福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

復活の主日・復活徹夜祭 (2018/4/1 マルコ16章1-7節)  


教会暦と聖書の流れ


 イエスが十字架で死んだのは、今で言えば金曜日の午後3時ごろでした。古代ユダヤでは日没から新しい一日が始まったので、この日を1日目とすると、金曜日の日没から土曜日の日没までの「安息日」が2日目、土曜日の日没から日曜日の日没までの「週の初めの日」が3日目ということになります。きょうの福音にあるように、週の初めの日の朝早くイエスの墓に行くと墓は空だったので、イエスは土曜日の日没に始まる3日目の夜のうちに復活したと考えられてきました。復活徹夜祭のミサは光の祭儀や入信の秘跡をもって復活を祝うもので、単なる前夜祭ではなく、復活祭のメインのミサなのです。このようなわけで、ここでは「復活の主日・日中のミサ」の福音=ヨハネ20章1-9節(毎年同じ)ではなく、「復活徹夜祭」の福音、マルコ16章1-7節(マタイ、ルカと3年周期)を取り上げます。


福音のヒント


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  (1) 当時の墓は洞穴のようになっていて、入口が円盤型の大きな転がる石でふさいでありました。「白い長い衣を着た若者」(5節)はもちろん天使です。
 5節に「婦人たち」という言葉が出てきますが、原文では主語が省略されています。15章40節で「婦人」と訳されているギリシア語の「ギュネーgyne」は、大人の女性一般を指す言葉です。「婦人」という日本語は、既婚女性、特に専業主婦を指すニュアンスがあるので、現代ではほとんど使われなくなっています(「婦人会」なんて言っているのは教会だけかも?)。マルコ15章41節で十字架のイエスを見守っていた女性たちは「イエスに従って来て世話をしていた人々である」と言われていますが、直訳では「彼に従い、彼に仕えてきた」です。この「従う」「仕える(ギリシア語のディアコノーdiakono)」は弟子の生き方の中心を表す言葉です(マルコ10章43-45節参照)。マルコ福音書では男の弟子たちはイエスが逮捕されたとき、皆逃げてしまいました(マルコ14章50節)が、女性の弟子たちは、最後までイエスに従い、イエスが十字架で息を引き取り、墓に納められるのを見届けています(15章40-41,47節参照)。マルコ福音書は、この女性たちこそイエスの本当の弟子だという見方をしているのではないでしょうか。
 初代教会には、復活の第一の証人をペトロや男の弟子たちだという伝承(Ⅰコリント15章5節など)と、女性の弟子たちだという伝承(ヨハネ20章11-18節など)があったようです。マルコは、ペトロの名を挙げて、男の弟子たちが最初の証人であったという伝承に従いながら、ここでは女性の弟子たちの役割を大きく取り上げています。

  (2) きょうの箇所は7節で終わっていますが、続く8節には次のような言葉があります。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。この女性の弟子たちの反応をどう考えるべきでしょうか。単純に考えて、もし彼女たちが実際に誰にも何も言わなければ、復活したイエスと弟子たちとのガリラヤでの出会いは起こらないことになるので、実際には後で話したはずだと考えてもよいかもしれません。ただマルコはここで、「復活」ということがこの女性の弟子たちにとっても信じられないほど、人間の理解を超えた出来事だと言いたかったのでしょう。

  (3) 新共同訳聖書を見るとマルコ16章8節に続いて、「結び 一」(9-20節)と「結び 二」がありますが、これは後の時代の人が書き加えたもののようです。確かに8節の「恐ろしかったからである」で終わるのはあまりにも唐突で、その後の出来事を付け加える必要を感じた人々の気持ちも理解できます。その後の出来事とはもちろん、他の福音書にあるように、実際に弟子たちが復活のイエスに出会うという出来事です。
 もしも16章8節がこの福音書の本来の結びの言葉だったとすれば、マルコはあえて、復活したイエスとの出会いの物語を書かなかったということになります。それはなぜでしょうか。マルコは空の墓までは「過去の出来事」であり、復活したイエスとの出会いは、今の自分たちの中で起こっている「現在進行中の出来事」だから書く必要がないと考えたのではないでしょうか?

  (4) 復活したイエスとの出会いの場所については、エルサレムとガリラヤという2通りの伝承があります。ヨハネ20章はエルサレム、21章はガリラヤ、ルカ24章はエルサレム、マタイ28章はガリラヤでの出会いを伝えています。マルコはこの箇所で「ガリラヤ」でイエスに会えるという天使の約束を伝えます。わたしたちにとって「ガリラヤでイエスに会う」とはどういうことでしょうか? 2つのことを考えてみましょう。
 (a) マルコ福音書でイエスの活動はガリラヤから始まりました(マルコ1章14節)し、ほとんどの活動はガリラヤで行なわれています。そう考えると「ガリラヤでお目にかかれる」は、福音書の第1ページに帰っていくことだと言えるかもしれません。もう一度、マルコ福音書を最初から丹念に読み返せば、福音書が伝えるイエスの言葉や行ないは過去のことではなく、今もわたしたちの間に生きておられるイエスが同じ福音を語り、同じ救いのわざをなさっている、と感じ取れるのではないでしょうか。
 (b) ガリラヤはイエスと弟子たちにとって、故郷であり、生活の場でした。わたしたちにとっても、復活したイエスとの出会いの場は、自分たちの生活の場の中でのことだと言えるのではないでしょうか? わたしたちは聖書を読み、聖書の中で復活したイエスに出会うのではありません。聖書は昔イエスという方がいたというだけでなく、今もわたしたちの現実の中でともにいてくださる、ということを伝えています。本当にそのイエスを感じること、そこにわたしたちの救いといのちと喜びの源があるのです。




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聖書朗読箇所

〈復活徹夜祭 旧約書の朗読は7つあるが、他の朗読は省略〉

第三朗読 出エジプト14・15-15・1a


 14・15〔その日、追い迫るエジプト軍を見て、イスラエルの人々が非常に恐れたとき、〕主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。16杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。17しかし、わたしはエジプト人の心をかたくなにするから、彼らはお前たちの後を追って来る。そのとき、わたしはファラオとその全軍、戦車と騎兵を破って栄光を現す。18わたしがファラオとその戦車、騎兵を破って栄光を現すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる。」
 19イスラエルの部隊に先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろを行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、20エジプトの陣とイスラエルの陣との間に入った。真っ黒な雲が立ちこめ、光が闇夜を貫いた。両軍は、一晩中、互いに近づくことはなかった。21モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。22イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。23エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。24朝の見張りのころ、主は火と雲の柱からエジプト軍を見下ろし、エジプト軍をかき乱された。25戦車の車輪をはずし、進みにくくされた。エジプト人は言った。「イスラエルの前から退却しよう。主が彼らのためにエジプトと戦っておられる。」
 26主はモーセに言われた。「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」27モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。28水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。29イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。30主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。31イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。
 15・1モーセとイスラエルの民は主を賛美して歌をうたった。


使徒書の朗読 ローマ6・3−11


 3〔皆さん、〕あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。4わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。5もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。6わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。7死んだ者は、罪から解放されています。8わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。9そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。10キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。11このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。


福音朗読 マルコ16・1-7


1安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。2そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。3彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。4ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。5墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。6若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」


Posted on 2018/03/23 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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