福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
年間第21主日 (2023/8/27 マタイ16章13-20節) 
教会暦と聖書の流れ
先週の「カナンの女」の話(15章21-28節)から少し飛んで、いわゆる「ペトロの信仰告白」の場面になります。多くの病人をいやし、わずかな食物でおおぜいの人々を満たしたイエスの活動(15章29-39節)はファリサイ派やサドカイ派の人々には受け入れられませんでした(16章1-12節)。これに対して、これまでずっとイエスに従ってきた弟子たちを代表して、シモン・ペトロがイエスについての理解をはっきりと表明することになります。
福音のヒント
(1) 「フィリポ・カイサリア」はガリラヤ湖に流れ込むダン川の源流の地(ガリラヤ湖から北へ約40キロメートルの場所)です。「カイサリア」は「ローマ皇帝(カエサル)の町」を意味しますが、地中海沿岸の町カイサリアと区別するために「フィリポ・カイサリア」と呼ばれていました。ここには異教の神々の神殿がありました。マタイはこの地でのペトロの信仰告白を、自分たちの教会が他のさまざまな宗教(ユダヤ教やローマの宗教など)に取り囲まれている中で、キリストへの信仰を宣言していることと重ね合わせているのかもしれません。
(2) 14節ではイエスについての人々のうわさが伝えられています。「洗礼者ヨハネ」はすでに処刑されていました(マタイ14章参照)。「エリヤ」は紀元前9世紀の北イスラエルの預言者ですが、神の決定的な裁きの前に神から遣わされると考えられていた人物です(マラキ3章23節参照)。「エレミヤ」は紀元前7~6世紀の南ユダの預言者ですが、同じように世の終わりに再び現れると考えられていたようです。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いは、他人の考えではなく、実際にイエスに出会い、イエスのそばにいて、イエスの言葉と行動に触れてきたあなたがたはどう思うのか? ということでしょう。「教会で教えられたから」とか「キリスト教の本で読んだから」というレベルではなく、わたしたちもそれぞれ「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われることがあるのではないでしょうか。わたしたちは、自分自身の言葉として何と答えることができるでしょうか。
(3) ペトロの答えは「あなたはメシア、生ける神の子です」というものでした。「メシア」は、ギリシア語原文では「クリストスchristos(=キリスト)」です。新共同訳聖書は「クリストス」がイエスを指す固有名詞のように使われている場合は「キリスト」、称号として使われている場合は「メシア」と訳し分けています。本来の意味は「油注がれた者」でしたが、新約聖書では神が決定的に遣わされる救い主を指す言葉です。なお、「神は生きておられる」ということは旧約聖書で繰り返し強調されていたことです。
ペトロのこの言葉はもちろん正解です。しかし、マルコ8章30節(平行箇所)では、イエスはペトロの答えを聞いた後、わざわざ「ご自分のことを誰にも話さないように」と命じています。マルコは、この時点でのペトロの理解は不十分で、受難と死を通して「イエスがキリストである」ということの本当の意味が理解される、と言いたいようです。また、「イエスは神の子キリストです」と口で言うだけではなく、そのイエスに希望と信頼を置き、イエスとともに歩み続けることこそが大切だとも言えるでしょう。ペトロは結局、最後までイエスについていくことができませんでしたから、その意味でもペトロのこの信仰告白は不十分だったと言わざるをえないのかもしれません。
(4) 一方、マタイ福音書ではイエスへの信仰を告白したペトロが祝福されています。17節からの言葉はマタイ福音書だけが伝えるものですが、これらの言葉は、アラム語(イエスが話していた言語)の伝承にさかのぼると言われます。「バルヨナ」はアラム語で「ヨナの子」の意味です。「人間」と訳された言葉は直訳では「血肉」で、これもアラム語的な表現です。18節の「ペトロ」はアラム語の「ケファ」(「岩」の意味)をギリシア語に訳した名前です。ただし、これらの言葉すべてをイエスご自身のものとは言い切れない面もあります。「教会」という言葉は福音書にはほとんど出てきません(この箇所とマタイ18章だけ)。これは復活後の状況の中での言葉ではないでしょうか。ただし「ケファ」という呼び名自体はイエスご自身が付けたものであり、イエスご自身がシモン・ペトロに土台としての役割を与えたということは確かでしょう。
ここで「教会を建てる」というとき、建物のイメージがあります。続く「陰府の力」も直訳では「陰府の門」ですし、それとの関連で「鍵」という言葉も出てくるようです。死者が閉じ込められる場所が陰府で、その門を開けて死者を生き返らせることは神以外のだれにもできないと考えられていました。19節の「天の国の鍵」は天の国にも門があり鍵がある、というイメージでしょう(なお、鍵は複数形です)。ペトロの役割は、単なる門番ではなく、天の国の管理を任されるという大きな役割です。「つなぐ」「解く」という言葉には、ラビ(律法教師)としての判断・判決を表す表現が背景にあるとも言われています。
(5) ところで、マタイ23章13節には、次のようなイエスの言葉があります。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」。教会に与えられた任務はその正反対で、いかにすべての人に対して天の国の門を開くか、ということです。
「天の国」はマタイ的な言い方で「神の国」と同じ意味です。イエスのメッセージの中心はこの神の国の到来でした。神の国とは、神の愛がすべてにおいてすべてとなった状態、人が神との親しいつながりを取り戻すこと、それゆえ人が神の(永遠の)いのちにあずかる者となること。さまざまな表現が可能ですが、この神の国には、イエスと共にもうすでに始まっているという面と、まだ完全には実現していないという面があります。
教会は天の国そのものではありません。しかし、この箇所では教会(ペトロ)に天の国の管理がゆだねられています。それは「権限」というより「使命」と言ったほうがよいのではないでしょうか。わたしたちの教会が本当に神の国の門を開き、人々をそこに招いているかどうかが問われています。
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第一朗読 イザヤ22・19-23
〔主は、宮廷を支配しているシェブナに言われる。〕
19わたしは、お前をその地位から追う。
お前はその職務から退けられる。
20その日には、わたしは、わが僕、ヒルキヤの子エルヤキムを呼び、21彼にお前の衣を着せ、お前の飾り帯を締めさせ、お前に与えられていた支配権を彼の手に渡す。彼はエルサレムの住民とユダの家の父となる。22わたしは彼の肩に、ダビデの家の鍵を置く。彼が開けば、閉じる者はなく、彼が閉じれば、開く者はないであろう。23わたしは、彼を確かなところに打ち込み、かなめとする。彼は、父の家にとって栄光の座に着く。
第二朗読 ローマ11・33-36
33ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
34「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。
だれが主の相談相手であっただろうか。
35だれがまず主に与えて、
その報いを受けるであろうか。」
36すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
福音朗読 マタイ16・13-20
13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」20それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
Posted on 2023/08/18 Fri. 15:00 [edit]
category: 2023年(主日A年)
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