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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

復活節第3主日 (2020/4/26 ルカ24章13-35節)  


教会暦と聖書の流れ


 きょうの箇所も「復活したイエスと弟子たちとの出会い」の物語です。先週(復活節第2主日)のヨハネ20章同様、この箇所も2000年前の出来事というだけでなく、「生きておられる」(ルカ24章23節)イエスと今のわたしたちとの出会いの物語として読むことができるでしょう。ミサや聖餐(せいさん)式との関連もよく指摘されています。聖書の言葉を聞き、パンを裂く集いの中にいつも復活したイエスが共にいてくださるということを味わうために、最適の箇所と言えるでしょう。


福音のヒント


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  (1) きょうの福音の弟子たちのように、失意のうちに暗い顔をして歩んでいるときにこそ、気づかないけれどイエスがともにいてくださる。もちろん、苦しみや悲しみの真っ只中にいるときにはなかなかそのように感じられないでしょう。しかし、後になってから「ああ、やっぱりあの時イエスは一緒にいて支えていてくれたのだ」と気づくことがあります。
わたしたちの中にそういう経験があるでしょうか。

  (2) 「イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(ルカ24章25-27節)
 「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体・・・」は旧約聖書全体がメシアの苦しみと栄光について述べている、ということですが、ルカでは特にイザヤ52章13節~53章12節の主の僕(しもべ)の歌のことが考えられていると言えるかもしれません。ルカが福音書の続編として書いた使徒言行録8章で、フィリポがエチオピア人の宦官(かんがん)から「預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」(34節)と問いかけられたのはまさにこの箇所についてだったからです。
 「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」(イザヤ52章13節)。
 「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人(つみびと)のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」(イザヤ53章11-12節)

  (3) また、きょうの第一朗読に引用された詩編も思い浮かべることができるでしょう。
 「わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、/わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、/舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を陰府(よみ)に捨てておかず、/あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、/御前(みまえ)にいるわたしを喜びで満たしてくださる。」(使2章25-28節、詩編16編8-11節参照)
 これらの箇所が語っているのはイエスのことだと、弟子たちが理解するためには、心の目が開かれる必要がありました。旧約聖書を読むときに、それをイエスと結びつけて読むというのは教会の伝統ですが、きょうの箇所によれば、そのような読み方はイエスご自身が示してくださった読み方なのです。そして、わたしたちの目を開いて聖書を悟らせてくださるのは、復活されたイエスご自身なのです

  (4) 復活のイエスとは一目見れば分かるような方ではなく、ある瞬間に「そうだ、やっぱりイエスは生きていてわたしたちと共にいてくださる」と気づくような方でした。きょうの箇所の弟子たちにとって、それはパンを裂いたときでした。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。」(ルカ24章30節)。5つのパンを大群衆に分け与えたとき(9章16節)も、最後の晩さんのとき(22章19節)もイエスは同じようにされまました。イエスのこの動作は弟子たちにとって特別に印象深いものだったようです。
 復活したイエスに気づくためのしるしは、ヨハネ20章16節のマグダラのマリアにとっては、「マリア」という呼び声でした。ヨハネ20章20節の弟子たちにとっては「手とわき腹の傷」でした。これらは皆、目の前に立っている人と生前のイエスを結びつけるしるしでした。わたしたちも自分が経験している出来事の中に、福音書のイエスの姿を思い出させる何かが感じられたとき、自分たちの現実の中にイエスがいてくださることに気づくのだと言うことができるのではないでしょうか。それは乏しい中で持っているものを分かち合うことによって皆が満たされるという体験であったり、打ちひしがれている人が立ち上がる勇気を得るというような体験であったり、対立している人びとの間に心が通い合ったりするというような体験でしょう。そのように、わたしたちの「心が燃えていた」(ルカ24章32節)体験を分かち合えたら素晴らしいことです。

  (5) 「一緒にお泊まりください」(29節)の「泊まる」は「とどまる」とも訳される言葉です。「主よ、いつもわたしたちと一緒にいてください」それはわたしたちの心からの願いでもあるのではないでしょうか。
 先週の福音と同様、この物語の中にも、コミュニティー(共同体)というテーマを感じ取ることができるでしょう。イエスの死は弟子たちのコミュニティーをバラバラにしてしまう出来事でした。この2人も失望し、ほかの弟子たちを離れて2人だけでエマオに向かって行きました。しかし、たった1人ではなく、2人連れでした。2人で話している間に、次第に2人とともにいてくださるイエスに気づいていきます。そして生きているイエスに出会った2人は、エルサレムに残っていたほかの弟子たちのところに走って戻ることになりました。復活の主との出会いはいつも人と人との間に起こり、人と人とを再び1つに集める力になると言えるのではないでしょうか。




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聖書朗読箇所

第一朗読 使徒言行録2・14,22-33


 14〔五旬祭の日、〕ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。22ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。23このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。24しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。25ダビデは、イエスについてこう言っています。
 『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。
 主がわたしの右におられるので、
 わたしは決して動揺しない。
26だから、わたしの心は楽しみ、
 舌は喜びたたえる。
 体も希望のうちに生きるであろう。
27あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、
 あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。
28あなたは、命に至る道をわたしに示し、
 御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』
 29兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。30ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。31そして、キリストの復活について前もって知り、
 『彼は陰府に捨てておかれず、
 その体は朽ち果てることがない』
と語りました。32神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。33それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」


第二朗読 一ペトロ1・17-21


 17〔愛する皆さん、〕あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。18知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、19きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。20キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。21あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。


福音朗読 ルカ24・13-35


 13この日、〔すなわち週の初めの日、〕二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14この一切の出来事について話し合っていた。15話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」25そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
 28一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。32二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

Posted on 2020/04/17 Fri. 11:49 [edit]

category: 2020年(主日A年)

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