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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

キリストの聖体 (2020/6/14 ヨハネ6章51-58節)  


教会暦と聖書の流れ


 キリストの聖体の祭日は本来、聖霊降臨後の第二木曜日ですが、日本のような非キリスト教国では日曜日に移して祝われます。教会暦の流れから言えば、この祭日は、三位一体の主日と並んで四旬節・復活節の「余韻」と言ってよいでしょう。聖体は、「キリストの死からいのちへの過越(すぎこし)」にわたしたちが結ばれることを意味しているのです。なお、聖体の制定を特別に記念するミサは聖木曜日の「主の晩さんの夕べのミサ」です。「聖体」という同じテーマを、復活節が終わった今、もう一度味わい直すことになります。
 A年の福音の箇所は、ヨハネ6章から採られています。イエスが5つのパンと2匹の魚を5千人以上の群集に分け与えたという出来事をきっかけにして、パンをめぐるイエスと人々の対話が始まりますが、そのイエスの言葉の頂点と言うべき箇所がきょうの箇所です。


福音のヒント


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  (1) 51節と58節にはほとんど同じような表現「天から降(くだ)って来たパン」「このパンを食べるならば永遠に生きる」が繰り返され、きょうの箇所の枠組みのようになっていますが、ここにこの箇所全体のテーマが指し示されていると考えたらよいでしょう。
 「天から降って来た」という表現は、イエスが「父である神のふところにおられ、神から遣わされた」方であることを暗示しますが、一方では旧約聖書の「マナ」との関連を思わせる表現でもあります。31節で引用されている詩編78編23-25節に「神は上から雲に命じ 天の扉を開き 彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。神は天からの穀物をお与えになり 人は力ある方のパンを食べた」とあります。「マナ」はイスラエルの民を荒れ野の旅の中で養った不思議な食べ物でした(出エジプト記16章、民数記11章参照)。荒れ野という必要な食べ物に事欠く状況の中で、民は神が自分たちを生かしてくださっていることを体験しました。そのシンボルが「マナ」なのです。イエスが荒れ野の誘惑のときに引用した申命記8章3節も「マナ」についての言葉です。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」人は食べ物によって生きるのではなく、神によって生きる。これがマナの意味していたことだったのです。

  (2) ヨハネ6章でイエスがパンについて語ってきたことは、35節以降一貫して「わたしはパンである」ということでした。もちろんそれは「イエスが人のいのちを真に生かす方である」ということを意味しています。そして「このパン(=イエス)を食べる」ということは、「イエスのもとに来て、イエスを信じる」ということを意味しています。きょうの箇所の始めにある「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(51節前半)はその典型であり、頂点だと言えます。
 一方、51節の終わりには「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われ、ここでは「イエス=パン」ではなく「イエスが与えるもの=パン」になっています。微妙な変化ですが、ここから直接的に「聖体のパン」のことが語られていると考えることができるでしょう。なお、58節の「これは天から降って来たパンである」は「イエス=パン」と「イエスの与えるパン=聖体」の両方の意味を含む、全体のまとめの文章だと考えられます。

  (3) 53~56節では「わたしの肉を食べ」と「血を飲む」というなまなましい表現が使われています。ここでは、聖体のパンとぶどう酒を実際にいただくことが強調されているのでしょうか。あるいは、イエスの「むさぼられ、食い尽くされる体、流される血」という受難のイメージとのつながりがあるのでしょうか。
 いずれにせよ、ヨハネ福音書にとって「イエスを信じること」と「聖体をいただくこと(イエスの肉を食べ、血を飲むこと)」は別々のことではなく、1つのことと考えられているのでしょう。続く56-57節でもそのことがはっきりと示されています。「56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」ヨハネ福音書は、聖体を「食べれば何かよい効果がある魔法のお薬」のように考えているのではありません。「コムニオcommunio(聖体拝領を意味するラテン語)」によって実現するのは、「人がキリストのうちにいて、また、キリストがその人のうちにいる」ようになること、そして「人がキリストによって生きるものとなること」なのです。
 
  (4) わたしたちは何によって生かされているのか。きょうの福音はそのことを問いかけてきます。この問いかけは、「わたしたちがイエスによって、聖体によって生かされるとは本当のところどういうことか」と言い換えてもよいかもしれません。
 「わたしはいのちのパンである」というような宣言は、ヘタをすると単なる言葉による自己主張のように聞こえてしまうかもしれませんが、その背景にはいつもイエスの実際の行動・生き方があります。その意味で、6章のはじめの5つのパンと2匹の魚の話を思い出すことは大切でしょう。イエスがなさったことは、ただ単にパンを増やしたということでしょうか? パンを分けたときのイエスの動作に注目してみましょう。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」(6章11節)。このイエスの動作が表していることは、5つのパンを物理的に5千分の1にするということではなく、このパンを与えてくださった神とのつながりを確認し、同時に、共にパンを分かち合う人と人とのつながりを確認することでした。イエスのいのちとは、十字架の死と復活にいたるまで、このような神とのつながり、人とのつながりによって生かされたいのちだったと言えるでしょう。わたしたちはそういういのちを生きているでしょうか。どんなときにわたしたちはそのようないのちを感じることができるでしょうか。




ダウンロードできます
「福音のヒント(PDF)」
 ※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。



聖書朗読箇所

第一朗読 申命記8・2-3、14b-16a


 〔モーセは民に言った。〕2あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。3主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。
 14b主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、15炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、16aあなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。


第二朗読 一コリント10・16-17


  16〔皆さん、〕わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか17パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。


福音朗読 ヨハネ6・51-58


 〔そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。〕51「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
 52それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。53イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。55わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

Posted on 2020/06/05 Fri. 09:47 [edit]

category: 2020年(主日A年)

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