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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

キリストの聖体(2018/6/3 マルコ14章12-16, 22-26節)  


教会暦と聖書の流れ


 聖体の制定を記念するミサは、聖週間中の聖木曜日に行なわれる「主の晩さんの夕べのミサ」です。しかし、復活節が終わった後、改めてキリストの聖体の祭日を祝います(本来は聖霊降臨後の第二木曜日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では日曜日に移して祝われています)。この日も先週の三位一体の主日と並んで、四旬節・復活節のまとめと言えるでしょう。聖体の秘跡とはイエスの受難・死・復活にわたしたちが日々結ばれて生きるための秘跡だからです。B年の福音朗読は、マルコ福音書の最後の晩さんの箇所です。


福音のヒント


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  (1) 過越祭(すぎこしさい)は春の祭で、元来は農耕生活に関連した祭だったようですが、古代イスラエルで、エジプト脱出という救いの出来事の記念祭として祝われるようになりました。イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放された救いの歴史の原点を記念する過越祭は、1年でもっとも大きな祭でした。過越祭に始まる1週間の祭の期間が「除酵祭(じょこうさい)」です。「酵母を取り除く祭」の意味で、過越祭に続く7日間、酵母の入っていないパン(種なしパン)を食べました。
 マルコ福音書はイエスと弟子たちとの最後の晩さんが「過越の食事」であったとはっきり述べています。ヨハネ福音書では日付が1日ずれています(ヨハネ18章28節参照)が、いずれにせよ新約聖書は、イエスの受難を過越祭と結びつけ、イエスの死が人々を罪の支配から解放し、神との和解をもたらす「新しい過越」であると考えています。

  (2) 水がめを運ぶのは当時、女性の仕事でした。ですから、男性が水がめを運んでいれば、特別な目じるしになります。イエスはこの過越の食事をする場所の手配を誰かに頼み、しかも、それを普通には分からない方法で弟子たちに教えようとしたことになります。弟子たちにとってこのことは「すべてがイエスによってあらかじめ整えられていた」と感じさせることだったでしょう。わたしたちにもそういう経験があるかもしれません。
 それにしても、イエスはなぜこの暗号のような指示をしたのでしょうか。一つの考えはこうです。イエスはご自分に迫っている危険を予感し、受難が避けられないことを知っていました。その状況の中で、外部の人に分からない場所でこの食事をしようとしたのです。それは「誰にも邪魔されずに、どうしてもこの食事だけはしておきたい」というイエスの強い思いの表れではないでしょうか(ルカ22章15節参照)。わたしたちもこの食事に込めたイエスの思いを深く感じ取りましょう。

  (3) 「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて」は、5つのパンを大群衆に分け与えたとき(マルコ6章41節)の動作とまったく同じです。ユダヤ人の食事の際には、家長に当たる人がそのようにするのが普通だったと言われています。しかし、イエスはここで特別なことを言いました。「体」は人間全体を指す言葉で、「これはわたしの体である」は「これはわたしだ」という意味です。これを食べることは、イエスと一つに結ばれることなのです。イエスは世を去る前に、ご自分と弟子たちの絆を永遠のものにしようとしたのだと言えるでしょう。
 杯についての言葉は、新共同訳では「わたしの血、契約の血」となっていますが、原文では「血」という言葉は1度しか使われていません。直訳では「契約の、わたしの血」です。「契約の血」は出エジプト記24章8節にある言葉です(第一朗読)。牧畜民族にとって「契約」と「血」は切り離せないものでした。それは、その契約がお互いの血を賭けたもの=命がけのものであることを表したのです。「これは・・・わたしの血」は「これはわたしの体」という表現に似ていますが、ここには「多くの人のために流される」という言葉が加えられています。「多くの人」はヘブライ語的な表現で、意味としては「すべての人」です。イエスは自分の死をすべての人の救いのための死であると自覚しておられたのです。

  (4) 「契約」という言葉は聖書の中で「神と人との特別な関係」を表す言葉です。出エジプト記24章で結ばれた契約はシナイ契約と呼ばれます。紀元前13世紀、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出し、その救いを体験した民は神との特別な関係を生きることになります。これを表すのが「契約」という言葉です。そこではイスラエルの民が神に対し、人に対してどう生きるべきかを示す道として「律法」が与えられました。しかし、イスラエルの民は神との関係、人と人との正しい関係を見失っていきます。そこで紀元前6世紀のバビロン捕囚時代の預言者たちは、「新しい、永遠の契約」を予告することになります。典型的なのがエレミヤです。「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪をゆるし、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ31章33-34節)

  (5)  この「新しい契約」がイエスの死によって実現した、というのが新約聖書の中心テーマです。それはどういう意味でしょうか。イエスの生涯全体の歩みを見れば、イエスという一人の人の中で上のエレミヤの言葉が完全に実現していたと言えるでしょう。もう一つには、わたしたちがイエスの十字架の姿を見たときに、神の深い愛の心を悟り、エレミヤのこの言葉を生きるものに変えられていくという面もあるはずです。それこそが聖体の意味でもありますが、本当にわたしたちの中で実現しているでしょうか。
25節の「ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」は受難予告のような言葉です。しかし同時に「神の国で新たに飲むその日まで」ということによって、最終的な完成に向かう意識が強調されています。「新しい契約」は確かにイエスによって実現しました。しかし、最終的にわたしたちが神と完全に一つに結ばれるのは将来のことだとも言えます。そこに向かって歩むための糧として、聖体が与えられているのです。




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「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。



聖書朗読箇所

第一朗読 出エジプト24・3-8


 3〔その日、モーセは山から〕戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。4モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。5彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。6モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、7契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、8モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」


第二朗読 ヘブライ9・11-15


 11〔皆さん、〕キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、12雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。13なぜなら、もし、雄山羊と雄牛の血、また雌牛の灰が、汚れた者たちに振りかけられて、彼らを聖なる者とし、その身を清めるならば、14まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。15こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。


福音朗読 マルコ14・12-16、22-26


 12除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。13そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。14その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』15すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」16弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。
 22一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」23また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。24そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。25はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」26一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。


Posted on 2018/05/25 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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