福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第23主日 (2017/9/10 マタイ18章15-20節)  


教会暦と聖書の流れ


 マタイ福音書18章は教会共同体のあり方についての教えを集めた箇所だと考えることができます。子どもを受け入れること(1-5節)、小さい者をつまずかせないこと(6-9節)。一貫して問われているのは、共同体の中にいる弱いメンバーに対する配慮を欠かさないということです。きょうの箇所は迷い出た羊のたとえ(10-14節)に続いて語られますが、罪を犯した兄弟も「小さな者」であり、滅びてはならない「一匹の羊」なのです。


福音のヒント


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  (1) イエスは「教会」についての教えを語ったのでしょうか。むしろ、マタイが自分たちの教会のあり方を考えるために、伝えられてきたイエスの言葉を(多少、加筆修正しながら)ここに集めたのだと考えるほうがよいのでしょう。
 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と言いますが、具体的にどういう罪が問題になっているかは分かりません。「兄弟姉妹である」とは「同じ父(である神)の子である」ということです。「罪」とはその関係を傷つけるような言動でしょう。しかし、それでもその兄弟姉妹を失わないこと、兄弟姉妹を再び兄弟姉妹として取り戻すこと、これがここでのテーマだと言えます。そしてそこにこそイエスの心があるとマタイは伝えたいのです。

  (2) 「忠告」(15節)というのは難しいことです。忠告されることは誰にとってもイヤなことでしょう。忠告することによって、かえってその人が頑なになったり、忠告したがために恨みを買うことだってあるでしょう。それでも「忠告しなさい」と言われます。イエスは「面と向き合うこと」を求めているのではないでしょうか。陰でいくら文句を言っていても事態は何も変わらないからです。
 「ほかに一人か二人、一緒に連れて行く」(16節)「教会に申し出る」(17節)。これは一人で解決できなければ自分たちみんなで解決する、ということです。誰か外の人に解決してもらうのではなく、自分たちの中で解決を図るように、という意味にも受け取れます。
 「異邦人や徴税人」(17節)は、当時のユダヤ人社会の言葉遣いで、神の民から排除された人を指します。しかし、徴税人や異邦人に対するイエスの態度から考えれば、イエス自身が弟子たちに語った言葉とは考えにくいでしょう。これはむしろ、ユダヤ人キリスト者からなる共同体であったマタイの教会特有の言い回しのようでもあります。とにかく、ここではどういう場合には「異邦人や徴税人」扱いせよ、ということではなく、「いかに切り捨てないようにぎりぎりまで努力するか」ということにポイントがあります。
 わたしたちの教会の中にもいろいろな問題があります。教会の中で人と人とが(兄弟姉妹同士が)傷つけ合うのは、実に悲しいことです。そういう現実を抱えたわたしたちに、きょうの福音はどんな光を投げかけてくれるでしょうか。

  (3) 18節の「つなぐ、とく」は、マタイ16章19節では、ペトロに与えられた使命でしたが、ここではもっと広く、すべての弟子に与えられています。これは、「つなぐ」も「とく」も弟子たちが自分で勝手に判断してよい、ということではなく、「弟子たちが天を閉ざしてしまえば、それは決定的なことになってしまうのだから、互いにゆるし合って、兄弟姉妹として受け入れ合うための最大限の努力をすべきだ」ということでしょう。そのためには、単なる人間的な努力だけでは無理であり、だからこそ祈りの中でイエスの心に近づくことが必要だとも言えるのではないでしょうか。そういう意味で、次節の祈りのテーマとつながっていくと考えることができます。

  (4) 19節の「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」は本当に大きな約束です。わたしたちは自分の部屋に隠れて一人で祈ることもありますが、同時に誰かと一緒に祈ろうともします。それはこのイエスの約束に信頼するからです。20節「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」には、原文では「ガルgar(=なぜなら)」という接続詞がありますから、これは実は19節の理由です。弟子たちの祈りがかなえられるのは「イエスがともにいるから」なのです。「わたしの名によって集まる」の「名」は単なる呼び名ではなく、そのものの本質を表します。「イエスのうちに一つに結ばれて」と理解すればよいでしょうか。
 祈りは、自分の願いを神にぶつけるだけではありません。むしろ、自分の願いを超えた神の思いを受け取ることです。二人、三人で一緒に祈ろうとするとき、自分のエゴを超えることが必要になります。さらに、二人、三人が自分のエゴを超えて一緒に祈ろうとする中でキリストの心に近づいていく、ということもあるのではないでしょうか?
 
  (5) 「アヴェ・マリアAve Maria」の祈りについて考えてみてもよいかもしれません。この祈りの中で願っていることは、「聖マリア、わたしたちのためにお祈りください」ということです。マリアに祈りを頼むわたしたちはマリア様だけに祈らせておいて自分は祈らない、というのではありません。これはわたしたちがマリアとともに祈る祈りなのです。たった一人で祈っていても、小さなグループで祈っていても、そこにはマリアが代表する教会全体とのつながりがあることを思い浮かべたらよいでしょう。そしてわたしたちの祈りはマリアの「フィアット」(fiatはルカ1章38節「お言葉どおり、この身になりますように」の「なりますように」にあたるラテン語)に結ばれていくのです。たとえ遠く離れたところにいても、祈りは時間と空間を越えてわたしたち同士を結びつけます。また、わたしたちをイエスやマリアの祈りと結びつけます。そう感じられたらどれほど力づけられることでしょうか。
 祈りとその効果(?)の関係は、物理法則のようにはいきません。このように祈ればこのような結果が自動的に生じるというものではないのです。しかし、わたしたち一人一人の祈りの体験を分かち合えたら、そこに豊かな祈りの力を感じることができるでしょう。




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「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。



聖書朗読箇所

第一朗読 エゼキエル33・7-9


 〔主の言葉がわたしに臨んだ。〕7「人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、わたしの警告を彼らに伝えねばならない。 8わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。9しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」


第二朗読 ローマ13・8-10


 8〔皆さん、〕互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。9「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。10愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。


福音朗読 マタイ18・15-20


 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
 18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。 19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」

Posted on 2017/09/01 Fri. 10:13 [edit]

category: 2017年(主日A年)

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