福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第12主日 (2016/6/19 ルカ9章18-24節)  


教会暦と聖書の流れ


 この箇所は、いわゆる「ペトロの信仰告白」と「最初の受難予告」の箇所です。B年年間第24主日に読まれるマルコ8章27-35節やA年年間第21、22主日に読まれるマタイ16章13-27節に並行した箇所です。ルカ福音書とマタイ福音書は、マルコ福音書を基にしながら、少しずつ違う仕方で自分の福音書を書きました。ここでは、マルコやマタイの福音書との違いに注目しながら、ルカの特徴を見ていきましょう。


福音のヒント


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  (1) 18節「イエスがひとりで祈っておられた」と伝えているのは、ルカ福音書の特徴です。ルカはさまざまな場面、特に重大な場面でイエスの祈る姿を伝えています(3章21節、5章16節、6章12節、9章28節、11章1節、22章41節など)。ここでもご自分が誰であるかを弟子たちに問いかけ、これからのご自分の歩みを弟子たちに予告するという非常に大切なことを行なう前にイエスは祈ります。祈りの中で神のみ旨(望み)を確認しようとしているかのようです。
 イエスについてのうわさのことは少し前の7-9節にもほとんど同じ言葉で伝えられています。そこでもイエスは、「ヨハネ」「エリヤ」「だれか昔の預言者」の再来ではないか、と言われていました。「ヨハネ」は洗礼者ヨハネのこと、「エリヤ」は紀元前9世紀に北イスラエルで活動した預言者です。さまざまな奇跡物語などによって民衆に親しまれていた預言者ですが、生涯の終わりに火の車に乗って天に上げられたと伝えられています(列王記下2章)。そこから、エリヤは決定的な神の裁きの時に再び天から遣わされると信じられるようになりました(マラキ3章23節参照)。

  (2) ほとんど同じ言葉で伝えられているイエスについてのうわさの話、この2つの箇所の間に、5つのパンと2匹の魚を5,000人の人に分けた出来事があります(9章10-17節。なお、この箇所はC年の「キリストの聖体」の祭日のミサの福音でもあります)。そのように見ると、5つのパンと2匹の魚の出来事とは、「イエスとは本当にどういう方か」を示す出来事だったとも言えるでしょう。この出来事を通して、イエスこそが人々に豊かないのちを与える救い主なのだということが明らかにされるのです。
 食事をとおして、イエスがどのような方が明らかにされるということは、復活後にエマオの弟子たちと共にした食事でも起こることです。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かった・・・」(ルカ24章30-31節)

  (3) ペトロの答えは「あなたは、神からのメシアです」というものでした。「メシア」はアラム語で、この箇所のギリシア語原文は「クリストスchristos(=キリスト)」です。新共同訳聖書では、この「クリストス」が称号として使われている場合は「メシア」と訳しています。どちらも「油注がれた者」の意味で、神が決定的に世に遣わされる救い主を意味する言葉です。
 また、「神からのメシア」と訳されている言葉は「神のメシア」と訳すこともできます。ルカは「神から油を注がれた救い主」という意味で、こう言っているのでしょう。なお、マルコ8章29節(この箇所の並行箇所)では、ただ単に「あなたはクリストスです」と言われているだけです。またマタイ16章16節では、「あなたはクリストス、生ける神の子です」と言われていて、その後にペトロに向けた特別な言葉が続いています。有名なペトロの信仰告白の言葉ですが、3つの福音書の間にはこのように微妙な違いがあります。

  (4) 22節の「人の子」はもともと「人間一般」を指す言葉でしたが、ダニエル7章13節から、神が遣わす決定的な「ある方」を指すようになりました。福音書の中では、この箇所のようにイエスがご自分のことを指して「人の子」と言っている箇所があります。
 「~ことになっている」と訳された言葉は、ギリシア語では「デイdei」という非人称動詞で、「~ねばならない」とも訳されます。これは神の計画の中で定められたことを意味しています。マルコ8章32-34節やマタイ16章22-23節には、受難を予告するイエスをペトロがいさめ、イエスに叱られる話がありますが、ルカ福音書にはありません。また、マルコやマタイでは、三度目の受難予告の後で、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ(あるいはその母)がイエスに高い地位を願った話がありますが、ルカはそれも省いています。ルカは、イエスの弟子たち(すなわち、初代教会の指導者たち)に対する尊敬の気持ちからこれらの話を省いたのでしょうか。

  (5) 23節の「日々」はルカの特徴で、マルコやマタイにはありません。十字架を背負ってイエスに従うことは、一生に一度のことではなく、毎日のことであることが強調されています。「自分を捨て」「十字架を背負って」「従う」はそれぞれ別々のことではなく、すべて同じことを指しています。そのどれもがイエスの生き方に結ばれて生きることなのです。わたしたちにとって「日々十字架を背負う」とはどういうことでしょうか。
 24節では、同じ「命」という言葉が、「この世の命(滅びゆく運命にある肉体的な生命)」と「終わりのときに神から与えられえる永遠の命」という2つ意味で使われています。くわしく言えばこういうことになります。「自分の(この世の)命を救いたいと思う者は、それ(=本当の自分の命=永遠の命)を失うが、わたしのために自分の(この世の)命を失う者は、それ(=本当の自分の命)を救うのである(つまり、永遠の命を得ることになる)」。




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聖書朗読箇所

第一朗読 ゼカリヤ12・10-11、13・1


 12・10〔主は言われる。〕「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。11その日、エルサレムにはメギド平野におけるハダド・リモンの嘆きのように大きな嘆きが起こる。
 13・1その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。」


第二朗読 ガラテヤ3・26-29


 26〔皆さん、〕あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。27洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。28そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。29あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。


福音朗読 ルカ9・18-24


 18イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。19弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」20イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
 21イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、22次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」23それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。24自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」

Posted on 2016/06/10 Fri. 07:00 [edit]

category: 2016年(主日C年)

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