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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

待降節第2主日 (2019/12/8 マタイ3章1-12節)  

教会暦と聖書の流れ


 待降節を、英語では「アドベントAdvent」と言いますが、元はラテン語から来た言葉で、本来の意味は「到来」です。待降節第2、第3主日の福音では毎年、洗礼者ヨハネに関する箇所が読まれます。それはわたしたちが洗礼者ヨハネの弟子になるためではありません。わたしたちはイエスの弟子になろうとしています。そのために、洗礼者ヨハネとともに、彼がその到来を告げ知らせた「来(きた)るべき方」のほうに心を向けていくのです。


福音のヒント


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  (1) 洗礼者ヨハネは「預言者」でした。洗礼者ヨハネが登場した時代、すでに文字に書かれた聖書(旧約聖書)ができあがっていました。神は聖書を通して語られるのであって、もう生身の預言者の口をとおして民に語りかけることはない、という雰囲気がありました。その中で、洗礼者ヨハネは「今、神が語られる言葉」を告げます。
 彼の活動は伝統的な預言者のスタイルを意図的に再現したものでした。「荒れ野」は生きるために厳しい場所ですが、イスラエルの伝統の中では、神との出会いの場でもありました。生きるか死ぬかのギリギリのところで、それでもなお自分を生かしてくださる神の存在を身近に感じ取ることができるのです。洗礼者ヨハネはこの荒れ野で神の声を聞き、町に住む人々に語りかけます。だから彼は「声」(3節)と呼ばれます(ちなみにこの箇所はイザヤ40章3節の引用ですが、福音書は原文を少し変えて引用しています)。「毛衣と革の帯」は、列王記下1章8節に伝えられている預言者エリヤと同じ服装です。「いなごと野蜜を食物としていた」は、荒れ野の中でかろうじて手に入れられるものだけで生きていた、すなわちほとんど断食のような生活をしていた、ということです。このように、ヨハネは典型的な預言者だったのです。

  (2) 洗礼者ヨハネが呼びかけたのは「回心」でした。ヨハネにとって「差し迫った神の怒り」(7節)が問題でした。そこから救われるために必要なことは「悔い改め、回心」(ギリシア語で「メタノイアmetanoia」)でした(2節)。この悔い改めは、すべての人に求められました。「自分たちはアブラハムの子孫だ」という誇りや安心感は、神の裁きの前では何の役にも立ちません(9節)。すべての人が今、回心しなければならないのです。しかしこのことは逆に、どんな人でも今、回心すれば救いにあずかれる、という希望のメッセージにもなりました(こんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。9節)。そして、その回心のしるしが「洗礼」だったのです。
 また、同時に大切なことは、「悔い改めにふさわしい実を結ぶこと」(8節)、「良い実を結ぶこと」(10節)です。洗礼者ヨハネが求めたことは、具体的な生活の改善でした。それはそれぞれの人が自分の置かれた生活の場の中で、愛と正義を行うことだったのです(ルカ3章11-14節参照)。

  (3) ヨハネは、自分の「後から来る方」について語っています。そして「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言います(11節)。キリスト教は、イエスこそが洗礼者ヨハネの告げた「来(きた)るべき方」だと考えます。「洗礼を授ける」はギリシア語では「バプティゾーbaptizo」という1つの動詞で、本来の意味は「沈める、浸す」です。「聖霊と火で洗礼を授ける」というのも本来は「聖霊と火の中に人を沈める、浸す」というイメージなのです(実際、ヨハネの洗礼もヨルダン川に人の全身を沈めるものでした)。これを「神のいのちである聖霊を与え、愛の火で人を清める」という意味に受け取るようになったのは、キリスト教による理解です。
 しかし、洗礼者ヨハネ自身はこういう意味でこの言葉を語ったのでしょうか? この直後に「手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(12節)という言葉があります。「箕」は麦の実ともみ殻を分けるための農具です。麦の実と殻が混じったものを箕に入れてほうりあげると、軽いもみ殻は風に飛ばされ、重い麦粒だけをより分けることができるのです。聖霊の「霊(プネウマ)」にはもともと風の意味がありますが、この「風と火に浸す」のイメージは、来るべき方が怒りと罰をもたらす方だということを言おうとしていたのではないでしょうか。
 一方、実際に来られたイエスは、決して「怒りと罰」をもたらしたのではありませんでした。イエスのメッセージの中にも厳しい裁きの面はありますが、イエスがもたらしたものはむしろ、ゆるしと恵みでした。だからわたしたちは、恐れおののきつつ、来るべき方を待つのではありません。「愛と喜びに包まれた待望の時」(典礼暦年に関する一般原則39の言葉)として、この待降節を過ごしているのです。

  (4) 「悔い改めよ。天の国は近づいた」(2節)。マタイ福音書によれば、イエスもまったく同じ言葉でご自分の活動を始めました(4章17節)。ヨハネもイエスも同じように切実な終末意識を持って、人々に回心を呼びかけたのです。「悔い改め、回心」の原語の「メタノイア」は「心を変えること」を意味しています。それは単なる「改心」というよりも、「神に心を向け直すこと」「主に立ち返る」ことなのです。
 ただ、洗礼者ヨハネの場合は「近づいているが、まだ来ていない」のに対して、イエスの場合は「近づいてきて、ある意味でもうすでに始まっている」というところに決定的な違いがあります。イエスは、父である神の愛のバシレイアbasileia(王国、支配)がもう始まっている、だから「その父である神に心を向けなさい」と呼びかけるのです。
 待降節を過ごしているわたしたちにも両面があります。確かにイエスは2000年前に来られ、神の国はすでに始まった、という面と、最終的にいつか本当の意味で実現する、という面。また、それだけでなく、わたしたちの生活の中に日々「主は来られている」ということも大切でしょう。この「日々の到来(アドベント)」についてはわたしたちの姿勢がいつも問われます。わたしたちが回心と信仰を持って受け入れなければ、日々のアドベントは受け取れません。その意味で、洗礼者ヨハネのメッセージは今のわたしたちにとっても切実な呼びかけだと言えるのではないでしょうか。




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「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ11・1-10


1〔その日、〕エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
2その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。
3彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず
耳にするところによって弁護することはない。
4弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。
その口の鞭をもって地を打ち
唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
5正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる。
6狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。
7牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
8乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。
9わたしの聖なる山においては
何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。
水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。
10その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。


第二朗読 ローマ15・4-9


 4〔皆さん、〕かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。5忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、6心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。
7だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。8わたしは言う。キリストは神の真実を現すために、割礼ある者たちに仕える者となられたのです。それは、先祖たちに対する約束を確証されるためであり、9異邦人が神をその憐れみのゆえにたたえるようになるためです。
 「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」と書いてあるとおりです。


福音朗読 マタイ3・1-12


 1そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、2「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」
 4ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。5そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、6罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
 7ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。8悔い改めにふさわしい実を結べ。9『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。10斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。11わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。12そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

Posted on 2019/11/29 Fri. 09:32 [edit]

category: 2020年(主日A年)

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