福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
主の変容 (2023/8/6 マタイ17章1-9節) 
教会暦と聖書の流れ
わたしたちは主日のミサの聖書朗読配分に基づいて福音書を読んでいますが、今日は年間主日の流れを離れて、8月6日の主の変容の祝日の福音を読みます。キリストの出来事を祝う祝日(主の祝日)が年間の主日に重なった場合、主の祝日のほうを優先して祝うことになっているからです。
実は、この日の福音の箇所は、今年(A年)の四旬節第二主日とまったく同じです。主の変容の出来事は、受難の道を歩むイエスに従うよう弟子たちを励ますものとして、伝統的に四旬節に読まれてきた箇所でもあるのです。この「福音のヒント」もほとんどそのまま使っていますが、四旬節中に読むのと広島原爆の日に読むのとでは、受け取る側にとってやはり違いがあるのではないでしょうか?
福音のヒント
(1) きょうの箇所のはじめ、マタイ17章1節には「六日の後」という言葉があります。朗読聖書では省かれていますが、この言葉は、直前の出来事との関連を感じさせる言葉です。この箇所の直前にあるのは、ペトロの信仰告白と最初の受難予告です。マタイ16章21節「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」。変容の出来事は、この受難予告と密接につながっているのです。きょうの箇所の結びの「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』と弟子たちに命じられた」(マタイ17章9節)という言葉もそのことを暗示しています。上の16章21節が「言葉による受難予告」だとしたら、17章は「出来事による受難予告」と言ってもよいほどです。この出来事は、イエスが受難と死をとおって受ける栄光の姿を弟子たちに垣間(かいま)見させ、そのイエスに従うように弟子たちを励ますための出来事だったと言ったらよいでしょう。
モーセは律法を代表する人物、エリヤは預言者を代表する人物です。「律法と預言者」は旧約聖書の主要な部分を表し、イエスの受難と復活が聖書に記された神の計画の中にあることを示しています。なお、ルカ福音書はイエスとモーセ、エリヤが話し合っていた内容が「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」(ルカ9章31節)であったことを伝え、この出来事とイエスの受難・死の結びつきをいっそう明確にしています。
(2) ペトロが仮小屋を建てようと言っているのは、このあまりに素晴らしい光景が消え失せないように、3人の住まいを建ててこの場面を永続化させよう、と願ったからでしょうか。しかし、この光景は永続するものではなく、一瞬にして消え去りました。今はまだほんとうの栄光の時ではなく、受難に向かう時だからです。
雲は「神がそこにおられる」ことのしるしです。雲は太陽や星を覆い隠すものですが、古代の人々は雲を見たときに、雲の向こうに何かがある、と感じたのでしょう(宮崎アニメの『天空の城ラピュタ』のように)。聖書の中では、「雲」は目に見えない神がそこにいてくださるというしるしになりました。たとえば、イスラエルの民の荒れ野の旅の間、雲が神の臨在のシンボルとして民とともにありました(出エジプト記40章34-38節参照)。
(3) 雲の中からの声は、もちろん神の声です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」この言葉は、イエスがヨルダン川で洗礼を受けられたときに天から聞こえた声と同じです(マタイ3章17節)。この言葉の背景にはイザヤ42章1節「見よ、わたしの僕(しもべ)、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」があると考えられます。洗礼のときから「神の子、主の僕」としての歩みを始めたイエスはここから受難の道を歩み始めますが、そのときに再び同じ声が聞こえます。つまり、この受難の道もまた、「神の子、主の僕」としての道であることが示されるのです。
そしてここでは弟子たちに「これに聞け」と呼びかけられます。「聞く」はただ声を耳で聞くという意味だけでなく、「聞き従うこと」を意味します(申命記18章15節など参照)。これは、受難予告の中で「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16章24節)と言われていたことと対応していると言ったらよいでしょう。
(4) 受難の道を行くイエスに従っていくこと、これが今日の福音の呼びかけです。しかし、実際には、弟子たちはこれほど輝かしいイエスの栄光を見たのに、最後まで従っていくことができませんでした。イエスが逮捕されたとき、皆逃げてしまったのです。弟子たちがこの出来事の意味を本当に理解できるようになったのは、復活後のことでした。ところで、今のわたしたちにとっては、イエスの受難も死も復活の栄光も、もうすでに知っていることです。苦しみの先に栄光が待っていると知っているから、わたしたちは今の苦しみに耐えていくことができるのでしょうか。
イエスは今日の箇所で、将来ご自分が受ける栄光を感じる以上に、モーセとエリヤが代表する神の救いの計画の中に、今自分がいることを強く感じ、また、天からの声に示される父である神とのつながり・親しさを深く感じていたのでしょう。だからこそイエスの道は揺るがないのです。わたしたちも同じかもしれません。どんな苦しみの中にあっても、神とのつながり・イエスとのつながりをどこかでしっかりと感じていれば、イエスと共に「神の愛する子」としての道を歩むことができる、と言えるのでしょう。
(5) 8月6日・広島原爆の日から、8月9日・長崎原爆の日を経て、8月15日・終戦の日までの10日間を、日本のカトリック教会は、平和について学び、平和のために祈り、行動する「平和旬間」としています。かつての戦争の悲惨な出来事を思い起こし、平和を願いますが、今この世界の平和を脅かすさまざまな事態の前でどう生きるべきか、迷うことがあるかもしれません。そんな時こそわたしたちは、今日の福音の「神の愛する子であるイエスに聞け」という呼びかけを深く、真剣に受け取るよう招かれているのです。
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「福音のヒント(PDF)」
※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。
第一朗読 ダニエル7・9-10、13-14
9〔わたしが〕見ていると、
王座が据えられ
「日の老いたる者」がそこに座した。
その衣は雪のように白く
その白髪は清らかな羊の毛のようであった。
その王座は燃える炎
その車輪は燃える火
10その前から火の川が流れ出ていた。
幾千人が御前に仕え
幾万人が御前に立った。
裁き主は席に着き
巻物が繰り広げられた。
13夜の幻をなお見ていると、
見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り
「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
14権威、威光、王権を受けた。
諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え
彼の支配はとこしえに続き
その統治は滅びることがない。
第二朗読 二ペトロ1・16-19
16〔愛する皆さん、〕わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。17荘厳な栄光の中から、「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。18わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。
19 こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。
福音朗読 マタイ17・1-9
1〔そのとき、〕イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。2イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。3見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。4ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」5ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。6弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。7イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」8彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。9一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。
Posted on 2023/07/28 Fri. 08:30 [edit]
category: 2023年(主日A年)
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