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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

王であるキリスト(2018/11/25 ヨハネ18章33b-37節)  


教会暦と聖書の流れ


 教会の暦では、来週の待降節第1主日から新しい1年が始まりますので、きょうの「王であるキリストの祭日」が年間最後の主日ということになります。「王」という言葉は現代のわたしたちにとって馴染みにくい言葉ですが、この祭日のテーマは、神の国の終末的な完成を祝うことです。この日のミサの朗読箇所は3年周期の各年でずいぶん異なっています。今年(B年)は、イエスが逮捕され、ローマ総督ピラトから尋問される場面です。


福音のヒント


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  (1) イエスは最終的にはローマ総督ピラトによって十字架刑に処せられることに決まりましたが、その罪状は「ユダヤ人の王」というものでした。この罪状は「ローマ帝国に対する反逆者」を意味しています。イエスが誕生したとき、すでにパレスチナはローマ帝国の支配下にありましたが、いちおうはヘロデ大王と呼ばれる王がいて、ローマ帝国を後ろ盾としてパレスチナを支配していました。イエスが成人して活動した時代には、ガリラヤ地方にはヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスという領主がいましたが、ユダヤ地方はローマ帝国の直轄領になっていました。つまり「ユダヤ人の王」はいてはならないわけであり、もし誰かが自分を「ユダヤ人の王」だと主張すれば、ローマの支配に対する反逆者ということになるのです。

  (2) 「王」という言葉はギリシア語で「バシレウスbasileus」と言います。この言葉から「国=バシレイアbasileia」という言葉が生まれました。これは英語で言えば「King」と「Kingdom」の関係ですので、「バシレイア」は「王国」と訳したほうが正確だとも言えます。またバシレイアには、「王としての支配、王であること、王になること」という意味もあります。現代では「共和国」という王様のいない国がありますが、古代では王なしに国は考えられませんでした。ピラトはイエスが「わたしの国(=バシレイア)」(36節)と言ったのを聞いたので、「それでは、やはり王(=バシレウス)なのか」(37節)と問い詰めるのです。
 
  (3) 「この世には属していない」(36節に2回)と訳されている箇所は、直訳では「わたしの国はこの世の中からのものではない」です。「~の中から」というところには「エックek」という前置詞が使われています。新共同訳のように「この世に属していない」ととることもできますが、むしろ「この世に根拠をおいていない」という意味にとったほうがよいでしょう。イエスのバシレイア(王国)は、この世のバシレイアと違います。それは宗教的領域と世俗的領域というような領域の違いというよりも、因(よ)って立つ根本原理の違いです。イエスの身を守るために弟子たちが戦うというのは、この世の原理でしょう。これは力の原理です。一方イエスは「真理について証しする」のであり、イエスのバシレイアは、人間の力ではないものに根拠を置いているのです。

  (4) 「真理」と訳された言葉はギリシア語の「アレーテイアaletheia」ですが、この言葉にはもともと「隠されていないこと」という意味があります。ギリシア人にとって真理とは、「そのものの外見の覆いを取り去った本質」というようなニュアンスがあります。一方、「真理」と訳されるヘブライ語は「エメト」です。これは「アーメン」という言葉と同じ語根で「確かなもの、頼りになるもの」を表します。
 ヨハネ福音書には「真理」という言葉がよく使われていますが、この両方のニュアンスがあるようです。ヨハネ福音書の「真理」は、決して抽象的・哲学的な真理ではなく、「何よりも確かで、頼りになる神ご自身をイエスが言葉と生き方をとおして現す」ということを示している言葉なのです。きょうの箇所の続きで、ギリシア・ローマ文化の中に生きるピラトは「真理とは何か」(38節)と問いかけますが、イエスは何も答えません。この対話はここで終わっています。イエスの語る「真理」は抽象的な哲学論議の問題ではないのです。この真理とは、イエスの生涯、特に十字架と復活の中に現されるものなのです。

  (5) 「真理」という言葉は人間によって悪用されてきた面もあります。ある人々が、自分たちは「真理」を持っていると主張し、その「真理」を振りかざすところから、生きている人間の喜びや苦しみを無視した残虐な行為に走ることができるとしたら、真理とは非常に危険なものではないでしょうか(たとえば「○○○真理教」!)。
イエスの真理は違います。イエスがあかしする「真理」とはなんでしょうか。それはヨハネ福音書の内容に即して言えば、「神が愛であること」だと言ってもよいでしょう。
 1章17-18節「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」
3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 13章1節「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」
 15章9-10節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」

  (6) 「神が愛であること」、この真理はイエスの生涯全体をとおして示されました。そして、最終的に、いつかそのことが誰の目にも明らかになる、と信じるのが終末についてのキリスト者の信仰です。きょうの「王であるキリスト」の祭日に祝う「イエスが王となる」ということは、「神の愛・イエスの愛がすべてにおいてすべてとなる」ことだと言うことができます。そしてこの終末における愛の完成を信じるからこそ、今のわたしたちが何を大切にして生きるのか、ということが問われてくるのです。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


聖書朗読箇所

第一朗読 ダニエル7・13-14


13夜の幻をなお見ていると、
見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り
「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み
14権威、威光、王権を受けた。
諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え
彼の支配はとこしえに続き
その統治は滅びることがない。


第二朗読 黙示録1・5-8


 5証人〔であり〕、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにあるように。わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、 6わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。
見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、
ことに、彼を突き刺した者どもは。
地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。
8神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」


福音朗読 ヨハネ18・33b-37


 33b〔そのとき、ピラトはイエスに、〕「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。 34イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」 35ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」 36イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」 37そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」


Posted on 2018/11/16 Fri. 09:00 [edit]

category: 2018年(主日B年)

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