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福音のヒント

主日のミサの福音を分かち合うために

年間第30主日 2020/10/25 マタイ22章34-40節  


教会暦と聖書の流れ


 先週の「皇帝への税金」についての問答の後、「復活についての問答」があり、その後、きょうの「最も重要な掟」の話になります。さらにこの後の「ダビデの子についての問答」も含め、マタイ福音書ではイエスと当時の有力者たち(ファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派)との間に交わされる論争・対決の話が続いていきます。


福音のヒント


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  (1) イエスがファリサイ派の人の質問に答えて引用する律法の言葉は、申命記とレビ記から採られたものです。申命記6章4-5節にはこうあります。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」紀元前13世紀、イスラエルの民はエジプトを脱出し、荒れ野を旅して約束の地に向かいました。申命記の中心部分は、この荒れ野の旅の終わりにモーセが民に向かって、遺言のように語った律法についての説教です。この箇所は「シェマー(聞け)」という言葉で知られ、ユダヤ人が毎日の祈りの中で唱える信仰告白の言葉でした。ユダヤ人にとって間違いなく最も大切な掟です(上のイラストにある文字がヘブライ語の「シェマー・イスラエル」=「聞け、イスラエルよ」です)。
 レビ記19章18節にはこうあります。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱(いだ)いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」レビ記の17~26章は「神聖法集」と呼ばれています。レビ記19章2節の「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」は神聖法集の考えを最もよく表す言葉です。「聖」とは「隔絶したもの」を表し、人間とまったく違う神の特性を表す言葉です。イスラエルの民はこの聖なる神に救われた民として、神が聖であるように聖なる者にならなければならないのです。そして、この「聖であること」は祭儀的な意味でだけ語られるのではなく、19章18節が典型的に示すように「神の愛を生きる」ことでもあるのです。
 これら2つの掟を最も重要な掟であるとする言葉は、イエス以前には知られていません。ただし、ルカ10章27節では律法学者がこの2つの掟について述べていますので、当時のユダヤ人にとってそれほど意外な内容だと言うこともできないでしょう。

  (2) マルコ福音書の並行する箇所(マルコ12章28-34節)と比べると、いくつかの違いがあります。マルコでは相手が「律法学者」となっていて、イエスが最も重要な掟としてこの2つの掟を挙げたことに律法学者は賛同し、イエスも彼に向かって「あなたは神の国から遠くない」と言われます。マタイはイエスの言葉に対する相手の反応を省いています。
 また、マルコでは最も重要な掟として、この2つの掟を挙げ、「この二つにまさる掟はほかにない」と言うだけですが、マタイでは「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言われています。
 さらに、マルコ福音書になくてマタイにある言葉は、この2つの掟は「同じように重要である」という言葉です。原文ではただ、「ホモイアhomoia(似ている)」という言葉が使われています。新共同訳のように訳すと「重要さの程度が似ている」ということになりますが、「2つの掟の内容が似ている」と受け取ることもできます。神を愛すること、と、隣人を愛することは別のことではなく、1つのことだと言ってもよいのでしょう。
 マルコでは、この2つの掟を重視する点でイエスと律法学者の間に対立はありません。マルコ福音書で律法学者が批判されるのは、彼らの生き方のためです(マルコ12章38-40節参照)。一方マタイは、当時のファリサイ派的な律法解釈とイエス(あるいは初代教会)の律法解釈との違いを示そうとしている、と言えるでしょう。神の人間に対する望みは、律法の個々の掟の要求を1つずつ忠実に果たすことである、という考えと、すべての律法の根本にこの2つの掟を見て、さらに、隣人を愛することこそが神の望みであるとする考えの違いです(マタイ5章43-48節、7章12節、12章10-12節、25章31-46節など参照)。

  (3) 聖書の語る「愛」は、「好きだ」というような人間的な愛着ではなく、そのものをそのものとして「大切にすること」です(根本にあるのは神の人間に対する「愛」です)。
 「神への愛」とはどういうことでしょうか。神は人間に何かをしてもらうことを必要としているわけではありません。神は無条件に人間を愛する方です。その神の愛に気づき、感謝すること、これが神を愛することだと言えるでしょう。この神とのつながりを大切にすること、と言ってもいいかもしれません。そして、このように「神を愛する」ことは、必然的にわたしたちを「隣人を愛する」ことに向かわせるのです。あるいは、神を愛することの具体的な表れが人を愛することだと言うこともできます。

  (4) 39節の「自分のように愛しなさい」という言葉に引っかかる人もいるかもしれません。「自己愛(ナルシシズム)」という言葉はあまりいい意味では使われないからです。しかし、「本当の意味で自分を大切にすることができない人は他人を大切にすることもできない」という真実も忘れてはならないでしょう。「隣人」という言葉は本来、「近くにいる人」を表す言葉ですが、ルカ10章の「善いサマリア人」のたとえ話で、イエスはこの隣人愛の掟をどう受け取るべきかをはっきりと示しています。「隣人とは誰か」の範囲を決めてからその隣人を愛する、というのではなく、あのサマリア人のように、愛することによって、相手が誰であれ「隣人になっていく」ことができるのです。
 解説はこのくらいにして、わたしたちが日々の生活の中で、この2つの掟をどう生きているかということを振り返ってみましょう。




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聖書朗読箇所

第一朗読 出エジプト22・20-26


〔主は言われる。〕20寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである。21寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。22もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。23そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる。
 24もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。25もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。26なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。


第二朗読 一テサロニケ1・5c-10


 5c〔皆さん、〕わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。6そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、7マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。8主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。9彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、10更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。


福音朗読 マタイ22・34-40


 34〔そのとき、〕ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。35そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」37イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38これが最も重要な第一の掟である。39第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』40律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

Posted on 2020/10/16 Fri. 09:41 [edit]

category: 2020年(主日A年)

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