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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第22主日 (2023/9/3 マタイ16章21-27節)  


教会暦と聖書の流れ


 先週のペトロの信仰告白に続く、いわゆる「受難予告」の場面です。先週の箇所で、信仰告白をしたペトロはイエスから祝福され、特別な使命を与えられていましたから、今日の箇所で同じペトロがすぐに厳しく叱責されてしまうのは不自然に感じられるかもしれません。これはマルコ福音書8章の「ペトロの信仰告白、メシアであることの口止め、受難予告」という流れの途中に、マタイがペトロへの祝福と特別な使命授与という別の伝承(16章17-19節)を挿入したためだと考えられます。


福音のヒント


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  (1) 「受難予告」ということを特別な未来予知能力によるものと考える必要はありません。イエスの活動は貧しい人や病人に大きな希望と励ましを与えましたが、逆にファリサイ派の人や律法学者には歓迎されませんでした。律法を基準にして人間をランク付けする考えに対して、イエスはすべての人を例外なく神の子であると見て大切にしました。そのことは、律法の基準の上で社会的にも宗教的にも優位を保っていた人々(エリートや指導者たち)には自分たちの地位を脅かすものと感じられたのです。その人々からの反感と敵意が迫ってきているのをイエスは感じておられたはずです。さらに旧約時代の預言者たちの苦難や洗礼者ヨハネの殉教を考えれば、イエスがこのまま活動を続ければ迫害と死は避けられないと感じたとしても不思議ではありません。
 それでも、イエスは自分の身を守るために、これまでの歩みを変えるということはありませんでした。最後まで、すべての人の父である神への信頼と神の子であるすべての人への愛を貫くのです。「たとえ受難と死が待ち受けていたとしても、この道を行く」、十字架に向かうイエスの決断とはこういうものだったと言えるでしょう。

  (2) 「受難予告」の中には、復活の予告も含まれています。「復活」という考えは旧約聖書の中で、ダニエル書12章やマカバイ記 二 7章(第二正典)に特に明白に現れています。どちらも背景には、紀元前2世紀、セレウコス朝シリア(ヘレニズム王朝)の王アンティオコス4世エピファネスのユダヤ人に対する宗教迫害があります。神に忠実であろうとすればするほどこの世で苦しみを受ける、という現実の中で、神が死を越えて従う者に救いを与えてくださる、と確信するのが復活の信仰です。イエスもまた、あの時代のユダヤ人としてこのような確信を抱いていたのは、当然のことだともと言えるでしょう。
 「必ず・・・ことになっている」はギリシア語の「デイdei」という非人称動詞の訳です。これは必然的に起こることを表すだけでなく、それが神の定めたこと(神の計画)だということを表す言葉です。イエスはこの受難・死・復活に神の計画を見ていたはずです。

  (3)  弟子たちはイエスの受難予告を理解できませんでした。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」というペトロの言葉は、イエスの身を案じての言葉だったのでしょう。あるいは弟子たちは、当時のほかの人々同様、地上で栄光に輝き、勝利を収めるメシア像しか受け入れられなかったのでしょう。イエスはペトロに向かって「サタン、引き下がれ」と言います。これは荒れ野の誘惑の場面で語られた「退け、サタン」(マタイ4章10節)を思わせるような厳しい言い方です。サタンとは人を神から引き離す力のシンボルです。「あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」! 今もわたしたちを神から引き離そうとする力が働いていると感じることがあるのではないでしょうか。

  (4) 受難予告の後、イエスはご自分の受難と復活の道に従うよう、弟子たちを招きます。「自分を捨てる」「自分の十字架を背負う」(24節)とはどういうことでしょうか。十字架刑に処せられる死刑囚は見せしめのために十字架の木をかついで街中を歩かされました。そこから考えると「十字架を背負う」は「苦しみや死」よりも「辱めを受ける」という意味が強いのかもしれません。いずれにせよ、わたしたちにとってそれは何を意味するのか、少しでもこのイエスの言葉に通じる経験を自分の中に探してみて、それを分かち合ってみてはどうでしょう。――我が子や愛する人のために自分を捨てるということはわたしたちの身近にもあることではないでしょうか。避けることのできない自分の苦しみを、ある時、十字架だと受け止めることができて、だからそれを耐え、乗り越えることができたというような体験もあるかもしれません。

  (5) 25節で「命」という言葉は二通りの意味で使われています。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」では「この世の命」と「永遠の命」が対比されています。永遠の命を強調することには、時としてこの世の命を軽視する危険があるかもしれません。「自爆テロ」というのはその最たるものでしょう。「神のため」ということを理由にして、人間の命(他人の命も、自分の命も)を犠牲にしてもよいという考えにわたしたちは絶対に賛成できません。しかし今日の箇所で、この世の命を大切にしながらも、それ以上に大切にすべきものがあると教えていることも確かです。
 25、26節の「永遠の命を得る・失う」というテーマとの関係で、27、28節では世の終わり(終末)についての言葉が伝えられています。イエスも初代教会のキリスト信者も世の終わりがすぐに来る(人の子が現れて世の救いが完成される)という期待を持っていたようです。わたしたちの時代はそれから2000年も経とうとしています。わたしたちにとっては「それがいつか」という時間的なことは問題になりません。むしろ、
 (a) それでもいつか最終的に神の救いが完成する、という希望を持って生きること
 (b) 最終的な神の判断(裁き)を信じながら、今、目先の利害に振り回されず、神に対する信頼と人に対する愛を貫いて生きること
 これがわたしたちのテーマではないでしょうか。それはまた、十字架に向かって歩むイエスご自身の歩みのテーマでもあったと言えるでしょう。




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「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


聖書朗読箇所

第一朗読 エレミヤ20・7-9


7主よ、あなたがわたしを惑わし
わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。
あなたの勝ちです。
わたしは一日中、笑い者にされ、人が皆、わたしを嘲ります。
8わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり
「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。
主の言葉のゆえに、わたしは一日中
恥とそしりを受けねばなりません。
9主の名を口にすまい
もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて
火のように燃え上がります。
押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。
わたしの負けです。


第二朗読 ローマ12・1-2


 1兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。2あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。


福音朗読 マタイ16・21-27


 〔そのとき、〕21イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。22すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」23イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」24それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。25自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。26人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。27人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」

Posted on 2023/08/26 Sat. 09:25 [edit]

category: 2023年(主日A年)

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