福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

受難の主日 (2017/4/9 マタイ27章11-54節)  


教会暦と聖書の流れ


 教会の暦では、きょうから始まる聖週間のうち、聖木曜日・主の晩さんの夕べのミサから復活の主日までを「聖なる過越の三日間」と呼び、年に一度、特別に3日間かけて、キリストの受難・死から復活のいのちへの移行、すなわち「過越(すぎこし)=パスカ」を記念します。この中の聖金曜日の典礼で、毎年ヨハネ福音書からの受難朗読が行われます。一方、主日のミサのサイクルでも、キリストの生涯の主な出来事を記念していくので、復活の主日の直前の日曜日に、イエスの受難を記念することになっています。これが受難の主日です。受難の主日には3年周期でマタイ、マルコ、ルカ福音書からの受難朗読が行われます(今年はマタイで、長い形としてマタイ26章14節~27章66節を読むこともできます)。
 なお、この日のミサの開祭の部分で枝を用いて「主のエルサレム入城」が記念されます。


福音のヒント


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  (1) マタイ福音書の受難物語は、マルコ福音書の受難物語を基にしていて、それにいくつかの独自の伝承を加えています。この箇所で、マタイが付け加えた伝承は、19節のピラトの妻からの伝言、24-25節のピラトと民衆のやりとり、さらに51-53節で神殿の垂れ幕が裂けた後の出来事です。19、24-25節では、イエスが無罪であること、イエスの死の責任はローマ人であるピラトにではなく、むしろユダヤ人にあることが強調されているようです。そこには、マタイ福音書が書かれたころのキリスト教とユダヤ教との対立、ローマ帝国によるキリスト教への迫害などの事情が反映しているのかもしれません(ローマ帝国と敵対しない配慮が必要だったのでしょう)。なお、イエスの裁判はイエスの殺害を正当化するために行われたもので、裁判からは「イエスがなぜ死刑にならなければならなかったか」は見えてきません。イエスは裁判で自分を神の子であると言ったから死に定められたのではなく、イエスのこれまでの活動とメッセージ全体が当時のユダヤ人指導者たちの目に危険なものと映ったから死に追いやられていったのです(51-53節については後で述べます)。

  (2) 40-43節で十字架につけられたイエスをののしる人々の言葉「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」は、マルコ福音書よりもくわしくなっています。この言葉は、イエスの宣教活動に先立つ荒れ野での悪魔の誘惑を思い出させます。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある」(マタイ4章6節)。
 自分の身を守る(自分を救う)ことは一般的には悪いことではないはずです。しかし、ここで問題なのは、それがこの場合には人を神から引き離す誘惑であるからです。荒れ野でイエスは自分を神から引き離す誘惑を拒否しました。最後の苦しみの中でも同じようにしたのです。ただ「悪いことをするかしないか」という面だけで誘惑を考えるのではなく、「わたしたちを神から引き離そうとするものは何か」と考えると、自分の問題としての誘惑が見えてくるのではないでしょうか。

  (3) イエスをののしった人々のこの言葉はまた、詩編22編をも思い出させます。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」(詩編22編9節) マタイの受難物語の背景には、この詩編があります(マルコも同じですが)。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は詩編22の冒頭の言葉です。「くじを引いてその服を分け合い」(マタイ27章35節)は、詩編22編18-19節「骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」を思い出させます。
 詩編22は苦しみのどん底からの祈りですが、単に苦しみの叫びでは終わりません。苦しみの中からの祈りは、次第に賛美と感謝に変わっていきます。それは「主は貧しい人の苦しみを/決して侮(あなど)らず、さげすまれません。御顔(みかお)を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます」(25節)と確信しているからです。この詩編はイエスの時代まで、何世代にも渡って苦しみのどん底にいる人々によって歌い継がれ、イエスの後にも、多くの人がこの詩を自分の祈りとして歌い続けてきました。イエスもまたその人々の一員になったと言うことができるのでしょう。
 マタイは、イエスの十字架を神からも見捨てられたような悲惨な死であるというだけでなく、そこに、徹底して苦しむすべての人とのつながりを生き、同時に神に従って生きる姿を見ています。苦しみの中にあるときに、神から離れ、人からも孤立してしまうのか、それとも、苦しみの中で、神につながり、人とつながって生きるのか、それはわたしたちにとっても大切なテーマなのではないでしょうか。

  (4) 51節の「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」はマルコ福音書も伝える出来事で、神と人との間を隔てているものが取り払われることを暗示しています。51節後半-53節「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」は、マタイ福音書だけが伝える不思議な話です。この出来事が指し示しているのは、イエスの復活がイエス個人だけに意味のあることではなかったということでしょう。イエスの受難だけでなく、イエスの復活にもすべての人との連帯性があるのです。復活とは、神とのきずなの完成であり、同時に人とのきずなの完成です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)と約束されるイエスは、わたしたちが死に臨むときも、さらに死を超えても、常に共にいてくださる方です。ここにわたしたちの希望の根拠があります。




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聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ50・4-7


4主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え
疲れた人を励ますように
言葉を呼び覚ましてくださる。
朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし
弟子として聞き従うようにしてくださる。
5主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
6打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
7主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない。
わたしは顔を硬い石のようにする。
わたしは知っている
わたしが辱められることはない、と。


第二朗読 フィリピ2・6-11


 6〔イエス・〕キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。


福音朗読 マタイ27・11-54


 11さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。12祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。13するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。14それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
 15ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。16そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。17ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」18人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。19一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」20しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。21そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。22ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。23ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。24ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」25民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」26そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
 27それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。28そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、29茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。30また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。31このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
 32兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。33そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、34苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。35彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、36そこに座って見張りをしていた。37イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。38折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。39そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、40言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」41同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。42「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。43神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」44一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。
 45さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。47そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。48そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。49ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。50しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。51そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。53そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。54百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

Posted on 2017/04/01 Sat. 08:30 [edit]

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