福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第14主日 (2017/7/9 マタイ11章25-30節)  


教会暦と聖書の流れ


  マタイ福音書11章では洗礼者ヨハネやイエスを受け入れなかった人々のことが語られています。「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人(つみびと)の仲間だ』と言う」(18-19節)。確かに当時、イエスを受け入れた人々と受け入れなかった人々がいたのです。きょうの箇所は、そのような状況の中でのイエスの祈りと、人々に対する大きな招きとして読むことができるでしょう。


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  (1) 25-27節はルカ福音書にも並行する箇所があります(ルカ10章21-22節)。72人を派遣した後の箇所ですが、そこでもイエスのメッセージを受け入れず、悔い改めない町の話に続いています。イエスのメッセージは必ずしもすべての人に受け入れられたのではありません。ここでは「知恵ある者や賢い者」がイエスを受け入れない人、「幼子のような者」がイエスを受け入れる人であると言われています。当時の知恵や賢さは律法に関する知識を意味していました。幼子は「無知な者・無能力者」の代表であり、「幼子のような者」とは貧しく無学な人々のことを指していました。世間で評価されているファリサイ派のような人がイエスを受け入れず、世間的な評価を受けない人々がイエスを受け入れたというのが現実だったのです。イエスの活動は人間的に見ればこの点で成功しなかったという見方もできるかもしれません。しかし、イエスはこのことの中に神の計画の実現を見ていました。
 「天地の主である父よ、・・・」これはイエスの祈りです。人間的には失敗と見えるような現実の中にイエスは神の意思の実現を見ます。それは人間的な見方ではなく、祈りの中で見いだした神の眼差しによる見方だと言ったらよいでしょう。27節の「子が示そうと思う者」という言葉は、イエスご自身の思いも何より「幼子のような者」に向けられていたということを表しているのではないでしょうか。27節は祈りの言葉そのものというよりも、祈りの中でイエスが見いだした確信だと言えるでしょう。そして、28-30節はこの祈りとその中で得た確信に基づくイエスの人々に対する呼びかけなのです。
 「疲れた者、重荷を負う者」を「休ませてあげよう」という言葉。現代に生きるわたしたちの多くは、どれほどこの言葉を必要としていることでしょうか。現代人の多くは疲れています。肉体を休ませたい、という以上に、心から「ほっ」としたいのです。

  (2) 「柔和」「謙遜」という言葉については少していねいに見ておきましょう。
 「柔和」はギリシア語で「プラユスprays」です。この言葉は、マタイ福音書の中で3回使われています。最初は5章5節、「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」ですが、この言葉の背景には詩編37編11節の「貧しい人は地を継ぎ」があると考えられています(この「貧しい人」と訳されているヘブライ語の「アナウ」の古代ギリシア語訳(七十人訳)が「プラユス」です)。もう一つの箇所はマタイ21章5節、「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な(プラユス)方で、ろばに乗り」という箇所です。これはゼカリヤ9章9節の引用です。このゼカリヤ書の箇所を新共同訳は「高ぶることなく、ろばに乗って来る」と訳しますが、この「高ぶることなく」は「アニ(アナウと元は同じ)」なのです。「プラユス」というギリシア語は確かに「柔和な」という意味の言葉ですが、その背景にはヘブライ語の「アナウ」があります。この「アナウ」という言葉はもともと身をかがめ小さくなっている人の様子を表すそうです。経済的に圧迫されていたり、あるいは他から虐げられて苦しんでいる人の意味で「貧しい人」と訳されることが多いのです(詩編37編参照)が、みずから小さくなっている人という意味では「柔和な人、高ぶらない人」とも訳されます。この箇所の「プラユス」の背景にも「アナウ」というヘブライ語的な表現があるとすれば、もっとストレートにイエスが「わたしは貧しい」と言っていると受け取ることができるでしょう。

  (3) 「謙遜」のほうは直訳すれば「心において(テー・カルディアte kardia)身分が低い人(タペイノスtapeinos)」。この「心において」はマタイ的な表現のようです。たとえば、ルカ6章20節で「貧しい人」というところをマタイ5章3節では「心の貧しい人(直訳=霊において貧しい人)」と言い、ルカ6章21節で「飢えている」というところをマタイ5章6節では「義に飢え渇く人」と言い換えています。もし本来の形が「タペイノス」だけだったとするならば、これもストレートに「身分が低い」という意味なのです。
 「柔和・謙遜」というと心の状態だけを考えがちですが、イエスの言葉は「わたしは実際に貧しく、身分が低い」というニュアンスをも、あわせ持つ言葉だったのでしょう。そう考えるとイエスの招きをもっと身近に感じることができるかもしれません。イエス自身が貧しく、身分が低いものである(「ラビ=律法教師」としての特別な資格や地位がない)から、貧しく身分の低い人は安心してイエスに近づくことができるのです。「わたしに学びなさい」は「わたしの弟子になりなさい」とも訳せる言葉です。当時のファリサイ派の律法学者にも弟子がいました。そういうラビの弟子になるのは難しいことでしたが、イエスの弟子になるのに何の資格も学力も授業料もいらないのです!

  (4) 「軛(くびき)」は荷車や農具を引かせるために、2頭の牛(またはロバ)を横につなぐものです。「軛」も「荷」も「重荷」のイメージですが、イエスは「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と言われます。イエスの荷が「十字架」であるならば、とても軽いとは思えません。それなのになぜ軽いと言われるのでしょうか。この「二頭立て」のイメージが役に立つかもしれません。わたしたちの軛・重荷をイエスが共に担ってくださるから「軽い」のです。マタイ23章4節で、イエスはファリサイ派の人と律法学者を批判して、こう言われました。「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」。イエスの生き方はこれとは正反対でした。十字架のイエスは今も、「わたしはあなたの重荷を共に担う」とわたしたちに語りかけてくださっているのです。




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聖書朗読箇所

第一朗読 ゼカリヤ9・9-10


〔主は言われる。〕9娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗って来る
雌ろばの子であるろばに乗って。
10わたしはエフライムから戦車を
エルサレムから軍馬を絶つ。
戦いの弓は絶たれ
諸国の民に平和が告げられる。
彼の支配は海から海へ
大河から地の果てにまで及ぶ。


第二朗読 ローマ8・9、11-13


 9〔皆さん、〕神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。11もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。
 12それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。13肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。


福音朗読 マタイ11・25-30


 25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」


Posted on 2017/06/30 Fri. 08:30 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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