福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
年間第12主日 (2020/6/21 マタイ10章26-33節) 
教会暦と聖書の流れ
四旬節・復活節とその余韻のような2つの祭日(三位一体とキリストの聖体)という長い中断の後、今日から年間主日のマタイ福音書のサイクルに戻ります。今日の箇所は12使徒を派遣するにあたってのイエスの言葉です。天の国の福音を告げ、悪霊を追い出し、病人をいやす使徒たちの活動は必ずしも好意的に受け入れられるとは限らず(マタイ10章14節)、むしろ、迫害を受けることが避けられない(10章17-23節)ことをイエスは予告します。そして、その中でどういう態度を取るべきかが今日の箇所で語られるのです。
福音のヒント
(1) 今日の箇所はルカ12章3-9節とよく似ていますが、ルカの箇所がファリサイ派の偽善に警戒せよ、という文脈の中に置かれているのに対し、マタイでは迫害を予告するという文脈の中で伝えられています。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」(マタイ10章26節)は、マルコ4章22節にもよく似た言葉があります。短いイエスの言葉が伝えられていくうちに、次第に長くまとまった形になり、それをマタイやルカがそれぞれ違った文脈の中で、自分の福音書に取り入れている、と考えることもできるでしょう。だとすると、26-27節、28節、29-31節の3つの部分を無理に関連づけずに、本来はそれぞれが独立したイエスの言葉だと受け取ることもできることになります。共通するのは26節、28節、31節の「恐れるな」という命令です(原文の語形は26節だけ違います)。「恐れるな」という言葉が、キーワードのようにこの3つの部分をつなぎ合わせていると考えることができるのです。
(2) 「覆われているもの、隠されているもの」とは何を指しているのでしょうか。本来イエスが語った状況の中では意味がはっきりしていたのでしょうが、今となってはその本来の状況は分かりません。マタイの文脈では、前の25節との関係を見ると「隠されているもの」は「彼らがイエスの弟子・僕(しもべ)であること」と言えるでしょうか。27節とのつながりでは「イエスの告げる天の国の福音」が「隠されているもの」だということになります。福音の言葉は、文脈によっていろいろな受け取り方ができることはよくあります。今のわたしたちの状況の中で、この言葉から思い浮ぶことはどんなことでしょうか。
(3) 「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(28節)。日本語では「恐れ」と「畏れ」を書き分けますが、聖書では同じ言葉です。人間は神の前で自分の小ささ・至らなさを感じるとき、それを「畏敬の念」と言ったりしますが、これはもちろん神が恐ろしい方だという意味ではありません。出エジプト記にこういう話があります。
「エジプト王は二人のヘブライ人の助産婦に命じた。・・・『お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ。』助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」(1章15-17節)。
ここで神を恐れる(=畏れる)というのは、たとえそれが強大な権力者であっても神以外のものに対する恐怖に打ち勝つこと、そして神のみ旨と信じることを実行できる(魂に忠実に生きる)ようになることでした。
(4) 「雀」は小さな鳥の総称と考えられますが、このような小鳥は、重い皮膚病の人の清めの儀式に使われた(レビ記14章)ようですし、食用にもなったそうです。「アサリオン」はローマの小額貨幣で、今で言えば約500円相当です。「2羽の雀が1アサリオン」というのは1羽では売り物にならないほど価値が低い、ということです。この雀も神に守られているというのです。雀のたとえの中に入り込んでいる髪の毛のたとえも、神の細かい配慮を強調するものです。この2つのたとえを通して、わたしたちに対する神のいつくしみは決してなくならないことが強調されます。
32-33節は地上で弟子たちが受ける人間の裁きと、天上で神の前で受ける裁きがつながっていることを表しています。「イエスの仲間であると言う、イエスを知っている」とはどういうことでしょうか。マタイ7章21-23節、25章31-46節を見ると、ただ口先で「イエスを信じます」と言うことではなく、イエスの心に忠実に従う生き方を含むと言えます。ただしこの箇所は、裁きに対する警告だけでなく、どんな苦境の中でもわたしたちは決して孤立無援ではないという力強い励ましとして受け取ることが大切でしょう。
(5) 迫害という状況でなくとも、「恐れ」ということはあります。病気、失業、犯罪、暴力、人からの裏切りなど、わたしたちに恐れを引き起こさせるものはいろいろあるでしょう。「恐れ」は必ずしも悪いことだとはいえません。病気や犯罪から身を守るために役に立つこともあるのです。
恐れが問題になるのは、恐れのために、日々の生活と人生が振り回されて、本来やるべきことができなくなってしまうときです。「恐れるな」というイエスの言葉はそういう状況の中で受け取ればよいのではないでしょうか。マタイ10章23節では「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」とも言われます。イエスは闇雲に迫害に耐えろ、とはおっしゃいません。わたしたち一人一人に「本当になすべきこと、いのちをかけても譲れないことは何か」と問いかけているのではないでしょうか。
「恐れ」の問題は他にもあります。戦争をひき起こそうとする人は、人々の恐怖心を煽(あお)ります。「何をされるか分からない。やられる前にやりかえさなければ」という思いは、人を簡単に戦争や暴力に走らせます。恐れが人の心から平安を奪い去り、富や権力、武力にしがみつくようにさせるのです。そういう状況の中で「恐れてはならない」は、冷静な心を持つように、という戒めにも聞こえます。「恐れ」に振り回されずに、今、本当に何が起こっているのか、自分にできることは何か、を見つめることが大切です。
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第一朗読 エレミヤ20・10-13
〔エレミヤは言った。〕
10わたしには聞こえています、多くの人の非難が。
「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。
「共に彼を弾劾しよう」と。
わたしの味方だった者も皆、わたしがつまずくのを待ち構えている。
「彼は惑わされて/我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。
11しかし主は、恐るべき勇士として、わたしと共にいます。
それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき
勝つことを得ず、成功することなく、甚だしく辱めを受ける。
それは忘れられることのない、とこしえの恥辱である。
12万軍の主よ
正義をもって人のはらわたと心を究め、見抜かれる方よ。
わたしに見させてください、あなたが彼らに復讐されるのを。
わたしの訴えをあなたに打ち明け/お任せします。
13主に向かって歌い、主を賛美せよ。
主は貧しい人の魂を悪事を謀る者の手から助け出される。
第二朗読 ローマ5・12-15
12〔皆さん、〕一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。13律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められないわけです。14しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです。
15しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。
福音朗読 マタイ10・26-33
〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕26「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。27わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。28体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。29二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。30あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。31だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
32「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。33しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」
Posted on 2020/06/12 Fri. 08:07 [edit]
category: 2020年(主日A年)
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