福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第27主日 (2016/10/2 ルカ17章5-10節)  


教会暦と聖書の流れ


 エルサレムへの旅の段落の中で、ルカは他の福音書にない独自の伝承(イエスについての言い伝え)を数多く伝えていますが、きょうの箇所の少し前からは、マタイ福音書と共通する話がかなり多くあります(1-2節はマタイ18章6-7節に、3-4節はマタイ18章21-22節に、5-6節はマタイ17章20節によく似ています)。新共同訳聖書がルカ17章の1-10節に「赦し、信仰、奉仕」という小見出しを付けているように、ここにはいくつかのテーマが並んでいますが、本来、1-2節、3-4節、5-6節、7-10節は別々の伝承だったと考えたほうがよいでしょう。イエスの弟子としてふさわしい生き方はどういうものかを教える言葉として、さまざまな場面で語られた言葉が集められたもののようです。


福音のヒント


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  (1) からし種は1~2ミリの小さな種で、とても小さなもののたとえです。桑の木が海に生えるというのは大きなことのたとえです。なぜそんな小さな信仰で大きなことが可能になるのでしょうか。ただ頭で考えるよりも、みことばを自分の体験と照らし合わせてみることが大切でしょう。「信仰があれば不可能なことは何もない」と感じたことがありますか。それはどんなときですか。逆に「信じてもうまくいかなかった」という体験もあるでしょうか。それはどんなときでしょうか。

  (2) 「わたしどもの信仰を増してください」と信仰の「量」を問題にした弟子たちに対して、イエスは「からし種」の話をしています。それは「信仰とは量や大きさの問題ではないのだ」と言うことでしょうか。信仰の力とは「信じるとその人に不思議な力が備わる」というようなものではなく、「信じて神にゆだねたときに、神が働いてくださる」ということだと言えるでしょう。だからこそすべてが可能になるのです。
 福音書の中で「神を信じる」というのは「神は存在すると思っている」ということではありません。イエスの出会った人、イエスの周りにいた人は、だれも神の存在を疑っていませんでした。神を信じるとは「神の存在についての考え方」の問題ではなく、「神に信頼を置いて生きるかどうかという生き方」の問題だったのです。

  (3) 信仰の世界は、自分が自分の力でこれだけのことを成し遂げた、という世界ではありません。神が働いていてくださる。そこに自分をゆだねていく、という世界です。だから自分は何もしなくていい、というのではなく、だから自分にできる精一杯のことをしていこう、ということになるのです。本気でそう思えば、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(10節)と言えるのでしょう。
 わたしたちは「自分の力でなんとかしなければならない」という世界に生きています。「能力と努力がすべてを可能にするはずで、うまくいかないのは能力や努力が足りないからだ」と考えるような世界です。しかし、そういう考えはどれほど多くの人を行き詰らせてしまっているでしょうか。人間は、自分の能力と努力で生まれてきたのではありません。生まれた子どもは自分の能力と努力で育っていくのではありません。むしろ、周囲の人々の愛の中で、そしていのちの与え主である神の愛の中で生き、成長していくのです。
 
  (4) 1-10節で、別々の伝承がつなぎ合わされているのだとすると、そもそも、なぜ使徒たちが「わたしどもの信仰を増してください」(5節)と言ったのかは分からないことになります。しかし、わたしたちも同じような言葉を言いたくなることがあるのではないでしょうか。それはどんなときでしょうか。自分たちの今の状況、自分たちの直面している問題に当てはめながら、この箇所を読んでみることもできるでしょう。
 3-4節の「ゆるし」のテーマとつなげて考えることも一つのヒントになるかもしれません。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦(ゆる)してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、ゆるしてやりなさい」。こう言われても、実際には非常にむずかしいと感じることがあるでしょう。そして、この「ゆるせない」ことを「信仰が足りない」ことだと感じることもあるのではないでしょうか。だとすると、イエスの答えは、大きな信仰があればゆるせるはずだ、というよりも、ゆるしの力は神から来る、その神の力を信頼の心をもって受け取ることが大切なのだ、という意味になるのではないでしょうか。
 さらに「わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです」という言葉も、人が人をゆるす、ということと関連づけて受け取ることができるかもしれません。わたしたちは神にゆるされ、だからこそゆるし合うことができるのだとすれば、人が人をゆるすということは、まさに「しなければならないことをしただけ」ということになります。

  (5) 「人が人をゆるす」ということはどんなときに可能なのでしょうか。いくつかのヒントをあげてみます。思い当たることがありますか。
 (a) 自分に対して罪を犯した人間が、その罪の痛みを本当に感じていると分かったとき。心からの謝罪をしていると感じたとき(逆に言えば、悪いことをした人が、反省も痛みもなく平気で生きていることがゆるしがたいわけですね)。
 (b) 相手の弱さを感じたとき。その人がしたことはとんでもないことだが、その人がなぜそれほど悪いことをしたかを理解できるとき。その人が過去にどんな傷を受けてきたかとか、その中でどんなふうに人格がゆがんで、ああいう行動に走ったのかというようなことが理解できると思えたとき。
 (c) ひどいことをした人に対して、それでもその人との関係を持ち続けたいと願うとき。
 (d) 罪びとである自分自身が本当に神にゆるされていると感じる体験をしたとき。
 他にもあるかもしれません。現実には「ゆるす」ことは難しいに決まっています。でも、「ゆるせない」と嘆いてばかりいるよりも、「ゆるせた」「ゆるしてもらった」という体験を分かち合ったほうが、たぶん何倍も役に立つに違いありません。
 




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。
 ダウンロードファイルはPDFのみになりました。


聖書朗読箇所

第一朗読 ハバクク1・2-3、2・2-4


1・2主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに
 いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。
 わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに
 あなたは助けてくださらない。
3どうして、あなたはわたしに災いを見させ
 労苦に目を留めさせられるのか。
 暴虐と不法がわたしの前にあり
 争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。

2・2主はわたしに答えて、言われた。
 「幻を書き記せ。
 走りながらでも読めるように
 板の上にはっきりと記せ。
3定められた時のために
 もうひとつの幻があるからだ。
 それは終わりの時に向かって急ぐ。
 人を欺くことはない。
 たとえ、遅くなっても、待っておれ。
 それは必ず来る、遅れることはない。
4見よ、高慢な者を。
 彼の心は正しくありえない。
 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」


第二朗読 二テモテ1・6-8


 6〔愛する者よ、〕わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。7神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。8だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを忍んでください。


福音朗読 ルカ17・5-10


 5使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、6主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
 7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

Posted on 2016/09/22 Thu. 08:00 [edit]

category: 2016年(主日C年)

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