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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第5主日 (2018/2/4 マルコ1章29-39節)  


教会暦と聖書の流れ


 先週の箇所で、イエスは安息日に会堂で教え、悪霊に取りつかれていた人をいやしました(マルコ1章21-28節)。今日の箇所はその続きで、同じ1日の間の出来事です。29節「すぐに」、32節「夕方になって日が沈むと」、35節「朝早くまだ暗いうちに」と時間を追って、カファルナウムでのイエスの活動の様子が伝えられています。


福音のヒント


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  (1) 30-31節にシモンのしゅうとめについての短い話があります。「手を取って起こされる」というイエスの動作は印象的です。イエスは病気の人に触れて、その人をいやしました。イエスに触れられることは、病人にとってどれほど大きな励ましだったでしょう。
 「病気をいやす」ということと「悪霊を追い出す」ということは現代人にとっては別のことと感じられますが、イエスの時代には明確に区別されていませんでした。悪霊は先週の「福音のヒント」でも述べたように「人を神から引き離す力、人と人との間を引き裂いていく力」と考えたらよいでしょう。当時の人々は「悪霊」という、目に見えない、人間の力を超えた悪の力が、病気を引き起こすと考えました。ここでの「熱は去り」も「悪霊が去った」と同じように考えられたのかもしれません。その人を苦しめている悪の力が追放され、その人が神とのつながり、人とのつながりを取り戻すこと、それがイエスの行なっていたことだと言えるでしょう。

  (2) 「もてなす」はギリシア語で「ディアコネオーdiakoneo」です。「仕える、奉仕する」と訳されることが多い言葉です。この言葉はマルコ福音書の中で、イエスご自身の生き方を表す言葉として、また弟子たちの生き方を指し示す言葉として重要です。マルコ10章43-45節にこうあります。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献(ささ)げるために来たのである」。つまり、「もてなす人=仕える人」となったシモンのしゅうとめは、イエスの弟子になっていった、とも言えますし、イエスと同じように「愛と奉仕に生きる者」になっていった、と言ってもいいでしょう。ただ単に肉体的ないやしが問題なのではなく、イエスのいやしを体験することによって、その人の生き方が変わる、ということが大切なのです。わたしたちの中にもそのような体験があるはずです。

  (3) 34節「多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである」は現代人には不思議に感じられる言葉かもしれません。1章24節でも汚れた霊に取りつかれていた人はイエスに向かって「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と言いました。なぜ、悪霊はイエスの正体を知っていたのでしょうか。それは「人間の力を超えた霊的な力によって」と言うしかないでしょう。しかし、イエスが誰であるかを知っていても悪霊はイエスとの関わりを拒否するので、悪霊にとってイエスを知っていることは救いにならないのです。当たり前のことですが、これはわたしたちにも問われることかもしれません。わたしたちもイエスが「神の子、キリスト」であることを知っています。しかし、ただ単に頭で理解していてもそれだけでは何の役にも立ちません。問われているのは、わたしたちが、そのイエスという方とどのような関わりを持っているか、なのです。
 「ものを言う」は原文では普通の「話す」という言葉が使われていますが、面白い訳です。「肩書きがものを言う」という表現が日本語にはありますが、「悪霊がものを言う」は「悪霊が力をふるう」ことと同じだったとも言えます。イエスはそれを許さないのです。

  (4) マルコ福音書によれば、イエスの活動は「宣教し、悪霊を追い出す(=病人をいやす)」というものでした。「宣教する」と訳されたギリシア語の「ケリュッソーkerysso」は、「告げる、のべ伝える」という意味です。何をのべ伝えるかといえば、1章14-15節にあった「神の福音」、すなわち「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということです。イエスが告げたのは「神の国の到来」でした。イエスの周りに集まった人々は、悪霊に取りつかれていた人が正気になり、病人が立ち上がるのを見て、確かにここに「神の国」が始まっていると感じたことでしょう。今のわたしたちにとって、神の国の到来はどのような形で実現していると言えるでしょうか?

  (5) 35節のイエスの祈りはどのようなものだったのでしょうか。イエスは何を祈っていたのでしょうか。マルコは祈りの内容を伝えませんが、祈りの後でイエスは「近くのほかの町や村へ行こう」と弟子たちに呼びかけます。これはイエスが祈りの中で受け取った「神の望み」だったのではないでしょうか。人間的な見方をすれば、イエスの活動はカファルナウムで成功しています。悪霊の力は打ち破られ、病人は立ち上がり、イエスは多くの人からの賞賛を受けています。カファルナウムに留(とど)まることに何の問題もなかった。しかし、イエスは祈りの中で、人間の思いとは違う「神の望み」を見いだしていったようです。ゲツセマネの祈りもまさにそういう祈りでした(マルコ14章36節参照)。
 神が一般的に何を望んでおられるか、ということは聖書に書いてあります。しかし、今、この状況の中で、このわたしに神が何を望んでおられるかということは聖書に書いてありません。それは一人一人が祈りの中で、沈黙のうちに語りかける神の言葉として受け取るしかないのです。イエスの祈りも多くの場合、そういうものだったのではないでしょうか。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。



聖書朗読箇所

第一朗読 ヨブ7・1-4、6-7


〔ヨブは言った。〕
1この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。
 傭兵のように日々を送らなければならない。
2奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ
 傭兵のように報酬を待ち望む。
3そうだ
 わたしの嗣業はむなしく過ぎる月日。
 労苦の夜々が定められた報酬。
4横たわればいつ起き上がれるのかと思い
 夜の長さに倦み
 いらだって夜明けを待つ。
6わたしの一生は機の梭よりも速く
 望みもないままに過ぎ去る。

7忘れないでください
 わたしの命は風にすぎないことを。
 わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。


第二朗読 一コリント9・16-19、22-23


 16〔皆さん、〕わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。17自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。18では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
 19わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。22弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。23福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。


福音朗読 マルコ1・29-39


 29〔そのとき、イエスは〕会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。30シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。31イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。32夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。33町中の人が、戸口に集まった。34イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
 35朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。36シモンとその仲間はイエスの後を追い、37見つけると、「みんなが捜しています」と言った。38イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」39そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

Posted on 2018/01/26 Fri. 14:16 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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