福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
年間第13主日 (2023/7/2 マタイ10章37-42節) 
教会暦と聖書の流れ
マタイ福音書10章は、弟子たちを派遣するにあたってのイエスの長い説教という形になっています。今日の箇所はその結びの部分です。16節から始まった、弟子たちに対する迫害の予告という雰囲気は最後まで続いているようです。
福音のヒント
(1) 「家族を大切にしなければならない」「家族は仲良くしなければならない」ということは、多くの人にとって当然のことでしょう。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(37節)というイエスの言葉はこのわたしたちの常識を揺さぶります。この直前にはこういう言葉もあります。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣(つるぎ)をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。」(10章34-36節)イエスの言葉は明らかに「イエスか肉親か」の二者択一を迫っています。カルト宗教のような危険性さえ感じさせるこれらの言葉をどう受け取ったらよいのでしょうか。マタイ福音書の文脈では、イエスのメッセージのゆえに対立や迫害が起こることは避けられない、しかし、その中にあってもイエスの福音に踏みとどまるようにという教えだと考えることができるでしょう。
(2) しかし、なぜイエスのメッセージゆえに家族との対立が起こるのでしょうか。それはイエスのメッセージが家族の持つある種の「狭さ」を越える性格のものだからです。
「『わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。』そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である』」(マタイ12章48-50節)「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」(マルコ10章29-30節)。イエスは「自分の家族さえ良ければ」という閉鎖的な考えを乗り越え、父である神のもとですべての人が家族であるという大きな連帯の世界に生きるよう、人々を招いています。イエスの時代、誰からも顧みられない孤独な人、家族からも厄介者扱いされているような人にとってそれはまさに「福音(=よい知らせ)」だったでしょう。家族も捨ててイエスに従っていた弟子たちにとっても「福音」だったにちがいありません。わたしたちにとってこれは「福音」になりうるでしょうか。
(3) わたしたち一人ひとりの家族についての思いは違います。「やっぱりわたしにとっては家族が一番大切」という人は多いでしょう。「家族を傷つけ、悲しませたとしても教会に行くべきだ」というような考えは常識的には正しいと思えません。
ただし、次のようなことも考えてみてはどうでしょうか。子どもは成長する中で「親離れ」をしなければなりません。親離れは一生絶縁してしまうことではありません。庇護し庇護されるだけの関係をいったん断ち切って、別な形で親と子が出会うためです。子どもが成長して、自分の生き方を確立するようになり、一人前の人間として親を大切にするようになるとき、家族は新たな絆を生き始めることになります。もしかしたら、家族の絆よりももっと大切なものを見つけたときに、本当に家族を愛せるようになる、ということもあるのかもしれません。
(4) 40節は使徒たちの働きの重要性と、それを受け入れる人への祝福を語りますが、マルコ9章37節、マタイ18章5節などに似た言葉があります。マルコではこうなっています。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」。本来は子どもについて言われた言葉が、神の子どもとなったキリスト者にも当てはめられるようになったのかもしれません。ここでは、弟子たちに対する態度が、弟子たちを派遣したイエスと神に対する態度と同じことだということになっています。
「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(42節) わたしたち日本のキリスト者は社会の中で本当に少数派です。しかし、そのわたしたちがキリストに忠実に生きようとするならば、必ず理解し、支えてくれる、キリスト者でない善意の人々と出会うことができるということも、わたしたちがどこかで経験していることでしょう。
(5) 38-39節の言葉は、最初の受難予告の後のマタイ16章24-25節でもほとんど同じ形で繰り返されます。きょうの箇所全体の背景にも、迫害という状況があるのかもしれません。42節の「水一杯飲ませる」は、普通の状況ではささやかな善意でしかありませんが、もし迫害されているキリスト者に対してそうするのであれば、水をあげた人自身もその仲間だと思われる覚悟が必要かもしれないことです。またここで「わたしの弟子」=「小さな者」と言われていますが、これも迫害されているキリスト者の姿を連想させます。
もちろん迫害という状況に限らず、「水一杯」はマタイ25章の次の言葉とのつながりの中で味わうこともできます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(35-36節)「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(40節)
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第一朗読 列王記下4・8-11、14-16a
8ある日、エリシャはシュネムに行った。そこに一人の裕福な婦人がいて、彼を引き止め、食事を勧めた。以来彼はそこを通るたびに、立ち寄って食事をするようになった。9彼女は夫に言った。「いつもわたしたちのところにおいでになるあの方は、聖なる神の人であることが分かりました。10あの方のために階上に壁で囲った小さな部屋を造り、寝台と机と椅子と燭台を備えましょう。おいでのときはそこに入っていただけます。」11ある日、エリシャはそこに来て、その階上の部屋に入って横にな〔った。〕14エリシャは、「彼女のために何をすればよいのだろうか」と言うので、〔従者〕ゲハジは、「彼女には子供がなく、夫は年を取っています」と答えた。15そこでエリシャは彼女を呼ぶように命じた。ゲハジが呼びに行ったので、彼女は来て入り口に立った。16エリシャは、「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱いている」と告げた。
第二朗読 ローマ6・3-4、8-11
3〔皆さん、〕あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。8わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。9そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。10キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。11このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
福音朗読 マタイ10・37-42
〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕37「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。38また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
40あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。42はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
Posted on 2023/06/23 Fri. 09:30 [edit]
category: 2023年(主日A年)
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