福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第14主日 (2018/7/8 マルコ6章1-6節)  


教会暦と聖書の流れ


 先週の福音では、出血の止まらない女性の病気がいやされ、会堂長ヤイロの娘がイエスによって生き返らされました。そこでは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(5章34節)、「恐れることはない。ただ信じなさい」(5章36節)とあったように、「信じること」が大きなテーマでした。きょうの箇所は先週の続きの箇所ですが、ここでもやはり「信じる」ということがテーマになっています。


福音のヒント


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  (1) イエスの育った故郷は、ガリラヤのナザレという村でした。右の写真は、マリアが天使からお告げを受けたことを記念して建てられた「告知教会」から見た今のナザレの町並みです。今は何万人もの人が住む町ですが、イエスの時代には特に大きな町ではなく、有名な町でもありませんでした。ナザレには会堂があり、安息日ごとにユダヤ人たちがその会堂に集まって礼拝していました。他の町や村で病人をいやしたイエスの評判はナザレの人々にも届いていたのでしょう。ナザレの人々は会堂で語るイエスに注目しています。

  (2) マルコはイエスが教えたことの内容をいちいち伝えません。それはいつも「神の国の到来の福音」(マルコ1章14-15節参照)であったと考えればよいでしょう。ルカ4章16-30節には、イエスの活動の初期の出来事として、ナザレの会堂での出来事が伝えられています。そこでイエスはまず、イザヤ書の61章(1-2節)を朗読しました。
 「『18 主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。』20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」
 苦しむすべての人を解放する神の救いの時が、今まさに始まっている。これがイエスの神の国のメッセージでした。人々はイエスのメッセージそのものには反対していません。ただ、それを語るのが自分たちの良く知っているイエスであることにつまずくのです。

  (3)「この人は、大工ではないか」の「大工」とは家を建てる人というよりも、家の内装や家具を作る職人だったようです。アラム語では「いとこ」にあたる言葉がないので、この箇所の「兄弟」「姉妹」という言葉の中にはいとこも含まれていると言われます。教会の伝統では、母マリアはヨセフと結婚してからも生涯処女のままで、イエス以外に子どもがいなかったと言われてきましたが、そのことと矛盾するわけではありません。
 ナザレの人々は「つまずいた」(3節)と言われ、また「不信仰」(6節)とも言われています。ナザレの人々はなぜイエスにつまずいたのでしょうか? なぜ信じなかったのでしょうか? いろいろな理由が考えられますが、以下の(4)と(5)で2つのことを考えてみましょう。

  (4) 大工の子は大工になる。それが当時の常識でした。「この村の一員であり、この家族に属し、この職業についている」ナザレの人々は、イエスの村での立場をよく知っていたので、かえってその見方を超えることができず、イエスが、預言者として神との特別なつながりの中で活動していることを理解できなかったのではないでしょうか。だから「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけ」だと言われるのです。
 わたしたちが人を見るときも、やはり、社会的な評価を超えられないことがありそうです。あの人はどういう家柄で、どんな職業で、どんな資格があって・・・。しかし、本当に見るべきなのは、その人の中にある神とのつながりの部分なのではないでしょうか。

  (5) ナザレの村は生活と信仰のコミュニティー(共同体)でした。自分たちの中心に神がいてくださることを人々は安息日の礼拝をとおして確認していました。そこには律法による秩序があり、その秩序からはずれた人は排除されました。一方、イエスは「アッバ(お父さん)」である神のもとで、すべての人が兄弟姉妹として生きる道を示しました。そして、実際に村のコミュニティーから排除されているような人々と関わっていきました。病気のために汚(けが)れているとされた人々、悪霊に取りつかれていると言われて見捨てられていた人々、職業によって罪びとのレッテルを貼られてしまっていた人々・・・。イエスはこの人々も神の子であることを、言葉と行動をとおして伝えていきました。ここにも、イエスのメッセージと活動がナザレの人々に受け入れられなかった理由があったでしょう。
 イエスはアッバのもとでの新しいコミュニティーを作り出していきます。イエスから始まるこの新しいコミュニティーは、地縁・血縁を超え、社会的な立場の違いを超え、男女の壁を超え、民族の壁を超えて共に生きるコミュニティーなのです。わたしたちのコミュニティーはそうなっているでしょうか?

  (6) ナザレの人の「不信仰」とは、イエスを「預言者」として受け入れないこと、つまり、イエスによってもたらされた神の国のメッセージを受け入れないということでした。
 5-6節「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」というのは不思議な言葉に聞こえるかもしれません。イエスが人をいやす力を持っているならば、相手の信仰とは無関係にイエスはその人々をいやすことができたはずではないでしょうか。しかし、ここでは、イエスの行なう奇跡は相手の信仰に左右されるというのです。先週の箇所の「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」でも、「いやし」における信仰(信頼)の役割が重視されていました。福音書の中で「信じること」とは、「何かの信仰箇条に同意する」ということではなく、「神に信頼して、自分を委ねていくこと」です。そしてそれは神の救いを受け取るために、必要不可欠な人間の態度なのです。




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聖書朗読箇所

第一朗読 エゼキエル2・2-5


 2〔その日、〕霊がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。3主は言われた。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。4恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。5彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。」


第二朗読 二コリント12・7b-10


 7b〔皆さん、わたしが〕思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。8この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。9すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。


福音朗読 マルコ6・1-6


 1〔そのとき、〕イエスは故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。2安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。3この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。4イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。5そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。6そして、人々の不信仰に驚かれた。
 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

Posted on 2018/06/29 Fri. 09:00 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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