福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第17主日 (2017/7/30 マタイ13章44-52節)  


教会暦と聖書の流れ


 きょうの箇所は、マタイ13章1節から始まった天の国(神の国)についてのたとえ話集の結びの部分で、ここに3つのたとえ話があります。これら3つのたとえ話はマタイ福音書だけが伝えるものです。
 イエスのたとえ話を読むとき、解釈の可能性はいろいろあります。メッセージの意味が確定できない一つの理由は、イエスの言葉だけが伝えられてきて福音書に載せられているので、たとえ話の語られた本来の状況がよく分からなくなっているからだと考えられます。ですから、唯一の正しい解釈は何かと考えるよりも、イメージをふくらませ、いろいろな読み方をしてみるとよいかもしれません。


福音のヒント


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  (1) 「畑に隠されていた宝」と「真珠」のたとえ話はよく似ています。古代では真珠は養殖されるものではなく、自然にできたものを発見するだけだったので非常に高価でした。この2つのたとえ話は、天の国は人間にとって最高の宝だから、何にもまして天の国を求めなければならない、と教えているという解釈が一般的でしょう。「天の国」は「神の国」と同じで、「神が王となる状態=神の愛がすべてにおいてすべてとなる状態」と考えればよいでしょう。あるいは「本当の意味でわたしたちが神と共にいる状態」と言ってもいいかもしれません。このたとえの場合、「畑に隠された宝」「高価な真珠」が「天の国=神の国」だということになります。わたしたちにとって本当の宝とは? すべてを売り払ってでも手に入れたいものとは何でしょうか?
 最初のたとえでは、なぜただの宝ではなく、「畑に隠された宝」なのでしょうか。「見つけた人」は小作人で、たまたま主人の畑で働いているときに宝を発見したということなのでしょう。畑を買わなくとも宝だけを持ち去ればよいのかもしれませんが、彼は畑そのものを手に入れます。そこに何か意味があるのでしょうか。次のようなことを考えてみてもよいかもしれません――彼が見つけたのは自分自身のうちに隠されていた宝だったのではないか。それを発見したときに、彼は自分の人生を手に入れたことになるのだ(もはや小作人ではなく自立した農民になる)、と。

  (2) 別の解釈があるとすれば、それは「畑に隠された宝」や「真珠」をわたしたち人間のことだと受け取ることです。ちなみに、47節以下の漁のたとえ話では、明らかに神が漁師で、人間は神が獲得する魚です。人間が神を求めるよりも、神のほうがわたしたちを探し求めている、そう考えてみるとまったく別の面が見えてきます。
 このように考えた場合、「持ち物をすべて売り払って」も特別なニュアンスを持つことになるでしょう。神が人間を獲得するためにすべてを犠牲にした、それは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3章16節)、「イエスはわたしたちのために命をささげてくださった」ということを連想させないでしょうか。そう受け取るならば、これはもう、ただひたすら感謝する以外にないことです。
 福音書のたとえ話は1つの教えというよりも、1つのイメージなのです。好き勝手なイメージでどんなに曲解してもよいというわけではありませんが、イエスの生き方とメッセージ全体とつながるイメージであればよいのです。また、またそのイメージがわたしたちの現実とつながるイメージであれば、そこには大きな力があります。

  (3) 漁のたとえは、明らかに前半(47-48節)と後半(49-50節)に分けられ、後半は前半の説明のようになっています。内容は、先週の毒麦のたとえ(24-30,36-43節)とよく似ています。福音記者マタイの頭の中には「救いの歴史」というものが明確にあったようです。「旧約時代の律法や預言→イエスによるその実現→教会の時代→世の終わりの裁き」。マタイ福音書では、こういう考えに基づいて、そこからイエスのたとえ話を理解しようとする傾向が強いと言えるでしょう(先週の「福音のヒント」参照)。
 毒麦のたとえのように、マタイ的な解釈の部分を取り去ると、本来は「天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚(良いものも悪いものも)を集める」というだけのたとえだったのかもしれません。そうだとすれば神がどんな人をも招いている、というところにたとえのポイントがあることになります。
 今のわたしたちにとっての意味はどうでしょうか? 終末の裁きというのはへたをすると人に恐怖心を植え付け、それによって人をコントロールするメッセージに聞こえてしまうかもしれません。しかし、本来の終末についてのメッセージは人に恐怖心を与えるためのメッセージではありません。神の判断で何が「良し」とされるかを明確に示し、その神の判断にかなう生き方をするように決断を迫るメッセージなのです。今はすべての人が招かれている、と同時に、その招きにふさわしく応えるかどうかが問われる(この点でもっとも明快なメッセージはマタイ25章31-46節です)。イエスの福音にはこの2つの面があります。どちらか一方だけではダメなのです。
  
  (4) 「天の国のことを学んだ学者」とは、この文脈では弟子たちのことです。「無学で普通の人」(使徒言行録4章13節)であった弟子たちがここでは「学者」と言われるのです。マタイ23章34節によれば、マタイの時代の教会には、実際に「預言者、知者、学者」と呼ばれていた人がいたようですが、ここでは特別な教師職にある人というよりも、すべての弟子のあるべき姿が語られていると考えるべきでしょう。イエスの天の国の教えをよく理解することが弟子のあるべき姿なのです。
 「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」はもちろん、イエスご自身のことでしょう(マタイ10章25節参照)。古いものとは旧約時代に神が示されたこと、新しいものとはイエスによってもたらされた天の国の福音と考えることができます。わたしたちはこのイエスに「似ている」というのです。もしも本気で受け取ることができるとすれば、これはどれほど大きな恵みの言葉でしょうか!




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 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


聖書朗読箇所

第一朗読 列王記上3・5、7-12


 5その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われた。〔ソロモンは答えた。〕7「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。8僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。9どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう。」
 10主はソロモンのこの願いをお喜びになった。11神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。12見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。」


第二朗読 ローマ8・28-30


 28〔皆さん、〕神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。29神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。30神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。


福音朗読 マタイ13・44-52


 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
 45また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。46高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
 47また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。48網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。49世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、50燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。51あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。52そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」


Posted on 2017/07/21 Fri. 08:30 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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