福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

三位一体の主日 (2017/6/11 ヨハネ3章16-18節)  


教会暦と聖書の流れ


 聖霊降臨の主日で復活節は終わりましたが、次の日曜日は「三位一体の主日」という特別な祭日になっています。教会の暦は、四旬節から復活節という約3ヶ月間をかけて、イエスの受難、死、復活、昇天、聖霊降臨を記念してきました。その余韻のようなこの祝日は、「三位一体」という神学的な教えを考える日というよりも、イエスの受難・死を見つめ、その復活を知り、聖霊降臨を祝ったわたしたちが、神の大きな救いの出来事を振り返り、父と子と聖霊の働き全体を味わう日だと考えればよいでしょう。


福音のヒント


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  (1) 福音の箇所は、非常に短い箇所です。ヨハネ福音書3章1節から始まったイエスとニコデモというファリサイ派の議員との対話の中で語られる言葉です。ギリシア語原文には、会話文を示す「 」(かぎカッコ)のような記号はありませんから、10節から始まったイエスのニコデモに対する言葉がどこまで続いているかは、内容から判断するしかありません。新共同訳聖書は21節までをイエスの言葉として全体を「 」の中に入れていますが、16節からは福音記者の文章(地の文)と考えることもできます。朗読聖書に「そのとき、イエスは言われた」という冒頭の言葉がないのは、こちらの考えからです。

  (2) 14-15節と16節は以下のように対応しています(ここでは、比較のために少し直訳的な表現にしてあります)。
 14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
 15   それは、信じる者が皆、彼によって永遠の命を得るためである。
 16a 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
 16b   彼を信じる者が皆滅びないで、永遠の命を得るためである。
 15と16bはほとんど同じですので、14と16aも関連がありそうです。「人の子が上げられる」には「天に上げられる」と同時に「十字架の木の上に上げられる」という意味が含まれています。だとしたら「与える」はただ「イエスを世に遣わした」ということよりも「十字架の死に至るまで与え尽くされた」と受け取ることができるでしょう。
 「世」という言葉は、ヨハネ福音書では特別に「神を知らず、神から離れたこの世界」を指します。しかし、だからと言って、この世は救われない世ではなく、神がイエスをとおして大きな愛をもって救おうとなさった世なのです。

  (3) 18節の「裁き」は「断罪する」の意味です。「信じない者は既に裁かれている」という言葉は厳しく響きますが、この箇所の続きに現れる「光と闇」のイメージをヒントに考えてみてはどうでしょうか。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(3章19-21節)。神がもたらすものは決して裁き(断罪)ではありません。神は圧倒的な光としてイエスを与え、闇の世を照らそうとされたのです。その光を受け入れたときに人は救いの中に入っていき、その光を拒否するならば闇の中に留まることになる・・・ヨハネは「闇の中に留まること」が「裁き=断罪されること(救いから外れること)」であると考えているわけです。このようにヨハネが感じているのは、ヨハネ自身が闇の中でイエスの光を見いだしたという体験、神の愛を感じたという体験を持っているからでしょう。わたしたちはどうでしょうか?

  (4) 何をあげることが、人を愛することでしょうか。どんなプレゼントよりも、その人のために時間を使うこと、その人と一緒にいて共に時間を過ごすことが最高の愛だと感じたことがわたしたちの体験の中にあるのではないでしょうか。それは「モノではなく、自分自身を与えること」だからです。「父とそのひとり子イエスは一つである」という信仰は、きょうの福音の「神がひとり子をお与えになった」ということを、「神がイエスという方において、ご自分のすべてを与えてくださった」ことだと受け取る光を与えてくれます。イエスのなさったすべてのこと、イエスの生涯のすべては、神がわたしたちとともにいてくださり、わたしたちにご自分のすべてを与えてくださったことの表れなのです。

  (5) イエスの弟子たちが体験したことは、神の人間に対する決定的な救いの働きが、「イエスの派遣」「聖霊の派遣」という二通りの仕方でなされた、ということでした。イエスという具体的なひとりの人間の言葉と生き方をもって、神は人に語りかけ、人が神に近づく道を示されました。弟子たちは、イエスをとおして、神の愛と神の救いを知ることができたのです。一方イエスが世を去って神のもとに行かれた後、弟子たちは自分たちのうちに働き、自分たちを導く内面的な力を感じ、それを聖霊と呼ぶようになりました。それはどの時代のどんな人の中にも直接働きかける神の力だといってよいでしょう。イエスの父である神が、子であるイエス聖霊を通してわたしたちに決定的な救いの働きかけをしてくださった。ここに「救いの三位一体的な構造」が現れてきます。
 また、わたしたちが神に向かって歩んでいこうとするときにも、この三位一体的構造が大切になります。わたしたちキリスト者は「キリストの言葉と生き方」を見つめ、「聖霊という内面に働きかける神からの力」に支えられながら、父である神への道を歩んでいきます。このような「三位一体的構造」は教会の祈りの中にも現れています。「聖霊に支えられ、御子キリストをとおして、父に向かう」のが、ミサをはじめとする教会の祈りの基本的な姿勢なのです。
 「父と子と聖霊」とはわたしたちの生き方と関係ない神学的で抽象的な教えだと考えるよりも、このようにわたしたちと神との関わりのダイナミズムとして捉えることが大切でしょう。わたしたちは日々どのように神からの働きかけを受け取り、どのようにその働きかけに応えようとしているでしょうか。




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聖書朗読箇所

第一朗読 出エジプト34・4b-6、8-9


 4b〔その日、〕モーセは朝早く起きて、主が命じられたとおりシナイ山に登った。手には二枚の石の板を携えていた。5主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。6主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち〔た者。〕」8モーセは急いで地にひざまずき、ひれ伏して、9言った。「主よ、もし御好意を示してくださいますならば、主よ、わたしたちの中にあって進んでください。確かにかたくなな民ですが、わたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください。」


第二朗読 二コリント13・11-13


 11兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。12聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。
 13主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。


福音朗読 ヨハネ3・16-18


 16神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。17神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。


Posted on 2017/06/02 Fri. 08:30 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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