福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第22主日 (2017/9/3 マタイ16章21-27節)  


教会暦と聖書の流れ


 先週のペトロの信仰告白に続く、いわゆる「受難予告」の場面です。先週の箇所で、信仰告白をしたペトロはイエスから祝福され、特別な使命を与えられていましたから、今日の箇所で同じペトロがすぐに厳しく叱責されてしまうのは不自然に感じられるかもしれません。これはマルコ福音書8章の「ペトロの信仰告白、メシアであることの口止め、受難予告」という流れの途中に、マタイがペトロへの祝福と特別な使命授与という別の伝承(16章17-19節)を挿入したためだと考えられます。


福音のヒント


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  (1) 「受難予告」ということを特別な未来予知能力によるものと考える必要はありません。イエスの活動は貧しい人や病人に大きな希望と励ましを与えましたが、逆にファリサイ派の人や律法学者には歓迎されませんでした。律法を基準にして人間をランク付けする考えに対して、イエスはすべての人を例外なく神の子であると見て大切にしました。そのことは、律法の基準の上で社会的にも宗教的にも優位を保っていた人々(エリートや指導者たち)には自分たちの地位を脅かすものと感じられたのです。その人々からの反感と敵意が迫ってきているのをイエスは感じておられたはずです。さらに旧約時代の預言者たちの苦難や洗礼者ヨハネの殉教を考えれば、イエスがこのまま活動を続ければ迫害と死は避けられないと感じたとしても不思議ではありません。
 それでも、イエスは自分の身を守るために、これまでの歩みを変えるということはありませんでした。最後まで、すべての人の父である神への信頼と神の子であるすべての人への愛を貫くのです。「たとえ受難と死が待ち受けていたとしても、この道を行く」、十字架に向かうイエスの決断とはこういうものだったと言えるでしょう。

  (2) 「受難予告」の中には、復活の予告も含まれています。「復活」という考えは旧約聖書の中で、ダニエル書12章やマカバイ記 二 7章(第二正典)に特に明白に現れています。どちらも背景には、紀元前2世紀、セレウコス朝シリア(ヘレニズム王朝)の王アンティオコス4世エピファネスのユダヤ人に対する宗教迫害があります。神に忠実であろうとすればするほどこの世で苦しみを受ける、という現実の中で、神が死を越えて従う者に救いを与えてくださる、と確信するのが復活の信仰です。イエスもまた、あの時代のユダヤ人としてこのような確信を抱いていたのは、当然のことだともと言えるでしょう。
 「必ず・・・ことになっている」はギリシア語の「デイdei」という非人称動詞の訳です。これは必然的に起こることを表すだけでなく、それが神の定めたこと(神の計画)だということを表す言葉です。イエスはこの受難・死・復活に神の計画を見ていたはずです。

  (3)  弟子たちはイエスの受難予告を理解できませんでした。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」というペトロの言葉は、イエスの身を案じての言葉だったのでしょう。あるいは弟子たちは、当時のほかの人々同様、地上で栄光に輝き、勝利を収めるメシア像しか受け入れられなかったのでしょう。イエスはペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と言います。これは荒れ野の誘惑の場面で語られた「退け、サタン」(マタイ4章10節)を思わせるような厳しい言い方です。サタンとは人を神から引き離す力のシンボルです。「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」! 今もわたしたちを神から引き離そうとする力が働いていると感じることがあるのではないでしょうか。

  (4) 受難予告の後、イエスはご自分の受難と復活の道に従うよう、弟子たちを招きます。「自分を捨てる」「自分の十字架を背負う」(24節)とはどういうことでしょうか。十字架刑に処せられる死刑囚は見せしめのために十字架の木をかついで街中を歩かされました。そこから考えると「十字架を背負う」は「苦しみや死」よりも「辱めを受ける」という意味が強いのかもしれません。いずれにせよ、わたしたちにとってそれは何を意味するのか、少しでもこのイエスの言葉に通じる経験を自分の中に探してみて、それを分かち合ってみてはどうでしょう。――我が子や愛する人のために自分を捨てるということはわたしたちの身近にもあることではないでしょうか。避けることのできない自分の苦しみを、ある時、十字架だと受け止めることができて、だからそれを耐え、乗り越えることができたというような体験もあるかもしれません。

  (5) 25節で「命」という言葉は二通りの意味で使われています。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」では「この世の命」と「永遠の命」が対比されています。永遠の命を強調することには、時としてこの世の命を軽視する危険があるかもしれません。「自爆テロ」というのはその最たるものでしょう。「神のため」ということを理由にして、人間の命(他人の命も、自分の命も)を犠牲にしてもよいという考えにわたしたちは絶対に賛成できません。しかし今日の箇所で、この世の命を大切にしながらも、それ以上に大切にすべきものがあると教えていることも確かです。
 25、26節の「永遠の命を得る・失う」というテーマとの関係で、27、28節では世の終わり(終末)についての言葉が伝えられています。イエスも初代教会のキリスト信者も世の終わりがすぐに来る(人の子が現れて世の救いが完成される)という期待を持っていたようです。わたしたちの時代はそれから2000年も経とうとしています。わたしたちにとっては「それがいつか」という時間的なことは問題になりません。むしろ、
 (a) それでもいつか最終的に神の救いが完成する、という希望を持って生きること
 (b) 最終的な神の判断(裁き)を信じながら、今、目先の利害に振り回されず、神に対する信頼と人に対する愛を貫いて生きること
 これがわたしたちのテーマではないでしょうか。それはまた、十字架に向かって歩むイエスご自身の歩みのテーマでもあったと言えるでしょう。




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Posted on 2017/08/25 Fri. 08:30 [edit]

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年間第21主日 (2017/8/27 マタイ16章13-20節)  


教会暦と聖書の流れ


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 先週の「カナンの女」の話(15章21-28節)から少し飛んで、いわゆる「ペトロの信仰告白」の場面になります。多くの病人をいやし、わずかな食物でおおぜいの人々を満たしたイエスの活動(15章29-39節)はファリサイ派やサドカイ派の人々には受け入れられませんでした(16章1-12節)。これに対して、これまでずっとイエスに従ってきた弟子たちを代表して、シモン・ペトロがイエスについての理解をはっきりと表明することになります。


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  (1) 「フィリポ・カイサリア」はガリラヤ湖に流れ込むダン川の源流の地(ガリラヤ湖から北へ約40キロメートルの場所)です。「カイサリア」は「ローマ皇帝(カエサル)の町」を意味しますが、地中海沿岸の町カイサリアと区別するために「フィリポ・カイサリア」と呼ばれていました。ここには異教の神々の神殿がありました。マタイはこの地でのペトロの信仰告白を、自分たちの教会が他のさまざまな宗教(ユダヤ教やローマの宗教など)に取り囲まれている中で、キリストへの信仰を宣言していることと重ね合わせているのかもしれません。

  (2) 14節ではイエスについての人々のうわさが伝えられています。「洗礼者ヨハネ」はすでに処刑されていました(マタイ14章参照)。「エリヤ」は紀元前9世紀の北イスラエルの預言者ですが、神の決定的な裁きの前に神から遣わされると考えられていた人物です(マラキ3章23節参照)。「エレミヤ」は紀元前7~6世紀の南ユダの預言者ですが、同じように世の終わりに再び現れると考えられていたようです。
 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いは、他人の考えではなく、実際にイエスに出会い、イエスのそばにいて、イエスの言葉と行動に触れてきたあなたがたはどう思うのか? ということでしょう。「教会で教えられたから」とか「キリスト教の本で読んだから」というレベルではなく、わたしたちもそれぞれ「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われることがあるのではないでしょうか。わたしたちは、自分自身の言葉として何と答えることができるでしょうか。

  (3) ペトロの答えは「あなたはメシア、生ける神の子です」というものでした。「メシア」は、ギリシア語原文では「クリストスchristos(=キリスト)」です。新共同訳聖書は「クリストス」がイエスを指す固有名詞のように使われている場合は「キリスト」、称号として使われている場合は「メシア」と訳し分けています。本来の意味は「油注がれた者」でしたが、新約聖書では神が決定的に遣わされる救い主を指す言葉です。なお、「神は生きておられる」ということは旧約聖書で繰り返し強調されていたことです。
 ペトロのこの言葉はもちろん正解です。しかし、マルコ8章30節(平行箇所)では、イエスはペトロの答えを聞いた後、わざわざ「ご自分のことを誰にも話さないように」と命じています。マルコは、この時点でのペトロの理解は不十分で、受難と死を通して「イエスがキリストである」ということの本当の意味が理解される、と言いたいようです。また、「イエスは神の子キリストです」と口で言うだけではなく、そのイエスに希望と信頼を置き、イエスとともに歩み続けることこそが大切だとも言えるでしょう。ペトロは結局、最後までイエスについていくことができませんでしたから、その意味でもペトロのこの信仰告白は不十分だったと言わざるをえないのかもしれません。

  (4) 一方、マタイ福音書ではイエスへの信仰を告白したペトロが祝福されています。17節からの言葉はマタイ福音書だけが伝えるものですが、これらの言葉は、アラム語(イエスが話していた言語)の伝承にさかのぼると言われます。「バルヨナ」はアラム語で「ヨナの子」の意味です。「人間」と訳されたことばは直訳では「血肉」で、これもアラム語的な表現です。18節の「ペトロ」はアラム語の「ケファ」(「岩」の意味)をギリシア語に訳した名前です。ただし、これらの言葉すべてをイエスご自身のものとは言い切れない面もあります。「教会」という言葉は福音書にはほとんど出てきません(この箇所とマタイ18章だけ)。これは復活後の状況の中での言葉ではないでしょうか。ただし「ケファ」という呼び名自体はイエスご自身が付けたものであり、イエスご自身がシモン・ペトロに土台としての役割を与えたということは確かでしょう。
 ここで「教会を建てる」というとき、建物のイメージがあります。続く「陰府の力」も直訳では「陰府の門」ですし、それとの関連で「鍵」という言葉も出てくるようです。死者が閉じ込められる場所が陰府で、その門を開けて死者を生き返らせることは神以外のだれにもできないと考えられていました。19節の「天の国の鍵」は天の国にも門があり鍵がある、というイメージでしょう(なお、鍵は複数形です)。ペトロの役割は、単なる門番ではなく、天の国の管理を任されるという大きな役割です。「つなぐ」「解く」という言葉には、ラビ(律法教師)としての判断・判決を表す表現が背景にあるとも言われています。

  (5) ところで、マタイ23章13節には、次のようなイエスの言葉があります。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」。教会に与えられた任務はその正反対で、いかにすべての人に対して天の国の門を開くか、ということです。
 「天の国」はマタイ的な言い方で「神の国」と同じ意味です。イエスのメッセージの中心はこの神の国の到来でした。神の国とは、神の愛がすべてにおいてすべてとなった状態、人が神との親しいつながりを取り戻すこと、それゆえ人が神の(永遠の)いのちにあずかる者となること。さまざまな表現が可能ですが、この神の国には、イエスと共にもうすでに始まっているという面と、まだ完全には実現していないという面があります。
 教会は天の国そのものではありません。しかし、この箇所では教会(ペトロ)に天の国の管理がゆだねられています。それは「権限」というより「使命」と言ったほうがよいのではないでしょうか。わたしたちの教会が本当に神の国の門を開き、人々をそこに招いているかどうかが問われています。




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Posted on 2017/08/18 Fri. 08:30 [edit]

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年間第20主日 (2017/8/20 マタイ15章21-28節)  


教会暦と聖書の流れ


 この話の直前の箇所で、イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わなかったことをきっかけに、ファリサイ派・律法学者とイエスの間で「清め」に関する議論が起こっています(15章1-20節)。ファリサイ派・律法学者は神の律法を熱心に守ろうとしたユダヤ人でしたが、細かい清めの律法を守ることを重んじ、もっとも大切な神の望み・み心を見失っていました。イエスはそのことを指摘しています。次に登場するのが、この人々の正反対とも言える人、ファリサイ派や律法学者から見れば「神を知らないはずの」異邦人の女性です。


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  (1) 「ティルス」「シドン」はガリラヤの北、シリア・フェニキア地方に位置する異邦人の町、「カナン人」はパレスチナの古くからの住人です。同じ話はマルコ7章24-30節にもありますが、そこでは「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」と紹介されています。とにかくユダヤ人から見たら明らかに異邦人(外国人)でした。
 22節で彼女は「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください」と呼びかけます。「ダビデの子」はイスラエルの王(メシア=油注がれた者)を表す言葉です。マタイ20章30-31節でもイエスに助けを願った盲人がこう呼びかけていますが、これは彼ら自身の考えというよりも、当時の人々のイエスについての評判がそういうものであったということなのでしょう。なお、当時は「悪霊」が肉体的な病気をも引き起こすと考えられていましたが、この女性の娘がどんな病気であるかはもちろん分かりません。

  (2) 実は22-25節のやりとりはマルコ福音書の平行箇所にありません。マタイはこのイエスの拒絶というテーマを強調しているようで、12人の弟子を派遣した箇所にも似た言葉がありました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10章5-6節)。このような言葉はマタイ福音書だけが伝えていますので、ここにはマタイのいた教会特有の問題意識があると考えられます。ユダヤ人キリスト者の共同体だったマタイの教会の中には異邦人排除の考え方があり、マタイはそのような考えをここで紹介しながら、イエスご自身がその枠を乗り越えていったのだ、と言いたいのかもしれません。

  (3) もしイエスご自身が第一にイスラエルの人々のことを考えていたのだとすれば、それはなぜでしょうか。一つの可能性は、イエスがまず身近な人々を優先すべきだと考えたということでしょう(A年年間第12主日の「福音のヒント」参照)。自分が変わることによって、少しずつ自分の周囲が変わり始める、そしていつかそれが社会や世界の大きな変化につながっていく。イエスのやり方もある意味でそうだったと言えるかもしれません。
 もう一つ考えられることは、イスラエルの民が神のことばと神の約束を受けていた民だからという理由です。イエスが目にしていたイスラエルの人々の現実はそこから程遠いものでした。神殿での祭儀を重んじたり、律法を事細かに守ろうとしたりする当時のユダヤ宗教のあり方は、多くの貧しい人を「失われた羊」(24節)にしてしまっていました。その人々を神の群れに連れ戻すこと、もう一度、その人々と神とのつながりを取り戻し、人と人とのつながりを取り戻すこと、それがイエスにとって最優先の使命と感じられたと考えてもよいでしょう(この「失われた羊」のイメージはエゼキエル34章のイメージです)。

  (4) 「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)も同じような拒絶の意味を持った言葉です。「子供」はイスラエル民族を指し、「小犬」は異邦人を指します。犬は今ではペットとして愛されていますが、聖書の中では忌(い)み嫌われる動物でした。このイエスの言葉は、今から見れば差別発言だと言わざるをえないかもしれません。しかし、ここでカナンの女は、このイエスの言葉を逆手(さかて)にとって、自分たちも救いを受けることができるはずだ、と主張します。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(27節)。ここには彼女の必死の思いとイエスへのゆるぎない信頼が感じられるでしょう。イエスはこの女性の姿に接して態度を変えます。

  (5) 今日の箇所のポイントは、イエスがイスラエル民族を優先し、異邦人を排除していた、ということではありません。ポイントはイエスにイスラエル優先の考え方があったとしても、この異邦人との出会いの中で、イエスのほうが変えられ、結局は彼女を受け入れたということです。イエスの弟子や最初のキリスト者は皆ユダヤ人でした。初代教会にとって異邦人をどのように受け入れるかは、大きな問題でした。彼らは、抽象的に「異邦人も救いにあずかれるか」と議論して、そこから異邦人への働きかけを始めたのではありません。むしろ、異邦人がイエスを信じるようになったという現実が先にあり、それがユダヤ人から始まった教会のあり方を変えていったのです。使徒言行録8章のサマリア人やエチオピアの宦官(かんがん)の物語、10章のローマ人コルネリウスの物語がその例です。

  (6) イエスにとってもそうだったのでしょう。「信仰はまずユダヤ人のものである」という考えがあったとしても、現実にユダヤ人でない人が信仰を示したのに出会ってしまったのです。この人間との出会いによってイエスの心は揺さぶられます。イエスにとってほんとうに大切なのは、自分の宣教計画ではなく、目の前の人間だったと言えるでしょうか。現実との出会い、人との出会いによって変えられていくイエスはステキです。わたしたちにも、もちろん自分なりの考えや計画があります。もしかするとそれが人と出会うことを妨げてはいないでしょうか。「この人はこういう人に決まっている」「あの国の人はああいう人たちだ」そう決め付けてしまい、出会うことをやめてしまっていることがあるかもしれません。国籍や民族の異なる人とどのように出会い、どのように理解し合い、信頼関係を築いていけるかは、今のわたしたちの大きな課題です。きょうの福音の箇所はすべての人との平和を願うわたしたちにとって大きな光を与えてくれるはずです。




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Posted on 2017/08/11 Fri. 08:30 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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年間第19主日 (2017/8/13 マタイ14章22-33節)  


教会暦と聖書の流れ


 この箇所の前には、イエスが5つのパンと2匹の魚で5000人以上の人の飢えを満たしたという話が伝えられています(マタイ14章14-21節)。きょうはそれに続くもう一つの不思議な出来事です。弟子たちはこのような体験をとおして、次第にイエスを特別な方、神からの力に満ち溢れた方と見るようになっていきます。


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  (1)  ほんとうにイエスは湖の上を歩いたのでしょうか。聖書に書いてあるのだからそのとおりに違いない、という人もいるでしょうし、どうしてもそうとは信じられないという人もいるでしょう。事実はどうだったのか、と議論してもあまり実りはなさそうです。
 この出来事はマルコとヨハネも伝えていますが、ルカは省略しています。なお、マルコやヨハネではイエスが水の上を歩いたということだけで、ペトロが水の上を歩こうとした話はありません。さらにマルコ、マタイ、ルカに共通する「嵐を静める」出来事(マタイ8章23-27節など)とも似ている面があります。これらの話は誰かが頭の中で考え出したフィクションではありません。何かしら弟子たちにとって不思議な体験がガリラヤ湖であり、それが伝えられていくうちに今の福音書のような物語になったと考えたらよいでしょう。

  (2)  彼らが向かった「向こう岸」は、34節によれば「ゲネサレトという土地」です。異邦人の土地ではありませんが、見知らぬ土地のイメージなのかもしれません。
 ある人はこの出来事についてこう考えました。「弟子たちはイエスを残してガリラヤ湖に船出した。自分たちだけで見知らぬ土地に行く不安がある。案の定、逆風にあい、いつの間にか舟は岸に押し戻されていた。イエスは近くの岸辺を歩いてきたが、弟子たちは自分たちが湖の真ん中にいると思い込んでいたので、イエスが湖の上を歩いているのだと思った。」もちろんこんな考えは単なる想像であって、何の根拠もありません。ただ、そうだとしても本質的な意味に変わりはないのかもしれません。大切なのは実際の出来事そのものよりも、弟子たちにとってそれがどういう体験だったのか、ということだからです。この体験は弟子たちがイエスは特別な方であると気づく体験だったのです。マタイではこの物語の結びに「本当に、あなたは神の子です」という告白があります。

  (3) この物語の中で大切にしたいのは「恐れと疑いから信頼へ」というイメージです。「信じる」はギリシア語で「ピステウオーpisteuo」、名詞の形は「ピスティスpistis」です。「ピスティス」は普通「信仰」と訳されますが、「信頼」と訳すこともできます。
 「信仰」と言うと「神の存在を信じる」ことだと考えがちですが、福音書の中で問題になっているのは、「神が存在するか否か」というようなことではありません。問題は「神に信頼を置くかどうか」です。「疑い」とは神に信頼しないこと。神に信頼せず、自分の力だけで危険に立ち向かおうとするとき「恐れ」に陥るのです。
 イエスは恐怖のどん底にいる弟子に向かって「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)と呼びかけます。「わたしだ」と訳されたことばは日本語訳だけ見ていると、「幽霊などではなく、わたしである」と言っているだけのように聞こえるかもしれません。この「わたしだ」は、ギリシア語では「エゴー・エイミego eimi」で、英語で言えば「I am」という言い方です。この「エゴー・エイミ」は「わたしがいる」とも訳すことができるのです。「わたしがいる」は、「わたしはあなたとともにいる」という意味でもあります。「安心しなさい。わたしがともにいる。だから、恐れることはない」イエスは今もさまざまな恐れに囚われているわたしたち一人一人にそう呼びかけているのではないでしょうか。
 また、この「エゴー・エイミ」は、旧約聖書では神がご自身を表すときに用いられた表現(「わたしはある」出エジプト記3章14節)ですから、ここでもイエスが神としての威厳と力を持っていることを宣言している、と受け取ることもできます。

  (4) 28-31節はマタイがマルコの伝承に書き加えた部分と考えられますが、マタイだけが知っていた別の伝承があったのでしょうか。このような物語は、イエスの地上での活動中にガリラヤ湖で起こった一回の出来事というよりも、むしろ、復活して今も生きているイエスと弟子の出会い、そしてキリストを信じて歩もうとするわたしたちすべての歩みを表していると考えたらよいでしょう。わたしたちもペトロのように水の上を(あるいは、水の上でなくともイエスに従う道を)歩みたいのです。しかし「強い風」(さまざまな困難)のために「怖くなり」、「主よ、助けてください」と叫びたくなることがあります。イエスはそんな弟子に対して、「すぐに手を伸ばして捕まえ」てくださるというのです。そのようなイエスの助けをわたしたちも感じることがあるかもしれません。また、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉も、「もっと大きな信頼を持つように」という励ましとして受け取ることができるでしょう。
 福音書を読むときに大切なのは、2000年前の出来事として読むだけでなく、今のわたしたちと神(あるいは、復活して今も生きているキリスト)との出会いの物語として読むことです。

  (5) 日本のカトリック教会では、8月6日から15日までの10日間を「平和旬間」としています。過去の戦争や広島・長崎の原爆の惨禍を思い起こし、平和のために祈る季節を迎えています。この世界では今もなお戦争やテロが繰り返されています。災害や事故も起こり続けています。身近なところでもわたしたちは暴力や犯罪に脅かされています。本当に平和な世界を実現するのは「水の上を歩く」のと同じぐらい難しいことでしょうか。
 「平和」と訳されるヘブライ語の「シャローム」は、「欠けたもののない状態」を表すそうです。神が共にいてくださり、すべての人が神の愛に満たされ、神の恵みがすべての人に等しく行き渡るところに本当の平和があります。その平和はまずわたしたち一人一人の中から始まると言えるのかもしれません。




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Posted on 2017/08/04 Fri. 08:30 [edit]

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