fc2ブログ

福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

主の洗礼 (2020/1/12 マタイ3章13-17節)  


教会暦と聖書の流れ


  降誕節を締めくくるのは主の洗礼の祝日です。イエスがヨルダン川で洗礼を受けたのは、イエスが誕生してから30年もたった後の出来事ですが、ここには「イエスの神の子としての現れ」という降誕節のテーマが続いているのです。
 同時にこの出来事はイエスの活動の出発点でもあります。主の洗礼の祝日の翌日から「年間」となり、福音を告げるイエスの活動の歩みが記念されていきます。


福音のヒント


Anen_senrei.png

  (1) マタイ福音書は洗礼者ヨハネとイエスのメッセージを、「悔い改めよ、天の国は近づいた」(3章2節と4章17節)というまったく同じ言葉で紹介しています。きょうの箇所でもイエスは「正しいことをすべて行うのは、我々(=ヨハネとイエス)にふさわしいことです」と言います。マタイ福音書は洗礼者ヨハネとイエスの共通性を強調していると言えるかもしれません。二人は神の同じ一つの計画の中にいるのです。

  (2) 洗礼を受けたという事実よりも大切なのは、その後に起こったことです。 (a)天が裂け、(b)聖霊がイエスに降(くだ)、(c)「わたしの愛する子」という声が聞こえた
 (a)の「天が裂け」というのは、神がこの世界に介入してくることを表す表現です。イザヤ63章19節には「あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名(みな)で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降(くだ)ってください。御前(みまえ)に山々が揺れ動くように」という言葉があります。
 (b)の「聖霊が鳩のように」は、「鳩」が翼をひろげて舞い降りるときのように、聖霊に覆われるイメージを表す表現です。
 (b)と(c)の出来事について、マタイ、マルコ、ルカは微妙に表現が違います。マルコでは聖霊を体験するのはイエスご自身で(イエスが見た!)、声も「あなたは」とイエスに向かって語りかけています(マルコ1章10-11節)。ルカでは、聖霊が「目に見える姿でイエスの上に降ってきた」と客観的な描写のようになっていますが、声のほうはマルコと同じく「あなたは」とイエスに向かって語りかけます(ルカ3章21-22節)。マタイでは、聖霊が降るのを見るのはイエスご自身ですが、声のほうは「これは」という三人称で周りの人にも聞こえたような印象があります。つまりこの出来事は、一方では、洗礼者ヨハネはじめその場にいた人々が見聞きすることのできる出来事だったようでもあり、もう一方ではイエスの内面的な体験と見ることもできるようなものだとも言えそうです。この出来事には、イエスが神の子として現されたという面、と同時に、イエスが神の子としての使命を特別に自覚したという面の両方があると考えたらよいかもしれません。

  (3) 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という言葉の背景には、イザヤ42章1節以下があると言われています。新共同訳ではこうなっています。
 「1見よ、わたしの僕(しもべ)、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。2彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷(ちまた)に響かせない。3傷ついた葦(あし)を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。4暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」
 「主の僕(しもべ)の召命」と呼ばれる箇所です。この「僕」のギリシア語訳は「パイスpais」で「家の中の小さい人たち=子どもや僕」を意味する言葉です。福音書の「子」は「ヒュイオス(hyios)」で「息子」を意味する言葉ですが、イメージとしてはつながっています。つまり、この「愛する子」という言葉に、イエスが神の子として、主の僕としての使命を生き始めることが示されているわけです。

  (4) 「あなたはわたしの愛する子」この言葉は、ある意味でわたしたちすべてに向けて語られている言葉だと言えるでしょう。わたしたちの洗礼は、わたしたちが「神の愛する子」とされることを表しています。
 この「イエスのヨルダン川での洗礼→わたしたちの洗礼」というつながりも大切ですが、「ヨルダン川→ペンテコステ→堅信の秘跡」というつながりも大切です。イエスの復活後50日目のペンテコステ(五旬祭)の日、使徒たちの上に聖霊が降り、使徒たちは福音を告げる活動を始めました(使徒言行録2章)。堅信の秘跡は、同じようにわたしたちが聖霊を受けて教会の使命に積極的に参加することを表すものです。聖書の多くの箇所で聖霊は「ミッション(派遣・使命)」と結びついています(新約聖書では、ルカ1章30-35節、ヨハネ20章21-22節などを参照)。弱い人間が神から与えられた使命を果たすことができるように、神の力である聖霊が与えられます。これこそが堅信の秘跡の中心テーマなのです。 
 「自分が神に愛された子であると深く受け取ること」「聖霊に支えられて神の子としてのミッションを生きること」もちろん、それは秘跡の中だけのことではないはずです。どんなときにわたしたちはそう感じることができるでしょうか。

  (5) 「洗礼」はギリシア語では「バプティスマbaptisma」で、元の意味は「水に沈めること、浸すこと」です。洗礼者ヨハネが行なっていた洗礼も、初代キリスト教会の洗礼も、人の全身を水の中に沈めるものでした。いったん水の中に沈み、そこから立ち上がることは、古い(罪の)自分に死んで、新しい(神の)いのちに生きることを意味しています。
 洗礼者ヨハネにとって、洗礼は何よりも回心(悔い改め)のしるしでした。イエスは罪なき方であったのに、他の人々とともにこの回心のしるしである洗礼を受けました。そこにイエスの、罪びとである人間との深い連帯性を見ることもできるかもしれません。人々とともに苦しみの水の中に沈み(マルコ10・38参照)、人々とともに神のいのちへと立ち上がる、この洗礼の出来事の中に、イエスの生き方全体を表す象徴的な意味を感じ取ることもできます。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。


聖書朗読箇所

第一朗読 イザヤ42・1-4、6-7


 〔主は言われる。〕見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく暗くなってゆく灯心を消すことなく裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。
 主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼びあなたの手を取った。民の契約、諸国の光としてあなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から闇に住む人をその牢獄から救い出すために。


第二朗読 使徒言行録10・34-38


 〔その日、〕ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって――この方こそ、すべての人の主です――平和を告げ知らせて、イスラエルの子らに送ってくださった御言葉を、あなたがたはご存じでしょう。ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。」


福音朗読 マタイ3・13-17


 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

Posted on 2020/01/03 Fri. 17:15 [edit]

category: 2020年(主日A年)

tb: 0   cm: --

トラックバック

トラックバックURL
→http://fukuinhint.blog.fc2.com/tb.php/814-1845149a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

最新記事

カテゴリ

福音のヒントQRコード

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク


▲Page top