福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
年間第20主日 (2020/8/16 マタイ15章21-28節) 
教会暦と聖書の流れ
この話の直前の箇所で、イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わなかったことをきっかけに、ファリサイ派・律法学者とイエスの間で「清め」に関する議論が起こっています(15章1-20節)。ファリサイ派・律法学者は神の律法を熱心に守ろうとしたユダヤ人でしたが、細かい清めの律法を守ることを重んじ、もっとも大切な神の望み・み心を見失っていました。イエスはそのことを指摘しています。次に登場するのが、この人々の正反対とも言える人、ファリサイ派や律法学者から見れば「神を知らないはずの」異邦人の女性です。
福音のヒント
(1) 「ティルス」「シドン」はガリラヤの北、シリア・フェニキア地方に位置する異邦人の町、「カナン人」はパレスチナの古くからの住人です。同じ話はマルコ7章24-30節にもありますが、そこでは「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」と紹介されています。とにかくユダヤ人から見たら明らかに異邦人(外国人)でした。
22節で彼女は「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください」と呼びかけます。「ダビデの子」はイスラエルの王(メシア=油注がれた者)を表す言葉です。マタイ20章30-31節でもイエスに助けを願った盲人がこう呼びかけていますが、これは彼ら自身の考えというよりも、当時の人々のイエスについての評判がそういうものであったということなのでしょう。なお、当時は「悪霊」が肉体的な病気をも引き起こすと考えられていましたが、この女性の娘がどんな病気であるかはもちろん分かりません。
(2) 実は22-25節のやりとりはマルコ福音書の平行箇所にありません。マタイはこのイエスの拒絶というテーマを強調しているようで、12人の弟子を派遣した箇所にも似た言葉がありました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10章5-6節)。このような言葉はマタイ福音書だけが伝えていますので、ここにはマタイのいた教会特有の問題意識があると考えられます。ユダヤ人キリスト者の共同体だったマタイの教会の中には異邦人排除の考え方があり、マタイはそのような考えをここで紹介しながら、イエスご自身がその枠を乗り越えていったのだ、と言いたいのかもしれません。
(3) もしイエスご自身が第一にイスラエルの人々のことを考えていたのだとすれば、それはなぜでしょうか。一つの可能性は、イエスがまず身近な人々を優先すべきだと考えたということでしょう(A年年間第12主日の「福音のヒント」参照)。自分が変わることによって、少しずつ自分の周囲が変わり始める、そしていつかそれが社会や世界の大きな変化につながっていく。イエスのやり方もある意味でそうだったと言えるかもしれません。
もう一つ考えられることは、イスラエルの民が神のことばと神の約束を受けていた民だからという理由です。イエスが目にしていたイスラエルの人々の現実はそこから程遠いものでした。神殿での祭儀を重んじたり、律法を事細かに守ろうとしたりする当時のユダヤ宗教のあり方は、多くの貧しい人を「失われた羊」(24節)にしてしまっていました。その人々を神の群れに連れ戻すこと、もう一度、その人々と神とのつながりを取り戻し、人と人とのつながりを取り戻すこと、それがイエスにとって最優先の使命と感じられたと考えてもよいでしょう(この「失われた羊」のイメージはエゼキエル34章のイメージです)。
(4) 「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)も同じような拒絶の意味を持った言葉です。「子供」はイスラエル民族を指し、「小犬」は異邦人を指します。犬は今ではペットとして愛されていますが、聖書の中では忌(い)み嫌われる動物でした。このイエスの言葉は、今から見れば差別発言だと言わざるをえないかもしれません。しかし、ここでカナンの女は、このイエスの言葉を逆手(さかて)にとって、自分たちも救いを受けることができるはずだ、と主張します。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(27節)。ここには彼女の必死の思いとイエスへのゆるぎない信頼が感じられるでしょう。イエスはこの女性の姿に接して態度を変えます。
(5) 今日の箇所のポイントは、イエスがイスラエル民族を優先し、異邦人を排除していた、ということではありません。ポイントはイエスにイスラエル優先の考え方があったとしても、この異邦人との出会いの中で、イエスのほうが変えられ、結局は彼女を受け入れたということです。イエスの弟子や最初のキリスト者は皆ユダヤ人でした。初代教会にとって異邦人をどのように受け入れるかは、大きな問題でした。彼らは、抽象的に「異邦人も救いにあずかれるか」と議論して、そこから異邦人への働きかけを始めたのではありません。むしろ、異邦人がイエスを信じるようになったという現実が先にあり、それがユダヤ人から始まった教会のあり方を変えていったのです。使徒言行録8章のサマリア人やエチオピアの宦官(かんがん)の物語、10章のローマ人コルネリウスの物語がその例です。
(6) イエスにとってもそうだったのでしょう。「信仰はまずユダヤ人のものである」という考えがあったとしても、現実にユダヤ人でない人が信仰を示したのに出会ってしまったのです。この人間との出会いによってイエスの心は揺さぶられます。イエスにとってほんとうに大切なのは、自分の宣教計画ではなく、目の前の人間だったと言えるでしょうか。現実との出会い、人との出会いによって変えられていくイエスはステキです。わたしたちにも、もちろん自分なりの考えや計画があります。もしかするとそれが人と出会うことを妨げてはいないでしょうか。「この人はこういう人に決まっている」「あの国の人はああいう人たちだ」そう決め付けてしまい、出会うことをやめてしまっていることがあるかもしれません。国籍や民族の異なる人とどのように出会い、どのように理解し合い、信頼関係を築いていけるかは、今のわたしたちの大きな課題です。きょうの福音の箇所はすべての人との平和を願うわたしたちにとって大きな光を与えてくれるはずです。
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※集い用に、A4サイズ2ページで印刷できます。
第一朗読 イザヤ56・1、6-7
1主はこう言われる。
正義を守り、恵みの業を行え。
わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業が現れるのは間近い。
6また、主のもとに集って来た異邦人が
主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら
7わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。
彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら
わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
第二朗読 ローマ11・13-15、29-32
13〔皆さん、〕あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。14何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。15もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。
29神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。30あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。31それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。32神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。
福音朗読 マタイ15・21-28
21〔そのとき、〕イエスは、ティルスとシドンの地方に行かれた。22すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。23しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」24イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。25しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。26イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、27女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」28そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。
Posted on 2020/08/07 Fri. 08:30 [edit]
category: 2020年(主日A年)
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