福音のヒント
主日のミサの福音を分かち合うために
年間第29主日(2020/10/18 マタイ22章15-21節) 
教会暦と聖書の流れ
マタイ福音書では、イエスが当時の指導者たちやファリサイ派を批判した「二人の息子」「ぶどう園と農夫」「婚宴」のたとえ話に続いて、この場面になります。マタイ21章45-46節には、「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとした」という言葉がありました。イエスと彼らの対立はもはや決定的になっていて、ここに登場するファリサイ派の人々は明らかな敵意をもってイエスに近づいて来ます。
福音のヒント
(1) 紀元前63年にローマの将軍ポンペイウスがエルサレムを占領して以来、パレスチナはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国はユダヤ人の宗教的自由を認めながら、税を徴収することによって支配地域からの利益を得ようとしていました。しかし、ユダヤ人にとって徴税の問題はただ単に経済的な圧迫という問題ではなく、宗教的な信念の問題でした。「神が王である」と信じるなら、ローマ皇帝を王と認めることはできないし、そのローマ皇帝の徴税も認められないという考えが当時のユダヤ人にはありました。実際、イエスが生まれた頃、この問題のためにローマ帝国に対するユダヤ人の反乱も起きています。
(2) 「ファリサイ派」は律法を厳格に守ろうとしていた宗教熱心な人たちでしたから、皇帝への納税を原則的に認めるわけにはいきませんでした。しかしもちろん、現実には納税せざるをえなかったのです。一方の「ヘロデ派」は宗教的なグループではなく、政治的な一派です。ローマによって立てられたヘロデ王家を支持する人たちですから、ローマ帝国への納税を当然のことと考えていました。本来、ファリサイ派とヘロデ派は相容れない立場でしたが、ここではその両者が一緒にイエスのもとに来ます。イエスが皇帝への納税を認めれば、ファリサイ派が「神に背く者」という理由でイエスを追及することができ、イエスが納税を認めなければ、ヘロデ派が「ローマ皇帝への反逆者」として訴えることができるのです(ルカ23章2節参照)。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです」(16節)。これは言葉遣いとしてはていねいですが、実際には「いい加減な答はゆるさないぞ」という脅(おど)しです。
(3) イエスは納税のためのローマの銀貨を持ってこさせます。「デナリオン銀貨」にはローマ皇帝の肖像と銘(めい)が刻まれていました。その銘は「ティベリウス・カエサル・神聖なるアウグストゥスの子」で、ローマ皇帝を神格化していました。ちなみに「カエサルCaesar」は古代ローマの共和政を終わらせ、独裁支配を実現した人物で、その後継者がローマ帝国の初代皇帝となるアウグストゥスです。ティベリウスはアウグストゥスの子で第2代皇帝ですが、「カエサル」は「皇帝」の称号になっていたのです。
さて、イスラエルの宗教は偶像崇拝禁止という点で徹底していましたから、このデナリオン銀貨は本来なら神殿に持ち込むことが許されないものでした。しかし、実際には誰もがその硬貨を使わざるを得なかったし、神殿の中にも持ち込まれていました。実際にデナリオン銀貨を持ち、使っていながら、納税の是非を議論している彼らの矛盾を指摘し、イエスは罠(わな)を巧みにすり抜けた、と言うこともできるでしょう。そもそも相手の議論はイエスをおとしいれるための議論なので、まともに答える必要はないのだとも言えます。
(4) 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とはどういう意味でしょうか。このイエスの言葉はあまりに短いので、さまざまな解釈の可能性がありえます。「イエスは政治と宗教の領域を分け、政治問題には関わらないようにされた」というのもその一つですが、このような考えはあまりにも近代的な考えで、古代にはおよそ考えられないことです。近代になってから「政治の領域」と「宗教の領域」を分ける考えが現れますが、それ以前は、人間の現実すべてが神との関係の中にあるというのが当然でした。なお、人間の現実には何一つわたしたちの信仰と関係ないものはない、ということは現代の、第2ヴァティカン公会議以降のカトリック教会の姿勢でもあります(「現代世界憲章」第1項参照)。これは特定の政治権力と特定の宗教団体が結びつかないという意味での「政教分離の原則」とはまったく別の問題です。
(5) 皇帝の像が刻まれたデナリオン銀貨は、皇帝のものと考えられていました。では神の像はどこに刻まれているか、それは一人一人の「人間」だと考えることができるかもしれません。創世記1章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された」とあるからです。つまり、イエスは「皇帝の像が刻まれた硬貨は皇帝に返せばよい。しかし、神の像が刻まれた人間は神に帰属するものであり、神以外の何者にも冒(おか)されてはならない」と言っているのではないか。興味深い解釈ですが、残念ながら、これが唯一の正しい解釈だという根拠はそれほど強くありません。
(6) もしイエスが「皇帝のものは皇帝に」とだけ言ったのであれば、単純に皇帝への納税を認めただけのことです。しかし「神のものは神に」と付け加えることによって、イエスがもっと根本的なことに人々の目を向けさせているということは確かなのではないでしょうか。
ファリサイ派が問題にしたのは、人間の現実とは無関係な「神学的問題」でした。彼らは自分たちも解決できない神学上の問題を持ち出してイエスを陥(おとしい)れようとしたのです。しかし、イエスは現実の人間の苦しみを忘れてそのような神学論争に没頭していたファリサイ派の姿勢を批判してきました。「納税問題が神の問題なのか? 神の目から見て、本当に大切な問題はなんなのか」イエスはそう問いかけているのではないでしょうか。「神のものは神に」=「あなたは何が本当に神のもので、何を神に返すべきものだと思っているか」それは、わたしたち一人ひとりに向けられた問いでもあるはずです。
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第一朗読 イザヤ45・1、4-6
1主が油を注がれた人キュロスについて
主はこう言われる。
わたしは彼の右の手を固く取り
国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。
扉は彼の前に開かれ
どの城門も閉ざされることはない。
4わたしの僕ヤコブのために
わたしの選んだイスラエルのために
わたしはあなたの名を呼び、称号を与えたが
あなたは知らなかった。
5わたしが主、ほかにはいない。
わたしをおいて神はない。
わたしはあなたに力を与えたが
あなたは知らなかった。
6日の昇るところから日の沈むところまで
人々は知るようになる
わたしのほかは、むなしいものだ、と。
わたしが主、ほかにはいない。
第二朗読 一テサロニケ1・1-5b
1パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。
2わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。3あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。4神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。5わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。
福音朗読 マタイ22・15-21
15〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。16そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。17ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」18イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。19税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、20イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。21彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
Posted on 2020/10/09 Fri. 08:30 [edit]
category: 2020年(主日A年)
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