福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

四旬節第5主日 (2017/4/2 ヨハネ11章1-45節)  


教会暦と聖書の流れ


  四旬節第3~第5主日(A年)に読まれる、伝統的な洗礼志願者のための朗読箇所(ヨハネ4章、9章、11章)の3番目の箇所です。これらの箇所は、洗礼志願者がイエスとの出会いを深め、信仰の決断をするのを助けるために選ばれています。きょうの箇所は、病人であったベタニアのラザロが「死からいのちへ」と移されていく話です(今回もまた『聖書と典礼』の短い形ではなく、伝統的な長い形に基づいて話を進めます)。


福音のヒント


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  (1) ラザロの「よみがえり」は、イエスの復活とは違います。ラザロは地上のいのちに戻されますが、それはいつかまた死ぬことになるいのちです。これに対して、イエス・キリストの復活のいのちは、神の永遠のいのちであり、決して滅びることなく、今もいつも生きているいのちです。このような違いはありますが、それでもこの物語の中に「死からいのちへ」という「過越(すぎこし)」のイメージがはっきりと示され、この中でイエスが「復活であり、いのちである」(25節)ことが宣言されます。
 なお、この出来事は、ヨハネ福音書の物語の展開の中で、イエスの受難と密接に結びついています。死者を生き返らせたことでイエスの評判が広まることに危機感を抱いた人々は、イエスをこのまま放っておけない、と考えてイエスを抹殺しようとするのです(ヨハネ11章45-53節、12章9-11,17-19節参照)。

  (2) ベタニアという町は、エルサレムの近くにあります(18節「15スタディオン」は3km弱)。ルカ福音書10章38-42節にも「マルタとマリア」という姉妹が登場しますが、彼女たちの村はガリラヤの近くのようです。それでも、ヨハネ11章の「マルタとマリア」とルカ10章に登場する姉妹の性格には、ある共通点があります。ルカでもヨハネでも、イエスを迎えるのはマルタですし、マルタのほうがマリアより行動的だという印象があります。
 2節では「このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である」と紹介されています。ヨハネ福音書ではその話は後の12章にありますから、少しおかしな紹介の仕方でしょう。ヨハネ福音書は、誰もが知っているあまりにも有名な話だからこう言うのでしょうか。あるいはルカ7章36-50節でイエスの足に香油を塗り、その髪でぬぐった女性の話を周知のこととして前提にしているのでしょうか。

  (3) 3節の「愛する」はギリシア語では「フィレオーphileo」という動詞で、人間的な親愛の情(友としての愛)を表す言葉です。36節の「愛する」も「フィレオー」です。一方、5節の「愛する」は「アガパオーagapao」で「神の愛」というときに使われる言葉です。そのものを無条件に大切にする愛を表します。ヨハネ福音書はイエスの愛が、単なる人間的な愛着とは違うと言いたいのでしょうか。「栄光のため」「栄光を受ける」(4節)は先週の福音の「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9章3節)と似ています。「ため」は目的を表すというよりも、これから神がこの人に救いの働きをなさり、そのことを通して神とイエスの真の姿(素晴らしさ)が輝き出る、という確信を表している言葉でしょう。

  (4) 6節の「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」から16節の「すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『私たちも行って、一緒に死のうではないか』と言った」までの展開は少し不自然に感じられるかもしれません。7~10節と16節だけを取り出してみれば、ラザロの物語とは関係ない別の物語と考えることもできます(イエスは危険に満ちたユダヤに赴くが、トマスはそのイエスに従う決意を表す、という話)。ラザロの物語の中の空白の数日間を埋めるために、別の言い伝えが挿入されたのでしょうか。とにかくイエスが到着する前に、ラザロは死んでしまいました。

  (5) マルタの言葉「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」はイエスに向かって不平を言っているように聞こえます。しかし、おそらくだれでもそんなふうに言いたくなった経験があるのではないでしょうか。「主よ、もしあなたがいてくださったら、こんなにひどいことは起こらなかったでしょうに!」。ルカ10章40節のマルタの言葉「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」これも不平の言葉ですが、わたしたちも同じように「主よ、こんなにひどい現実があるのに、それを何ともお思いにならないのですか!」と叫びたくなることがあるかもしれません。マルタはただ不満を抱くのではなく、それをイエスにぶつけます。それはマルタなりの「祈り」だと言ってもいいかもしれません。そして、イエスとの対話の中で、マルタは本当に大切なイエスからの答えをいただくのです(ルカ10章でもそうでした)。自分の思いを率直にイエスにぶつけていくマルタの姿勢、ここにはわたしたちの祈りのためのヒントがあるかもしれません。

  (6) この物語の中で特に印象的なのは「イエスは涙を流された」(35節)という言葉です。福音書の中でイエスが泣いたと記されているのは、ルカ19章41節とこの箇所だけです。33節と38節で「心に憤りを覚え」と訳されている言葉も、大きな感情の動きを表す言葉です(新共同訳聖書がこれを「憤り」と訳すのは、「死と滅びの力に対する憤り」の意味でしょう)。さらに、死んで、聞く耳を持たないはずのラザロに向かって「ラザロ、出てきなさい」と叫ぶ姿にも、イエスの激しい思いが感じられないでしょうか。
 ヨハネ福音書が伝える「神的な力を持ったイエス」と「人間的な弱さや感情を持ったイエス」(4章でもそうでした)、この2つの面は切り離せません。ラザロのよみがえりは、単なる超能力による奇跡ではなく、イエスの深いコンパッション(compassion 共感)から起こる出来事なのです。いや、むしろこのコンパッションの中にこそ、「死を超えるいのち」が輝くと言えるのかもしれません。・・・わたしたちも人の苦しみにどれくらい敏感であるかが問われています。




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聖書朗読箇所

第一朗読 エゼキエル37・12-14


 12それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。13わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。14また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる。


第二朗読 ローマ8・8-11


 〔皆さん、〕肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。9神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。10キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。


福音朗読 ヨハネ11・1-45


 1ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。2このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。3姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。7それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」8弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」9イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。10しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」11こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」12弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。13イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。14そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。15わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」16すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
 17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
 28マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。29マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。30イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。31家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。32マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、34言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。35イエスは涙を流された。36ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
 38イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」43こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
 45マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。


Posted on 2017/03/24 Fri. 08:50 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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