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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

待降節第2主日 (2023/12/10 マルコ1章1-8節)  


教会暦と聖書の流れ


 毎年、待降節第2、第3主日のミサの福音には洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネは救い主を待ち望んでいた旧約時代の人々の代表(その最後の人)だと言えるでしょう。大切なのは、洗礼者ヨハネを見つめることではなく、ヨハネが指し示した来(きた)るべき方=イエスを見つめることです。きょうの箇所にはまだイエスが登場しませんが、わたしたちにとって「イエスの到来」は2000年前にすでに起こったことです。教会の暦と聖書朗読配分は、毎年、待降節・降誕節全体をとおして、イエスの到来の意味を深く味わうよう、わたしたちを招いています。


福音のヒント


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  (1) 「神の子イエス・キリストの福音の初め」(1章1節)は、「神の子であり、キリストであるイエスの福音の初め」とも訳すことができます。新共同訳聖書は、ギリシア語の「クリストスchristos」が称号として用いられているときは「メシア」、イエスを指す固有名詞のように用いられているときは「キリスト」と訳し分けていますが、キリストもメシアも「油注がれた者」という意味の言葉で、「神から特別な使命を与えられて遣わされた方=救い主」を指します。1章1節はマルコ福音書の冒頭の言葉ですが、福音書全体のテーマを表す言葉だとも言えるでしょう。この福音書はイエスが「神の子」であり、「キリスト」であるということを伝えようとしています(8章29節、15章39節参照)。そして、マルコがそのことを伝えるためにとった方法は、ヨルダン川での洗礼に始まり、イエスがどのように歩まれたかを物語ることでした。十字架の死に至るイエスの歩みをていねいに見つめれば、イエスが「神の子、キリスト」であることが分かると言いたいかのようです。

  (2) 「イエスの福音の初め」と言いながら、マルコはまず初めに旧約聖書の2つの箇所を引用し、洗礼者ヨハネの活動を紹介します(なお、「預言者イザヤの書に」とありますが、実際には後半だけがイザヤ40章3節から採られた言葉で、前半はマラキ3章1節の引用です)。マルコは洗礼者ヨハネの活動を単なる人間の活動ではなく、洗礼者ヨハネの登場を神の計画(=神が昔から準備していたこと)と見ています。そして、ヨハネとイエスはこの同じ神の計画の中にいるのです。そういう意味では「イエスの福音」は洗礼者ヨハネとともに始まっていると言えるのでしょう。なおここで「イエスの福音」とは「イエスが告げ知らせた良い知らせ」(マルコ1章14節参照)という意味だけでなく、「イエスの到来、活動、生涯すべてをとおして告げられた神からの良い知らせ」という意味でもあります。

  (3) 洗礼者ヨハネは「悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。「洗礼」(ギリシア語で「バプティスマbaptisma」)の元の意味は「水に沈めること」「水に浸すこと」です。実際、洗礼者ヨハネの洗礼も古代のキリスト教の洗礼も人の全身を水の中に沈めるものでした。いったん水の中に沈み、そこから立ち上がることは、神から離れている古い自分に死んで、神によって生きる新たないのちに生まれ変わることを意味していました。その意味で、洗礼者ヨハネにとって「洗礼」は「悔い改め(回心)」のしるしだったのです。
 ヨハネが「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め」ていたのは、列王記下1章8節に伝えられる預言者エリヤの姿と同じです。洗礼者ヨハネは「荒れ野」にいて、「いなごと野蜜を食べ」ていました。つまり、ほとんど断食の日々を送っていたことになります。彼は神の裁きに備えて、人々に回心することを呼びかける預言者だったのです。
 「聖霊で洗礼を」(8節)の「霊」はギリシア語で「プネウマpneuma」と言います。マタイやルカでは「聖霊と火による洗礼」となっていますが、これは本来、「風(プネウマ)に飛ばされ火で焼かれるもみ殻」のイメージだったようです(A年待降節第2主日の「福音のヒント」参照)。洗礼者ヨハネが予想していた「来るべき方」は神の裁きをもたらす方でした。しかしキリスト教は、実際に到来したイエスの姿に合わせて洗礼者ヨハネの言葉を解釈し直しました。キリスト教にとって、「聖霊で洗礼を授ける」は「聖霊に浸す」というイメージなのです。古代の人々は目に見えない大きな力を感じたときそれを「霊=プネウマ」と呼び、それが「神からの力」であれば「聖霊」と表現しました。聖霊の基本的な働きは、神と人とを結び合わせることです。キリスト教の洗礼とは単なる回心のしるしではなく、「人を神に結びつけ、神の子とし、神のいのちにあずからせる」ものです。

  (4) イエスが到来するまで、イスラエルには多くの苦難の歴史がありました。その中で、イスラエルの人々は神が遠くにいると感じざるをえなかったでしょう。そこには「自分たちの罪が神と自分たちの間を引き離している」という面と「神は苦しむ人々をほうっておかれているのではないか」という面の両面がありました。2000年前の「イエスの到来」はこの旧約時代の人々の救いへの飢え渇きを満たすものでした。2000年前にイエスが来て、確かに決定的な救いのわざを行ない、神と人とが1つに結ばれる道が開かれた、とわたしたちは信じています。しかし、わたしたちの中に神の救いが完全に実現しているとも言えません。だからこそ、いつか神との決定的な出会いの時がある、これがキリスト教の「終末(=キリストが再び来られる時)」についての確信です。
 それは裁きの時でしょうか、救いの完成の時でしょうか。新約聖書の中に両方の表現が見られます。確かなことは使徒パウロが述べた以下のことです。「そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリント13章12-13節)。なぜなら「愛は決して滅びない」(同13章8節)からです。わたしたちにとって回心とは、この最終的な神との出会いに向けての回心なのです。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ40・1-5、9-11


1慰めよ、わたしの民を慰めよと
あなたたちの神は言われる。
2エルサレムの心に語りかけ
彼女に呼びかけよ
苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。
罪のすべてに倍する報いを
主の御手から受けた、と。
3呼びかける声がある。
主のために、荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。
4谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。
険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。
5主の栄光がこうして現れるのを
肉なる者は共に見る。
主の口が〔そう〕宣言される。


第二朗読 二ペトロ3・8-14


 8愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。9ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。10主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。11このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。12神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。13しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。
 14だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。


福音朗読 マルコ1・1-8


1神の子イエス・キリストの福音の初め。
 2預言者イザヤの書にこう書いてある。
 「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
 あなたの道を準備させよう。
 3荒れ野で叫ぶ者の声がする。
 『主の道を整え、
 その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。5ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。6ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。7彼はこう宣べ伝えた。
「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

Posted on 2023/12/01 Fri. 08:30 [edit]

category: 2024年(主日B年)

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