福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
待降節第3主日 (2019/12/15 マタイ11章2-11節) 
教会暦と聖書の流れ
先週に引き続き、きょうの福音にも洗礼者ヨハネが登場しますが、本当の主役はもちろんイエスご自身です。きょうの箇所では、イエスによって実現したことが何だったのか、ということが示されています。「待降節第3主日」は「喜びの主日」と言われてきました。待降節は、英語でアドベントAdvent (「到来」の意味)ですが、イエスの到来によってもたらされた喜びとは何なのかを味わう箇所としてきょうの福音を読むと良いでしょう。
福音のヒント
(1) イエスがヨルダン川で洗礼を受けたとき、すでに洗礼者ヨハネはイエスを「来(きた)るべき方」だと認めていたはずです(マタイ3章14節参照)。それなのになぜ、きょうのこの箇所で「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と自分の弟子たちに質問させたのでしょうか。
一つの考えはこうです。洗礼者ヨハネは捕らえられ、自分が死を迎えることを予感していたので、自分の弟子たちの目をイエスに向けさせ、彼らをイエスのもとへ導くために、こういう指示をした。つまり、洗礼者ヨハネ自身はイエスが「来るべき方」だということを疑っていたのではない、という考えです。
もう一つの考えはこうです。やはり洗礼者ヨハネは疑問に思った。それはヨハネが思い描いていた「来るべき方」のイメージと、実際に到来したイエスの姿が大きく異なっていたからではないか。洗礼者ヨハネは「来るべき方」について告げ知らせましたが、ヨハネが思い描いていたのは「神の怒りと裁きをもたらす方」でした。ヨハネは実際のイエスの活動を見聞きして、それが自分の考えるメシア(=キリスト)のイメージと違うことに戸惑ったのではないでしょうか。
(2) 2節の「キリストのなさったこと」という言葉は「キリストの業(わざ)」とも訳せます。これはただ単に「イエスがしていた行為」というだけでなく、「イエスがキリスト(救い主)として行なっていた行為」という意味に取ることもできる言葉です。イエスの答えは、イエスの周りで実際に何が起こっているかに目を向けさせるものでした。それは旧約聖書の救いの到来に関する預言の成就と言えることです。 特に次の箇所が思い浮かびます。
「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍(おど)り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」(イザヤ35章5-6節)
「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(イザヤ61章1節)
(3) 「貧しい人」というのは「さまざまな事情で圧迫され小さくなっている人」のことです。「目の見えない人」「足の不自由な人」などは皆、「貧しい人」と別の人のことではないでしょう。苦しみの中にあって神の救いを待ち望んでいるすべての人が「貧しい人」と呼ばれている、と考えたらよいのではないでしょうか。「神の救いに飢え渇く人」と言ったほうが分かりやすいかもしれません。それは「神なしで満ち足りている」というのとは正反対の状態だと言えます。
ルカ4章16-21節でも、イエスは「貧しい人に福音を告げ知らせる」という言葉をご自分に当てはめています。この言葉は、イエスの使命、イエスがもたらしたものを実に簡潔明瞭に表す言葉だと言えます。
では、わたしたちの「貧しさ」とは何でしょうか。わたしたちにとっての「福音」とは何でしょうか。
(4) わたしの中の「貧しい部分」「飢え渇いている部分」は何でしょうか。わたしたちの周りの家庭や社会、この世界の中で「貧しい部分」「飢え渇いている部分」は何でしょうか。このようにわたしたち自身の「貧しさ」を見つめることは、実は待降節の大切なテーマです。ルカ福音書の伝えるイエスの誕生の物語は、旅をしている貧しい夫婦、飼い葉桶の中の貧しい幼子、そして最初にこの幼子を訪れた貧しい羊飼いの姿を伝えています。イエスの誕生が貧しい人々にもたらした救いの喜びを深く味わうのがクリスマスの祝いの意味なのです。
イエスによって実現したこと(=キリストの業)は、単なる病気のいやしではありません。イエスが2000年前の貧しい人々に何をもたらしたのか、今の貧しいわたしたちに何をもたらしてくれるのか、いくつかのヒントを挙げてみます。
1. この貧しさや苦しみの中で、自分はまったく独りぼっちではないと気づくこと!
2. この世界は神がともにいてくださる世界であると気づくこと!
3. だから、わたしたちの心に信頼と希望と愛が生まれること!
そういう体験がわたしたちにもあるのではないでしょうか。だとしたら、それがわたしたちにとっての「到来(アドベント)」であり「降誕」なのではないでしょうか。
(5) 11節の「天の国」はマタイ福音書特有の言い方で、「神の国」と同じ意味です。「国」はギリシア語では「バシレイアbasileia」です。この言葉は「王(バシレウスbasileus)」から来た言葉で「王であること、王としての支配、王が治める国(=王国)」を意味します。
イエスは洗礼者ヨハネを預言者として、人間として最大限に評価していますが、同時に「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言っています。それは、ヨハネが神のバシレイアの「準備の時代」の人であったのに、イエスの救いを受け取った人は、その「実現の時代」にいる、ということを意味しているのでしょう。イエスと共にまったく新しい救いの時代が始まっているのです。
わたしたちはこの「もうすでに始まっている神のバシレイア(国、支配)」に生きているはずです。そしてイエスによって始められた神のバシレイアをもうすでに生き始めているからこそ、わたしたちは、世の終わりの(あるいは、人生の終わりの)ときの「救いの完成」に向けての確かな希望を持つことができるのです。
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第一朗読 イザヤ35・1-6a、10
1荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野ばらの花を一面に咲かせよ。
2花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。
砂漠はレバノンの栄光を与えられ、カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
3弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。
4心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。」
5そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。
6aそのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
10主に贖われた人々は帰って来る。
とこしえの喜びを先頭に立てて
喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る。
第二朗読 ヤコブ5・7-10
7兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。8あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。9兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます。10兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。
福音朗読 マタイ11・2-11
2[そのとき、]ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、3尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」4イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。5目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
6わたしにつまずかない人は幸いである。」
7ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。8では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。9では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
10『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、
あなたの前に道を準備させよう』
と書いてあるのは、この人のことだ。11はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」
Posted on 2019/12/06 Fri. 14:45 [edit]
category: 2020年(主日A年)
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