FC2ブログ

福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

待降節第1主日(2018/12/2 ルカ21章25-28,34-36節)  


教会暦と聖書の流れ


 ルカ福音書21章8-36節の、終末についての長い説教から採られた箇所です。場面は少し違いますが、内容としては、先々週のB年年間第33主日に読まれたマルコ13章の箇所とよく似ています。年間の終わりの「終末」というテーマは待降節の初めに引き継がれていきます。「待降節」はラテン語では「アドヴェントゥスAdventus」(英語では「Advent」)で、「到来」を意味しますが、この到来には2重の意味があります。
 「待降節は二重の特質をもつ。それは、まず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に、その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる。」(『典礼暦年に関する一般原則』39)


福音のヒント


20181202.png
  (1)「太陽と月と星に徴(しるし)が現れる」というような天体の異変は、イザヤ13章10節、エゼキエル32章7節、ヨエル2章10節などにも見られます。これは、人間の罪に対する神の裁きの到来を表す表現です。世の終わりは確かに一面では破滅のメッセージなのです。現代のわたしたちが思い描く世界の終わりも、世界全面核戦争であったり、地球環境の悪化による人類の滅亡であったりして、やはり破滅そのものであり、そこには何の救いも感じられないかもしれません。しかし、聖書の終わりについてのメッセージは同時に救いの完成のメッセージでもあります。なぜなら、その時が神との出会いの時でもあるからです。
 「終末=世界の終わり」と言われてもピンとこないとしたら、「個人の終わり=死」について考えてみると良いでしょう。いつか「その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」(34節)という面では同じなのです。それは時間と空間の中にある肉体的生命の終わりの時ですが、同時に時間の流れを越えた「永遠」との出会いの時でもあります。そして、そこに向かって、今をどう生きるかがわたしたちに問われるのです。
 この永遠との出会いの中で「神の愛がすべてにおいてすべてとなる」ということがわたしたちキリスト者の希望です。そこには「神の愛に反する一切のものが滅びる」という面があることも否定できません。しかし、聖書の「終わり」についてのメッセージは、人々の恐怖心をあおり立てるためにあるのではありません。むしろ「神の愛に信頼し、その愛を生きるように」と人々を励ますためのメッセージなのです。きょうの箇所もそのように受け取ったらよいでしょう。

  (2) 28節の「解放」と訳された言葉は、ギリシア語の「アポリュトローシスapolytrosis」です。これは本来、「身代金を払って奴隷を解放すること」を意味する言葉です。「あがない」と訳すこともできますが、ここでは、完全な救いの実現を表す言葉として受け取ればよいでしょう。わたしたちにとって、いったい何からの「解放」でしょうか。逆に言えば、わたしたちは今、何に縛られているのでしょうか?
 25-26節から考えれば、それは「この世界の混乱に対する不安」だと言ったらよいかもしれません。戦争やテロ・犯罪や暴力というこの世界の現実、あるいは甚大な被害をもたらす自然災害や事故など。それらを見れば見るほど悲観的になり、どこにも救いがないと感じられるかもしれません。しかし、このような現実の中でも神はわたしたちを救いと解放に導いてくださっているとイエスは約束されるのです。
 あるいは、わたしたちを縛っているものは、「放縦(ほうじゅう)や深酒(ふかざけ)や生活の煩(わずら)い」(34節)だとも言えるでしょうか。財産や快適な生活に固執して、本当に大切な生き方を見失っているのもわたしたちの現実の一面でしょう。そこからの「解放」と考えても良いのかもしれません。

  (3)「いつも目を覚まして祈りなさい」の「目を覚ましている」とはどういうことでしょうか。マルコ、マタイ、ルカの各福音書ではそれぞれにニュアンスが違うようです。
 マルコ13章では、目に見えるものではなく、目に見えない確かなもの、すなわち決して滅びることのないイエスの言葉に信頼を置くように、という勧告だと言えそうです(B年年間第33主日の「福音のヒント」参照)。
 マタイ24-25章で、「目をさましていなさい」という命令は、最終的に、「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)というイエスの宣言につながっていきます。「目を覚ましている」とは、現実の生活の中で目の前の苦しんでいる人を大切にして生きることなのです(A年待降節第1主日の「福音のヒント」参照)。

  (4) ルカ福音書は、目を覚ましていることを祈ることと結びつけます。「目を覚ましていることとは祈ることだ」と言っても良さそうです。この「祈り」は「心が鈍くならないように」(34節)するためであり、「起ころうとしているこれらすべてのことから逃れ」るためであり、さらに「人の子の前に立つことができるように」(36節)なるためのものです。
 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くなる」というのはおそらく誰もが経験することでしょう。目先の快楽や自分の生活の安定、損得勘定にはとても敏感なのがわたしたちの日常だと言えるかもしれません。しかし、「祈り」によって、わたしたちは、それよりももっと大切なことに心を向けようとするのです。
 「祈り」は、「起ころうとしているこれらすべてのこと」、すなわち、現実の悲惨さや絶望的な状況、迫り来る「終わり」を突き抜けて、神に心を向けることでもあります。
 27,36節の「人の子」は栄光のうちに再び来られるキリストのことですが、キリストが愛によってすべてを完成してくださるその時に向けてふさわしく生きるようにさせてくれるのも「祈り」の力です。パウロは「そのときには、顔と顔を合わせて見る」(Ⅰコリント13章12節)と言います。「祈り」とは、このキリストとの決定的な出会いを待ち望み、「来られるキリスト」に心の目を向けていくことなのです。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


聖書朗読箇所

第一朗読 エレミヤ33・14-16


14見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。15その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。16その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。


第二朗読 一テサロニケ3・12-4・2


 12〔皆さん、〕どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように、わたしたちがあなたがたを愛しているように。13そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン。
 4・1さて、兄弟たち、主イエスに結ばれた者としてわたしたちは更に願い、また勧めます。あなたがたは、神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを、わたしたちから学びました。そして、現にそのように歩んでいますが、どうか、その歩みを今後も更に続けてください。2わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなたがたはよく知っているはずです。


福音朗読 ルカ21・25-28、34-36


 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕25「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。26人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。27そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。28このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
 34放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。36しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

Posted on 2018/11/23 Fri. 08:30 [edit]

category: 2019年(主日C年)

tb: 0   cm: --

トラックバック

トラックバックURL
→http://fukuinhint.blog.fc2.com/tb.php/756-5be5dde6
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

最新記事

カテゴリ

福音のヒントQRコード

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク


▲Page top