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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第29 主日 (2018/10/21 マルコ10 章35-45 節)  


教会暦と聖書の流れ


 場面はエルサレムへの旅の途中で、マルコ福音書の 3 回目の受難予告(10章 32-34 節)に 続く箇所です。「受難の道を歩むイエスに従う」というテーマは先週の福音(10 章 17-31 節) から続いています。これまで 2 回の受難予告同様、ここでもイエスの受難の道について無 理解な弟子たちの姿が現れていますが、この弟子たちに向けて、イエスはご自分の受難と 死の意味を最もはっきりとした言葉で告げられます。


福音のヒント


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  (1) ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、ペトロ と並んで弟子たちの中でもっともイエスの近く にいた弟子です。彼らは「先生、お願いすること をかなえていただきたいのですが」(35節)とイエ スに話しかけます。この遠慮がちな頼み方は、彼ら自身、自分たちの願いがイエスの思いとは違うかもしれないという予感を持っていたことを表しているのでしょう。二人の願いは、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」というものでした。イエスが何度もご自分の受難を予告していたにも関わらず、彼らはそれを受け 入れることができず、ただイエスが栄光を受けることしか考えていません。二人の願いは、 その栄光のときに、他の弟子を差し置いて自分たちに特権的な地位が与えられるように、 という願いです。
 「(さかずき)」は普通、救いと喜びのシンボルです。しかし、日本語にも「苦杯をなめる」 という表現があるように、苦しみのシンボルにもなります。ここではもちろん「苦しみの 杯」の意味です。「洗礼」もキリスト者にとっては救いと喜びのシンボルですが、洗礼(ギリシア語の「バプティスマbaptisma」)の元の意味は「水に沈めること、浸すこと」ですから、死のイメージもあります。ここでは「死」のイメージで語られています。イエスは、 自分と同じ苦しみと死を引き受けることができるか、と問いかけているのです。

  (2) 二人の弟子はどこまでこの言葉を理解していたのか分かりませんが、39節で「できます」と答えます。イエスの栄光にあずかるためなら、彼らはどのような苦しみにも耐 える覚悟ができていたのでしょう。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わた しが受ける洗礼を受けることになる」。ヨハネの最期は聖書に伝えられていませんが、ヤコブは後に殉教したと伝えられています(使徒言行録12・1-2)。しかし、イエスは報いとし ての地位を彼らに約束しません。「定められた人々にゆるされる」というのは、「神がお決めになることだ」という意味で、それはあなたにもわたしにも関係ない、と言うのです。
他の10人は腹を立てます。彼らが腹を立てたのは、自分たちも同じようなことを考えているのに、ヤコブとヨハネが抜け駆けしようとしたからでしょう。そうでなければ腹を立てる必要はないのです。「人よりも先になりたい、上に立ちたい」という願望がいかに強いかを感じさせられます。そこから自由になることは簡単ではないのです。

  (3) 「異邦人」は「あなたがた(弟子たち)」と対比させられていますから、ここでは 「神やキリストを知らない人々」の意味だと言えるでしょう。「支配し」「権力を振るっている」は明らかに悪い意味で、人々を苦しめる権力の乱用のことです。
 「仕える者」はギリシア語で「ディアコノスdiakonos」です。「仕える」は「人のために働くこと」を表す言葉です(なお今のカトリック教会で使われる「助祭」という言葉の原語がこれです)。「僕(しもべ)」はギリシア語では「ドゥーロスdulos」で、こちらは働きの内容よりも「主人」との関係を表す言葉です。ここでは両方とも同じような意味で使われています。「仕える」「僕になる」という言葉には、「人のためにサービスする」という面がありますが、もう一つには「自分を低くする、自分を無にする」という面もあると言えるでしょう。

  (4) 45節のはじめには、新共同訳聖書では翻訳されていませんが、「なぜなら」という言葉があります。ここで弟子たちが「仕える者」「僕」になるべき理由が示されるのですが、それはイエスご自身の生き方がそうだから、ということになります。この45節は、 マルコ福音書の中でもっとも明確にイエスの使命と死の意味が語られる箇所です。
 イエスが来たのは「仕えるため」でした。これは生涯の最後の受難に向かう歩みだけで なく、これまでのイエスの歩み全体を貫く姿勢を表しています。「身代金」と訳された言葉はギリシア語で「リュトロンlytron」です。本来は奴隷を解放するために支払う代金のことを意味したので「身代金」と訳されています。しかし、この言葉はイスラエルの歴史をとおして、神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放した、その神の救いのわざを指すようにもなりました。イエスの死は人々を解放し、命に導くためのものです。
 なお「多くの人」という言葉は、日本語では「すべての人ではない」というニュアンスに聞こえてしまうかもしれません。しかし、元のアラム語では「すべての人」の意味も含まれているそうです。イエスの十字架がもたらす救いを特定の人々だけに限定して考えることはできないでしょう。

  (5) マルコは生き方全体から死だけを切り離して、そこに意味があるというのではなく、イエスの死を「仕える」というイエスの生き方の頂点として示しています。このことは大切です。だからこそ、マルコはイエスのなさったこと一つ一つをていねいに伝え、わたしたちがその生き方をしっかり見つめるように促しているのだ、と言えるでしょう。
 「仕える」「僕になる」という生き方は、現代では流行(はや)らない生き方でしょうか。 わたしたちの社会は、「人は皆、平等であり、皆、上昇志向があり、だから競争に勝つことが大切で、結局勝った者が得をする」という社会だと言えるかもしれないからです。イエスはそのような考え方、生き方に挑戦してきます。「仕える者になる」「僕になる」という生き方の中にこそ、もっと豊かな神とのつながり、人とのつながりがあるのだ・・・。わたしたちはこのイエスの言葉をどのように生きることができるのでしょうか?




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ53・10-11


10病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。

11彼は自らの苦しみの実りを見それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。


第二朗読 ヘブライ4・14-16


 14〔皆さん、〕わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。


福音朗読 マルコ10・35-45


35〔そのとき、〕 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

Posted on 2018/10/12 Fri. 08:30 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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