福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第30主日(2016/10/23 ルカ18章9-14節)  


教会暦と聖書の流れ


 エルサレムへの旅の段落の中にあるたとえ話で、この話もルカ福音書だけが伝えているものです。先週の箇所(やもめと裁判官のたとえ話。ルカ18章1-8節)との関連を考えれば、祈りについての教えが継続していると言うこともできるでしょう。


福音のヒント


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  (1) ファリサイ派はイエス時代のユダヤ教の一派で、律法と口伝(くでん)律法を重んじ、忠実にそれを守ろうとしていたグループでした。「口伝律法」とは、聖書の律法を現実の生活に適用するために律法学者たちが作り上げた多くの解釈のことです。「ファリサイ」という言葉は「分離する」という意味の言葉から来たと言われます。彼らは自分たちを「律法を知らない汚(けが)れた民衆から分離した者」と考えていました。
 一方の徴税人は、ユダヤ人でありながら、ローマ帝国の税金徴収という仕事を引き受け、その仕事によって富を得ていた人たちです。彼らは福音書の中で罪びとの代表のように言われていますが、それは彼らが税の取り立てに関して不正を働いていたと考えられたからです。また、そもそも民族の裏切り者として忌み嫌われていた面もあります。当時のユダヤ社会の中ではどちらが「正しい人」でどちらが「罪びと」であるかは明白でした。

  (2) 14節にある「義とされる」という言葉は、パウロの手紙の中によく見られる言葉ですが、福音書の中ではあまり多く使われていません。「義とする」はギリシア語の「ディカイオオーdikaioo」という言葉の直訳ですが、聖書の中で語られる「義」(ギリシア語では「ディカイオシュネーdikaiosyne」)は「人間的な正しさ」という以前に、根本には「神の義」という考えがあります。「人が義とされる」は「人が神の義にあずかる」こと、もっと分かりやすく言えば「神に受け入れられる」ということです。人間的な見方ではなく、神との関係という点では、この徴税人のほうが正しいあり方なのだとイエスは言うのです。それはなぜでしょうか。
 ファリサイ派の人の「うぬぼれ」の根拠は、結局のところ他人との比較でした。普通の人よりも自分はちゃんとやっている、ましてこの徴税人なんかとは比べ物にならないほど正しい人間だ、ということです。しかし、人と比較して神の前に自分を誇っても何の意味もありません。そのような姿勢は神との関わりを妨げてしまうだけです。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下して」いるとき、人との関係も絶たれてしまいます。人間は互いに助け合い、支えあって生きる者であるはずなのに、周りの人は競争相手になってしまい、弱い人への共感を見失うからです。

  (3) イエスの言葉は、わたしたちの自己評価に挑戦してきます。わたしたちが、「自分はチャンとやっている」と感じているとするならば、それは他の人と比べてのことではないでしょうか。「自分はぜんぜんダメだ」と感じているならば、それも人と比較してのことではないでしょうか。わたしたちはあまりにも「比較と競争」の世界に毒されているのかもしれません。
 この社会は、人を果てしない競争へと駆り立てる社会です。その中でわたしたちはどれほどストレスを抱えていることでしょうか、そしてどれほど多くの人が行き詰ってしまっているでしょうか。確かに「社会は競争なのだから、生きていくためにこの競争を降りることはできない」という人は多いでしょう。かと言って、人生が競争だけになれば、人生はまったく悲惨なものになってしまうでしょう。「競争よりももっと大切なものがある、それを見失わないこと」きょうの福音はそう呼びかけているのではないでしょうか。
 わたしは神の前に立つ。どうしようもなく限界や弱さを抱えているけれども、神がそのわたしを愛し、生かしてくださっているのを感じる。そのとき、優越感と劣等感の間でもがき苦しむところから解放されていく。わたしたちの中にそういう体験があるでしょうか。

  (4) 祈りとはありのままの自分を神の前に差し出すことです。そこでは人との比較は役に立ちません。「あの人もしていたから、わたしもこうしました」とか「この人にはかなわないけれど、別の人よりはましです」そういうことは何の意味もない世界なのです。「自分の小ささを認めて神の前にへりくだるとき、神は本当に自分を受け入れ、愛してくださる」。そういう祈りの体験がありますか。
 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」の「へりくだる」は、直訳では「自分を低くする」です。「自分を低くする」とはどういうことでしょうか。それは表面的に謙遜を装うということではないでしょう。また、「自分なんか何の価値もない。生きるに値しないダメな人間だ」と思い込むことでもないでしょう。むしろ、自分のありのままの姿を見つめるということではないでしょうか。それは決して簡単なことではありません。わたしたちの中に、本当の自分以上に自分のことをよく思いたいという部分がありますが、それは幻想の中を生きることです。逆に本当の自分以下にしか、自分の価値を見いだせず、自尊心を見失い、極度に低い自己評価を持っているとしたら、それも幻想です。自分自身のありのままを認めることは、わたしたちが、神の前に自分を置いてみるときに初めて可能になるのではないでしょうか。

  (5) 「罪人(びと)であるわたし」という言葉にどんな現実感があるでしょうか。もちろん、自分に特別大きな罪があると思っているならば、自然にそう感じられるかもしれません。この徴税人にはそういう罪意識がありましたが、わたしたちは自分がそれほど悪いことをしているという意識がない場合も多いのです。そのわたしを罪びとだと感じるのは難しいでしょうか。「罪」とは、神から離れることです。神から遠く離れてしまっている自分を感じること、神の前に立つのにふさわしくないという感覚、それが「罪の感覚」だと言えるかもしれません。そして、それは漫然と生活しているだけでなく、本気で神に近づこう、キリストに従っていこうとした時にこそ感じることだとも言えるでしょう。




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聖書朗読箇所

第一朗読 シラ35・15b-17, 20-22a


15主は裁く方であり、
 人を偏り見られることはない。
16貧しいからといって主はえこひいきされないが、
 虐げられている者の祈りを聞き入れられる。
17主はみなしごの願いを無視されず、
 やもめの訴える苦情を顧みられる。
20御旨に従って主に仕える人は受け入れられ、
 その祈りは雲にまで届く。
21謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、
 それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。
 彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、
22正しい人々のために裁きをなし、
   正義を行われるときまで。


第二朗読 二テモテ4・6-8, 16-18


 6〔愛する者よ、〕わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。7わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。8今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
 16わたしの最初の弁明のときには、だれも助けてくれず、皆わたしを見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。17しかし、わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。そして、わたしは獅子の口から救われました。18主はわたしをすべての悪い業から助け出し、天にある御自分の国へ救い入れてくださいます。主に栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


福音朗読 ルカ18・9-14


 9〔そのとき、〕自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」


Posted on 2016/10/13 Thu. 16:58 [edit]

category: 2016年(主日C年)

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