日のミサの聖書朗読配分に基づいて福音書を読んでいますが、今日は年間主日の流れを離れて、8月6日の主の変容の祝日の福音を読みます。キリストの出来事を祝う祝日(主の祝日)が年間の主日に重なった場合、主の祝日のほうを優先して祝うことになっているからです。
 実は、この日の福音の箇所は、今年(A年)の四旬節第二主日とまったく同じです。主の変容の出来事は、受難の道を歩むイエスに従うよう弟子たちを励ますものとして、伝統的に四旬節に読まれてきた箇所でもあるのです。この「福音のヒント」もほとんどそのまま使っていますが、四旬節中に読むのと広島の原爆記念日に読むのとでは、受け取る側にとってやはり違いがあるのではないでしょうか?


福音のヒント


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(1) きょうの箇所のはじめ、マタイ17章1節には「六日の後」という言葉があります。朗読聖書では省かれていますが、この言葉は、直前の出来事との関連を感じさせる言葉です。この箇所の直前にあるのは、ペトロの信仰告白と最初の受難予告です。マタイ16章21節「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」。変容の出来事は、この受難予告と密接につながっているのです。きょうの箇所の結びの「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた」(マタイ17章9節)という言葉もそのことを暗示しています。上の16章21節が「言葉による受難予告」だとしたら、17章は「出来事による受難予告」と言ってもよいほどです。この出来事は、イエスが受難と死をとおって受ける栄光の姿を弟子たちに垣間(かいま)見させ、そのイエスに従うように弟子たちを励ますための出来事だったと言ったらよいでしょう。
 モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の主要な部分を表し、イエスの受難と復活が聖書に記された神の計画の中にあることを示しています。なお、ルカ福音書はイエスとモーセ、エリヤが話し合っていた内容が「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9章31節)であったことを伝え、この出来事とイエスの受難・死の結びつきをいっそう明確にしています。

  (2) ペトロが仮小屋を建てようと言っているのは、このあまりに素晴らしい光景が消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからでしょうか。しかし、この光景は永続するものではなく、一瞬にして消え去りました。今はまだほんとうの栄光の時ではなく、受難に向かう時だからです。
雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。雲は太陽や星を覆い隠すものですが、古代の人々は雲を見たときに、雲の向こうに何かがある、と感じたのでしょう(宮崎アニメの『天空の城ラピュタ』のように)。聖書の中では、「雲」は目に見えない神がそこにいてくださるというしるしになりました。たとえば、イスラエルの民の荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト記40章34-38節参照)。

  (3) 雲の中からの声は、もちろん神の声です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」この言葉は、イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マタイ3章17節)。この言葉の背景にはイザヤ42章1節の「主の僕(しもべ)」についての言葉があると考えられます。洗礼のときから「神の子、主の僕」としての歩みを始めたイエスはここから受難の道を歩み始めますが、そのときに再び同じ声が聞こえます。つまり、この受難の道もまた、「神の子、主の僕」としての道であることが示されるのです。
 そしてここでは弟子たちに「これに聞け」と呼びかけられます。「聞く」はただ声を耳で聞くという意味だけでなく、「聞き従うこと」を意味します(申命記18章15節など参照)。これは、受難予告の中で「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16章24節)と言われていたことと対応していると言ったらよいでしょう。

  (4) 受難の道を行くイエスに従っていくこと、これが今日の福音の呼びかけです。しかし、実際には、弟子たちはこれほど輝かしいイエスの栄光を見たのに、最後まで従っていくことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、皆逃げてしまったのです。弟子たちがこの出来事の意味を本当に理解できるようになったのは、復活後のことでした。ところで、今のわたしたちにとっては、イエスの受難も死も復活の栄光も、もうすでに知っていることです。苦しみの先に栄光が待っていると知っているから、わたしたちは今の苦しみに耐えていくことができるのでしょうか。
 イエスは今日の箇所で、将来ご自分が受ける栄光を感じる以上に、モーセとエリヤが代表する神の救いの計画の中に、今自分がいることを強く感じ、また、天からの声に示される父である神とのつながり・親しさを深く感じていたのでしょう。だからこそイエスの道は揺るがないのです。わたしたちも同じかもしれません。どんな苦しみの中にあっても、神とのつながり・イエスとのつながりをどこかでしっかりと感じていれば、イエスと共に「神の愛する子」としての道を歩むことができる、と言えるのでしょう。

  (5) 8月6日・広島原爆の日から、8月9日・長崎原爆の日を経て、8月15日・終戦の日までの10日間を、日本のカトリック教会は、平和について学び、平和のために祈り、行動する「平和旬間」としています。かつての戦争の悲惨な出来事を思い起こし、平和を願いますが、今この世界の平和を脅かすさまざまな事態の前でどう生きるべきか、迷うことがあるかもしれません。そんな時こそわたしたちは、今日の福音の「神の愛する子であるイエスに聞け」という呼びかけを深く、真剣に受け取るよう招かれているのです。




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Posted on 2017/07/28 Fri. 11:58 [edit]

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年間第17主日 (2017/7/30 マタイ13章44-52節)  


教会暦と聖書の流れ


 きょうの箇所は、マタイ13章1節から始まった天の国(神の国)についてのたとえ話集の結びの部分で、ここに3つのたとえ話があります。これら3つのたとえ話はマタイ福音書だけが伝えるものです。
 イエスのたとえ話を読むとき、解釈の可能性はいろいろあります。メッセージの意味が確定できない一つの理由は、イエスの言葉だけが伝えられてきて福音書に載せられているので、たとえ話の語られた本来の状況がよく分からなくなっているからだと考えられます。ですから、唯一の正しい解釈は何かと考えるよりも、イメージをふくらませ、いろいろな読み方をしてみるとよいかもしれません。


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  (1) 「畑に隠されていた宝」と「真珠」のたとえ話はよく似ています。古代では真珠は養殖されるものではなく、自然にできたものを発見するだけだったので非常に高価でした。この2つのたとえ話は、天の国は人間にとって最高の宝だから、何にもまして天の国を求めなければならない、と教えているという解釈が一般的でしょう。「天の国」は「神の国」と同じで、「神が王となる状態=神の愛がすべてにおいてすべてとなる状態」と考えればよいでしょう。あるいは「本当の意味でわたしたちが神と共にいる状態」と言ってもいいかもしれません。このたとえの場合、「畑に隠された宝」「高価な真珠」が「天の国=神の国」だということになります。わたしたちにとって本当の宝とは? すべてを売り払ってでも手に入れたいものとは何でしょうか?
 最初のたとえでは、なぜただの宝ではなく、「畑に隠された宝」なのでしょうか。「見つけた人」は小作人で、たまたま主人の畑で働いているときに宝を発見したということなのでしょう。畑を買わなくとも宝だけを持ち去ればよいのかもしれませんが、彼は畑そのものを手に入れます。そこに何か意味があるのでしょうか。次のようなことを考えてみてもよいかもしれません――彼が見つけたのは自分自身のうちに隠されていた宝だったのではないか。それを発見したときに、彼は自分の人生を手に入れたことになるのだ(もはや小作人ではなく自立した農民になる)、と。

  (2) 別の解釈があるとすれば、それは「畑に隠された宝」や「真珠」をわたしたち人間のことだと受け取ることです。ちなみに、47節以下の漁のたとえ話では、明らかに神が漁師で、人間は神が獲得する魚です。人間が神を求めるよりも、神のほうがわたしたちを探し求めている、そう考えてみるとまったく別の面が見えてきます。
 このように考えた場合、「持ち物をすべて売り払って」も特別なニュアンスを持つことになるでしょう。神が人間を獲得するためにすべてを犠牲にした、それは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3章16節)、「イエスはわたしたちのために命をささげてくださった」ということを連想させないでしょうか。そう受け取るならば、これはもう、ただひたすら感謝する以外にないことです。
 福音書のたとえ話は1つの教えというよりも、1つのイメージなのです。好き勝手なイメージでどんなに曲解してもよいというわけではありませんが、イエスの生き方とメッセージ全体とつながるイメージであればよいのです。また、またそのイメージがわたしたちの現実とつながるイメージであれば、そこには大きな力があります。

  (3) 漁のたとえは、明らかに前半(47-48節)と後半(49-50節)に分けられ、後半は前半の説明のようになっています。内容は、先週の毒麦のたとえ(24-30,36-43節)とよく似ています。福音記者マタイの頭の中には「救いの歴史」というものが明確にあったようです。「旧約時代の律法や預言→イエスによるその実現→教会の時代→世の終わりの裁き」。マタイ福音書では、こういう考えに基づいて、そこからイエスのたとえ話を理解しようとする傾向が強いと言えるでしょう(先週の「福音のヒント」参照)。
 毒麦のたとえのように、マタイ的な解釈の部分を取り去ると、本来は「天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚(良いものも悪いものも)を集める」というだけのたとえだったのかもしれません。そうだとすれば神がどんな人をも招いている、というところにたとえのポイントがあることになります。
 今のわたしたちにとっての意味はどうでしょうか? 終末の裁きというのはへたをすると人に恐怖心を植え付け、それによって人をコントロールするメッセージに聞こえてしまうかもしれません。しかし、本来の終末についてのメッセージは人に恐怖心を与えるためのメッセージではありません。神の判断で何が「良し」とされるかを明確に示し、その神の判断にかなう生き方をするように決断を迫るメッセージなのです。今はすべての人が招かれている、と同時に、その招きにふさわしく応えるかどうかが問われる(この点でもっとも明快なメッセージはマタイ25章31-46節です)。イエスの福音にはこの2つの面があります。どちらか一方だけではダメなのです。
  
  (4) 「天の国のことを学んだ学者」とは、この文脈では弟子たちのことです。「無学で普通の人」(使徒言行録4章13節)であった弟子たちがここでは「学者」と言われるのです。マタイ23章34節によれば、マタイの時代の教会には、実際に「預言者、知者、学者」と呼ばれていた人がいたようですが、ここでは特別な教師職にある人というよりも、すべての弟子のあるべき姿が語られていると考えるべきでしょう。イエスの天の国の教えをよく理解することが弟子のあるべき姿なのです。
 「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」はもちろん、イエスご自身のことでしょう(マタイ10章25節参照)。古いものとは旧約時代に神が示されたこと、新しいものとはイエスによってもたらされた天の国の福音と考えることができます。わたしたちはこのイエスに「似ている」というのです。もしも本気で受け取ることができるとすれば、これはどれほど大きな恵みの言葉でしょうか!




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Posted on 2017/07/21 Fri. 08:30 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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年間第16主日 (2017/7/23 マタイ13章24-43節)  


教会暦と聖書の流れ


 マタイ福音書13章には天の国(=神の国)のたとえが集められています。きょうの箇所は、先週の「種を蒔く人」のたとえに続く箇所ですが、ここでもイエスは、終末(=世の終わり)における神の国の完成よりも、今すでに始まっている神の国の現実に目を向けさせていると考えてよいのではないでしょうか。


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  (1) 「毒麦」のたとえはマタイ福音書だけが伝えるものです。先週の「種を蒔く人」のたとえ(3-9,18-23節)同様、「毒麦」のたとえにも、たとえ話自体(24-30節)とたとえ話の説明部分(36-43節)があります。説明部分では終末の裁きのありさまが語られています。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国(みくに)の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ」(37-40節)。この説明によれば、このたとえ話は、最終的に神が毒麦(=罪びと)を裁くということを教える話だということになります。それがこのたとえ話の本来のメッセージでしょうか。むしろ、「種を蒔く人」のたとえ同様、この説明の部分は後の時代の解釈と考えたほうがよいのではないでしょうか。

  (2) たとえ話だけを見ると、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(30節)という主人の言葉が中心だと考える可能性もありそうです。つまり、「世の終わりに裁きがある」ということよりも「今は裁かない」ということがポイントかもしれないのです。「説明部分」が整っていくうちに、それが「たとえ話本体」に影響を与え、敵の存在などの要素が後から加わっていったとも考えられます。そういう部分を差し引くと、本来は「良い麦と毒麦が混じって生えてきたが、主人は『両方とも育つままにしておきなさい』と言った」という単純なたとえ話だったのかもしれません。
 だとすると、このたとえ話もイエスへの批判に答えるものだったと言えそうです(先週の『福音のヒント』参照)。その批判とは「なぜあなたは罪びと(=毒麦のような人)を神の国の共同体に招いているのか(あるいは、弟子にしておくのか)」というような批判です。イエスはそのことを良しとしたからです。なぜ毒麦を抜かないのか、その理由は「本当に毒麦か良い麦か、今は分からない」ということです。また、最終的な裁きのときにそれが明らかになるということには、「人間の目から毒麦と見えても、神の見方は違う」ということも含まれているでしょう。さらに、植物の話なら、毒麦はいつまでたっても毒麦ですが、「毒麦」が「罪びとのレッテルを貼られていた人」の意味ならば、「毒麦が良い麦に変わる可能性」だってありえます。単なる寛容の教えではなく、ここに、誰をも切り捨てることのない神の国のあり方、イエスご自身の生きた姿を感じたらよいでしょう。

  (3) わたしたちの周りには確かに多くの悪が存在します。「悪(=毒麦)は排除すればよい。犯罪は厳しく取り締まり、悪人を社会から抹殺すればよい社会が来るはずだ」という考えがあります。教会の中でも「罪びとをすべて排除すれば聖なる教会ができるはずだ」という誘惑があるかもしれません。しかし、本当はそうではないし、そうであってはならないことを「毒麦」のたとえは語っているのではないでしょうか。どうしたら人間や人間の集団が本当の意味でよくなることができるのか、その答えをいつもイエスの生き方とメッセージの中に探していきたいものです。

  (4) 「からし種」のたとえはマルコ3章30-32節、ルカ13章18-19節と共通していますが、「パン種」のたとえはマルコにはなく、ルカ13章20-21節だけと共通しています。
 「からし種」は直径1~2ミリの小さな種で、明らかに小さなもののたとえです。この植物は成長すると高さが3~4メートルになると言われています。このたとえ話は、神の国が初めは小さな現実であっても、やがて信じられないほど大きなものになる、ということを表しています。ここにもイエスに対する批判や疑問を想定してみるとよいかもしれません。当時の人々にとって、天の国(神の国)というメッセージは、神が王となり、ローマ帝国の支配から自分たちを解放してくれるというようなメッセージに聞こえました。そういう政治的・軍事的な勝利を期待していた人々から見れば、イエスの周りに集まった人々の集団はみすぼらしく、神の国からは程遠いと感じられたのではないでしょうか。しかし、イエスは、この小さな現実の中に神の国の確かな芽生えを見ているのです。
 「パン種」についても同じようなことが言えるでしょう。しかし、ここでは「パン種」自体が大きくなるのではなく、パン種によって「全体」が大きくなるのですから、「この小さな、弱々しく見える人々の集いが社会全体を神の国に変えていく」という意味に受け取ることもできるでしょう。神の国の成長は人間の力で実現するものではありません。イエスは、人間的な目で見れば「ちっぽけな、取るに足らない現実」でしかないものを「神の国の芽生え」と見て、それを成長させてくださる神への信頼を求めているのです。

  (5) イエスのたとえ話は、わたしたちが目の前の現実を見る見方を変えます。自然災害や大事故の前では、人間の無力さばかりを感じることがあるかもしれません。戦争やテロの現実の前では、平和を願う祈りはあまりにも弱々しく感じられるかもしれません。人と人との関係を引き裂いていく大きな力や不気味な暴力の前では、それでも愛し続けようというわたしたちの努力がむなしく感じられてしまうかもしれません。しかし、その善意と努力を「からし種」や「パン種」と見たときに、この現実も決して捨てたものじゃない、と受け取ることができるのではないでしょうか。
 今の時代、人間の力に頼ろうとする傾向は特に強いかもしれません。科学技術、経済力、軍事力、そういったもので物事を解決しようとする考えが確かにあります。しかし、人間の力ではなく、神の力で神の国は成長していく、そこに信頼と希望をおくときに、わたしたちの日々の小さな努力が支えられているのを感じることができるのではないでしょうか。




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Posted on 2017/07/14 Fri. 07:51 [edit]

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年間第15主日 (2017/7/16 マタイ13章1-23節)  


教会暦と聖書の流れ


  先週の福音の箇所はマタイ11章の結びでした。マタイ12章は主日のミサの朗読配分では省略されていますが、そこには、安息日に病人をいやし、悪霊を追い出すなどのイエスの活動と、それに対するさまざまな反応が伝えられています。イエスのメッセージが簡単には受け入れられなかったという現実の中で、それでも天の国(神の国)は力強く成長している、ということを語るのがきょうの13章のたとえ話集だと言えるかもしれません。


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  (1) 人がたとえ話を用いて話すのは、ふつうは話を理解しやすくするためでしょう。しかし、イザヤ6章9-10節を引用しながらたとえで語る理由を述べるマタイ13章11-17節は、イエスのたとえがたとえだけでは理解できず、その意味を理解するには特別な説明が必要であるということを前提にしているようです。そんなことがありえるのでしょうか。ヨアヒム・エレミアス(1900-1979)という学者によれば、「たとえ」の元にあるアラム語の「マトラー」には「たとえ」と同時に「謎」の意味もあり、11-15節のイエスの言葉は本来、イエスの「たとえ話」についての言葉ではなく、「イエスの教え全体が受け入れない人にとって謎になってしまう」ということを表す言葉だったようです。なお、今回の「福音のヒント」はエレミアスの『イエスの譬え』(新教出版社・絶版)を参考にして、話を進めていきます。

  (2) イエスのたとえ話についてのエレミアスの考えはおおよそ次のようなことです。
A. イエスのたとえ話は本来イエスが語った状況の中では聞いている人に良く分かる話だった。しかし、状況から切り離されて「たとえ話」だけが伝えられると、本来の意味が分かりにくくなってしまった。
B. 本来の状況ではイエスのたとえ話のほとんどすべては「福音の弁明」であった。つまり、イエスの言動に対して疑問や批判が投げかけられたときに、イエスがご自分のメッセージと行動を説明するためにたとえ話を用いた。
C. しかし、初代教会の中で、イエスのたとえ話は弟子たちへの教訓として受け取られるようになった。そのため、批判者だったはずのたとえ話の本来の聴衆が、一般的な群集や弟子たちに変えられてしまった。それはキリスト者たちがいつもイエスの言葉を今の自分たちにとって指針となる言葉として受け取ろうとしたためである。そして、たとえ話には新たな状況と新たな解釈が付け加えられるようになっていった。

  (3) ルカ15章1-7節にある「見失った羊」のたとえは、イエスが罪びとと一緒に食事をしたことを非難されたとき、その批判に答えるためにイエスが話したたとえ話です(上のBの典型、Cの例外ということになります)。このたとえ話のメッセージは明白です。「神はこの迷子の1匹を探し続ける羊飼いのような方だ。だからわたしも罪びとを招き、一緒に食事をしているのだ」。しかし、同じたとえ話を伝えるマタイ18章10-14節は「小さな者を軽んじないように」という弟子たちに向けての教訓としてこのたとえ話を伝えています(これがCの典型です)。

  (4) エレミアスのように考えるとすると、マタイ13章、マルコ4章、ルカ8章に共通して伝えられている「種まきのたとえ話の説明」(マタイでは13章19-23節)は初代教会の人々が付け加えた部分だと考えることもできるでしょう。そこで、3-9節のたとえ話だけを考えてみます。
 まず不思議に思うのは、この農夫のやり方です。日本の農民なら決してこんな種の蒔き方をしないでしょう。畑をきちんと耕して「良い土地」にしてから、種が無駄にならないように、注意深く蒔くに決まっているのです。耕した土地に小さな穴を開け、そこに種を落として、上から土をかぶせるのが普通のやり方でしょう。
 パレスチナの農民はそうではなかったそうです。耕す前に、土地一面に種を蒔いてしまい、その土地を掘り起こすように耕していきます。蒔くときに多少石ころがあろうと、茨が生えていようと、どうせ後で掘り起こすので問題にはならないのです。なぜこのようにするかと言えば、パレスチナでは日差しが強く、種を地中深くに入れなければすぐに干上がってしまうからだそうです。確かにこのような種まきは一見、無駄の多いやり方です。しかし、このように蒔くことによって最終的には豊かな実りがもたらされるのです。
 だとすると、本来のこのたとえ話のポイントは、蒔かれた土地が良い土地かどうかではなく、むしろ、大きな収穫に信頼し、希望を持って、忍耐して種蒔く人のほうにあると言えるのではないでしょうか。

  (5) さて、たとえ話を福音書の文脈から切り離して、本来の状況を考えることはできるでしょうか。ここから先は想像の域を出ないかもしれません。しかし、たとえばイエスの活動の仕方に疑問が呈されたときのことだと考えてみてはどうでしょうか。「神の国と大げさなことを言っても、あなたの周りに集まってきたのは、無学で貧しい人ばかりではないか。病人や障害者ばかりを相手にしていても無駄ではないか。なぜあなたは、もっと効率的な宣教方法を取らないのか」このような疑問は、ファリサイ派のような敵対者からというよりも、むしろイエスの弟子たちからの疑問だと言えるでしょう。もしも、そういう状況の中でこのたとえ話が語られたとするならば、このたとえ話のメッセージは次のようになります。「農夫を見なさい、彼らのやり方は一見無駄に見える。しかし、そのような仕方でこそ、大きな実りがもたらされるのだ。わたしのやり方も同じことだ
 この「種蒔く人」のイメージは、人間的な反対や抵抗にあっても、あきらめずに神の国について語り続け、父である神のみ旨を行い続けるイエスご自身の姿とも重なってきます。
 もちろん、これまで見てきたエレミアスのような読み方がすべてではなく、もっと素直に「たとえ話の説明」を受け取ってもよいのです。問題は、わたしたちが、わたしたちの置かれた状況の中でこのたとえ話をどう受け止めるか、なのです。




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Posted on 2017/07/07 Fri. 08:30 [edit]

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